23.片翼の小鳥はかく囀り②
諦めなさい、というクラリッサの言葉に、俺達は眉をひそめる。
まるで考えていなかったなかったわけではない。
クラリッサの心が既に折れていて、ここに残る事を決めている可能性は、たしかに頭の片隅にはあった。
……ただ。
「……良いのか、クラリッサ。お前には仕えるべき主が居るのだろう?」
あれほど、アルケミラという六魔将に傾倒し、忠誠を誓っていたクラリッサが、こうも早く諦めてしまうなんて。
それが信じられないのか、少し煽るようにアミラはクラリッサにそう口にするけれど……クラリッサは、小さく息を漏らすだけ。
「ええ、アルケミラ様にもうお仕えできないと思うと心苦しいわ」
「それならば、私達と一緒に――」
「……でも、無理なのよ。私達では、この世界から出る事は叶わないわ」
僅かな後悔を口にはしたものの、直ぐにクラリッサはそう言ってリリエルの言葉を遮った。
アルケミラへの忠誠が失われたわけではない。
ただ、それでもクラリッサはもう既に、この世界から出ることを諦めている。
――この世界から出ようとしている俺達と、諦めたクラリッサの差は、ただ一つ。
六魔将であるアリスの事を知らないか、知っているか、ただそれだけ。
つまりは、そういう事なのだろう。
クラリッサはアリスの事を知っているが故に、もう既にどうしようもないのだという諦観に囚われているのだ。
「やってみなきゃ、わからないでしょ」
「判るわ。私達では、アリスに打ち勝つ事なんて出来やしない」
「そんなの――」
「――アルケミラ様でさえ、戦うのは避ける相手なのよ。私達に何が出来るというの?」
俺の言葉にクラリッサはそう言って、自嘲するように笑う。
成程、クラリッサの言葉は確かに道理が通っている。
事実、俺達はアリスと遭遇した2度……いや、俺に限れば3度とも、戦いにさえならずに一方的に弄ばれた。
1度目は、声だけで。
2度目は、彼女が歩いているだけで。
3度目は、逃れることさえ叶わず。
まるでらくがき帳に書いてある絵を書き換えるように、或いは上から何かを書き足すように、いとも容易く俺達を変容させるアリスに、俺達は未だに何も出来てはいないのだ。
「それに……」
そして、クラリッサは俺達を軽く睨め回すようにすれば、少しだけためらうように。
「……貴女達に、問うわ。貴女達、自分が何なのかちゃんと口にできる?」
しかし、はっきりとそう言葉にすれば、クラリッサは留っていた小枝から飛び立つと、アリスのお家にひらり、と留まり直した。
……クラリッサの質問の意図が判らない。
でも多分、きっと意味のない事ではないのだろう。
「当たり前でしょ。わたしは、エルトリス」
「私はアミラ。当然だな」
「リリエルです。特に、何かおかしな所は無いと思いますが」
『……私もやるべきかの?ルシエラじゃ、何も変わろう筈もない』
『ワタツミ。こんな事に何か意味があるのかしら?』
当然のように、俺達は自分の名前を口にする。
当たり前だけれど、間違える筈もない。
悪役に名前を奪われた訳でもなければ、変えられた訳でもないのだ。
自分が何なのか、なんて答えられない訳がない。
「名前はまあ、そうでしょうね。じゃあ貴女達は何処の出身?」
だが、それでもクラリッサは問いかけを止めなかった。
一体コレに何の意味があるのかは判らなかったけれど、まあ良いだろう。
これがクラリッサの諦めた理由につながるというのであれば、答えない理由はない。
「――わたしはエルトリス。なかよしの町の出身よ」
「私は、妖精の住処だ。当たり前だが」
「私も、仲良しの町ですね」
『……おい待て、エルトリス。何を、言っておる』
『ちょっと、リリエル……?』
――当然のように口にしたその言葉に、しかしルシエラは、そしてワタツミは信じられない、といった表情を浮かべてみせた。
一体何がおかしいというのか。
俺は、なかよしの町でルシエラとずっと、一緒……に……?
「……っ、ちがう、なんで……え、あれ、なんで……っ!?」
「まだ、入りが浅いみたいね。でももう時間の問題だわ」
……違う、違う、違う!
違う、俺はそんな場所で生まれた訳でもなければ、この世界が出身なわけもない!!
本当に?
俺は――俺は、そう、この世界の外。
今の世界に、もう残ってるかも分からないような、掃き溜めのような場所で、生まれて――
――本当にそうなのかな。
それで、ルシエラは俺の相棒で、おかあさんで――違う、違う、違う……っ!!
ルシエラは、おかあさんじゃなかったっけ?
わたしの、おかあさんだった、ような。
「――……っ!!」
『お、おい、エルトリス!?』
――バチン、と両手で頬を叩く。
ぐにゃり、ぐにゃりと心の内側から湧き上がる、仲良しの町で生まれたわたしから上がるその声を掻き消せば、俺は荒々しく息を吐き出した。
「エルトリス、何を――」
「しっかりして、お姉ちゃん達!わたし達は、ここの人間じゃないッ!!」
「――え、あ」
そんな俺に、心配そうに声をかけてくるリリエルとアミラに、俺は声を荒げる。
ごくごく自然に。
当たり前のように受け入れていた、そう思っていたものを否定されれば、二人共表情を一気に青褪めさせて――しかし、正気に戻ったのか。
信じられない、と言った様子でクラリッサの方へと視線を向けた。
そんな俺達を見下ろしながら、クラリッサは少しだけ憐れむような――鳥だから、判らない筈なのに――表情を浮かべれば。
「解ったでしょう。この世界に居れば居るほど、私達はこの世界に馴染んでいく。やがて貴女は町のただの子供になるし、貴女は妖精の住処に住んでいる普通の妖精になるわ」
――そんな、恐ろしい言葉を口にした。
事実そうなのだろう。
俺はルシエラに指摘されなければ、クラリッサに問い掛けられなければ、当たり前のように自分のことをここで生まれた子供だと、受け入れていた。
この世界から脱出する、という考えは残っているというのに、この世界で生まれたと認識してしまっている、その齟齬にも気づかないほどに、自然に。
「……っ、だったら尚更、早くここから出なくちゃ」
「どうやって。アリスに戦いを挑むの?」
「それ……は」
判らない。
どうすればこの世界から出られるかなんて、判らない。
アリスを倒したなら、この世界がアリスの能力である以上、きっと俺達は外に出られるんだろうけど――でも、それは。
「忠告だけはしておくわ。アリスには、絶対に、勝てない」
……そう、クラリッサに言われるまでもなく、俺は痛いほどにそれを理解してしまっていた。
戦う、戦わないではなく。
俺達全員が一丸になって挑んだのだとしても、恐らくアリスはほんの少し絵筆を走らせたなら、その瞬間に全てが終わる。
そもそも、立っている地平そのものが違うのだと。
俺は3度のアリスとの遭遇で、痛感させられていたのだ。
「……だから、諦めなさい。アリスとは争うという事さえ出来ない。関わった時点でお終いな、災害のようなものなのよ」
諦める。
諦めたら、どうなる?
多分、俺はそう遠くない内に、ルシエラの事を相棒ではなく、魔剣ですらなく、お母さんとしか認識できなくなってしまうだろう。
そうなったら、俺はもうただの子供も同じだし――そうである事に、疑問さえ抱かなくなる。
想像するに恐ろしい、が――でも、それはきっとずっと穏やかで、平和で、暖かな日々。
それならいいんじゃないかな。
わたしは、ただの女の子で……おかあさんとずっと一緒に暮らせれば、それで――……
「――はっ」
「……?」
……内側から響く、そんな声に鼻で笑う。
穏やかで、平和で、暖かな日々。それはきっと、幸せなものなのかもしれない。
ああ、きっとルシエラやコイツらとそうして過ごすのは、平和で良いんだろう。
でも。
それに浸るのは、まだ早い。
「うん、まだやれる事もやってないんだもの。諦めるには、はやすぎるわ」
「……っ、聞いてなかったの?アルケミラ様でさえ――」
「わかってるよ。同じくらい強いお姉さんでも、戦わないんだよね」
苛立つように声を荒げたクラリッサに、思考を巡らせる。
六魔将同士が全て同格、という訳ではないのだろうけれど……そもそも、戦わないというのはどういう事なのか。
アリスの方が圧倒的に格上なのか、或いはもっと別の理由があるのか。
「やはり、無理だと解っていても戦ってみるべきじゃないか。何もしない内から諦めるのは、性に合わない」
「戦うにせよ、せめて何か取っ掛かりが有ればいいのですが……」
『少なくとも、今のまま挑んでも無意味じゃな。私とエルトリスでぶつかったとて、暖簾に腕押しにしかならなさそうじゃ』
『……私も、1度見ただけだけれど。今のリリエルじゃ荷が勝ちすぎてるわね』
「――何よ、何で諦めないの」
俺の言葉に、各々言葉を発し始めたのを見れば。
クラリッサは呆然とするように、そんな言葉を口にした。
……反応としては、きっとクラリッサの方が正しいんだろう。
クラリッサは自分が敬愛するアルケミラでさえ、アリスとは戦うのを避けると知っているのだ。
だから、端っから無理だという事を理解しているから、アリスに囚われた今、抵抗しようとさえ考えていない。
「……あ、れ?」
そこまで考えて、不意に、妙な違和感に気が付いた。
六魔将同士が必ず争い合うというわけではないのだろうけれど、アルケミラはアリスとの戦いを避ける、とクラリッサは言っていた。
それは、最初から?
それとも、アリスに敗けたからそうしたのか?
いや、少なくとも後者はありえない。
だって、その結果――いや、戦ってさえ居ないのだから敗けた、というのも癪だけれど――俺達はこの永遠のお茶会に囚われているのだ。
アルケミラがアリスに敗北したのならば、アルケミラは今頃この世界の住民となってしまっている筈だし。
『何じゃ、どうしたエルトリス?』
「もしかして……」
1度目は、アリスに声をかけられた。
2度目は、アリスと約束を交わした。
そして3度目は、 アリスはその約束を果たしにきた。
そして、この永遠のお茶会の在り方。
同じ六魔将であるアルケミラが戦いもせずに、戦いを避ける事にしたその理由。
「……ねえ、クラリッサお姉ちゃん」
「何、よ……?」
「アルケミラお姉さんは、戦いは避ける、って言ったんだよね?勝てないって言ってないよね?」
「え、それは……当たり前よ、アルケミラ様が勝てないなんて言う筈がないわ。言っていたのは、アリスとの戦いはしたくないとか、避けるとか、そういう事で」
――もしかしたら。
ふと浮かんだその考えが、確信を帯びる。
もしそうであるのなら、この世界の在り方にも納得がいく。
「一緒にいこう、クラリッサお姉ちゃん」
「っ、聞いてなかったの?無駄よ、アリスには――」
「大丈夫。アリスちゃんと、勝負を挑んだりなんてしないから」
「――え?」
俺の言葉に、クラリッサは首をひねる。
アミラやリリエル達もどういうことか判らなかったのか、不思議そうな顔をしていて。
『どういう事じゃ、エルトリス。諦めるでもない、勝負を挑むではないとは』
「ん……みんな、聞いて」
無論、俺の考えが正しいかどうかなんて、試してみなければ判らないのだけれど。
少なくとも勝負を挑み玉砕するよりは、遥かに勝算は高いと――少なくとも、俺はそう思っているその考えを、その場にいる全員に伝えれば。
アミラは、信じられないと言ったような。
リリエルは、俺の言葉を受け入れるような。
ルシエラは、俺のことを心配するような。
ワタツミは、心底呆れ返ったような。
――そして、クラリッサは何を言ってるんだこいつは、といった顔を浮かべながらも。
それ以上の考えが浮かばなかったのだろう、俺の言葉に異を唱える事はなかった。




