14.気狂いエルフは、溺れながら④
小さく息を漏らし、身体に残る解けたキノコの残滓を軽く払う。
見れば、森の中で不気味に光っていたキノコは次々にどろり、どろりと溶け落ちていって――中から、誰とも知らない人間や魔族たちが溢れだしていた。
おそらく、あのリリエルもどきは力を簒奪した後に、力を失った者を無様な――大きなキノコの姿に、変えていたのだろう。
俺もあと一歩でそうなる所だったと思うと、ゾッとする。
まあ、あんな子供だましにあっさりと引っかかってくれた辺り、正直言って賭博兎の方がよっぽど難敵だったとは思うが。
『さて……どうなるかのう』
「ん」
俺の隣に腰掛けて、軽く抱き寄せてきたルシエラに、視線を向ける。
リリエルもどきに触れられたのが余程嫌だったのか、その感触を消すように、ルシエラは俺の身体をぎゅうっと抱きしめてきて。
俺は少し苦笑しつつも、そうだな、と小さく言葉を返しながら――ルシエラの視線の先に有るものを、見た。
――そこに有るのは、分厚い氷に覆われたリリエルの氷像。
背中からは異形の腕を生やし、力を誇示するような武器を持ったその姿は、最早人と呼べる物ではなく。
背中から深々と突き刺さっているワタツミの刃は、既にリリエルを絶命させているようにも見えた。
が、まあ、そういう訳ではないのだという事くらいは分かる。
今この時、リリエルは恐らく、リリエルもどきと戦っている真っ最中なのだ。
「――まあ、リリエルお姉ちゃんなら多分大丈夫でしょ」
『……それもそうだの、心配するだけ無駄か』
俺は、ルシエラにそんな楽観的な言葉を返しながら、ふぁ、と小さく欠伸をすれば。
ルシエラはそんな俺に苦笑しつつ、その柔らかな身体で、むぎゅう、と。
俺を包むように、まるで大きなぬいぐるみでも抱くかのように、抱きしめてきた。
……こいつ、そんなにリリエルもどきに握られたのが嫌だったのか。
俺はそんなルシエラの様子を、ほんの少し微笑ましく思いつつ……俺を抱くその腕を、軽く握り返した。
一方、凍りついたリリエルの内面。
ワタツミへと逃れていたリリエルの魂と、リリエルの肉体に残っていた残滓はその主導権を奪い合うかのように、互いに刃を向け合っていた。
目的と、手段。
乖離してしまったその2つは決して相容れる事はなく、そして同じ元から分かたれた物であるがゆえに、その姿も寸分も違わず。
――ただ、その手にしている獲物だけは、まるで違っていた。
方や、肉体に残っていた残滓が握っている物は……その背から生やした、執着と妄執の現れのような無数の腕に握られている物は、今まで森で簒奪してきた力そのもので。
方や、ワタツミに辛うじて逃れたリリエルが握っているものは、白く、薄い刃一振りのみ。
「――惨めですね、その程度の力しかないなんて!」
「……っ、ふ、ぅ」
残滓の振るう力は、多岐に渡っていた。
剣、槍、斧、弓、爪、牙――武器に限らず、肉体の部位すら奪ってきたのだろう。
多種多様な攻撃を前に、リリエルはその身体を揺らし、翻し、既の所でその攻撃を躱し続けて。
「私の力の前に、貴女は――私は、手も足も出ない!ふふふっ、あはははははっ、何て惨め。私が何年も培ってきた力なんて、この前では何の意味も無い!!」
自嘲するようなその言葉に、リリエルは僅かに眉を潜める。
事実、残滓の振るうその力は圧倒的といっても良かった。
無論、エルトリスには遠く及ぶものではなかったが、無数の奪ってきた力を用いた暴力は、単純でありながら強力で。
辛うじて回避し続けていたリリエルの体にも、徐々に傷が刻まれ始めれば、その額には薄く汗が滲んでいく。
そんなリリエルを見て、残滓は自嘲的に笑みを浮かべながら。
唐突に攻撃の手を緩めると、そっとその――武器を握っていない、自らの手をリリエルへと差し伸べた。
「いい加減理解したらどうですか?私も共に行きましょう、そうすればこの力は貴女の――」
「――一つ、問います」
手を差し伸べられながら、勝ち誇ったかのように告げられた言葉に、リリエルはいつものように淡々と、冷たく言葉を紡ぐ。
その様子が気に食わなかったのか、残滓は眉を顰める――が、それでも自分の優位は揺るがない、と。
攻撃の手を止めれば、呼吸を荒くしているリリエルを見下すように、視線を向けて。
「何ですか、私。私は無駄な事が嫌いなのですが」
「聞きたいのは、一つだけです。貴女は、何故力を求めているのですか」
リリエルの、単純で――しかし、至極真剣な声色で紡がれた問いかけに、残滓は目を丸くした。
まさか、そんな事を言われるとは思っても居なかったのか。
残滓はほんの一瞬、僅かに考えるようにしてから――
「――当然でしょう。圧倒的な力を振るうのは、心地良いからです」
――酔いしれるように。
どこか恍惚とした表情で、甘く息を吐きながら、そう返した。
「そうでしょう?圧倒的な力をもって他者を見下し、蹂躙するのはこの上なく楽しいのですから――貴女だって、理解できるはずです」
「……そう、ですか」
うっとりとした表情を浮かべたまま、続けて吐き出された言葉にリリエルは、感情無くそう返せば、手に握っていた白刃を鞘に収める。
戦いを止めた、という訳ではない。
むしろ、今までは冷ややかであったその殺意は熱を帯び、明確な意思となって残滓へと叩きつけられて。
「……っ、ふ、ふふふっ。そうですか、分かりました。では貴女はここで消えなさい、無力な貴女など、何の価値も無いのですから――!!」
「貴女がリリエルを名乗るのであれば」
その、熱波にも似た眼光に気圧されたのか。
残滓は声を微かに震わせつつも、再びその背にある無数の腕を蠢かせれば、手にした力を振るい、今度こそリリエルを蹂躙して滅ぼさんと、気炎を吐いた。
それに対するリリエルの声は、凄まじい殺気とは裏腹に、とてもとても、冷ややかで。
「その理由は、決してそんな、快楽のためであってはならなかった」
振り下ろされる刃を、爪を、ゆるりとした動きで躱す。
――それは、ワタツミを手に入れてからアマツを発つまでの間、アルカンに頼んで教えてもらった技法。
相手の動きを冷静に予測し、最小限の動きで躱す、アルカンの教えにおいて基礎中の基礎。
アルカンの弟子であるオルカとメネスが、当然のように使っているそれを、リリエルはまだ完全には会得できてはいなかった。
それでも、相手が他ならぬ自分であればこそ――自分の拙い部分であればこそ、その技法は問題なく効果を発揮する。
振り下ろされた力は地面に叩きつけられ、その反動で僅かに残滓の動きが鈍り――代わりに、リリエルはその鞘に収めたワタツミを緩く、握りしめ。
「私が力を求めるのは。ただ、アレへの復讐の為だけ」
「……っ、この――っ!!」
それでも尚、残っていた腕を使って残滓は手にしていた斧を、槍をリリエルに向けて叩きつける。
『……みっともない。私を捨てて、手に入れた力がそんなもの?』
「なっ、あ……っ!?」
――その振るわれた力は、詠唱さえ無く地面から生み出された氷の刃に、滑るように捌かれて。
ワタツミのその呆れたような言葉に、残滓は目を見開いた。
それは、リリエルがメネス相手に行った既存の定形に当てはまらない魔法。
それを、ワタツミが軽く補助する事で負担を軽減し、更には生成する速度さえ上げたモノ。
残滓は、今度こそ完全な隙を晒しながら――ひっ、と、短く声を漏らした。
「――それを忘れた貴女は、私では断じてありません」
「ま――っ」
待って、というつもりだったのか。
鞘から抜き放たれた白刃は、アルカンには遠く及ばぬ遅さで、しかしその残滓の首を捉えれば――するり、とその頭が地面に落ちて、砕け散った。
傷口から血が流れる事さえ無く、血液から骨に至るまで、全てが凍りついたのだろう。
背中から伸びた無数の腕も、それが手にしていた力も、脆く、脆く砕け散って――……
「……ふ、ぅ」
『流石はリリエルね。とは言っても……もうちょっとちゃんと刀を振れるようになさい。せめて、アルカンの弟子程度にはならないと宝の持ち腐れだわ』
「判っています、ワタツミ。まだまだですね、私は」
……小さく息を漏らしながら。
攻撃を見切るまで、攻撃に転じるまでにかかった傷と時間を思い、リリエルはそう呟くとワタツミを鞘に収めた。
自分自身を殺した――砕いたというのに、リリエルの表情に陰りはなく。
自らの目標の為であれば、何事も躊躇わないであろう主のその姿を、ワタツミは頼もしく、空恐ろしく感じながら――……
――リリエルを覆っていた、分厚い氷が砕け散る。
背中に深々と突き刺さっていたワタツミはするりと、まるですり抜けるように地面に落ちて、リリエルの背中から生えていた腕は煙のように消えていき。
「おつかれさま、リリエルお姉ちゃん」
「――苦労をかけました。感謝いたします、エルトリス様、ルシエラ様」
当然のようにリリエルに声をかければ、リリエルも当然のように――いつものように無表情で、しかし口元だけはほんの少し緩めた笑みを見せながら、深々と頭を下げてきた。
これで、リリエルの事は一安心……と、いいたい所なんだが。
実際は、まだこれで半分って所なんだろう、きっと。
『リリエル。どうしてあんな事になっておったのか、聞かせてもらっても良いか?』
「畏まりました、ルシエラ様――……っ」
『……っ、ちょっと、少しはリリエルを休ませなさい。気の利かない年寄りね』
ルシエラの問いかけに応えようとして、蹌踉めいたリリエルを白い少女――ワタツミが、既の所で支えながらそう言えば。
ルシエラは、ピキ、と額に軽く青筋を浮かべて――……
「――っ、エルトリス、ルシエラ、無事だったか……っ」
『……ちっ。アミラに救われたの』
『ふんだ。どうせここじゃ争い事厳禁なのに、何を言ってるんだか』
……遠くから聞こえてきたアミラの声に矛を収めたルシエラは、少しだけ不機嫌そうに、俺のことを抱き上げてきた。
アミラが無事だった事と、ちょうどいいタイミングで来てくれた事に感謝しつつ、俺は安堵の息を漏らし。
「――それじゃ、一度お家に帰りましょ?お話なら、ゆっくりしなきゃ」
無表情ながらも疲弊を隠せていないリリエルを少し休ませようと、そう提案すれば。
流石にルシエラも、ワタツミもいがみ合う事もなく――文字通り飛んできたアミラを胸元に座らせると、俺達は一旦家に戻る事にした。
――さて。
一体どんな悪役が、リリエルをこんな状況に陥れたのか。
少し嫌な予感を、悪寒を感じながら、俺はルシエラに抱かれ、家路に着いた。




