8.魔弓の妖精、アミラ
ふわり、ふわりと穴の中を上へ、上へと落下していく奇妙な感覚。
既に眼下に有ったはずのあの部屋は見ることも出来ず、俺はルシエラに軽く抱かれるようにされたまま、小さく息を漏らした。
『……これに懲りたら、単独行動は止めるんじゃぞ』
「ん……でも、その。安全だって、思ってたから」
『ここは奴の腹の中じゃぞ。安全でなど有る訳が無かろうに』
俺の言葉に、ルシエラは苦笑しながらそう返す。
……ルシエラの言葉はもっともだ。
形容することさえ出来ない――未だにその能力の正体さえも掴めていない、六魔将アリス。
俺達が居るのは、そのアリスの能力の正に内側なのだから、安全と考える事自体が本来間違っているのだろう。
「……う、ん。ごめんね、ルシエラ」
『何、結果としてはマロウトも取り戻せたし上々じゃろう。次から気を付けてくれれば、それで良い』
ルシエラに軽く抱きしめられながら。
それでも、俺は奇妙なことに――これさえも、アリスの能力の範疇なのかも知れないが――この世界が安全なのだろうという感覚を、捨てきれずにいた。
我ながら、どうかしている。
賭博兎との遊び……いや、一戦は、有る種殺し合いよりも悪辣な何かだったというのに。
そうして、暗い暗い穴の中を上に、上に。
最初よりも少し長く感じるくらいに、落ち続ければ――不意に、視界が開いた。
「わ……っ!?」
『っと、と……全く、つくづく珍妙な』
――気づけば、俺とルシエラは花畑の真上。
穴から抜けた筈だというのに、建物の二階程度はあるであろう程の高さに放り出されていた。
突然の浮遊感に俺もルシエラも声を上げつつ、眼下に視線を向ける。
そこには、一面の花畑が広がっているばかりで、穴なんてどこにも見当たらず――
「……ルシエラ、ちょっと離れた所に着地、出来る?」
『うむ、私もそうしようと思ってた所じゃ』
一見ただの花畑に見えるその場所も、今の俺達には落とし穴にしか見えず。
ルシエラは空中に自分の一部を……円盤を作り出せば、トン、と軽く蹴って少し離れた場所に着地した。
俺一人ではろくに見渡す事も出来なかった花畑も、こうしてルシエラの視点から見れば、綺麗なもので。
賭博兎との一戦で少し疲れた頭も、ほんの僅かに休まるのを感じながら……ルシエラは、俺を胸元に抱きかかえたまま、歩き始めた。
「……ん」
『一人で、よく頑張ったの。少し休んでおれ』
「う、ん」
まるで子供のように抱っこされてしまえば、顔は熱くなるけれど。
優しいルシエラの声色に、言葉に、甘い香りに俺は心地よさを感じながら、小さく息を漏らす。
……与えられた役割に飲まれてやしないかと、少しだけ不安になるけれど。
それでも、この安らぎにはどうにも逆らうことは出来なかった。
そうして、ルシエラの腕の中で少し休んだ後。
妖精の住処へと戻った俺達は、先程とは少しだけ妖精たちの様子が違っている事に気が付いた。
何やら騒がしいというか、嬉しそうと言うか。
よくよく見れば、妖精たちは何やら一点に集まっているようで――余程の数の妖精がいるのだろう。
湖畔の一角が何やら巨大な光体のようになっており、わーわーきゃーきゃーと、楽しそうな声がそこから響いていた。
「よかったね、よかったね!」
「元気になったんだね、あそぼ、あそぼ!!」
「お祝いしなきゃね!」
「ま――まってくれ、ありがとう、だが――」
『……どうやら、戻ったようだの』
「……うんっ」
喜びや祝う声に混じって聞こえてくる、戸惑いの声。
聞き覚えのあるその声、そしてその調子に俺とルシエラは顔を見合わせれば、笑みを零して。
俺はルシエラの腕から降りれば、不思議と早くなる足取りに転ばないように気を付けつつ、だぷっ、ばるんっ、と揺れる胸元にバランスを崩さないようにして、その妖精だかりへと向かった。
「――っ、あ……!え、エルトリス、ルシエラ、た、助けてくれ……っ!!」
――妖精だかりの、その中央。
小さな体はそのままに、あの泣き虫だった姿はどこへやら。
すっかり元の調子に戻った――背中に小さな小さな、小枝のようなマロウトを携えたアミラが、困った様子で俺達に助けを求めていて。
「……ぷっ」
『く……くくっ、あははははっ、何じゃそれは!あはははっ!』
「わ、笑ってないで助けてくれ、もう……っ!!」
それもその筈、アミラは妖精たちに囲まれながら、それはもう手厚いもてなしを受けていたのだ。
髪の毛は可愛らしく結われ、妖精がやったのだろう、お世辞にも上手とは言えない化粧を施され。
埋もれてしまうほどの花や木の実といった贈り物を受けて、身動きも取れずにいるアミラは可笑しくて、可愛らしくて。
思わず笑ってしまった俺とルシエラに、アミラは顔を真っ赤に染めながら、今度は別の意味で目尻に涙を浮かべていた。
「……は、ぁ」
――その後も、妖精たちが元気になったアミラを見舞い、もてなし、可愛がるのは小一時間程続き。
その余りの勢いと善意、そして見ていて面白かったのも有って、俺達も止めるに止められず。
すっかり疲れ切った様子で、背中の羽をしんなりとさせたアミラは、切り株の上に腰掛けながら俺達を見上げていた。
「……でも良かった、アミラお姉ちゃんが元に戻って」
「元に……いや、まあそうだな。さっきまでの私は本当に、どうかしていたものな」
『何じゃ、覚えておるのか?』
ルシエラの言葉に、アミラは小さく頷きながら小さく息を漏らす。
その顔は、見る見る内に赤く染まって……まあ、うん、それはそうだろう。
俺だってもし、あんな醜態を晒して、正気に戻って――醜態を晒した時の記憶がしっかりと残っていたのなら、悶絶するだろうし。
「……賭博兎とやらに、負けに負けてな。知力、技、それに魔力――そしてマロウトまで、全部持っていかれたんだ」
『よくそこまでやったもんだのう。何を賭けておったんじゃ?』
「それはまあ、エルトリス達の居場所を……だが、ああ、実に悪辣だった、あの兎は」
思い返して腹が煮えくり返っているのか、アミラは軽く頭を掻きながら息を吐き出して、肩を落とした。
……俺から見ても、アミラはそういう賭け事や遊びには弱いように見えるし。
口にしていた順に奪われてしまったのなら、恐らく引き際を考える思考力さえもなくしていたのだろう。
結果として、自分では何も出来ず、泣くばかりの泣き虫妖精にされてしまったアミラは、ここで延々泣き続ける事になっていたのだ。
まあ、何がともあれ元の調子に戻ってくれてよかった。
「良かったね、アミラお姉ちゃんっ」
「……」
しかし俺がそう、素直に口にすれば……アミラは何故か、どこかキョトンとした様子で、俺の顔を見上げていた。
不思議そうな、或いは奇妙なものを見ているような、そんな表情。
「……エルトリス」
「なぁに、アミラお姉ちゃん」
「どうしたんだ、その……いや、まあ、可愛いが」
「え――」
――そして。
この世界に閉じ込められてからの生活で、すっかり慣れて――いや、恥ずかしくは有るけれど――しまっていたこの口調は、まだアミラやリリエル、それにクラリッサには聞かせた事が無かった事を、今になって思い出した。
「――っ、ち、ちがっ、ちがうのっ!えっとね、わたしね……っ!!」
「あ、ああ、別に変というわけじゃないんだ。可愛いし良いと思うぞ、エルトリス」
「違うんだってばぁっ!!ルシエラ、何かいってよぅ……っ!!」
『ぷ……っ、くく、エルちゃんは可愛さに目覚めてしまったからのう♥』
「~~~~……っ!!!!」
結局。
その後、すっかり誤解しているアミラに必死になって、懸命に説明をしつつ。
最終的に、ようやくからかうのを止めたルシエラの説明で、アミラは納得したのか。
同じように、役柄に落とし込められた俺に同情してはくれたものの――
「――まあ、ほら、似合っているんだから良いじゃないか」
「うぅ……っ、バカ、そういう問題じゃないもん……」
――しばらくの間続いたアミラの善意のフォローに、俺は終始、顔を熱くしっぱなしだった。




