26.その隣に、並び立つために
公国の外に広がる広大な森は、原則として立入禁止となっている。
森が深く、一度迷えば出ることが困難だから。
中には危険な毒を帯びた植物が繁茂している場所があるから。
理由は様々だが、一番は魔族が良くその森に出現するから、というのが一番大きいだろう。
魔族の住む世界と光の壁を通じてつながっているその森には、壁を抜けて侵入してきた魔族達がその牙を、爪を、刃を光らせながら潜んでいる――それは、公国に住む者の間では暗黙の了解となっていた。
故に、住民は決して森には近づかず。
逆に、魔族を討伐することで報酬を得たいと思う冒険者たちは、頻繁に森に出入りしていた――というのは、ついこの間までの話。
日に日に増える魔族の数に、並の冒険者達はすっかり尻込みしてしまい。
今となっては近隣の森に足を踏み入れるのは余程の物好きか、力のある冒険者の徒党くらいになっていた。
そんな、森の中。
危険地帯というのさえ生ぬるいその場所にはそぐわない格好の女性が一人、白刃を煌めかせる。
使用人風の服を揺らしつつ、長い耳をぴくん、と動かしながら。
彼女は自らに振るわれた鋭い爪を紙一重で躱しながら、ヒュン、と小さな風切音を鳴らし。
「――ヵ」
直後、コトン、と彼女に爪を振るっていた魔族の首が落ちた。
傷口から血が吹き出す事はない。
切断面が凍てついた死体は、その部分から全身へと広がるように凍り、凍り。
『もう木っ端魔族は相手にならないわね。私の使い手らしくなってきたじゃない』
額から汗を垂らしながら、僅かに乱れた呼吸を整えるように深く息を吸う女性――リリエルに、ワタツミは楽しげに言葉を投げかけた。
「……いえ。まだ、足りません」
リリエルは呼吸を整えると額の汗を拭いつつ、森の中を再び歩き始める。
そんな自らの使い手の様子に、ワタツミはふぅん、と小さく息を漏らしつつ。
しかしそれを頼もしくも思っているのか、リィン、と軽く刃を鳴らしてみせた。
――リリエルが森に入り始めたのは、数日前。
アリスやアルケミラとの夜間の特訓に確かな成果を感じつつも、彼女は有る感情を抱いていた。
それは、彼女がエルトリスに買われてからずっと抱いていた感情。
ワタツミを手にして多少はマシになったとは言えど、未だに主であるエルトリスに並び立つには、余りにも、余りにも足りない自らの力に対する苛立ちと、不安。
無論、リリエルの実力は既に並の冒険者など遠く及ばぬ程になっている。
一流の冒険者たちと比較しても遜色はなく、彼女がもし望んだのであれば国に仕えて名を残す事さえ可能な程にはなっていて――しかし、それでは彼女の望みには到底届かなかった。
彼女の今の望みは唯一つ。
自らの復讐を成就させてくれた、どん底に居た自分に手を差し伸べてくれた主に恥じない所有物になる事。
主の仲間であるアミラやクラリッサに決して遅れを取らない力を手にする事――そのために、彼女は夜間の訓練以外でも修練を積むことに決めたのだ。
幸い、修練の相手に困る事はなかった。
どういう訳か、近隣の森に侵入する魔族が増え続けている事もあって、リリエルはアリスやアルケミラとの特訓の間に得た気付きを実践する事が出来た。
その成果たるや、今やリリエルは並の魔族であれば単独で撃破出来る程。
それは確かにワタツミの力もあるだろうが、それを扱っているリリエルの実力の証左であり――
「――お前が氷使いか」
森の中を歩くリリエルに、森の木々の影から言葉を投げかける者が一人。
リリエルがワタツミに手をかけながら声のした方へと視線を向ければ、がさり、と音を立てながら姿を表したのは、細身で長身の魔族だった。
蜥蜴のような頭に、リリエルよりも遥かに高い背丈。
腕は異様な程に長く、その先端には毒々しい色をした刃が2つ、握られていて。
「こんな小せぇガキにやられてたのかよ。情けねぇ」
「油断するな。こいつの纏っている気配は並の人間など比較にならん」
「……二人ですか」
そして、その魔族とは対象的な魔族が一人、森の奥から姿を表した。
恰幅がよく、手足もリリエルの胴回りより太いその魔族は力自慢か何かなのだろう、近くにあった樹をまるで枝のように握り砕いてみせる。
だが、リリエルはそれに動じる事はなく。
二人の魔族はそんなリリエルを見れば、口元を軽く歪めてみせた。
「卑怯とは言うまいな。お前達人間も、十数人で私達を殺すだろう」
「ええ。何も、問題は有りません」
「ハハハハッ、言うじゃあねえか!じゃあ遠慮なくやらせてもらうぜぇ――ッ!!」
細身と豪腕が、同時に迫る。
元々二人一組なのか、それとも事前に打ち合わせをしていたのか。
その動きは互いを阻害すること無く、リリエルを各々別方向から鏖殺せんと迫る攻撃には無駄がない。
リリエルがいかに実力を付けたとは言えど、多対一を一つの武器で捌くのは困難だった。
毒々しい刃を弾き、振るわれる豪腕を体を翻して躱すその動きには迷いこそ無かったが、攻勢に転じることは出来ず。
「流石だな、氷使い!だが――」
「悪いが、逃さねぇぞ――!!」
そして、リリエルに生じた僅かな隙を突いて、細身の魔族がワタツミを跳ね上げる。
ワタツミはリリエルの手から離れる事こそなかったが、豪腕の魔族はそれを見逃す事はなく。
振り翳された拳は、リリエルの胴体を迷うこと無く撃ち抜いて――
「――な」
「凍刃阿修羅――まだ、時間がかかりますね」
――その拳が、二対の刃によって遮られた。
それは、透けて見えるような薄く、しかし強靭な氷の刃だった。
四本ある氷の刃は、それぞれリリエルの肩口周りから生成された氷の腕に握られており。
「が――ぁ――ッ!?」
4本の氷の刃が魔族の腕をずたずたに切り刻めば、豪腕の魔族は苦悶の声を上げながら後退り――それを見た細身の魔族は、軽く舌打ちした。
油断していたわけではない。
事実、二人の魔族は決して弱いわけではなく、二人がかりで多くの冒険者を屠った経験もあった。
「……遠慮なさらずどうぞ。そうでなくては、修練になりませんので」
「お、のれ――舐めるな、小娘ェ――ッ!!」
確かめるように氷の腕を動かしつつ氷の刃を煌めかせる目の前のエルフに、細身の魔族は猛り。
片腕をずたずたにされた豪腕の魔族と共に、猛然と襲いかかれば――ああ、せめて三人。
いや、四人で挑むべきだった、と今更すぎる後悔に襲われた。
「……まだ、遠いですね」
『そう?今ならエルトリスからも一本くらいは取れるんじゃないかしら』
――魔族達の残骸を足元に、リリエルは小さく息を漏らす。
ワタツミの言葉を首を軽く振って否定すれば、リリエルは荒れた呼吸を整えながら、空を見た。
「エルトリス様ならば、疲労など感じる間もなく倒しているでしょうから」
『……そんなものかしら』
日が僅かに傾き始めているのを見れば、リリエルは汗を軽く拭い。
冒険者ギルドにでも差し出せば、かなりの金になるであろうそれを打ち捨てたまま、リリエルはワタツミの柄を軽く撫でて。
「大浴場に寄ってから帰りましょうか。今夜に向けて、疲れは残さないようにしないといけませんからね」
『良いわねっ。今日は私が背中を流してあげるわ――』
自らの魔刀と仲睦まじく言葉を交わしながら。
リリエルは森の外へとゆるり、ゆるりと歩いていった。




