28.嘲笑う妖花
「――♪」
人の住む世界とそれ以外とを別つ光の壁の、その向こう側。
その一角にある、様々な植物がうねるように絡み合い、ひしめき合う領域。
禍々しき新緑の領域の主であるアルルーナは、酷く楽しそうに鼻歌を口ずさんでいた。
指先にあるのは、懸命にみっともなく藻掻く芋虫。
頭に小さな花を咲かせた緑色のそれは、うね、うね、と必死にアルルーナの指先を這い回り、少しでもアルルーナから逃れようと藻掻いて、藻掻いて。
「……はい、残念♪」
指先から漸く逃れ、植物のツタが絡み合った床へと落ちた――かと思えば、その瞬間床がグパァ、と音を立てながら口を開いた。
落ちていく、落ちてく。
芋虫はみっともなく身体をくねらせ、宙で藻掻き――そして、ぐちゅん、と音を立てて床に咀嚼された。
アルルーナはその様子を見ながら、クスクスと可笑しそうに笑うとゆっくりと椅子から立ち上がり、伸びをする。
部屋の隅では、恐らくは戦士か何かだったのだろう。
青白い肌を晒しながら、その健康的な肢体をぐねり、ぐねりと動かす魔族の姿があり。
みっともなく様々なものを垂れ流しながら、知性の欠片もない表情で部屋の隅を蠢くそれをまるで花でも愛でるかのような表情で見れば、アルルーナは蔦の絡み合った壁に視線を向けた。
「……漸く、漸くね。ふふっ、ふふふっ」
ぐにゃり、と植物が歪んだかと思えば大きく開き、外気がアルルーナの頬を撫でる。
彼女は視線の先にあるモノを見れば、甘ったるく艶めかしい吐息を漏らし、肩を軽く抱いた。
――アルルーナの領域は今、急速に広がりつつ有った。
日に日に植物は繁茂し、花は咲き、複雑怪奇な植物が魔族達の世界を染め上げていく。
無論、抵抗しない魔族が居ない訳ではない。
生存を脅かされて抵抗しない者など、居ない訳がない。
ただ、その尽くをアルルーナは蹂躙し、弄び、玩弄し、陵辱した。
元より六魔将であるアルルーナとその他の魔族では、力に歴然の差がある。
故に、その敗北は必然では有ったが――
「ああ、弱くても良いわ。私に惨めに抵抗してくれる子は、長く長く生かしてあげる」
――たが、アルルーナに敗北するというのは他の六魔将に負けるのとは大きく違う。
アルケミラに負けたのであれば、実力次第では重用され、そうでなくとも速やかな死が与えられるだろう。
バルバロイに負けたのであれば、その気質次第では彼の傘下に入る事もあり得ただろうし、そうでなくともただ死ぬだけで済むだろう。
アリスに挑みかかったのであれば、ただ無力な存在にされ、忘我し、ただ暖かく幸せな偽りの生活を送る事だってできるだろう。
だが、アルルーナに敗北したら。
残酷で、無邪気で、無慈悲で……そして、自分以外の全てに価値を見いださない彼女に敗北したのであれば、それに安寧は決して、決して訪れることはない。
ずるり、と床から植物の蔦が這い出したかと思えば、彼女はその先端に着いていた小さな花を軽く指先でつまみ上げた。
「貴女はまだまだ大丈夫そうね。そう、正解よ。あの部屋の隅でみっともなく蠢いてる貴女の身体に触れさえすれば、貴女は戻れるのだから」
花は、何も答えない。
答える機能など持っていないし、自ら動くことなど何一つ出来はしない。
ただ、それでもアルルーナは愉しげに笑みを浮かべれば、その花を指で摘んだまま、軽く揺らしてみせた。
「芋虫になった気分はどう? そう、怖かったの? グチャって潰れて絶叫したのね? ふふ、それじゃあ今度は久々にちゃんと声をあげられる身体をあげるわ」
花と語らうその姿は、とても愛らしく。
しかし口にしているその内容は、ただ只管に悍ましい。
花にそう語らえば、アルルーナの傍にあった床がグニャリ、グニャリと歪んで一つの人型を象った。
アルルーナの腰下程度しかない、手足の短い、ぷくぷくとした緑色の性別さえ判然としない、可愛らしい幼児。
その新緑の髪にアルルーナはそっと花を植え付ければ――
「――げ、ほっ!?ごほっ、あ……ひゅ、は、ぁぁ……っ」
「貴女にお使いを頼んであげる。このお使いが終わったら、貴女を元の体に戻してあげるわ」
「っ、ふじゃけりゅなぁっ!!しんりゃい、できりゅわけが……っ!!」
――途端に、その新緑の幼児は呼吸を始め。
そして、アルルーナの言葉に食って掛かるように、舌っ足らずな声で叫んだ。
そんな幼児の姿を見て、アルルーナは可笑しそうに、嗜虐的な笑みを浮かべる。
アルルーナが徐に指先を軽く動かしたかと思えば――部屋の隅に居る、無様にうねる女性の体に一つ、針が突き刺さった。
まるで虫を標本にでも収めるかのように、彼女の急所だけを避けて針が胴を射抜けば、彼女は奇声をあげる。
それは、おおよそ人の声ではなかった。
本来は声を上げることが出来ない生き物が、喉からただ音を出しているかのような、そんな聞くに堪えない声。
それを聞けば、幼児は体を震わせながら俯いて……
「……わ、わかった、かりゃ……やめて、くりぇ……っ、やめて……っ」
「あら、それが人に物を頼む態度かしら?」
「――っ、や、やめて、くだたい……っ、おねがい、しま、ちゅ……っ」
……そして、アルルーナのその言葉に、地べたに這いつくばった。
幼児は――その器に意識をねじ込まれた彼女は、元々はプライドの高い魔族である。
だからこそ彼女は、芋虫にされようが、蛙にされようが、どんな醜い存在に変えられようが、心を折る事無く今日まで足掻いてきた。
だが、そんな彼女だからこそ今の仕打ちだけは耐えきれなかった。
自分が無様にのたうち回る、奇声をあげる――目の前で戻らなければいけない体を殺される。
そう思うだけで、彼女は耐える事が出来ず、アルルーナに膝を折ったのだ。
無論、まだ意思が完全に折れた訳ではない。
アルルーナの口約束など、信じられる訳がない。
未だに彼女の中にはアルルーナへの憎悪が渦巻いている。
ただ――それでも、元の体に戻してもらえる、その一縷の希望を目の前に垂らされれば、彼女はそれに頼らざるを得なかったのだ。
屈辱に、恥辱に震えながら這いつくばる彼女に、アルルーナはクス、と笑みを零すとそっと耳打ちする。
その言葉に彼女は体を震わせて……やがて、部屋の外へと歩き始めた。
短い手足をよちよちと。
たどたどしい歩き方で、彼女は一縷の望みにかけて、アルルーナの言葉を遂行するために歩んでいく。
「――ぷっ。ふふっ、あははははは――っ」
――そんな彼女を見送りながら、アルルーナは心底可笑しそうにお腹を抱えて笑い出した。
さて、彼女は何時頃になったら気づくのだろう?
あんな体ではアルケミラの領域へは多分辿り着くことは出来ない。
よしんば辿り着いたとしても、あの領域の者がアルルーナの使者を生かす訳がない。
つまり、初めから望みなど何一つ無いのだということに。
そんな事を考えながら、アルルーナは一頻り笑い終えると椅子に腰掛ける。
まあ、それはそれとしてどういう形であれ、きっと彼女の仇敵であるアルケミラの元に、アルルーナのメッセージは届くだろう。
その時が、始まりなのだと彼女は笑った。
――アルケミラが、虫のように自分のもとで這いつくばり、恥辱で悶えるその時を夢見て。