閑話:彼女はとても、満ち足りて
アリスの領域、彼女の能力の一つである永遠のお茶会の中にある、彼女の部屋。
決まった形を持たず、彼女の心ひとつで変容するその場所で、アリスは酷く上機嫌になりながら、鼻歌を口ずさんでいた。
「只今戻りました、アリス様」
「お帰りなさい、ハッター♥エルちゃんたちは無事送り届けたのかしら?」
「はい、問題なく」
音もなく戻ってきたシルクハット頭の魔族――ハッターに、アリスが問いかければ、ハッターは軽く頭を下げながらそう返して。
アリスはその言葉に満足気に笑みを零すと、手元にふわり、と綿を集めるようにして手帳らしきものを作り出せば、いつの間にか手にしていたペンのような何かを奔らせれば。
白紙の手帳に、大きくたどたどしい文字で、エルトリス、と書き入れて、むふー、と息を漏らした。
そんなアリスの様子を、ハッターは微笑ましげに眺めつつ、表情のわからないその顔を緩ませて、思いを馳せる。
――ハッターは、アリスの唯一無二の配下であり、彼女自身が認めている下僕だった。
アリスが今の姿を取る以前から、彼女の力に感服し、畏敬の念を抱いたハッターは彼女に絶対の忠誠を誓い、今日まで生きてきたのである。
あらゆる事象を、無邪気な子供のように捻じ曲げるその姿に。
いかなる強者をも、思うままに玩弄するその姿に。
……同格である筈の、六魔将でさえも戦うことを避ける、その在り方に。
ハッターはアリスに微塵も黒い感情を抱くことはなかった。
ただただ純粋に、アリスという存在に憧れて、心酔していた。
故に、今こうしてアリスが喜びはしゃいでいるその姿は、ハッターにとってはこの上なく好ましく。
「そうして喜んでいるアリス様を見るのは、何時ぶりでしょうか」
「ん……ふふ、ハッターは本当に私のこと、よく解ってるのね」
ハッターの言葉に、アリスは穏やかな笑みを浮かべながら。
彼の淹れた琥珀色の、暖かな飲み物に口をつけると、はふ、と小さく息を漏らした。
――そう、ハッターの言葉通り。
アリスがこうして素直に喜びを表し、心からはしゃぐのはとても、とても珍しい事で。
今までエルトリスと接触したそのどちらも、彼女は心から喜んでは居なかったのだ。
珍しい人間。
彼女なら、或いは自分の虚無を満たしてくれるのかもしれない。
ぽっかりと空いたままの、虚ろな空洞を、まだ自分さえも知らない何かで埋めてくれるのかもしれない。
それは、諦観にも近い希望だった。
自らを弱く、弱く貶めながら、いつか心の通じ会える友が欲しいと――いつか見た、あの暖かな光景が欲しいと願って。
あらゆる魔族のあらゆる行為を受け入れて尚――その行為を真似して尚、得られなかったものを、人間なら或いは、等という夢物語に近い希望。
自らに喰らいついた、殺そうと足掻いた魔族に望んだ力を与えた結果生まれたバンダースナッチを、矮小な身でありながら打ち砕いた彼女に、それを見たのだ。
無論。
それも、一度はやはり無駄だった、と彼女は心底がっかりしたのだが。
約束をして、気遣い、それでも逃れようとしたその少女は、結局自分に抵抗して。
ああ、だからいつもどおり、いつもどおりに永遠のお茶会で、せめて時折遊んでくれる友達にしようと、アリスは少女たちをその能力に封印し。
「……ねえ、ハッター」
――しかし、それでも尚、少女はまた彼女の前に、今度は自分から現れた。
それは、アリスにとって初めての経験だった。
相手から遊びに誘われたのも、提案されたのも。
そして、皆が恐怖ではなく、諦観でもなく、納得した上で自分と遊んでくれたのも。
それだけで、心に空いた虚ろな穴は、少なからず満たされたというのに。
「どうか致しましたか、アリス様」
「えっと……お友達を、誘うのってどうすればいいのかしら?」
だというのに、少女はアリスの心を理解した上で、言葉を口にした。
アリスならば指先一つで砂粒のような存在に変えて、すり潰してしまえそうな存在が、どんな奇跡なのか。
彼女が一番欲しかった言葉を、一片の哀れみもなく――ただ、そうしたいという理由だけで、口にしてくれたのだ。
もし、万に一つ。
その言葉に哀れみが、同情が――或いは邪な感情があったのであれば。
アリスは、少女を躊躇うこと無く、受精卵まで戻して自らの一部に変えてしまった事だろう。
そうしてこの世界の純粋な住民として生まれ変わらせて、その他大勢の友人の一人として扱った事だろう。
無論、多少の特別扱いはしたかもしれないが――
「そう、ですね。今はお別れをしたばかりですから、しばしの間、間を空けた方が宜しいかと」
「う……そ、そう?私、もうエルちゃんに会いたいなーって」
「……余り頻繁に顔を出しすぎると、疎ましがられてしまうかもしれませんよ?」
「――っ、が、我慢するっ!私、いくらでも我慢しちゃうわ!」
――こんな風に、有りもしなかった筈の好意を抱いたりなどは、しなかったかもしれない。
いつかは飽きて、友人であれど顔さえも思い出せないような、そんな存在になっていたのかもしれない。
だが、もうアリスにとってエルトリスという少女は、そんな存在ではなくなってしまっていた。
自らを満たしてくれた者。
自らに真っ直ぐな友愛を向けてくれた、かけがえのない弱者。
当然というべきか、自動的にエルトリスの仲間である彼女たちさえも、既にアリスの中では今までのその他大勢とは比べ物にならない程に、大きな物になっており。
だからだろう、ハッターのそんな窘めるような言葉にアリスは顔を赤らめながら、外見相応の少女のように、コクコクと頷いた。
「幾らでも、とまで行かずとも……そうですね、2~3日、或いは一週間に一度程が適当かと思います」
「解ったわ、ありがとうハッター♥」
ハッターの言葉に、アリスは無邪気に笑みを零すと、カップに入った液体を飲み干して、小さく息を漏らす。
……ハッターに向けられている感情は、エルトリス達へと向けられているそれとは大きく違っていた。
エルトリス達へと向けるその感情が愛情だとするのであれば、ハッターへと向けているその感情は信頼。
ハッターが自らに向けてくれている、これまた稀有な曇りなき忠誠に、アリスもまたハッターの事を曇り無く信頼しており。
「――心配しないで良いのよ、ハッター」
「アリス様?」
いらっしゃい、と。
アリスは穏やかな笑みを浮かべながら、そっとその両腕を開いたかと思えば――次の瞬間、ハッターはその両腕に包まれるように、抱かれていて。
「エルちゃんとは違うけれど。ハッターも、私にとっては特別だわ」
「……ぁ」
瞬きの間に、アリスよりも遥かに長身だった――紳士風の魔族だったはずのハッターは、アリスのその短い両腕に軽く抱かれてしまうような、黒髪の赤子の姿に変わっていた。
突然の浮遊感と、全身を包む柔らかな、暖かな感触に、ハッターは目を細めて。
「心配させちゃったわね。これからも、ずっと宜しくね、ハッター」
「……っ、あ……い」
仕えている主の、そんな慈母の如き暖かな言葉。
ハッターは彼女に仕えている事に、心からの幸せを感じながら、その穏やかな時間に身を委ねて。
――永遠のお茶会は。
その他大勢で満たされた平和な世界は、その日は何故か、いつもよりも暖かく――住民は一様に、悪役でさえも、穏やかな感情で満たされていた。




