5.高鳴る鼓動
「――そっか、寂しくなるな」
公国を発つ前日の夜。
一応挨拶くらいはしておくか、とメガデスの元に顔を出せば、メガデスはそんな言葉を口にしつつも、何処か予想はしていたかのように、笑みを見せた。
「で、幸せの国だっけか?」
「ああ。招待状を貰っちまったしな、行かない訳にもいかないだろ」
「はは、そりゃあ確かに」
何時ものように作った可愛らしい口調ではなく、恐らくは素なのだろう口調で言葉を口にしつつ、メガデスは夜の森に視線を向ける。
まるで日常のように言葉を交わしながらも、その所作には一切の隙を見出す事はできなかった。
……アルカンとは違って刃を交えるような事態にはならなかったけど、やっぱりメガデスも相当だ。
弓使いであるのなら懐に居れば隙の一つや二つは見出だせるものだというのに、それが無いなんて。
「行くんなら気をつけろよ。そこはどうにもキナ臭ぇからな」
そんな事を考えていると、メガデスはそんな言葉を口にしつつ、矢を放った。
遠くで響く雷鳴を耳にしつつ、メガデスの顔を見れば、その表情は真剣そのもので。
『ふむ、何か問題でもあるのかの』
「元々噂なんてのはキナ臭いモンなんだがな。一つ、明らかな事がある」
ルシエラの言葉に応えつつ、その眼に映る獲物が居なくなったからか、メガデスは魔弓の弦から指を離す。
……明らかな事。
そう言えば、俺も俺なりに幸せの国の噂については調べてみたが、胡散臭さの塊って事以外は特に判っていなかった。
メガデスは英傑だし、多くの部下を抱えてるのもあってそういう情報にも耳聡いんだろうか。
「――幸せの国に向かった奴が、誰一人戻ってこないって事。なのに、噂だけはどんどん広がってやがる」
「そういや、確かに幸せの国の噂にそんなのがあったな」
曰く、その国には病も老いも、苦痛も無い。
曰く、その国では万人が平等であり、皆が幸せになれる。
曰く、その国は何人たりとも拒む事はない、誰であっても幸せになる自由がある。
曰く。
その国に一度脚を踏み入れたのであれば、誰もがその国から出ようとは思わなくなる。
その噂が仮に真実だったとするのであれば、戻ってこないっていうのはそういう事なんだろう。
洗脳か、或いは催眠か――それとも、アリスの永遠のお茶会みたいな特殊な能力か何かか。
万に一つ、本当に幸せになって戻りたくなくなるって可能性も有るには有るが、まあほぼ有り得ないだろう。
何しろ、そこを牛耳ってるのは恐らくは六魔将の一人であるロアなのだから。
『まあ、洗脳や催眠の類なら私が弾くから問題ないのう。何らかの能力による阻害なら、それをやってる輩を喰らえば済む事じゃ』
「ははっ。まあ、確かにルシエラが居れば安心ではあるな」
「そうだな、俺も心強いよ」
『……む』
俺とメガデスの言葉に、自慢気に胸を張っていたルシエラが顔を少しだけ赤く染めて、口ごもる。
……褒められて恥ずかしがるなんて珍しい。
割と自意識が強い方だから、こういうのは喜びそうなもんなんだが。
「ま、ともあれ――気をつけて行ってらっしゃい☆お土産、楽しみにしてるねっ☆」
「別にここに戻ってくるとは言ってねぇんだけどな……まあ、期待せずにな」
いつもの調子に戻ったメガデスに苦笑しつつ、軽く手を振ればこれ以上仕事の邪魔をしないようにと、城壁を降りる。
ルシエラはまだ顔が熱いのは、手でパタパタと顔を仰いでいたけれど――まあ、とにかくこれで出発する準備は整った。
荷物とかの準備も終わってるし、明日になったら公国を発つとしよう。
向かう先は、六魔将ロアが待っているであろう幸せの国。
アリスをして強いと評されるロアとやり合うと思うと、胸が高鳴って仕方がない。
俺は、むにゅ、と無駄に大きな――掌じゃ到底覆えない胸元に手を当てつつ、小さく、熱っぽい息を吐き出した。
――裏路地を、走る、走る、走る。
青年は、この国に来て幸せだった。
幸せの国という胡散臭い名前とは裏腹に、そこは確かに天国のような場所だったのだ。
故郷では上手く行かず、藁をも掴むような気持ちで幸せの国を訪れた彼を待っていたのは、文字通りの幸福だったのだから。
訪れた次の日には職が見つかり、良き先達に囲まれながら過ごす日々は生き甲斐に溢れ、幸福で。
決して不当に扱われる事もなく、恵まれた報酬で得た生活は、以前からは考えられない程に幸福で。
そんな生活の中で出会えた女性との生活は、彼の人生において絶頂としか表現する事は出来ないものだった。
「――っ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
だから、青年はこの国に来て本当に良かったと思っていた。
幸せの国に来たことに後悔など無かった。
――少なくとも、故郷に居る両親に仕送りをしようと考えつく、その日までは。
「……ああ、くそ、くそ……っ」
考えなければよかった。
この国でただ、幸せを享受していればそれでよかったのに。
この国の外の事なんて、考えなければ幸せでいられたのに――
青年の心にはそんな後悔ばかりが押し寄せてくるけれど、今更起きたことを変える事はできない。
青年は考えてしまったから。
青年はそれを行ってしまったから。
――だから、それは何処まで逃げようとも、青年の後を着いてくる。
「ひ、ぁ――っ、あ、ぐっ」
疲れ果てて転んだ青年は慌てて立ち上がろうとして、背後から聞こえていた足音が途絶えた事に気付けば、背筋を凍りつかせた。
恐る恐る青年が後ろを振り返れば、そこに居たのは――……
「あ――い、やだ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!!やめ――」
……青年の叫びは、悲鳴は、誰にも、何処にも届かない。
表通りは何時ものように和やかに、暖かな、幸せな日常が続いているというのに、青年はそちら側に戻る事もかなわない。
そうして、暫くの後。
ふらり、ふらりと裏路地から姿を現したのは、ぼんやりとした、茫然自失とした青年だった。
「……?あれ、俺はどうしてこんな所に居たんだっけ……」
先程までの悲鳴も、叫びも覚えていないのか。
――或いは、そんな事などしていなかったかのように、青年は首を傾げながら、暖かな表通りへと戻っていく。
道行く人々は、裏路地になど目を向ける事もなく、存在する事すら知らず。
今日も、幸せの国は暖かで、平和で、穏やかだった。