28.少女、老人と語らう
――目を、覚ます。
外はまだ暗く、街の明かりも疎らな深夜。
まだ少しのぼせたのが残っているのか、頭がクラっとしたものの、どうにも眠気が醒めてしまった俺は、ルシエラやリリエル達を起こさないように静かに部屋を出た。
人の多かった部屋の中とは違い、廊下はひんやりとしていてまだほのかに火照る身体に心地良い。
少しだけ、夜の散歩でもしようと俺は小さく欠伸をしながら宿を出た。
外に、人の姿はなく。
以前のように早朝という訳でもないからか、オルカ達の気配も無い。
「……偶にはこういうのも良いもんだ」
すっかり一人でいる時間が減った事もあって、久方ぶりの一人での散歩は少し心地よかった。
通りを歩く人影は一つもなく、時折吹く夜風は肌寒くはあったものの、今の俺にはちょうど良くて。
「――ん?」
そうして、暫く歩いていると。
ふと、建物の屋根の上に小さな影がある事に気がついた。
はじめは小動物か何かとも思いはしたが、それにしては大きいし、何よりやっている行動が不可解だ。
まるで何かを見ながら、何かを呑んでいるようなその小さな影に、俺は少し呆れたように息を吐き出しながら、とん、とん、と軽く壁を蹴って屋根の上に上がる。
小さな影は、ぼんやりと空を眺めながら呑む事に夢中になっているのか、俺に気付く様子もなく。
「何してんだ、爺」
「む、お前さんこそ何をしておる。子供は寝る時間じゃろうに」
――俺がため息まじりに声をかければ、ようやくアルカンは俺の方に視線を向けた。
手には小さな盃が握られており、隣には多分酒がなみなみと入っているのだろう、少しいびつな形の瓶が置いてあって。
アルカンは仄かにその皺が深く刻まれた顔を酔いに染めながら、カカ、と軽く喉を鳴らせば、俺を軽く手招いた。
夜の散歩をもう少し楽しみたい気持ちもあったが、断ることもないか、と俺はその誘いに乗って、隣に腰掛ける。
「……ったく。この建物に何かあるのか?」
「いや?見ず知らずの他人の家じゃよ、ここは」
しれっとそんな言葉を口にしながら、アルカンは盃に注がれている酒を口にした。
……俺が言えることではないけれど、この爺も大概破天荒だと思う。
それじゃあ一体何が楽しくてこんな所に居るのか、と問おうとすると、アルカンは酒を口にしたまま――何もないはずの空を、見上げていた。
「何見てんだ?」
「なぁに、今宵は良く見えるからの」
「良くって――」
アルカンの言葉に首をかしげながら、視線の先を追う。
――そこには、当然何も無い。
何かがいる訳でも、何かがある訳でも無い。
「――ぁ」
「カカ、偶には見上げてみるのも良いもんじゃろう」
そこにあるのは、雲一つ無い夜空に広がる無数の明かりと、大きな星。
普段は気にすることもなく、興味を示すことさえ無かったそれは、屋根の上から――他に邪魔するものが何もない場所からみれば、余りにも大きくて、煌めいて見えた。
見上げていると、不意に身体の上下が判らなくなるような感覚を覚え、慌てて身体を支え直す。
そんな俺を見ながら、アルカンは愉しげに笑いながら、くぴ、と酒を口にして。
「こんなに綺麗な星空が見えるのは、少し珍しいからの」
「……まあ、確かに綺麗、か」
アルカンの言葉に、俺はつい同意してしまった。
暗闇に宝石を散りばめたようなそれは、綺麗という以外に形容のしようがなく。
「爺、俺にも酒くれよ」
「あん?お嬢ちゃんにはまだまだ早いじゃろ」
「良いから」
俺の言葉に渋るアルカンにそう言って頼めば、アルカンも渋々ながらに俺に盃を渡してくれた。
そこに注がれている酒はまあ、一舐め程度の量しか無かったけれど、まあ仕方ない。
俺はそれを、軽く口にして――
「~~~~……っ」
「カカカ、やはりまだまだ早かったじゃろう。これは結構強いしの」
――以前なら幾らでも、とまでは行かずともそれなり飲めた酒だというのに、今の俺の口には辛く、熱く。
ああ、でもそれでも――成程、こうして綺麗なものを眺めながら飲むというのは、悪くないと思うことは出来た。
「く、は……ぅ」
「そういえば、お嬢ちゃん達はこれからどうするんじゃ?」
「これから……?」
口から熱い息を吐き出しつつ、アルカンの言葉に少し考える。
……リリエルは魔刀を手にして、俺は新しい力を手にする事ができた。
既にここに来た目的は達しているし、いつまでもここに留まっては居られない。
俺の目標は、俺ではない魔王に会い、そしてあのクソ女をぶちのめす事。
リリエルの目標も、その過程できっと果たす事は出来る筈だ。
……まあ、次にアリスが襲来してきた時にどうするか、っていうのが目下の悩みでは有るんだが、それは置いとくとして。
「……ランパードに、ちょっと行ってみるつもりだ」
「ぶふっ」
次の目的地にしようとしている場所を口にすれば、アルカンは口にしていた酒を軽く噴き出した。
まあ、爺としてはそういう反応をするよな、うん。
うんざりして見切りをつけて出てきた国らしいし。
「……悪い事は言わん、あの国はやめておけ」
「あー、まあオルカ達からあらましは聞いたよ。災難だったな」
「ぬ……知っていて、尚行くつもりか?今のあの国は腐敗の真っ只中じゃぞ」
アルカンの心配混じりの言葉に、軽く頷く。
前王から見る影もない程に腐敗し、アルカン程の人間を呆れ返らせた国。
行った所で不快にしかならない可能性もあるけれど、それ以上に――
「――魔族絡みかも知れねぇしな」
「ふ、む?」
――ふと思ったことを呟けば、アルカンはそれに少し興味を示したのか。
首をひねりつつも、俺の言葉に耳を傾けてきた。
クロスロウドでの出来事。
魔族が人間を先導し、内側から腐らせていた事。
結局それは潰えはしたものの、三英傑の一人を追い詰めるまで至った事、など。
「……ふぅ、む」
一通り聞いてから、アルカンは口元に指を当てながら小さく唸る。
或いは、もしかしたら。
国の腐敗に、愚王であるエクス以外にも何か要因があるのだとしたら、と考えているのだろう。
「しかし……のう」
……とは言え、まあ。
そのエクスという今の王が愚か、という事に代わりはない。
魔族に付け込まれて操られているのなら間抜けだし、素だと言うのなら救い難いバカでしかないのだから。
単に、エクスがバカだから国が腐敗したのか、エクスがバカだから魔族に付け込まれたのか、という違いでしか無いのだ。
「……うむ。もう二度と、関わるつもりも無かったが」
「ん、爺も来るのか?」
「そうじゃな、今の弟子達の所に顔を出してからになるが、行ってみるとするかの」
それでも、もし嘗て仕えていた国に、魔族という病巣が入り込んでいるというのであれば、アルカンは見過ごすという事は出来ないのだろう。
俺に軽く笑みを向けながらそう口にすれば、その枯れ木のような指先をそっと、俺の頭の上に乗せてきた。
「ん……っ」
「……儂が行くまでの間は、お嬢ちゃんにまかせても良いか?」
「ああ、まあ余り遅かったら全部片付いてるかも知れねぇがな」
優しく頭を撫でられると、目を細めながら。
確かめるようなその言葉にそう返すと、アルカンは楽しげに笑みを零した。
――そうしてアルカンと二人、星空を見上げながら……その後は何気ない会話を交わし。
アマツで過ごす、最後の夜は過ぎていった。




