14.三日目③ -具現した偶像-
「――なあ、テメェももう判ってるんだろ?」
黒い影が、私の前で笑う。
明滅する意識の中でも、不思議と紛い物の声は良く頭に響いた。
呼吸が、キツい。
肺がまともに機能してないのか、幾ら空気を吸っても吐いても、まるで呼吸を整える事ができない。
手足は鉛のように重たくて、まるで力が入らない。
頭もぼんやりとして、全身に走っているはずの痛みを感じる事さえも、私には出来なくなっていた。
紛い物の大きな手が、私の頭を掴んで、持ち上げる。
幾度も攻撃を叩き込んだはずの相手の身体には、傷らしい傷は残っておらず――でも、不思議とそうだろうな、なんて納得できてしまっていた。
「俺が、本来のエルトリスで――今のテメェの方が、本来エルトリスとしちゃあおかしいんだって事に」
「……あ、あ」
紛い物の言葉に、短く言葉を紡ぐ。
――そんな事は、言われるまでもない事だった。
幼い、幼い女の子の身体。
その身体に侵食されている精神。
勿論、そういったモノもあるけれど――でも、それ以上に、私は既に、以前のエルトリスから大きく逸脱している。
仲間を得た。
仲間とともに居る時間が、心地よく感じてしまった。
友達というモノが、思いの外暖かなものだと知った。
信頼を、親愛を向けられる事が――それが、どんなに幸せな事なのかを、知ってしまった。
「だから、俺がテメェになってやる。余分なものを殺して、殺して、殺して――そうしたら、きっと昔の俺のままで居られるだろ?」
『……っ、ふざけるな!紛い物めが――ッ』
「ったく、傷つくぜ。俺は昔からこうだったって、テメェだって判ってるだろうに」
紛い物は、そう言って肩を竦めながら私を見る。
その表情には怒りや哀れみこそあれど、憎しみらしいものは見えなかった。
……ああ、この紛いモノの正体が、何となくだけれど判ってきた、気がする。
「心配すんな。ロアも俺が殺してやる。エセ魔王とやらも俺が殺してやるさ」
「……きっと。嘘、じゃ……ないん、だろう、ね」
喉からかすれた声を、辛うじて絞り出す。
もう体力は底をついた。
あらゆる攻撃は、過去の私には何一つ――そう、何一つ通用する事は、無かった。
あらゆる物を想起し、創り上げても、過去の私は拳一つ、蹴り一つでその尽くを破壊してみせた。
いかなる護りを創り上げ、築き上げても過去の私はそれを紙屑のように破壊し、守りなど無かったように私を蹂躙してみせた。
――それが、過去の私と、今の私の差。
笑ってしまうくらい……それこそ、大人と子供とさえ言えない、戦士と赤子のような力の差を見せつけられて。
「――で、も」
しかし、それでも。
私は、目の前の紛い物に恐怖を感じる事もなければ、怒りや憎しみを感じる事も無かった。
もう何かを握るほどの力も残っていない小さな手で、紛い物の太い腕を握る。
私の何倍もありそうな、その筋骨隆々とした腕が、懐かしい。
「嘘、じゃ……なくても。本音じゃ、ない」
「……あぁ?」
「――っ、い、ぎ……っ!!」
『エルトリス――ッ!!やめろ、やめんか貴様ァッ!!!』
みしり、と頭骨が軋む。
それこそ、紛い物がほんの少し力を込めたなら、きっと私の頭は弾け飛ぶんだろうな、なんて他人事のように考えつつ……それでも、私は紛い物から目を逸らさなかった。
「……っ、判る、よ」
「何がだ」
「怖いん、でしょ?私に、なってしまうのが」
その言葉を口にした瞬間、私を握っていた太い指先が、ぴくりと震える。
ああ、当たり前だ。
判るに決まってるじゃないか。
だって、目の前に居るのはエルトリスなのだ。
エルトリスである私が、エルトリスの事を理解できない訳が、無い。
「……黙れ」
「この、身体は……嫌い、だけど。でも、リリエル達と、巡り会えた事は……私は、後悔してない」
「黙れ」
「あの時の強い、私に戻りたいと……思うこともある、けど。でも、お陰で……ルシエラと、ほんとうの意味で相棒に、なれた」
「黙れ……っ!!」
ぎしり、と頭骨が音を立てていく。
後少し。
後ほんの僅かにでも、目の前の私が力を込めたのであれば、私の頭は果実のように潰れてしまうだろう。
「――だから、怖いんでしょう?エルトリスが消えてしまうんじゃないか、って」
でも、それでも、私は言葉を紡ぐ事を止めなかった。
それは、私がずっと漠然と抱いていた恐怖。
元の――本来のエルトリスから、どんどん乖離していってしまう私が。
それを心地よく感じてしまっている私が、怖くて、恐ろしくて、仕方なかったのだ。
――この、目の前にいるエルトリスが、たとえロアが作り出した何かだったのだとしても。
きっとそれは、私のそういった心を元に作り出したのだろう。
「もういい、潰れちまえ――!!」
「……っ、私は!!」
エルトリスの指先が私の頭を握りつぶす、その刹那。
残った全ての力を込めて、私はルシエラを介した訳でもない、小さな、無力な拳をエルトリスの腕に叩きつけた。
ぺちん、と軽い音を鳴らして、腕を揺らすことさえ叶わなかったその一撃に、エルトリスの動きが止まる。
「私は――私は、あなたを絶対に、忘れない。あなたを、捨てない。エルトリスは、エルトリスのまま生きていく」
「……ふ、ん」
私の言葉を聞いたエルトリスは、それを鼻で笑いながら――私の頭から、指を離した。
地面に落ちるように降ろされた私は、立つことさえも叶わずに、ぺたん、と地べたに尻餅をついて、しまう。
……立ち上がれない。
もう、そんな余力なんて残ってない。
文字通りの無力な存在に成り果てた私を見下ろしながら、しかしエルトリスはそれ以上何かをする事は無く。
「運の良い奴だ、テメェは」
そう、小さく言葉を口にすれば……ゆっくり、ゆっくりと、その身体を暗い、暗い影の中に沈め始めた。
「言葉を違えるなよ――エルトリスがエルトリスを裏切った時、俺は必ずテメェを殺す」
その言葉に、言葉を返す事が出来ない。
声を出そうとしても、呼吸がまともに出来ない状態では、言葉一つ紡ぐことすら困難で。
――ただ、私は溶けるように消えていくエルトリスに視線を向ければ、ソレは少しだけ笑ったような、そんな気がした。
「――うん、素晴らしい。ボクに会う資格を得たのは、君で二人目だ。可愛らしいお嬢さん」
「……そう」
……瞬間、視界が切り替わる。
薄暗い路地裏のような場所から、本の香りに満たされているかのような書庫に。
私は聞き覚えのない――しかし、恐らくは誰なのか判っているその声に、短く言葉を返した。
不思議なことに、先程まで満身創痍だった身体に痛みは無い。
いや、痛みどころか怪我の一つさえも、私の身体には残っておらず。
「お久しぶりだね、エルトリス。君が来るのを楽しみに待っていたよ」
天まで聳えるような書架が幾つも立ち並ぶその空間の中で、それは酷く嬉しそうに笑っていた。
白く、肌が透けるような薄い布地を纏った、豊満な――穏やかな美貌を称えた女性。
その腰には、一対の大きな、白い翼が生えており。
『……ハッ。女神様気取りか、ヘドが出るのう』
ルシエラのそんな言葉を耳にすれば、幸せの国に祀られていた偶像、その具現は――にんまりと、その口元を歪めてみせた。




