22.魔刀ワタツミと、人の心
「――え」
魔刀ワタツミに触れたリリエルが、最初に見たのは真っ白な光景だった。
一面に降り積もる雪に、凍てつくような寒さ。
視界は真っ白に染め上げられ、その癖目の前にいるその少女だけははっきりと見える、そんな不可思議な光景。
その少女の姿形は、先程アルカンの隣りにいたサクラ――魔刀ヤシャザクラと瓜二つだった。
髪の色は、肌の色は病的なまでに白く、装束まで白く。
ただ、その瞳だけが透き通るように青く、青く。
氷雪を体現したかのようなその少女は、リリエルに視線を向ければクスリと笑った。
『あら……私を視る事が出来る方なんて、珍しい。波長が合っているのかしら?』
「貴女が、ワタツミですか」
『ええ、私がワタツミよ――冷たい、冷たいお嬢さん』
リリエルの言葉に上品に笑う、ワタツミ。
その所作も、言動も、その全てが穏やかで、緩やかで。
先程アルカンが口にしていたような厄介さなど、リリエルは微塵も感じる事が出来ずに居た。
――私に力を貸してくれませんか。
リリエルが異変に気づいたのは、そう言葉にしようとした時だった。
唇が、動かない。
身体が、動かない。
瞼が、閉じない――呼吸さえも、出来ない。
『とても、とても冷たい心を持っているのね、貴女。利用できる物は全て利用しようとするその性根、とても美しいわ』
何もかもが静止した世界の中、ただワタツミだけが穏やかな声で笑い、動く。
そんな有様を、リリエルはただただ、見つめることしか出来ずにいた。
『髪の色も、瞳の色も――ええ、その慎まやかな身体も、全て気に入ったわ。貴女なら、使ってあげても良い』
そして、そんな言葉を口にしながらワタツミが、つん、と指先でリリエルの肩をつついた瞬間、パキン、という音がリリエルの耳に届く。
ひょい、とワタツミが手にしたものを見れば、リリエルは声にならない――声に出来なくとも、悲鳴をあげた。
ワタツミが持っていたのは、リリエルの腕だった。
ガラス細工のように根本で割れているそれを、まるで着るかのようにワタツミが袖を通せば、ワタツミの腕はリリエルと同じ腕になる。
『うん、指先までしなやかで……素敵』
そのまま、ワタツミは今度は逆側の肩をつつく。
パキン、と音が鳴り響いたかと思えば、リリエルの腕は薄氷よりも脆く割れ、欠けて。
『大丈夫よ。貴女を殺すなんて、品の無い真似はしないわ?ただ――』
自分の両腕を、ほう、と息を漏らしながら眺めつつ、ワタツミは穏やかに、品よく笑みを零し――
『――魔刀リリエル、だなんて。素敵だと思わない?』
――リリエルの立場を、存在を。
その全てを奪い、刀という器に押し込めるのだと、事も無げに口にした。
リリエルは、動けない。
声もあげられず、ワタツミに奪われていく自身を見ることしか出来ない。
両足を、奪われる。
視点はガクンと落ちて、リリエルは無造作に雪の上に転がされた。
腰回りを奪われる。
リリエルは、悲鳴をあげる事さえ出来ないままに、奪われていく自分に頭が白くなった。
胸を、その周囲を奪われる。
とうとう頭だけになってしまえば、リリエルは無造作に、ごろん、と転がる視界を――それに映る、頭以外全てがリリエルとなった、ワタツミを見て。
『それじゃあ、この綺麗な顔も貰うわね。有難う、リリエル』
ワタツミは上品に、感謝の意を込めた――素振りをしながら、リリエルの頭を手に取れば。
とうとう、リリエルは唯一許されていた視界さえも、失った。
『――ああ、ああ。素敵ね、これが人の身体なのかしら。ふふ、先ずは愚妹に挨拶にでも行こうかしらね』
リリエルの耳に、楽しげなワタツミの――自分の声が、届く。
甘かった。
今までのような魔性の武器と同列に考えていた自分が愚かだった。
後悔ばかりが頭に浮かぶが、既にリリエルにそれを取り戻すすべも、やり直すすべも無い。
『安心してちょうだいね。貴女の下らない目的も、まあついでにやってあげなくもないわ。それで満足でしょう?』
――ただ。
その、ワタツミの声を聞いた瞬間、絶望の淵に立たされていた心に沸き立つものがあった。
下らない?
一体、何が下らないというのか。
『全く、魔族への復讐だなんてつまらない。そんな事より、そうね――私の国を作るなんて楽しそうだわ。私に傅く者たちの、氷の国なんて』
つまらない。
ワタツミのその言葉に、自分の声色で語るそれに、リリエルの唯一残された思考が赤熱する。
――ふざけるな。
『さて、じゃあ最期に残った貴女はちっぽけな刀に――っ、あ、つっ!?』
最期に残されたリリエルの心に触れた瞬間、ワタツミは悲鳴を上げた。
その指先は、まるで氷細工が熱されてしまったかのように溶けて、無くなっており。
取るに足らない、外見を、その心を気に入っただけの人間に触れただけで、ワタツミはその上っ面の品の良さが剥げ落ちた。
『……っ、何、して……っ!!ふざけないで、ふざけないでふざけないで!!私は、ワタツミ――ヤトガミの最高傑作の一振り、よ……っ!?』
ヤシャザクラと同じように言葉を途切れさせながら、癇癪を起こすワタツミだったが、その目の前にあるリリエルの魂を見れば、ひっ、と短く悲鳴をあげてしまった。
そこにあるのは、目的のために誰であろうと利用しようとしていた、冷たい魂の筈なのに。
――ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな……っ!!!
今、ワタツミの目の前にあるのは冷たい等とは断じて言えない、赤熱してドロリと溶け落ちた鉄のような何か、だった。
『ひ……っ!?何よこれ、何、いや、知らない、こんな――あ、ぁっ!?』
その溶け落ちた何かから、ずるりと赤く燃え盛る腕が生えたかと思えば、ワタツミの首根っこを掴み上げる。
そして――ワタツミは、それと視線を合わせてしまった。
冷たい心の奥底に押し込めていた、全てを利用してでも成し遂げたかったモノ、その根幹。
それを常に晒していたら、決してそれが叶わなくなる事をリリエルが理解していたが故に、表に現れる事が殆ど無かったモノ。
「――私の復讐を、否定しましたね?」
身体などすべて奪った。
今のリリエルは、最早魂だけの無害な存在で、後は魔刀というちっぽけな器に押し込められて終わるだけだった、筈なのに。
その理を全て無視して、リリエルの魂は――復讐の化身は、ワタツミの前に顕現した。
『な――なん、で……嘘、どうして、こんな――』
「貴女は、必要だと思っていました。エルトリス様が、譲ってくれたという義理もありますし」
『……ま、待って。判ったわ、判った、身体は返すわ。それで良いでしょう、ねっ?』
まるで人型の溶岩のようなそれを、ワタツミは生まれてはじめて恐怖する。
ワタツミは、復讐に取り憑かれた人間など見たことがなかった。
憎悪がどれだけ人の心を、魂を焼くのかなど想像さえもしたことが無かったのだ。
「――ですが。私の復讐の妨げになるのならば、要りません。きっとエルトリス様も笑って許すでしょう」
『ひっ――』
そう語る口調こそ、表情こそ穏やかではあったものの。
一面の雪景色だった筈の、ワタツミの内面は既に半分は憎悪で焼け落ちて、燃え尽きる寸前だった。
最高傑作である自分を不要だと言い捨てて壊すという行為を、この復讐の、憎悪の、憤怒の化身は躊躇いなく行うだろうと、ワタツミは理解してしまう。
怖い。怖い、怖い、怖い、怖い――その一念だけが、鍛造されてからずっとこの奥まった広間に安置され続けてきた、妹とその使い手達と……愚かにも自らに手を伸ばした脆弱な人間しか知らなかった、ワタツミの心を支配して。
『待って、待って、待って――お願い、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――ッ!!!!』
先程までの品の良い態度も。
その後見せた、ヤシャザクラのような幼く理不尽な顔も。
その全てを投げ捨てて、ワタツミは必死になって、目の前の炎に懇願した。
奪ったはずのリリエルの身体は溶けて流れ、溶岩のようだったリリエルの魂を覆っていく。
残っているのは、リリエルに首を鷲掴みにされたまま釣り上げられた、泣きじゃくるワタツミだけ。
「――……誓いなさい」
そんな幼子の姿を見て、むき出しだった魂が覆われて、リリエルも多少なりと冷静になったのか。
小さく吐息を漏らせば、いつものように淡々と言葉を口にする。
「私の、復讐に手を貸しなさい。私の力になりなさい、ワタツミ」
『な、なります、なる、なるからぁ……っ、壊さないで、殺さない、でぇ……っ』
泣きじゃくるワタツミを降ろせば、リリエルはいつものように無表情なまま見下ろしつつも。
流石に子供を泣かせてしまったことだけは、僅かに心を痛めたのか――ワタツミが泣き止むまでの間、静かに待ち続けた。




