1.少年は、逃げ出した
クロスロウド大森林には、エルフの集落が幾つか点在している。
僕が暮らしている集落もその一つで、100人にも満たない小さな集落だったけれど、特に不自由なく生活出来ていた。
しっかり者の姉さんに、弓の名手の父と優しい母。
大好きな家族との生活は、いつまでも続くものなのだと思っていた。
「ただいま」
「あ、おかえりなさい、父さん!」
――それが崩れたのは、いつからだったのだろう。
精気のない顔で、焦点の合わない目を彷徨わせた、覇気のない父が狩りから帰ってきた頃だろうか?
「お母さん、見て!姉さんと一緒に狩りに行ったんだよ!」
「――そう」
或いは、優しかった母が無気力になり、僕にも姉さんにもろくに反応を返さなくなった頃だろうか?
ああ、でも全ては今更だ。
だって、どんなに悔やんでも、悲しんでも、辛くても。
きっともう、二人が元に戻る日なんて、来ないんだから。
「ハッハッハ!ほら、吾輩を愉しませる為に芸をするのである!」
「はい!ハンプティ様!!」
今日も、集落の真ん中から聞きたくもない楽しそうな声が、聞こえてくる。
僕も姉さんも、いつああなってしまうのか判らない恐怖に怯えながら、無気力で無表情な――否、あの声の主の前でだけは笑顔になる父と母の居る家の中で、息を潜めているしか無かった。
だって、アイツに見つかったら僕もああなってしまう。
アイツの命令で何でもしてしまうような、そんな何かにされてしまう。
それだけは、それだけはどうしようもなく怖かった。恐ろしかった。
僕が僕じゃなくなって、アイツの足元で笑顔でクルクル回ったり、脚を舐めたり、品のない行為をしたり――そんなことを想像するだけで、震えが止まらない。
唯一の救いは、姉さんがまだ正気のままで居てくれたことだろうか。
もしも姉さんまでアイツの手におちていたら、今頃僕は自分から卵に入っていたかも知れない。
「良いぞ、次は無様に踊るのである!」
「はいっ!ホッ!ホッ!」
――ああ、でも、怖い。怖い。怖い。
前までは姉御肌で格好が良かった、隣の家の人の声が……その、媚びて無様な声が聞こえてくる。
「……大丈夫よ、ワルトゥ。姉さんが、守ってあげるからね」
「ねえ、さん……っ」
ガチガチと歯を鳴らす僕の身体を姉さんが優しく抱きしめてくれると、それでようやく震えが止まった。
姉さんの体にしがみついて、今日もまたすすり泣く。
……いつまでこの地獄は続くのだろう、と。
「――はっ、ぁ……っ、はっ、はっ、ぁ……!!」
森の中を、走る。
耐えられなかった。
これ以上あの場に居たら、狂ってしまいそうだった。
あのままあそこに居たら、きっと僕も姉さんも、残りの皆もアイツの玩具にされてしまう。
だから、僕は姉さんと相談して集落から抜け出した。
大森林の外に出て、助けを求める。
そう、最初からそうするべきだったんだ。僕たちだけじゃどうにもならないんだから、助けてもらわなくちゃ――
「っ、ぁ……はっ、あ、あぁ……っ!」
――でも、誰に?
僕たちの集落だって、何もしなかったわけじゃない。
腕に自身のある人達が数十人であの卵の怪物に挑んで、でも何一つ出来ないまま玩具にされてしまったのに。
……かすり傷一つさえつけられないまま、僕らは負けてしまったのに。一体誰に助けを求めれば、良いんだろう?
判らない、判らない、判らない。
でも、でも――姉さんが逃してくれたんだ。だから、何とか助けを、求めなくちゃ……っ!!
どうすればいいのか、なにをすればいいのか。
そもそも、本当に姉さんたちを助けてくれる誰かなんて存在しているのかすら判らないまま、森の中を走る。
……少なくともそうしている内は、僕はあの卵の怪物の事を忘れていられるような、そんな気がした。