11.最上級の嫌がらせ・破
有り得ない。
意識の底、眠りという誰にも関われない――否、ルシエラは別だが――その場所に、それは居た。
黒一色で塗り潰されたその空間の中、緑色の肢体をしたそれは俺と然程変わらない背丈で、幼い容姿のまま椅子に腰掛けるように座り込んでいて。
「あらあら、言葉すら忘れちゃったかしら?くふふふっ、ふふふふふ……っ」
「……何で、お前がここにいる」
……思った通りの言葉が口から出たことに、俺は心底安堵した。
いやまあ、当たり前なんだけれども。
夢の中でまであんな言葉遣いを強制されたら、溜まったもんじゃあない。
俺の言葉に、アルルーナはクスクスと可笑しそうに、小馬鹿にするような嘲笑いを繰り返しながら、べぇ、と舌を垂らしてみせた。
「判らない?そんな訳無いわよねぇ」
「――……クソったれめ」
アルルーナの仕草に、気付かされる。
舌に植え付けられた、俺の言葉を歪める何か。
あれもよく考えなくとも、アルルーナの一部だ。
アルルーナはきっと、その部分から俺に干渉してるんだろう。
俺が苦虫を潰したような顔をすれば、それが楽しいのか。ケラケラと嘲笑いながら、真っ黒く染まった意識の中で優雅に茶まで呑み始めて。
「まあ、心配しないで頂戴な。そこから私が成長して……なんて事は無いから、つまらないし」
「はっ、どうだか」
「くふふっ、本当よ?」
アルルーナの言葉は、何一つ信用できない。
俺は一刻も早く、この不快な会話を打ち切ろうとルシエラを呼び出そうとして――
「――ふふっ、くふっ、ふふふふ……っ。どうしたのかしらぁ、エルトリスちゃんは?お手々をブンブンしてお遊戯?」
「……っ、チッ」
――その手に、何も現れない。
何も握ることが出来ない事に気づくと、舌打ちした。
夢の中、或いは俺の意識の底だからか。
幾らルシエラに呼びかけても、呼びかけても、答えは帰ってくることはなく。
そんな俺の様子を見れば、アルルーナは心底馬鹿にするように嗤いつつ、茶を飲み干すと目を細めた。
……落ち着け。
慌てるのも、動揺するのもアルルーナを悦ばせるだけだ。
ここは俺の意識の中で、アルルーナは舌先にちょっと付いたそこから干渉してるだけに過ぎない。
「ええ、とっても正しいわ♥私はあなたに植え付けた私の破片から、あなたの眠りに干渉してるだけだもの」
以前そうして見せたように、アルルーナは俺の思考を予測でもしたのか、愉しげに嗤って、そんな言葉を口にする。
……もう驚いてなどやるものか。
一度見た芸でしかないソレの事なら、既に対策は考えてある。
戦いの最中にしか出来ない事では有るけれど、今のうちに精々得意がっておけばいい。
「もう、つれないわねぇ。私にもアリスやアルケミラみたいに仲良くお話とかしてくれないのかしらぁ?」
「はっ、俺にだって選ぶ権利くらいはあるだろ」
「……くふっ、きゃははははっ!良いわ、それよそれ!それを出来る限り保って頂戴ね?でないと私、また飽きちゃうから♪」
アルルーナは俺の悪態を悦べば、心底楽しそうに、愉しそうに嗤って――
「さ、それじゃあ今夜の上映会を始めましょうか」
「――……?」
――パキン、とアルルーナがその細くしなやかな指先を鳴らしたかと思えば。
その瞬間、真っ黒だった景色が明るく色付いた。
眩いくせに眩しくはなく、目を閉じようとしても閉じられない、何処を見ても映し出されているそこに在るのは……俺の、姿?
もう鏡で何度も見た幼くて、胸ばかり大きい金髪の少女は、鼻歌交じりに歩いていて――
【――きゃあっ!】
【大変、エルトリスちゃんはなにもない所で突然転んでしまいました。】
【でも仕方有りません、だってエルトリスちゃんは121を超える馬鹿でっかいおっぱいの持ち主なのです!】
――耳をふさいでも入ってくるその声に、目を塞ぐことも出来ないその光景に、俺は舌打ちした。
寝てるときにすら嫌がらせを欠かさないなんて、逆に感心さえする。
目の前でころんだ俺は、くすんくすんと泣きながら、立ち上がることもせず。
【ひぐ……っ、え、えるちゃんへいき……ふぇっ、うええええ~~ん……っ!!】
【あらあら、エルトリスちゃんは転んじゃったショックで大泣きしているみたいです!】
【見て下さいこのお顔!鼻水を垂れ流して、涙をボロボロ零して!あーあー、綺麗なドレスでお顔を拭き始めちゃいました、きったなーい♥】
「……こんな物見せて、何のつもりだ。生憎だが、こんな物――」
アルルーナの言葉は、返ってこない。
見れば、幾ら辺りを見回してもアルルーナの姿は何処にもなく。
聞こえてくるのは、アルルーナが聞かせてくる造られた俺の声と、アルルーナの囃し立てるような声だけ。
【お洋服が鼻水と涙でどろどろ!どうやらエルトリスちゃんにはこんなドレスは早かったみたいですね!】
【でもエルトリスちゃんは全然気にしてないみたいです。くすくすっ、みっともない♥】
「……チッ」
何度目とも知れない舌打ちをしつつ、俺は仕方なくこの下らない上映会に付き合うことにした。
どうせ、いずれ夢は、眠りは覚める。
それまでの我慢だ。
【さて、エルトリスちゃんは今度はご本を読むようです。ちょっと難しそうな本だけど、読めるのかな~?】
【折角だし内容も見てみましょう!】
……視界いっぱいに、開かれた本が見える。
そこにあったのは、可愛らしい絵と幼稚な言葉で綴られた、子供向けであろう内容の物語で。
心底下らないと思いつつも、俺は目を逸らすことも出来ないそれを見せられれば――
【え、えっとぉ……んとねぇ、えっとねぇ……】
【あらあら、どうやらエルトリスちゃんはご本もちゃんと読めないみたいです!……だって、知恵が全部おっぱいに行っちゃってる知恵遅れさんだものねぇ♥】
――また、ふざけた事を言ってやがる。
こんな本程度読めないわけが……ない……
……あ、れ?
おかしい……おかしい、おかしい、おかしい。
何で……見て、意味はわかるのに、言葉に出来ないんだ?
【エルトリスちゃんは一生懸命考えてるみたいだけど、ちっとも頭に内容が入ってきません!】
【エルトリスちゃんの頭の中は、本に描かれた可愛らしい絵の事で一杯。文字なんてちっとも読めないし、分からないから仕方ないわね?】
【……ち、ちあうもん!えるちゃん、ちゃんとほん、よめるんだからぁっ!】
【あらあら、それじゃあ読んでもらいましょうか♥】
違う、俺はそんな事は言っていない。
視界いっぱいに広がる、幼稚な言葉で綴られた文字。
そんな物をわざわざ口にしてやる筋合いなんか、ない。ないのに――
【……え、っとぉ。んとね、えっとねぇ……お、おはな!おはなが、いっぱいあいてあるの!!】
――口から、そんな言葉がこぼれ出る。
おかしい、おかしい、おかしい……何で、俺、そんな事を口にして……っ!?
【くすくすっ♥どうやらエルトリスちゃんはまだ文字と絵の区別もつかないみたい。でも仕方有りません、だって――】
【――エルトリスちゃんは、おっぱいばっかりに栄養が行った知恵遅れのおバカさん♥なんだから】
「――っ、ちがうもん!えるちゃん、ばかじゃないもん!!」
そんな、なんで……何で、声が、また変えられて――!!
こんな訳がない、おかしい――そんな考えで頭が一杯になるのに、なのに、身体が思ったように動かない!?
少なくともさっきまでは、ちゃんと動けたはずなのに、どうして……!?
【きゃはっ、あはは――っ♥じゃあエルトリス……ううん、エルちゃん?自分のお名前を書いてみましょうか!】
【ほら、紙と絵の具、それに絵筆よ。好きに書いて構わないわ?】
「おなまえくらい、えるちゃん、かけるんだから!えっと、えっとぉ……」
……っ、馬鹿に、ばかにして……!
おれだって、ちゃんとじぶんのなまえくらいはかけるんだ!
えっと、えるとりす……える、とりす……
……さっきのおはな、きれいだったなぁ。
えっとぉ、どんなおはなだったっけ……あ、そうだ、ええと、こういうおはな!
おててで、えふで、ぎゅーってにぎってぇ……ぐりぐりって、かいてぇ……
「……できたぁ!」
うん、ちゃんとできた!きれいなおはな、ちゃんとかけた!
えっとぉ、それじゃあつぎはぁ……
【……くふっ、くふふふふふ……っ♥ああおっかしい!エルちゃんはどうやら名前を書くのも忘れて、お絵かきに夢中なようです!】
【ああでも残念、今日の上映会はこれでお終い……んふっ、ふふっ。心配しないでね、エルトリス。しぃっかりこの事は記憶に焼き付けてあげる】
「――目を覚ましても、貴女が自分でこうしたって事を、忘れられないようにね」
「――あ、ああああぁぁぁぁあぁぁっ!!!!」
――目を、覚ます。
覚めた?ちゃんと目を覚ませた、のか?
頬を、身体を触りながら、俺は隣を見れば――そこに居たのは、ううん、と目を覚ましかけているルシエラの、姿。
「……よ、よかったぁ……」
口から、安堵の声がこぼれ落ちた。
心臓が、痛いくらいに鼓動する。
全身はまるで湯浴みでもしたかのように、汗でぐっしょりと濡れていて。
口から漏れるその幼稚な言葉でさえも、今の俺には有り難かった。
「……あ、えっと、えっと……っ!」
慌ててベッドから降りれば、部屋の中からメモと何か書くものを探し、取り出して……そして、紙に文字を書きなぐる。
エルトリス。エルトリス、エルトリス――……ああ、ああ、良かった。
ちゃんと文字を書ける事に、俺は心の底から安堵して。
『んぅ……どうしたのじゃ、エルトリス……えらい、早起きじゃな……って、何じゃ……つめたい……?』
「あ……ごめんね、るしえりゃちゃん!」
『……酷い汗ではないか。ベッドまで濡れるなんて……まあ良い、ちょっと来い。昨日は湯浴みもせんで眠ったからの、まだ朝早いが湯浴みでもするとしよう』
「ん……うん」
欠伸混じりに起き上がったルシエラに、小さく息を漏らす。
……ああ、大丈夫だ、ここは現実だ。
さっきのはアルケミラのクソ女が見せた悪夢で、こっちが現実。
俺はしっかり自分にそう言い聞かせて――
「――っ、きゃ……っ」
『っと、大丈夫か?余程酷い夢でも見たのかの、顔色も良くないし無理はするでないぞ』
――足元が見えずに、思わず転びそうになった所をルシエラに支えられた。
俺はルシエラの心配するような言葉を有り難く思いながら、顔を熱くして頷いて。
――ひぐ……っ、え、えるちゃんへいき……ふぇっ、うええええ~~ん……っ!!
「……っ」
頭に浮かんだ、先の悪夢を振り払うように、頭を振った。
泣かない、例え転んだとしても泣いたりなんてするわけがない……っ!
幾ら振り払おうとしてもこびり付いたように消えてくれない悪夢を、俺は必死になって否定しながら――ルシエラと一緒に軽く湯浴みをして、最悪だった気分を少しだけ持ち直した。