3.妖精のすみか
あっという間にこの世界に馴染まされてしまった魔族たちを見てから、しばらく。
町並みから遠ざかり、花畑のようになっている町の外側を少し歩けば、やがてその花々の中央に木造りの看板が見えてきた。
人々が歩いているからか、或いはアリスの意匠なのか。
その看板が指し示す方向は、綺麗に花畑が途切れて道になっており――その先には、薄ぼんやりとだけれど、何かがあるという事だけは視認できた。
何が有るのかは見えないのに、何かが有るのが分かるという奇妙な感覚。
まあ、この世界自体色々と大雑把な作りをしているのだから、そういう事もあるんだろう。
そんな事を考えつつ、ルシエラとともにその看板の前に立てば。
「――え、っと」
――そこに書いてある文字を見て、何が書いてあるか分かるのに、直ぐに口に出す事ができなかった。
書いてあるのは、妖精の住処、仲良しの町、キノコの森、カラクリ世界――そして、アリスのお家。
書いてある文字は理解できる、出来るのに――直ぐに、その理解を何かに塗りつぶされる。
『ようせいのすみか、なかよしのまち、キノコのもり、カラクリせかい、アリスのおうち、じゃな』
「……っ、い、言われなくたって解ってるもん!!」
ルシエラにそう口にされて、ようやく俺は目の前の文字と読み方の認識が一致した。
……でも、それもほんの一時の事。
解ってる、と口にした傍から、再び目の前の文字が本当にそうだったか、どうだったか滲んで、判らなくなって。
■■の■■、■■しの■、キノコの■、カラクリ■■、アリスのお■――ほんの少しでも難しい、そんな文字を俺は認識できなくなっていた。
いや、認識できていない訳ではないのだろう。ただ、読めなくなっていた、というだけで。
『……恥じることはないぞ、エルちゃん。この世界のルール、というだけじゃ』
「う、うぅ……っ」
優しく、ルシエラに窘められてしまえば、恥ずかしくて仕方なくて、顔が熱くなってしまう。
読めて当然の文字が読めなくなる、分からなくなる――それは、まるで本当に子供にでもなってしまったかのようで。
耳からきく言葉自体は今まで通りに理解できているのが、唯一無二の救いでは有ったものの――
「……っ、いこう、ルシエラ。さっさと、元に戻るんだから……っ!」
『そうだの、全員引っ叩いて正気に戻して、あの小娘に元に戻してもらわねばな』
――頭をぶんぶん、と左右に振って髪を揺らせば、俺は妖精の住処の方角へと歩き出した。
ルシエラと手を繋ぎつつ……手のひらに感じるルシエラの体温と、ルシエラのその手の大きさに、羞恥と焦り、それにほんの少しの恐怖でささくれだった心は少なからず収まって。
『しかし……これが、正しい情報なら良いんじゃが』
「食べ物屋さんのおじちゃんのだけど、多分大丈夫だと……思う、多分」
ルシエラの言葉にまた、ほんの少しだけ不安になってしまう。
もし間違っていたら?もし罠だったら?そう思うとどうしても不安を拭いきれないけれど――でも、信じる他ない。
少なくとも、俺達が自分の足でこの世界を調べようなんて考えたら、それこそ何ヶ月――いや、何年かかるかも判らないのだから。
食べ物屋の狼魔族は、この世界でも相当な古株らしく、独自の情報網を築いて情報屋の真似事を行っていた。
とは言っても商売ではなく、永久に平穏が崩れそうにないこの世界での暇つぶしとしてやっているらしいのだが……それは、置いておいて。
その狼魔族はあからさまに人間である俺やルシエラにも友好的で、ほぼ同時にこの世界に来たであろうリリエル、アミラ、クラリッサの情報を軽く調べれば、ほんの数日程度で三人らしい存在を突き止めてみせた。
対価さえも要求せずに、狼魔族は俺達に情報を提供してくれたのだが――
『……対価も要らない、という辺りが怪しすぎてのう』
――ルシエラの言う通り、外の世界でそうだったのならば、俺だってその情報を鵜呑みにはしなかったと思う。
対価がない、ということはその情報に対する矜持も無ければ精度も無い、という事が多いからだ。
何ももらわないのなら、自己満足程度の物で構わないだろうというごくごく当然の心理。
それを、あの情報屋も抱いているはずだ、と。
「多分、だけど。あのおじちゃんは、大丈夫だと思う」
『ふ、む?』
でも、ことこの世界においてはその事情が少しだけ変わる。
この世界の住民は、須らくアリスの能力に取り込まれた被害者であり、有る種の仲間でもあるのだ。
だからこそ、この世界に長く居る者ほど人間や魔族に対しての――とはいっても、この世界にいる住民に対しては、だが――偏見や敵意という物は薄れていて。
同時に、誰かにこの状況を打開して欲しいと、そう願っているのでは無いだろうか。
「……とにかくっ。さっさとアミラおねえちゃんを、助けにいこっ」
『そうだの、先ずは何にせよそれからじゃな――この泣き虫妖精とやらがアミラであれば良いんじゃが』
そんな事を考えながら、ルシエラの手を軽く引いて、歩く。
最初は朧げで、何があるかも見えなかった道の先に段々と色とりどりの明かりが灯りだして……俺は、自然と歩みを早めてしまい。
「――わ、ぁ」
『ほう、これはなかなか綺麗だのう』
――そうして、数分程度歩いた後。
目の前に広がる幻想的な光景に、俺は思わず声をあげてしまった。
基本花より団子なルシエラも、目の前の光景には見惚れたのか、小さく頷きながら視線を彷徨わせる。
赤や黄色、緑に青。
色とりどりの発光体がふわりふわりと空を飛ぶ、周囲に花々が咲き乱れた湖畔。
よく見れば、その発光体は俺の手のひらの上にも乗れそうな程に小さな人型の何か、で。
「――あらこんにちは、可愛らしいお客様」
そのうちの一つが、ふわふわと飛んでくれば。
俺と視線を合わせるようにしながら、にっこりと微笑んだ。
容姿でいうのであれば、エルフが近いだろうか。
背中に生えた蝶のような羽をパタパタと羽撃かせる様は愛らしく。
「えっと、人を探しにきたんですけど」
「人……ああ、ここに来たのだから妖精かしら。どんな子?」
『そうじゃな……あー……泣き虫な妖精はおるかの?』
「泣き虫……ああ、それなら一人。珍しい子だし、多分間違いないわね」
俺とルシエラの言葉に、少しだけ悩んでからそう口にすれば、俺達を軽く先導するようにふわふわと目の前を飛んでいった。
俺の足に合わせてくれているのか、妖精はゆっくり、ゆっくりと湖畔を回るように飛んでいって。
「あら、可愛いお客さん!」
「一緒に遊びましょ、おじょうさんっ」
「たのしいよーっ」
その間に、何度も何度も――色とりどりの妖精達から、声をかけられながら。
その度についつい視線を彷徨わせ、妖精たちの言葉に反応してしまい。
「――きゃ、あっ」
だぷんっ、と胸元が揺れるのと同時に足がぬかるみに捕まれば、思わずバランスを崩して前のめりになって――思いっきり、顔から転びそうになった瞬間。
がくん、と手をしっかりと握っていたルシエラに引かれるような形で、俺は辛うじて転ばずに、泥まみれにならずに済んだ。
「あら、大丈夫?」
『ちゃんと足元を見んと危ないぞ、エルちゃん』
「あ、ぅ……わ、わかってるもん」
――一体、俺は何をやってるんだ。
子供のように注意散漫になって、その挙げ句顔から転びそうになるなんて。
顔を熱くしつつも、ルシエラにそう答えれば、ルシエラは微笑ましげに笑みを零しつつ、ぽんぽん、と頭をなでてくれた、けれど。
それだけで、ただそれだけで羞恥とかが散って、心地よくなってしまう……そんな、今の俺が空恐ろしい。
早い所アミラを連れてここを出ようと、固く心に決めながら。
俺は、また――今度は妖精達に目を奪われないようにして、歩き出した。
そうして、湖畔をぐるりと回って反対側についた頃。
「――あ、居たわ。あの子よ、きっと」
「あの子……」
案内してくれた妖精の指差す先に視線を向ければ、そこには――他の妖精たちとは違って、発光していない、光を纏っていない妖精が、さめざめと泣いていた。
見覚えのある髪色に、顔立ち。
ただ、そのサイズだけは――少なからず、ルシエラとそこまで大きく変わらなかったはずの背丈だけは、見る影もなく縮んでいたけれど。
「……アミラおねえちゃんっ!」
思わず、その姿を見て俺は、そう声をあげてしまった。
転ばないように気をつけながら、ぬかるみに足を取られないようにゆっくりと、アミラであろうその妖精に一歩一歩近づいて。
「……っ、ひっく……えぐっ」
『アミラ、私じゃ、ルシエラじゃ!分かるか!?』
「ルシ、エラ……?」
アミラはずっと泣いていたのか、足元に水たまりを作りながら――しかしまるで泣き腫らした痕もない、少し不思議な泣き顔を此方に向ければ。
「――っ、ルシエラ……ルシエラ、エルトリスぅ……っ!!」
「え、あ……っ」
泣き止むどころか、更にぼろぼろと涙を零しながら。
アミラはその余りにも小さくなった体を、俺の胸元に思い切り飛び込ませてきた。
ぽよん、と大きすぎるそれはクッション代わりに弾みつつ、アミラを受け止めて。
俺は慌ててアミラを両手で抱えるようにして、視線を合わせる。
「だ、大丈夫、アミラお姉ちゃん……?」
「ふえぇ……っ、ひっく、ひっく……っ、エルトリス……わた、私、私ぃ……っ」
『……受け答えからするに、アミラで合っておるようじゃが』
ボロボロと涙を零しながら言葉を途切れさせるアミラに、以前のような毅然とした様子や凛々しさは微塵もなく。
俺もルシエラもどうしたものか、と互いに視線を合わせつつ、頭を悩ませる。
そういう役割を与えられてしまったのか、或いはもっと別の事情なのか。
聞き出してはみたいが、こうもボロボロ泣かれてしまっては会話さえ難しい。
「……その子ね、何でも友達を無くしてしまったんですって」
「ともだち?」
そうして困り果てていると、見るに見かねたのか。
俺達をここまで案内してくれた妖精が、アミラに聞こえないように気を使っているのか、静かに耳元でささやきかけてきた。
……ともだち、友達。
俺とルシエラ……の事ではないのだろう、そうであればとっくに泣き止んでいる筈だし。
『……ぬ?そう言えばアミラ、お前マロウトはどうしたんじゃ?』
「……っ、ふえええぇぇぇ……っ!!」
「まさか……」
アミラの姿を改めて見る。
背丈は手のひらサイズになってしまっているけれど、スタイルも顔立ちもほとんど変わらず、背中から蝶の羽が生えている、その姿。
……よくよく見れば、アミラは普段から肌見離さず持っていた筈のマロウトを、どこにも身につけておらず。
「……マロウト、なくしちゃったの?」
「ひっくっ、えぐっ、う、ん……っ。マロウト……どこか、いっちゃったぁ……っ!!」
まるで、子供のように。
ある意味では妖精らしく、相棒とも言えるであろうそれを失ったアミラはそう口にすれば、再び大声で泣き出してしまった。




