14.環境適応② -停止する世界-
黒い影が蠢く一角。
エルトリスが異形の蟲を打倒してみせた場所から離れたその一角で、死闘が繰り広げられていた。
片や、白刃を手にしつつ白い吐息を荒く、荒く吐き出しているリリエル。
片や、のそり、のそりとその身体を鈍重に動かしつつ、時折排気でもするかのように超高熱のガスを吐き出す、球体状の蟲。
リリエルの冷気に対応してみせたその蟲は、ギチリ、ギチリと音を鳴らしながらゆっくりと歩き、リリエルへと近づいていく。
白く染まり凍てついた蟲を踏み砕き、排気したガスで焼き焦がしながら歩いてくる姿は隙だらけで、如何ようにもできそうな物だった。
「――ッ」
そんな球体状のソレがぐらりと動けば、リリエルが即座に身構える。
どずん、と重たい音を鳴らしながら地面に転がり込めば、ぐるん、ぐるんと蟲はその身体を回し、回し――今までの鈍重な動きは何処へやら。
急激な加速を以て、リリエルへと突撃してきたのである。
『壁を斜めに!進路を反らしてッ!』
「白雪の壁――っ」
ワタツミに言葉にされるのと同時に、リリエルはその進路を遮るように氷の壁を作り出した。
進路に向かって斜めにそらすように作られたソレに衝突した蟲は、ずん、と地面を揺らしつつ、触れた途端にその壁をどろり、どろりと溶かしていく。
全身からの排気によって、蟲の甲殻は常に超高熱を帯びており――それが、リリエルのあらゆる行動を、あらゆる攻撃を妨げる盾であり、そして鉾にもなっていた。
かろうじて進路を逸したリリエルは、身体が壊れないようにゆっくりと間合いを取れば、蟲に視線を向ける。
どん、と器用に身体を跳ねさせながら、地響きとともに着地をすれば、球体状の蟲は全身からガスを噴き出しつつ、再びリリエルの方に向かい、歩きだして。
また数歩歩けば、超高温を伴った体当たりが来る、とリリエルはワタツミを握り込みながら、思考を巡らせた。
あの突撃は、そう何度も何度も受けきれるようなものではない。
今でも白雪の壁でかろうじて逸しているというだけで、回を重ねるごとに徐々に、徐々に壁を貫くような勢いを伴ってきているのだ。
そして、こちらから攻撃を仕掛けようにもその尽くが蟲の吐き出している超高温のガスによって妨げられてしまう。
氷の礫は溶かされ、氷華葬送はその高熱の前に効果を発揮するよりも早く――否、それ以前に周囲の蟲に食い荒らされて、十全に効果を発揮する事さえ出来ない。
近接戦闘など以ての外だ。
先んじてガスを受けてしまった脚は焼けただれ、今でこそ痛みは抑えられているがそれでも痺れが取れておらず。
接近を許したのなら、今度は脚だけではなく全身がそうなるのだと。リリエルは直感でそう察してしまっていた。
「……す、ぅ」
荒れていた呼吸を落ち着かせながら。
あと数歩近づけば再び転がってくるであろう相手に意識を向けながら、リリエルは思考を巡らせる。
防御は後数回も保たず。
攻撃はそもそも届かせる事さえ叶わない。
最早詰みとさえ言えるようなその状況において尚、リリエルは思考を途切れさせる事はなかった。
今まで幾度、こんな状況をあの方が乗り越えてきたか。
それを思うだけで、リリエルはそんな死地においても臆する事無く、冷静で居る事が出来たのだ。
どん、と球体状の蟲が大地を蹴り、今まで以上に勢いをつけて転がってくる。
超高温を伴った突撃。
更に加速を伴ったそれを、リリエルは直感で防げないと理解した。
防いだなら、氷の壁は溶かし砕かれ、そして自分とワタツミもその身を焼き焦がされ、爛れながら潰されるだろうと、ただ理解した。
「ワタツミ。貴女の全力は、こんなものではありませんよね」
『何を――』
「……私が使い手として至らないのは解ります。ですが、今だけは」
短く言葉を交わしながら、リリエルは白く冷たい吐息を吐き出していく。
触れれば凍てつくほどの極低温を纏ったリリエルは、しかし未だにワタツミの力を十全に扱えては居ないのだと、察していた。
そう、あの凄まじい老人が扱っていた魔刀の姉妹刀がこの程度の筈がない、と。
ワタツミは今のリリエルで出来るであろうギリギリのラインを見極めて力を与えていたが、それに言及されてしまえば。
『――気をしっかり持つのよ』
ワタツミ自身もそうしなければ現状を打破できないと理解したのだろう。
リリエルを気遣う言葉を僅かに告げれば、良い塩梅に加減していた――それでもリリエルの身体に負担を強いていた――力を、解放した。
「ひゅ――」
止まる。
止まる。
止まる。
流れ込んだ力の膨大さ。
それに耐えきれず、とうとう感覚さえも喪失した身体が。
――そして、途端に白刃から発せられた、最早冷気とさえも言えないそれに晒された森が、止まる。
冒険者たちはただ、何が起きたのか、とその白く輝く世界を外から見ていた。
目にも留まらぬような速さで突撃していた筈の球体状の蟲が、急速に勢いを失いながら――超高温のガスさえも白く凍りつかせて、動きを止めていく。
まるで一枚の絵のように、何もかもが制した世界の中。
ただ、ただゆっくりと。
まるで水の中で舞うかのように、鈍く、静かにリリエルはその白刃を、風切り音すら鳴らぬ程に遅く振るい。
――刹那。
動きを停止していた球体状の蟲は、パキン、と軽い音を立てながら、その身体を白く染めて。
「な……っ」
「……すげぇ」
リリエルが振るった刃のその先。
白刃では届かぬ筈の間合いに有った、黒く焼け焦げた樹々さえも白く染め上げたかと思えば、その全てがずるり、とズレた。
まるで魔法が解けたかのように、樹々がコトン、コトン、と斬られて――動いていく、その景色の中。
真っ白くそまった球体状の蟲もまた、コトン、とその胴体を両断され、ハラハラと砕けていく。
冒険者たちがそんな現実味のない光景に感嘆の声を上げる中、リリエルは未だに動くことが出来ずに居た。
先程までは白く漏れていた呼気さえもなく、ただその身に纏った冷気だけが、少しずつ、少しずつ引いていく。
失われた感覚が戻ってくる最中、手足は末端からひび割れ、激痛を伴い。
ともすれば苦悶の声を上げてしまいそうだったリリエルは――そうすれば、おそらくこの身は粉々に砕け散るであろう事を察して、ただ只管に耐えた。
『……そうよ、落ち着いて。少しずつ戻すから』
身に余る力を振るった、その対価に声を上げずに耐える自分の主に、ワタツミは優しく、どこか誇らしさを感じているような暖かさを込めて、言葉を紡いでいく。
そんなワタツミの言葉に支えられながら――リリエルは、僅かでも、一瞬でも早く動けるようにならなければ、と。
冒険者達に、そして自分たちによって数を減らしつつあるアバドンに意識を向けながら、激痛の中で、ワタツミを軽く握りしめた。