4.少女、約束を交わす
――幸せの国。
少なくとも俺達が公国に来るまでは――否、アバドンとの戦いの前には、存在はおろか噂さえも無かった筈の国。
あのロアという魔族から招待状を受け取って以後、一体何処のことだと首を捻りつつも軽く調べれば、奇妙な事にソレの噂は日に日に耳に入るようになっていた。
始めは、鼻で笑ってしまう程に朧げで、荒唐無稽な。
しかし日を追う毎にそれは現実味を増して、もしかしたら存在するのではと思えるような噂になっていく。
それこそ、今となっては冒険者や行商人達の間ではまことしやかに囁かれる程に、遠くにそういった国があると口にされる程になっていた。
一度、夜中にアリスと過ごしている時に尋ねては見たものの、アリスもどうやら幸せの国については知らない様子だった、が。
代わりに、ロアという魔族については知っていたのだろう。
あの奇っ怪な、男か女かも判らない魔族について、詳しく教えてくれた。
ロアは、アリスやアルケミラ、アルルーナ、それにアバドンと同列に数えられる六魔将が一人。
今や五柱となった六魔将の中でもアバドン同様特異な存在として目されており、特定の領土や配下を持つこと無く、ふらりふらりと魔族の住まう世界を放浪している事で知られているらしく。
「あむ……ん。私は、ロアくんが暴れてる所は見たことないけど。本当に変わった子だよ」
「変わった子?」
ケーキをスプーンでちょっと掬って、アリスの口元に運びつつ。
アリスはぱく、と小さな口でそれを食べると、嬉しそうに、美味しそうに目を細め――何だか食べさせてあげたこっちが嬉しくなるような仕草を見せながらそう言うと、こくん、と頷いた。
アリスも大概変わっているというか、今まで見てきたどの魔族よりも変わっている気がするんだけれど、と思いつつも口にはせずに。
そんなアリスが変わっていると口にしたのだから、きっと大概なのだろうと考えながら、渡された手帳の切れ端に視線を落とす。
「あの子はね、ずっと何かを探してるみたいな、そんな感じなの」
「何かを……って」
「人とか物じゃないみたいなんだよね。何を探せば良いのかを探してる、みたいな」
『……よくわからんのう』
あむ、とケーキを咥えつつ、アリスは私も、と軽く返しつつ苦笑する。
何を探せば良いのかを探してる、なんて、何とも不毛な話だ。
普通なら先ず何を探したいのかを考えてから、決めてから探し始めるものだろうに。
「ん……っ、でも」
もぐ、もぐ、とケーキをしっかり噛んでから飲み込めば、アリスはきゅっと俺の手を握ってきた。
小さくて、柔らかくて、温かい手。
俺とさして変わらない大きさの掌を重ねられると、俺は少しだけ、どきっとしてしまって――
「でも。ロアくんは、間違いなく強いよ」
「……そう、なのか」
――その鼓動の高鳴りは、直ぐに別の高鳴りに取って代わられた。
強い。
今でも――以前よりも強くなって尚、未だに勝ち筋さえ見えないアリスがそう口にしたという事は、それはきっと、紛れもない本物の強者、なのだろう。
アバドンも無論強くは有ったが、あれは強者というよりは災害と言ったほうが正しかった気がするし。
こうして、本当に強いアリスがお墨付きを与える程の強者ともなれば、どうしても期待してしまうのだ。
今の俺は、果たしてどの程度それと――ロアと戦えるのか。
勝てるのか、勝ち筋さえも無いのか。
それを考えるだけで、どうしてもこう、胸がどくん、どくん、と高鳴ってしまう。
そんな俺の様子に気付いたのか、アリスはくす、と笑みを零すと、小さな掌で優しく、優しく俺の頭を撫でてきた。
「……ん、ぅ」
……心地が良い。
俺とさほど変わらないアリスに、まるで親が子供を褒めるように撫でられているというのに……だと言うのに、ちっとも嫌な気分に、ならない。
俺は目を細めながら、自然と表情が綻んでしまって。
アリスはそんな俺を見ながら、ぽんぽん、と優しく髪の毛を軽く手櫛で梳くと――気付けば、俺はアリスの膝の上に座らされて、しまっていた。
身体を縮められてはいない。
別に、俺自身に変化が有ったわけじゃあない、はずなのに。
なのに、アリスの膝の上に座らされて、軽く抱くようにお腹の前で手を組まれてしまえば、まるで大きな、大きな何かに包まれてる、みたいで。
「ふふ、エルちゃんったら本当にやんちゃなんだから」
『ぬ――』
「判ってるわ、ルシエラちゃん。大丈夫、大丈夫」
少し不機嫌そうにしたルシエラの頭も軽く撫でながら、アリスは優しくそう言葉にすれば……一体どうやっているのか。
俺とルシエラを一緒に抱くようにしながら、ぽん、ぽん、とお腹をなでてきて。
『……む、ぅ。面妖な』
「あ、ふ……」
「エルちゃん達のそういう所、大好きよ♥だから、余り無理はしてほしくはないんだけど……うん」
心地よさに軽く微睡みつつ。
ルシエラも心地よくなっているのか、少し困惑しつつもアリスに身を委ねていて。
アリスの言葉にちょっと気恥ずかしくなりながらも、口元に――先程俺がそうしていたように、ケーキを運ばれれば軽く口にしながら。
「……きっと、私が止めても行っちゃうだろうから。だから、きっと無事で帰ってきて、また一緒に遊んでね?」
「ん……う、ん」
口の中に広がる甘味を味わいつつ、どこか心配するようなアリスの言葉に頷けば。
アリスは俺とルシエラをきゅっと抱きながら、そのままぽふん、と柔らかなベッドの上に倒れ込んだ。
……覚えていたのは、そこまで。
次に意識を取り戻したときには、アリスはすっかり普段の調子に戻っていて。
幸せの国のはっきりとした所在までもが噂に流れてきたのは、その数日後の事だった。




