15.追い求めていた者
『――ほれ、これでも飲んでおけ』
リリエルを連れて小屋に戻った後。
リリエルは余程疲労していたのか、椅子に座り込めば、珍しく大きく息を吐き出して。
それを見かねたのか、ルシエラは少し呆れたような顔をすると、リリエルに茶を淹れて、差し出した。
「有難う、ございます。ルシエラ様」
「……大丈夫か、リリエル?」
『大丈夫じゃないわよ、別れた自分の魂を壊したんだから――まあ、時間が経てば回復するでしょうけど』
茶を一口飲んで、ほう、と一息ついたリリエルの代わりに、ワタツミが声を上げる。
魂を、分かたれた。
そう、リリエルは事実、自らの根幹と言える部分と上っ面――表層の部分を分割されて、第三者の手で森の中に押し込められていたのだ。
看板に書かれたあの文字はリリエルの物ではなく、しかし内容はリリエルの事を書いていたのだから、その第三者こそがリリエルをあのような目に合わせた手合に間違いないのだろう。
『アリスにやられたのかの?』
『違うわ、私達はアリスに対して無駄に抵抗とかしなかったもの。ただ――』
「……ワタツミ。そこから先は、私が」
『でも……ん』
疲弊している主の代わりに言葉を口にするワタツミを、リリエルはそっと制すれば。
それでも尚、ワタツミは少し心配そうな視線をリリエルに向けていたが――その視線の強さに敗けたのか、小さく頷いて。
リリエルは、そんなワタツミに少し笑みを零し、軽く頭をなでると……何かを思い浮かべたのか、その視線に殺意にも似た何かを宿した。
「――私が、ああなった理由は……この世界に居着いている、一人の魔族に敗北したから、です」
「魔族……って」
リリエルの言葉に、真っ先に思い浮かべたのは賭博兎の顔だったけれど、俺は直ぐにそれを頭を振って掻き消した。
賭博兎は――まあ、そういう事をしかねないような所は有るけれど。
でも、わざわざ自らのテリトリーではない場所に看板まで用意して、リリエルを閉じ込めるなんて手間をかけるとは到底思えなかった。
つまり、賭博兎とはまた別の悪役が、この世界にはいるという事なのだろう。
……ただ、リリエルの瞳に宿るものは、それが決してただの悪役ではない事を告げていた。
リリエルは敗北は敗北として、真っ直ぐに見つめられる人間だ。
敗けたから悔しいと思ったとしても、それは自分に原因が有るのだから、と反省して次に活かせる、そういうタイプだった筈だ。
そのリリエルが、打ち負かされてしまった相手に対して、明確な殺意と敵意を露わにしている。
それは明らかに異常な事で――そして、リリエルがそうなる理由にはたった一つだけ、心当たりがあった。
「……まさか」
俺の呟きに、リリエルはその瞳に宿したどす黒いモノを僅かに収めると、唇を噛みしめるようにしながら、小さく頷いて。
「は、い。カエル面をした、細身の魔族――アヌーラ、と名乗っていましたが。私は……仇に、敗けたのです」
『あんなの敗けたなんて言わないわ!あんな、戦いすらせずに――』
「……ワタツミ。結果として、ああなってしまったのですから」
それ以上は言わないで、と。
リリエルは俺に今まで見せた事が無いほどに口惜しそうな表情を見せながら、ワタツミの言葉を制した。
……成程、比較的冷静な筈のリリエルが、どうしてあんな事になってしまったのか、と思ったけれど。
相手が、リリエルが俺に同行する理由でもある家族の仇だと言うのであれば、何となくだが納得できてしまった。
リリエルの行動理念とさえ言える復讐の相手が、唐突に目の前に湧いて出たのだ。
冷静で居ろ、なんていう方が酷だろう。
リリエルは疲弊を収め、仇のことを思い浮かべて――それに敗北してしまった事を思い出して、荒れ狂いそうになっている心を収めるように深呼吸をすれば。
真っ直ぐに、俺の――そして、ルシエラの、アミラの顔を見ながら、深々と頭を下げる。
「……差し出がましい願い、というのは判って、います」
「うん、別にいいよ」
――続く言葉は、判っている。
だから、リリエルが全てを口にするよりも早く、俺は二つ返事で軽く、そう返した。
「え」
「アヌーラ、だったか。ただならぬ相手なのだろう、手伝うさ」
「ですが、その」
アミラまで軽く、いつものように返せば、リリエルの表情に戸惑いが浮かぶ。
恐らくは、難色を示されると思っていたのだろう。
まあ、確かに――今俺達がやるべきなのは、この世界から脱出することではあるけれど。
どの道、最後の一人であるクラリッサの居所は既に判っているのだし、何よりいる場所が場所なのだから、後に回してもまあ問題はないだろう。
『何じゃ、リリエル。エルトリスが言っていた事を忘れたのか、お前らしくもない』
「……エルトリス、様が?」
「ん、もう。リリエルを買った時に……後だったっけ。ちゃんと、言ったでしょ?」
全く。
あんなにはっきりと口にした事なんだから、忘れないで欲しい。
確かにリリエルを買ったのは俺で、リリエルは俺の下僕ではあるけれど。
「ちゃんと、私の邪魔にならない程度なら、お手伝いするよって言ったでしょ?」
「――……」
俺は、口でとは言えど約束した事は守るクチなのだ。
未だにこの世界から脱出する糸口も掴めていない状況なのだし、リリエルの仇を優先するのは、そんなにおかしい事ではないだろうに。
だと言うのに、リリエルはぽかん、とした表情を浮かべれば――
「……ふふ、そうでした、ね」
――まるで、ほころぶような。
今までリリエルが浮かべてきた中で、一番自然で柔らかな笑みを浮かべつつ、ふぅ、と小さく息を吐き出した。
「それでは……お願いします、エルトリス様、ルシエラ様、アミラ様……それに、ワタツミ。私の復讐に、手を貸して下さい」
「うん、もちろん。でも、しっかり休んでからね?」
「今の私で、どの程度の助けになれるかは分からないが。仲間だろう、水臭い」
『どうせ残りはあの鳥娘だけだからの。アレよりはリリエルを優先しても良かろう』
『私だって、あれで敗けなんて納得行ってないんだから。次は絶対に氷漬けにして、粉々にしてやるわ……っ』
リリエルの言葉に、俺達は軽くそう返せば。
疲労が取れるまでの間、そのアヌーラというカエル面の魔族がどういう手合だったのかを、リリエルはゆっくりと……時折口惜しそうに、語り始めた。
――リリエル達が、アヌーラの事を知ったのは俺達と逸れてから少し後の事。
アリスにこれ以上真っ向から抵抗するのは危険だと理解したリリエルは、逸るワタツミを抑え込みながら、俺達と合流するまでは耐え忍ぶ事を選択し、静かにこの世界で生活を続けていた、のだが。
そんな折、町中でとある魔族の話を――この平和で満ちた世界の中で悪行を働く特異な存在の話を、耳にしたらしい。
始めはこの世界から脱出する糸口になるかと耳を傾けていたリリエルは、その魔族の特徴を聞いて思考が停止した。
その魔族の特徴は、正しくリリエルの家族を玩弄するように殺した魔族と、酷似していたのだ。
リリエルも最初は随分と思い悩んだらしいが、結果として復讐を敢行する事にして、ワタツミを手にその魔族、アヌーラの元へと向かい――
『――そして、返り討ちにあった、と』
『あんなの返り討ちとも言わないわ!私達は、あのクソ魔族と戦ってすら居ないのよ!?』
「……ワタツミの言う通り、私達はアヌーラと戦うことすら叶いませんでした。アヌーラは、決して強い魔族では有りません……戦うことさえできたなら、勝算はあると踏んでいたのですが」
――そう語るリリエルの表情は、本当に口惜しそうだった。
賭博兎を相手にした後だからこそ分かる。
この世界において悪役とされているのなら、自称ですらなく他者からそう吹聴される程だというのであれば、それだけこの世界を逆手に取る事に長けているのだ。
例え、本人の実力がさしたるモノではなかったとしても、この世界を上手に悪用できるのであれば、それだけでこの世界においては強者足り得る。
アヌーラは、紛れもなくこの世界においては強者なのだろう。
『しかし、戦うことすら……というのが分からんのう。どういう事じゃ?』
「……アヌーラが私達の前に顔を出したのは、最初の僅かな時間のみ。その直後、私とワタツミは突然現れた迷宮に閉じ込められてしまったのです」
「迷宮?」
首をかしげるアミラに、リリエルは小さく頷きながらお茶を口にして、小さく息を漏らし。
「――恐らく、あれこそがあのアヌーラの能力なのでしょう。アリスのこの世界とは比較にならない程に、矮小で……本来ならば、取るに足らない力だったの、ですが」
「迷宮を作り出す、能力……でいいのか?」
『いいえ、違うわ。作り出すんじゃなくて、なるのよ』
――ワタツミの言葉に、不意に、嫌なモノを感じた。
作り出す、ではなく、なる。
迷宮になる、能力……という事は、それは、つまり。
「迷宮となった自身に、対象を幽閉する能力。本来ならば、内側から破ればそれで終わりなだけの、力でしたが」
「……なる、ほど。うん、わかった」
普通の人間ならばそれだけで――魔族の体内に幽閉されるというだけで、絶望的な能力ではあるのだろうけれど。
ルシエラを持つ俺や、マロウトを持つアミラ――そして今ならば、ワタツミを持つリリエルであれば、決して打破できない物ではない。
だが、ことこの世界においては――他者を傷つける事が、基本許されていないこの世界においては、その能力はあまりにも厄介すぎた。
内側から破る事が許されない迷宮。
アヌーラ自身の能力によるもの――しかも自らの体内で行うものというのであれば、その内容は恐らくはアヌーラの自由自在なのだろう。
そして、賭博兎の一件を考えるのであれば、その能力の発動を止めることさえ叶わない。
俺はあの時、不意打ちに近い形で賭博兎の元に引きずり込まれたけれど、賭博兎にはまるで制裁は与えられていなかったのだから。
『これは……成程、のう。つまり、相手のその能力を真っ向から、力技抜きで破らねばならんのか』
「……はい。私達は、迷宮の半ばで力尽きてしまい……敗けた対価として、あのような事に」
『真っ向から切り伏せられるなら、今のリリエルだって絶対に敗けないのに……ああ、思い出すだけで腹が立つわ、溶けてしまいそう――ッ』
……これは、難題だ。
俺達の力が必要だ、とリリエルが頼み込むのだって頷ける。
必要なのは、この世界のルールを逆手に取る知恵。
俺達だけでこの無理難題を通せるのか、頭が煮え立ちそうになるが――まあ、約束した手前仕方ない。
「……それを知ってる、ってだけでぜんぜん違うだろうから。うん、頑張ろう、リリエルお姉ちゃんっ」
「有難うございます、エルトリス様――」
俺の言葉に、リリエルは淡く笑みを零しながら。
俺達は、リリエルの仇――アヌーラへの対策を、考える限り纏める事にした。




