19.かくして、女帝は君臨する②
「僕は、この国を君に捧げるよ。その為になら、王になるのだって悪くはない」
その言葉を、覚えている。
ただの傀儡になるはずだった男の口から、まだ傀儡にもなっていないのに告げられたその言葉を、覚えている。
私は、果たしてどんな表情をしていたのだろう。
男に――エクス様に、私はずっと寄り添い、優しい言葉で語りかけて、依存させようと努めてきた。
それは、私の本体であるアルルーナの意思だ。
私もそこから分かたれた幼体達も――アルルーナの元に居る多くの私達は、皆アルルーナとして産まれてくる。
最初から、完成された個としてのアルルーナとして、私達は生まれ落ちるのだ。
だから、エクス様に私は情など何一つ抱いていなかった。
人の世界に種を送り込み、発芽した場所から世界を腐敗させて慌てふためく様を楽しもうというアルルーナの考えを、私はそのまま抱いていた。
だから……だから、エクス様のその言葉は。
予定よりも遥かに早く、自分の意志で口にされたその言葉は、ただただアルルーナにとって都合のいい言葉だった、筈なのに。
――ずきり、と。
その言葉を聞いた瞬間、何故か私の心に、致命的な欠陥が生じてしまった。
エクス様は、私が魔族だと理解していながら、これから自らの国を戯れに滅ぼすのだと知りながら、それでも尚、私に好意を向けてくれた。
それは、明らかな異常であり、狂気。
自らに親しい者がどうなるかなんて、彼は全て理解していただろうに。
……でも。
ああ、でも、それが私を狂わせた。
アルルーナという個として生まれ落ちるが故に、揺るぐことのない群体だったはずの私達は、その時から異物を抱えたのだ。
エクス様。
貴方がどうありたいかは、判っています。
だから貴方に、私の出来得る限りの力を与えました。
「……それでも、破れてしまったのは、私の咎でしょうか」
――私に本体ほどの力が有ったのなら、きっとこのような結末は迎えなかったのだろう。
でも大丈夫。
エクス様は、この胸の中で生きている。
であるなら、大丈夫。
ああ、だから……まずは、エクス様の弔いに相応しいように、この世界を塗り替えよう。
私は私を喰らい、力を得よう。
エクス様が好きだった華で、世界を満たそう。
エクス様が愛してくれた私で、世界を満たそう。
そうして、私は本体を、六魔将を、魔王を喰らい――世界を、私とエクス様だけにするのだ。
――荒れる呼吸を、鼓動を御しきれないまま。
集中も出来ず、四肢をまともに動かすことさえ叶わないエスメラルダは、せめて眼前の戦いの邪魔にならないように、と。
気力を振り絞って、エスメラルダは何とか這うようにして、玉座の間の入り口に背中を預けた。
眼前に広がるのは、新たに生まれてしまった魔族と、エスメラルダが敬愛する少女の戦い。
それをただ見ることしか出来ない歯痒さに唇を噛みながらも、エスメラルダは冷静に、身体を狂わせている熱が冷めるのを待っていた。
「――きゃはっ、きゃはははははは――っ!!!」
玉座の間に、狂喜する少女の声が響き渡る。
それは正しく、人知を超えた戦いだった。
翡翠色の剣閃が煌めく中を、少女――エルトリスはその腕に巻きつけた鎖で防ぎ、弾き飛ばしながら――その身を斬りつけられながらも、前に進んでいく。
一方で、アルーナもそれに物怖じする事も、引くことさえもなく、手にした細身の刃を容赦なく振るって行った。
「……毒、効かないのね」
身体を幾度も斬りつけられながらも止まらないエルトリスに、アルーナは静かに呟く。
アルーナが手にしている細身の刃には、複数種の毒が仕込まれていた。
麻痺、睡眠、腐食――そして、凝血。
一度斬りつけられれば、それだけで致死に至るような毒を幾度となく注ぎ込んでもなお止まらないエルトリスに、アルーナは学習して。
「ほぉら――っ!!」
『先ずは一発、じゃ――!!!』
――それよりも疾く。
アルーナが次の手を打つよりよりも疾く、エルトリスはその拳打をアルーナの顔面に叩き込んだ。
美しい、人を惑わせる妖花のような美貌を称えるアルーナの顔に触れる刹那、凄まじい轟音と衝撃波が玉座の間に響いていく。
それは、障壁だった。
並大抵――否、大抵の魔族の障壁であれば、一撃で叩き割れる程の力が籠もったエルトリスの拳は、アルーナの顔に触れる寸前で完全に静止する。
周囲の華を散らし、石壁の名残に亀裂を入れながらも、アルーナとその障壁は微動だにすることはなく――
「――っ!!」
――その一瞬の硬直を突くかのように、アルーナの周囲から触手の如き何かが湧き出した。
それはエルトリスの身体を容赦なく打ち払おうとして……それをルシエラが既の所で守りはしたものの、折角詰めた距離を引き剥がされれば、エルトリスは軽く息を漏らす。
「……やはり、本体の規模には遠く及びませんわね」
アルルーナの周囲から這い出したのは、七本の触手。
……否、それは触手ではなかった。
畝る姿こそ触手のようではあったものの、その先端には顎らしきものが付いており。
まるで食虫植物のように、口腔から溶解液を垂らしながらガチガチと歯を鳴らすそれは、大蛇か、或いは竜の首のようで。
「まあ、貴女を殺すには十分でしょう。行きなさい、蹂躙する巨木」
「あは――っ」
その、七つ首の大蛇が、勢いよくエルトリスへと襲いかかった。
図体がデカいとは言えど、その動きは決して鈍重ではない。
まるで鞭のように身体を撓らせながら迫りくるその動きは、その体躯からは信じられない程に疾く、疾く。
エルトリスはその首の間を抜けるように身を躱しながら、伸びている首の部分にルシエラの円盤部分を叩き込んでいく。
『ぬ――ぐ、これも、か……!!』
如何なる巨木であれど、ルシエラの円盤は瞬く間に喰い千切り、薙ぎ倒す程度の力がある。
……そのルシエラの刃が、首に触れる寸前で静止していた。
激しく回転する円盤は火花を散らしこそしていたものの、大蛇に触れる事は叶わず、弾かれていく。
「ふふっ、ふふふ……っ、あはははは……っ!!」
七つ首の大蛇に迫られながらも、エルトリスはしかし笑みを絶やすことは無かった。
その顎から垂れる溶解液を躱し、迫る頭を飛び越えて、鞭のように打ち据えようとしてくる首から身を翻す。
一方的な攻勢に晒されながら――しかしその窮地こそが愉しいのだと言わんばかりに、エルトリスはまるで飢えた獣のように瞳をギラつかせて。
「――……」
それを見ながら、アルーナはただただ冷静に、冷淡に。
目の前の相手をどうすれば排除できるのかを、考えていた。
アルーナの、アルルーナの能力である自己進化。
それは決して長い時間を掛けて行われる物ではない。
一度驚異を認識し、必要なタイミングになればそれに合わせて自らを変容させる。
幼体の学習よりも遥かに疾く行われるそれは、今この瞬間にも行われており――
「これ、は――」
『……いかん、防げエルトリス!!』
――ぎゅるり、と。
七つ首の大蛇がその全身をうねらせながら、まるで籠のようにエルトリスを取り囲んだのを見れば、ルシエラは叫んだ。
球体状の鳥籠のように形を変容させたユグドラに悪寒を覚えたエルトリスは、身を翻すものの、隙間から逃れるには既に遅く。
「……終わり」
刹那。
瞬きの間に、一斉に内側に咲き誇った華から、無数の種子が放たれた。
それは、アルルーナが相手を操る時に扱う種子と同じもの。
肉に深く食い込む程に、鎧であれど穴を開ける程の威力で放たれたそれは、一度浴びればその瞬間、アルルーナの傀儡となってしまう恐ろしいモノで。
それが、文字通り四方八方から放たれれば――ユグドラの檻の内側に囚えられたエルトリスに、それを回避する手段は無かった。
炸裂音とともに放たれた無数の種子。
それが全てではなくとも、僅かでも着弾したのであれば、後はアルーナの意思で自害させられて、エルトリスは命を奪われる。
如何なる身のこなしとは言えど、これは防げない――少なくともエルトリスにこれを防ぐ手段は無い、とアルーナは判断していた。
――そのアルーナの目に、信じがたい物が映る。
「……危なかったぁ……あはっ、凄い、凄いね」
ユグドラの檻の中には、冷や汗を流しながらも笑う少女が一人。
今まで学習してきたエルトリスであれば、絶対に不可避な状況だったというのに――だというのに、エルトリスは無傷でそこに立っていた。
その腕からは、撒かれていた鎖がまるで鞭のように何本も、何本も伸びており。
見れば、その鎖の間には先程放ったはずの種子が、目詰まりでも起こすかのように詰まっていて――
『――ふん。つまみには丁度いいのう』
――それを、バキンっ、という乾いた音とともに、一斉に噛み砕けば。
ルシエラは愉しげに――そして、エルトリスが無事だったことを安堵するかのように、言葉を口にした。
進化、と呼ぶ事は出来ないだろう。
エルトリスの肉体には変化はないし、依然としてアルーナは傷一つさえも負っていない。
だが、今までに無い――まだ自らがルシエラを使いこなせていないと知ってからの初めての苦戦は、確実にエルトリスに何かしらの変革を齎していた。




