18.vs六魔将 ロア④
アリスがエルトリスを友人として受け入れたのには、理由がある。
アリスにとってエルトリスは決して強者ではなかった。
あの時点でのエルトリスは、アリスの意思一つ、指先一つで終わらせる事が出来る程度の弱者でしか無かったのだ。
だが、そんな弱者が自らに憐れむのでもなく、同情するのでもなく、ましてや媚び諂うのでもなく。
対等な関係である友人というものを望んできた、その事実がアリスの心を打った。
違う地平に立つ、本来ならば分かり合える筈もない者からのアプローチに、アリスは心から幸福を感じたのである。
――それに似た感情を今、ロアは覚えつつあった。
全てが無機物にしか見えない色褪せた世界の中、アリスと自分以外は全てが物にしか見えなかった、そんな世界の中。
「――あは。あはっ、あはははははっ」
そんな無機物から、突然腕が生えてきたかのような、そんな驚き。
ロアは今、産まれて初めて得たその感覚に、口からこぼれ落ちるそれを止める事が出来なくなっていた。
痛み。苦痛。
頬に感じる確かなその感覚は、ロアにとっては余りにも新鮮で、新鮮で。
「アハハハハハハハハハハ――ッ」
だから、ロアは狂ったように笑っていた。
生きていた。
自分はちゃんと生きていたのだと、自覚できた。
それが、ロアには余りにも喜ばしく、そして幸福で――
「――は、ぁ」
――しかし、アリスと同じ幸福を得たロアの抱いた結論は、アリスとはまるで違う物だった。
顔の無い偶像の姿をしたロアは、まるで恋人でも迎え入れるかのようにその腕を広げてみせて。
「……もっと、出来るでしょう?ボクをもっと、もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっと――」
ロアに去来したのは、膨れ上がるような欲望。
もっと触れて欲しい。もっと感じたい。もっと、もっと、もっと――
――それこそ、エルトリスという存在がなんなのかを、全てのページを破いて調べてしまいたい。
「――もっと、楽しもうね?」
顔のないまま笑う、狂喜するロアを前に、エルトリス達は身構える。
ああ、なんと喜ばしい!今日は最高の1日になるだろう、とロアは満面の笑みを浮かべ――
「――っ、何だ!?」
ロアの様子が一変した途端、エルトリス達が立っていたその図書館の如き書架の世界が変貌する。
無地のタイルだった床は白と黒とチェック模様に。
ただ大量の本を並べているだけだった書架はぐにゃりぐにゃりと歪み、歪に歪んだ女神像へと変わっていく。
空間はただ広く、広く。
果てさえ見えないような空間に歪んだ女神像が並んだ、そんな世界に変わり――
「さっきは狭かったからね。さあ、もっとボクと楽しもう、エルトリス――!!」
「……っ、リリエル、エルドラド!クラリッサ達を守れ!無理はするな!!」
「ですが、エルトリス様――!」
「コイツの興味は俺だけだ!」
「……っ、分かりましたわ。貴方こそ、無理をするんじゃありませんわよ!」
――エルトリスが指示を出し終えた瞬間、今まで殆ど動きを見せなかったロアが動いた。
跳ぶでもなければ、駆けるでもない。
ざらり、とまるで砂が崩れるようにその姿が崩れ、流れていく。
「――ばぁ!」
「ち……っ!!」
疾い、とは違う。
まるで常識というものを、法則というものをどこかへ置き去りにしてきたような動きで、ロアは瞬き程の間も無くエルトリスとの間合いを無にする。
そして、ロアは偶像の細く柔らかそうな指先を手刀のようにピンと伸ばせば――そのまま、無造作にエルトリスに向けて突き出した。
『ぐ、が……っ!?この、馬鹿力め――!!』
「あははははっ!暴力ってこういう事か、あっはははははは!!!」
そう、ただそれだけ。
決して技だとかそういうものではない、思うままに腕を振るったその一撃が、エルトリスを、ルシエラを一気に彼方へと吹き飛ばす。
ロアの一撃を受けたルシエラの腕は微塵に砕けており、即座に修復こそすれど、エルトリス達がその暴力が尋常ならざるものである事を知るには十分だった。
「ほら、エルトリスもやってみせてよ!ボクにさっきやったみたいにさぁ!!」
『望みならば――ありったけを喰らわせてくれるわ!!』
「っ、お、おおおぉぉぉぉっ!!!」
彼方に飛ばされた筈のエルトリスの眼前に居るロアに、エルトリスは全力を以て拳を振るう。
ルシエラの拳は再びロアの身体にめり込み、そして実体さえ朧げなロアの本体を確かに捉えた。
骨を砕く感触。
肉を潰す感触。
内蔵が爆ぜるような感触。
刹那十発。
エルトリスが放ったルシエラの拳は、ロアの身体を瞬きの間に滅多打ちにする。
それと同時に、ロアの身体から名状しがたい何かが噴き出した。
体液とは違う、どちらかと言えばガスに近い何か。
無味無臭のそれを溢れさせつつ、ロアはガクガクと身体を揺らし――
「アハ……っ、いい、これは良い!!生きてる!ボクは確かに、この世界に生きている――!!」
――そして、狂喜する。
決してダメージを受けていない訳ではない。
ルシエラが得た手応えが嘘という訳でもない。
ただ、そのダメージを遥かに喜びが上回っただけ。
「さあ、ボクともっと楽しもう、エルトリス!!」
「く……こ、の……っ!!」
ロアは身体をガクンと揺らせば、エルトリスとの間合いを詰めたまま再び無造作に拳を振るい始めた。
一発、二発、三発。
その細腕からは有り得ない程の膂力で放たれた拳打は、明らかに素人同然の動きだというのに、信じがたい程に重く、疾い。
エルトリスはそれを弾くように、捌くように――決して正面からは受け止めないように、ルシエラの腕で弾いていく。
「ルシエラ、大丈夫……!?」
『当たり前じゃ、この程度――っ!!』
「ふふっ、あは……じゃあ、これはどうだい?」
拮抗、とは言えずとも戦いになっている。
そんな最中、ロアは拳打を放ちつつ、そんな言葉をエルトリスに呟いた。
「――え」
――途端に、ぺたん、とエルトリスは膝を、どころか尻餅をつく。
別に何か、拳打を受けたわけではない。
ロアからの攻撃は常に弾いていたし、ダメージの蓄積もまださほどではない。
瓦礫で受けたダメージは確かにあるが、足腰が立たなくなると言ったほどでは、断じて無かった。
「え、な、何で」
「こうしたら、エルトリスはどうやって対処するのかなぁ――っ」
立ち上がろうとしても立ち上がれない。
――否、それよりももっと奇妙な事態に陥った事に、エルトリスは混乱し。
そんなエルトリスに、ロアは――この程度乗り越えるだろうと、嬉々として拳打を放った。
耳をつんざくような轟音と共に、チェック柄の床が割れ、砕け、瓦礫が飛び散っていく。
「有難うルシエラ、助かった……っ」
『――っ、どうしたエルトリス、何が有った!?』
そんな飛び散る瓦礫の中。
エルトリスを片腕で抱きながら、ルシエラはロアから離れるように跳躍していた。
一体何が有ったのかをルシエラは問いただすも、エルトリスはどう応えるべきか悩んでるのか。
暫く口ごもった後――
「……分からない。どうやって、動いてたのか、分からない――っ」
『な』
「ベッドから一度も起き上がった記憶がないの……くそっ、そんな訳がないのに……!!」
――そんな、有り得ない言葉を口にした。
「あはは、大丈夫。エルトリスの人格は弄らないよ、もしかしたらこんな奇跡も無くなっちゃうかもしれないからね」
そんなエルトリスとルシエラの様子を見ながら、ロアは笑う。
変わらず戦える様子のエルトリスに喜びながら――顔の無い、偶像の皮さえも殆ど剥げたその姿でロアはとん、とん、となにもない空中を階段でも登るかのように歩き。
「――君の赤子から大人までの経験の一部を、ちょっと閲覧できなくしただけさ。さ、この程度で折れないでくれよ、エルトリス」
『……貴様……ッ!!』
ロアが口にしたその理不尽に。
そして、その理不尽を幾度となく自らの愛する者に押し付けられた事に――エルトリスを抱いていたルシエラは、怒りをはっきりと顕にした。