愛を運ぶつばめ〜『幸福の王子』異聞〜
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気づいたら僕は高いところに立って、街の人々の生活を眺めていた。
世界は真っ暗から始まって、だんだんと白んでくるラヴェンダー色の夜明けから、濃厚な茜色に染まった街が深い藍に飲み込まれていく暮れ方まで、千変万化の色と光に満ちていた。
朝が来て夜が来て、また朝が来て。
それを何度か繰り返すうちに、僕は、どうしてここにいるんだろうと不思議に思った。
僕はここから動けない。
人々に声をかけることも、手を振ってくれる子どもに手を振り返すこともできない。
目は閉じられない。
耳は塞げない。
他の生き物みたいに眠ることもできない。
僕はいったい何なのだろう。何のためにここにいるのだろう?
楽しそうな人々。なのに僕はひとりぼっちで、みんなを眺めているだけで。僕はとても悲しくなってしまった。
そんなある日のこと、一羽のつばめが僕の肩に止まった。とても疲れていて、悲しげな様子だった。僕の声はきっと届かないだろうけど、それでも僕はそのつばめを元気づけてあげたいと思った。
『大丈夫かい? 僕の肩でしばらく休んでいくといいよ』
「えっ? 王子さまが、しゃべった?」
『王子さま? それって、僕のこと?』
とても綺麗な声をしたつばめだった。
そして、彼女のおかげで僕は自分のことを知ったんだ。
僕は幸福の王子。
この街の広場から皆を見守る、黄金と宝石で飾られた鉛の像だ。びっくりしたと同時に、納得した。この体なら確かに身動きひとつできないや。
『ありがとう、つばめさん。僕は自分が何者かすら知らなかった。まさか、僕の声が聞こえておしゃべりができる相手と出会えるなんて、思ってもみなかった。ねぇ、君はどこへ行くの? もし良かったら、時々おしゃべりしに寄ってくれない?』
「まあ、わたしが王子さまとお友だちに!」
『君が、嫌じゃなければ』
「嫌だなんて、とんでもない! わたしもここではひとりぼっちなんです。探しものをしているのに、それがどこにあるのかも、それが何なのかも、まったく思い出せないんです」
そう言うと、つばめはポロポロ涙をこぼした。小さな小さなしずくが、ダイアモンドのように光った。
「わたし、もう、疲れてしまったんです。仲間のつばめたちは楽しそうにしているのに、わたしは探しものが気になって気になって、いてもたってもいられない! とても、とてもつらいんです」
『そんなに思い詰めているなら、気のすむまで探してみたらどうだろう。このまま諦めたって、きっともっとつらいだけさ。ああ、僕が一緒に探してあげられたらなぁ!』
「ありがとう、優しい王子さま。少し元気が出ましたわ。ここでちょっと休んで、また探してみます。夜になって飛べなくなったら、またここに戻ってきてもいいですか? わたし、まだ宿を決めていないんです」
『もちろん! 僕のところで良ければ、いつでもおいで。そして、街の様子を教えてよ。ここから眺めているだけじゃわからない、色んなことを』
こうして、僕たちは友達になった。
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つばめの探し物はまったく見つからなかった。でも、それも当然かもしれない。だって、彼女自身、何を探しているのかわかっていないのだもの。それでも、つばめは毎日まいにち、僕の肩から飛び立って、僕の肩へと戻ってきた。
「パン屋さんにとうとう赤ちゃんが産まれましたよ」
『そうか! それは良かったね!』
そんな他愛もない話をして、ふたりで笑い合う。
つばめと一緒にいるのはとても楽しかった。朝の身支度をしながら歌う彼女の声に耳を傾け、夜は彼女が寝るまでずっとおしゃべりをした。雨の日は出かけないから、歌ったりしゃべったり、ここからは見えない色々な場所について教えてもらった。
「わたしの探し物、いったいどこにあるんでしょうね」
『こんなに一生懸命に探しているのに、見つからないなんて……』
つばめは無理して元気にふるまっているように見えた。
頑張っても頑張っても報われないなんて、そんなの悲しすぎる。彼女がかわいそうだ。手伝えるものなら手伝ってあげたい。つばめの笑った声が好きだから。もっと嬉しそうな声が聞きたいんだ。
でも、そう思ってから気がついた。
探し物が見つかってしまったら、つばめはここから去ってしまうんじゃないかって。ううん、それよりも、探し物がこの街になかったら? つばめは別の街に行ってしまうんじゃないだろうか。
『ねえ、君。君の探し物って、この街にはないんじゃないかもって考えたことはない?』
僕の声は震えていたかもしれない。
だって、こんなに怖いんだもの!
鉛の心臓が痛む。本当は目をつぶり、耳を塞いでしまいたいのに、それはかなわない。だって、僕は人間じゃないから。つばめの声にびくっと心が震えた。
「そうですねぇ。でも、いいえ、きっとこの街にあるはずです。もう少し、探します」
『そっか。それなら、もうちょっと一緒にいられるね』
「はい、王子さま。一緒にいましょう、一緒に歌いましょう。わたしの探し物が見つかるまで」
『うん。君の探し物が見つかるまで』
僕たちは嘘のない約束をした。
その次の日からも、つばめは、僕の肩から飛び立って、僕の肩へと戻ってきた。
そんなある日、つばめがいつもとは違う時間に泣きながら僕のところへやってきた。
「王子さま、王子さま、聞いてください。パン屋の赤ちゃんがすごい熱で死にかけているの! でも、お医者さんのところへ行くお金がないんですって。わたし、わたし、どうしたらいいのか」
『それは、難しい問題だ。僕には、何もできないよ』
「ああ、そんな」
つばめがまた、綺麗な涙を流した。キラキラと輝くしずくは、彼女の心のように透き通っていた。
僕たちが赤ちゃんのために祈っていると、男の人の声がした。
『なんて言っているんだろう』
「あの人は、赤ちゃんのお父さんです。誰でもいいから赤ちゃんの命を助けてほしいって」
そして、彼女は言いにくそうに付け加えた。
「王子さまの剣に嵌まっている宝石があれば、薬が買えるのにって」
まったく考えたことのない話だった。
そうか、金と宝石で飾られたこの体を、街の人のために役立てることができるのか。
『つばめさん、僕の願いを聞いてくれる?』
「なんでしょう、王子さま」
『そのくちばしで、僕の剣から宝石をひとつ、取り出してくれないか?』
「えっ。いいんですか?」
『それで赤ちゃんの命が救えるなら、まったく構わないよ!』
つばめは苦心して剣の柄から宝石をほじくり出して、パン屋の元へとそれを転がしてくれた。彼は喜んでそれを持ち帰り、赤ちゃんは助かった。それも全部、つばめが教えてくれた。動けない僕の代わりに、僕の目の届かない場所へと見に行って、そこで起きた出来事を僕に伝えてくれる。
それからも僕は、ううん、僕たちは街の人々にささやかな贈り物をした。僕の剣や服や靴にくっついていた宝石は全部なくなった。目に嵌まっていた宝石を抜くのを彼女は最初とても嫌がったけど、僕がどうしてもと頼み込んで引き抜いてもらった。
そのおかげで何も見えなくなってしまったけれど、僕は満足だった。だって、たとえ目が見えなくたって、つばめの声は聞こえるもの! それに、そのおかげで彼女はもっと僕と一緒にいる時間を増やしてくれた。僕にはそれが何より嬉しかったんだ。
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肌に貼りつけられていた金も全部はがしてしまって、僕の持ち物が減る代わりに人々は豊かになっていった。耳は不自由していないから、時々聞こえてくる歓声でそれがわかるんだ。僕は満足していた。
『そういえば、今日も出かけないんだね、つばめさん』
「ええ。今は王子さまの側にいたくて」
『嬉しいな。じゃあ、何の話をしようか。それとも、歌を歌ってくれる?』
「王子さま、王子さま……」
『どうしたの、君。泣いているの?』
頬にそっと触れるものがあった。それはきっとつばめの翼だ。
かすかに聞こえる嗚咽が、彼女の涙を教えてくれていた。
「街の人たちが、ひどいんです。あなたに助けてもらったくせに、あなたをここから追い出そうと……いいえ、あなたを壊そうとしているんです! 金箔の剥げたみすぼらしい像はみっともないって……。こんなの、あんまりです!」
僕は何も言えなかった。
まさか、こんなことになるとは思わなかったのだ。自分が壊される日が来るなんて、考えもしなかった。
『それは、いつ?』
「わかりません。もう、すぐのことかも」
僕たちはふたり、黙り込んでしまった。時間が必要だった。特に、僕には。
それなのに、つばめは続けてこう言った。
「わたし、あなたにお別れを言わなくちゃいけません」
『いやだ。そんなのだめだ。ひとりで死ぬのはいやだよ! 行かないで! せめて最後まで、一緒に……!』
「いいえ、いいえ! わたしはどこにも行きませんとも! だって、もう、飛べないんです」
『え?』
いつからだろう。
いつから彼女以外のつばめを見なくなっていた? いつから彼女は出かけなくなった?
『もしかして、君、死んでしまうの?』
「ええ。もうすぐ冬が来てしまいます。わたしたち、つばめは、暖かい場所でしか生きられないんです。だから、わたしに残された時間は、もう、ないの」
『そんなの、まるで気がつかなかった……』
「当然ですよ。だって、あなたはもう、目が見えなくなっていたんですもの」
そう言って、つばめは笑った。
『探し物は? 結局、見つかったの?』
「いいえ。でも、もういいんです。あなたのお役に立てて嬉しかった。さようなら、王子さま。さようなら、わたしの愛しいひと」
『いやだ……待って、待ってくれ! 死なないで! つばめ!』
でも、それっきり、つばめの声はきこえなかった。
どうして僕の体は動かないんだろう。どうして彼女を抱きしめてあげられないんだろう。
どうして、彼女を死なせてしまったんだろう。
愚かな僕は気づけなかった。
つばめは風に乗ってやってきて、風に乗って別の街へ行かなくちゃいけなかったのに。
自分の寂しさを埋めるために、僕は彼女を利用したんだ。
自分の功名心のために、彼女を犠牲にした。僕があんなことを頼まなければ、きっと探し物にも見切りをつけて、仲間と一緒に旅立っていたのに。
ああ、誰か。誰か助けてほしい。
そうでなければ、愚かな僕を叩き壊してくれ。今すぐに。
鉛の心臓が痛む。
僕の体を形も留めないくらい叩き壊して、それでもまだこの心臓が残ったら、これを彼女に捧げてくれ。友情と、感謝と、贖罪の証に。
僕の願いを叶えてか、長い時を待たずして、槌を叩きつける音が響き渡った。
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次に僕が目を開いたとき、そこに映っていたのは豪奢な天井と僕の許嫁だった。陽の光を受けてダイアモンドのように輝く、彼女の心と同じように澄みきった涙を浮かべていた。
「……探し物は、見つかったかい?」
「ええ、王子さま。わたしはずっと、あなたを探していたんです。長い長い眠りの中で、あなただけを」
そっと、白魚のような指が僕の手に重ねられた。
僕を探していたつばめ。僕をこの呪われた眠りから解放してくれたつばめ。
目覚めてからすべてを思い出したんだ。
温かいものが胸に広がる。
本物の生きた心臓が喜びに震えた。
今度こそ、間違わないようにしよう。今度こそ、彼女を幸せにしよう。
僕は彼女の手を取った。
「愛しているよ、僕のつばめ。ずっと、側にいてほしい。今度こそ」
「はい。わたしの、愛しいひと」
涙のしずくがこぼれて、彼女の左手の薬指を飾った。
〜〜fin.〜〜