愚劣の代償Ⅲ~選択~
三人が選んだ道は、今までと大して変わらない灰色の通路で、やはりこの道も徐々に降って行っている。
道を歩きながらも、お互いの悪態が止まらなかった為、椿とヴァンの間にシンが割って入って歩く事で、なんとか穏便に進んでいた。
向かって左から椿、シン、ヴァンの順番で横一列に歩いていると、お互い合流するまでの経緯を簡単に説明することになった。
椿は、目が覚めたらベッドの上で、ブクブクに太った醜いオッサンに襲われかけた事、反撃でオッサンの顔面を全力で殴った事、それが原因でここに放り込まれた事の3点を話す。
「魔法って凄いのね。確実に鼻を潰して前歯をへし折ったのに、すぐに元通りだなんて」
「カルミリスは魔法を扱うのが優秀だって、もっぱらのウワサだからな。それぐらいだったら屁でもねぇんだろうよ」
「シンは何があったの?」
椿はヴァンの説明を無視して、シンに話を振ると、ヴァンは椿に対して怒りタップリに睨みつける。
椿もヴァンに、イーッと歯を剥いて威嚇するも、シンが椿とヴァンの顔を手で無理やり逸らしてから話し始めた。
「僕も椿と似たようなものだよ。起きたらベッドの上で、ミイラみたいなガリガリのおばさんが上に跨ってたから、気持ち悪くて突き飛ばしたら、おばさんの肋骨と腕を折っちゃって、カルミリスだっけ?そいつにここに放り込まれたんだ」
「ツバキを襲ったのは、この家の当主であるバルドス。シンを襲ったのはバルドスの妻のターレンで間違いねぇ。どっちも初物好きだから、下手したら二人共犯られてたかもな」
ヴァンが冷静に解説すると、椿が感心したように声を上げた。
「よく知ってるのね」
ヴァンは呆れ返って、半眼で椿を見る。
「この国に住んでたら、みんな当たり前に知ってる情報だよ。エルンドラ家は悪い意味で有名だからな」
「そう言う少年は、最初からここに入れられたみたいだし、もう童貞じゃないのかな?」
いたずらっぽくシンがヴァンに問いかけると、ヴァンは顔を真っ赤に染めて否定する。
「オ、オレだってまだ未経験だよ!ただ単に、貧民街の奴は食いたくなかっただけだろ!」
なーんだ、と椿とシンはヴァンをつまらなさげに見た後、前を向いて歩き続ける。
「なんなんだよ!なんで残念そうな顔をしてんだよ!!」
「別に残念そうな顔なんてしてないわよ。ただ、そうなんだーって思っただけ」
「右に同じー」
しれっと椿に同意するシンに、椿ははたと気がつく。
「あれ?シン、フードは?いいの?」
そう。今シンはフードを被っておらず、その真っ直ぐなサラサラの黒髪を晒していた。
普通なら、この世界の人間であるヴァンが騒いで然るべきなのだが、ヴァンにその気配は無く、むしろ平然としている。
「ここならいいかなって。少年には既に説明済みだよ。すーっごい警戒されたけどね」
あははーと笑うシンに、ヴァンがぶすっとした表情で返す。
「当然だろ。‟黒”だなんて・・・。今でも疑ってるんだからな」
「嫌なら、無理について来なくっていいんだよー?そもそも、ついて来てなんて一言も言ってないんだから」
シンが冷たく言い放つと、ヴァンは苦い顔をして押し黙ってしまう。
そのやり取りを見ながら、椿はどう会話に加わっていいか分からず、同じく沈黙する。
気まずい雰囲気を察したのか、シンが話題を変えるべく口を開いた。
「そう言えば椿、魔法を使ったんだね!無事に乗り切れたようで何よりだよ!おめでとう!」
「あぁ、うん。ありがとう。おかげで、なんとか眷属に食べられずに済んだわ」
ほっと胸を撫で下ろして話す椿に、ヴァンが怪訝そうな顔をして話に入ってくる。
「は?魔法なんて誰でも使えるだろ?」
「椿にとっては初魔法なんだよ、少年」
シンのその言葉に、ヴァンはますます不審な表情を深める。
「魔法を使うのが初めてって、あんたどこの人間だよ」
「うるさいな、どこだっていいでしょ」
椿が大いに棘を含んだ口調でそう答えると、ヴァンは変な奴っと返した後に、誰ともなしに話を続けた。
「変と言えば、ここも変だよな」
「地下迷宮の事?」
首を傾げて訊ねる椿に、ヴァンは頭を軽く横に振って否定する。
「違う。金持ちなら地下室ぐらいあってもおかしくない。まぁ、地下迷宮は珍しいけど。ってそうじゃなくて!眷属がここにいることだよ!この町には眷属避けの結界が張ってあるのに、なんでこんなに眷属がいっぱいいるんだ?」
眉根を寄せて言うヴァンの問いに、答えたのはシンだった。
「それはね、少年。ここの結界が、眷属‟避け”だからさ。自然に闊歩してる眷属を避ける事は出来ても、意図的に運び込まれた眷属に対しては効果が無い。まぁ行動を阻害したり弱体化させたりは出来るかもだけど、今いるここは地下だ。この場所だと結界の効力も幾分弱くなるから、眷属達も元気に動いてるって訳」
それを聞いたヴァンは立ち止まり、驚愕に目を見開いてシンに勢いよく聞き返す。
「意図的にって、それじゃあここの眷属共は!」
ヴァンが立ち止まったのを見て、少し先で同じように立ち止まったシンと椿は振り返ると、シンがその先を続けた。
「エルンドラだっけ?何時からかは分からないけど、ここの人達が運び込んだので間違いないと思うよ。低位種なんて、強引に連れてこない限り、結界の張ってある町に入る事は無いからね」
言葉を失って立ち尽くすヴァンを見ながら、彼に聞こえない音量で、椿はシンの耳に囁く。
「それってそんなにショックな事なの?」
それを受けて、シンも椿の耳に顔を寄せ、同じ大きさの声で解説する。
「この世界の人間なら、かなり。自分達の安全が根幹から崩れるぐらい深刻かも。椿だって、セキュリティ万全の自宅が、知らない間に合鍵を作られて、好き勝手に犯罪者が入り込んでたらショックでしょ?それと同じだよ」
わかりやすくシンが例えた事で、椿も事の重大さが理解出来たらしく、顔を青くしながら頷いた。
「なるほど、それはショックだわ・・・」
「眷属をわざわざ町に入れて、娯楽の対象にするなんて、普通の人には分からない感性だろうから、そうそうある事じゃないと思うんだけどね」
白い光が照らす中、しばらくヴァンが立ちすくんでいると、再びシンが話しかける。
「とにかく、ここを出ない事には、この惨状を外に伝えることも出来ない。少年。いつまでもそこで固まっていてもいいけど、僕達は行くよ」
シンはそう言い捨てると、椿の手を取って歩き出す。
ヴァンはハッと我に返ると、急いでシンと椿の後を追った。
その後も、なんの代わり映えもしない通路を3人で歩き続け、幾つか分岐点を経て進んでいると、やがて終わりが見えてくる。
とは言え、それは迷宮の出口では無く、かといって次の広間でも無い。
要は行き止まりだった。
椿が行き止まりの壁を叩くが、やはり何の変哲もないようで、壁からはペチペチと詰まった音が返ってくる。
「行き止まり・・・なんてあったんだ」
壁に手を当ててポツリと言うと、ヴァンが腕を組みながら、不思議そうな面持ちで声を上げた。
「何言ってんだ行き止まりなんて、いくらでもあるだろ?ここは迷宮なんだからよ」
シンはと言うと、何かしら思うところがあるらしく、少し思案した後椿に訊ねた。
「ねぇ椿。僕達と合流するまでに、何回眷属と遭遇した?あと行き止まりに行き着いた事は?」
何故シンがそんな事を聞くのか、狙いが分からずに疑問に思う椿だが、とりあえず答えようと、目線を斜め上にして記憶を辿り、素直に話す。
「?行き止まりは今が初めて。眷属は、シンが倒した蛾を含めて3体。でもそのうちの1体は、すぐに別の眷属が食べちゃったから、実質2体かな」
それを聞いて驚いたヴァンが、勢い余って怒鳴ってしまう。
「はぁ!?行き止まりは初めてで、眷属は2体だけ!?なんだそれ、おかしいだろ!オレ達なんて何回も行き止まりにぶち当たって、眷属に襲われたのだって、その3倍は超えるんだぞ!」
憤懣やるかたない、と言った態度でヴァンは椿を指差して憤ると、椿が反論するために口を開こうとした瞬間、それをシンが手で制して止めた。
「少年。それは椿に言っても仕方のない事だよ。たまたま椿の進んだ道が、行き止まりの無い眷属の少ない通路だっただけ。怒るなら、僕達をここに突っ込んだ人達に対してしなよ」
正論を滔々と言われ、ぐうの音も出ないのか、ヴァンは唇を噛みしめて、視線を地面に移す。
ヴァン自身もこれは八つ当たりで、なおかつこの様な事態になってしまったのは、自分で蒔いた種が原因だと理解しているが、まだ10歳の少年である為、自分の感情をうまくコントロール出来ず、結果として椿にキツく当たってしまっていた。
シンでは無く椿に矛先が向いてしまうのは、短い時間ではあるが、自分と共に行動し助けてくれたシンと、つい先ごろ合流したばかりで、かつ貧民街の路地での一件から、ヴァンが椿に対してわだかまりを抱いているからだろう。
このままではいけないと思いつつも、どうしても素直になれない自分に、ヴァンは内心嘆息する。
「まぁ椿は悪運だけは強いからね。今回はそれが良い方向に働いたって事だよ!さ、いつまでもこんな所で立ち止まっててもしょうがないし、一度手前の分岐点まで戻ろうか」
「‟悪運だけは”って何よ。なーんか引っかかる物言いよねー。ほらヴァン、行くわよ」
シンと椿が、踵を返して元来た道に引き返す中、ヴァンに向かってそう言うと、ヴァンは力なく項垂れたまま、無言でシンと椿について行った。
実のところ、ヴァンの言った疑問は当然のことであり、シンが言った‟悪運”で片付けられるほど易しい話では無い。
それはシンも理解しているが、所詮は推測の域を超えないものだったので、余計な火種になるような話題はあえて避けたという訳だ。
では、一体何があったのか。存外簡単な話で、椿が入れられた補給口とヴァン、シンが放り込まれた補給口が別だっただけ。
椿のいた第3補給口は、対象をジワジワと嬲り恐怖に陥れて殺すルート。その為、シン、ヴァンと合流した六道の部屋より前は比較的単純な道程であり、配置した眷属も低位下級が中心で、その数も少ない。
それでも遭遇した眷属が少なく、六道部屋まで順調に進めた事、なにより第3補給口があてがわれたのは幸運としか言いようが無いが。
一方、シンが入れられた第2補給口とヴァンが放り込まれた第1補給口は、相手を即殺す、即エサにする為のルートで、まさしく眷属へのエサの補給を目的としたものだった。
なので、エサを逃がさないように道は複雑に入り組んで、行き止まりが多く、配置された眷属も低位中級~上級が多い、かなり危険な経路となっていた。
普通であれば、六道部屋に辿り着く前に、眷属の腹に収まっていて然るべきだが、ヴァンは運良くシンと早々に出会えたおかげで、ここまで五体満足でいられている訳だ。
これは捕捉だが、第1補給口は本邸の裏に造られた、外から直通で迷宮に繋がっているダストシュートの様な一方通行の入り口で、主にエサを調達する灰色のコートを着た御者が使っていた。
本邸に入ってまず目に入る、スマートなバルドス像の下に、地下へ降りる為の隠し階段があり、そこを進んで行くと地下1階に当たる空間に出る。
そこは居室とは違った、バルドス、ターレン、カルミリスそれぞれの部屋が存在していて、椿が見たベッドの頭側にあった扉の先が、唯一バルドス像の階段がある空間に繋がっていた。
そのターレンの部屋にある、迷宮側に通じる通路を真っ直ぐ進んだ先、椿が第3補給口に連れていかれる最中に見かけた、右に曲がった通路の先が第2補給口だ。
他にもカルミリスがバルドスに内緒で造った、最下層に直行できる第4補給口があるが、今は割愛しておこう。
この地下迷宮は、入り口こそ分かれているものの、必ず六道部屋を一度経由する構造をしており、そこを過ぎて先に進むための正しい順路に入れば、出てくる眷属の強さと迷宮の造りは一定の水準になっている。
といっても第3補給口が特別なだけで、第1、2補給口ルートの基準に統一されるだけだが。
なので、今現在椿達は一度通った部屋にもう一度出たり、行き止まりにちょくちょくぶち当たったり、かつ眷属とよく遭遇するハメになっていた。
「あぁ!!もう!また虫!!今度は飛蝗!?」
大量の低位2級、3級の眷属の群れに襲われ、椿の怒声が通路に響く中、シンがガガンボ型の眷属を、適当に剣風で切り刻んで倒していた。
「怒っていてもしょうがないよ。ほらほら手を動かして」
「もう!!一閃!」
シンに促されて、椿も刀に魔法をかけてから斜めに切り上げ、シンと同じような剣風で黒い飛蝗の脚を切り落とした。
シンの場合は、特殊な剣を使っている為、魔法の詠唱が無くても剣風が発生するが、椿の刀はそういう訳にもいかないので、いちいち風の魔法を刀に付与して戦っている。
シンが涼しい顔をして剣を振るっているのでそうは見えないが、シンは刀身を顕現させ続けているのも相まって、剣に嵌まっている球体に常時マナを供給し続けなければならない。
その為、どちらがより負担にならないかと言われれば、面倒ではあるが椿の方がマナ消費量は軽い。
「ヴァン!」
椿がヴァンに声をかけると、ヴァンは顔を顰めながら答える。
「わかってる!!灼焔!!」
ヴァンが右手に、手のひら大の魔法陣を浮かべ、その手を飛蝗に向かってボールを投げるように振り抜きつつ叫ぶと、鮮やかな紅い炎の塊が飛蝗に向かって高速で飛来し、見事に命中する。
その瞬間、飛蝗はキャンプファイヤーの如く真っ赤に燃え上がり、あっという間に核ごと焼き尽くされ、真っ黒な炭になって崩れて消えた。
「お見事ー!やっぱり少年は炎系の魔法が得意みたいだねー。磨いたらかなり有能な狩人になるんじゃないかな」
ヴァンが魔法で飛蝗を燃やす様を見て、シンがそう言うと、ヴァンはふいっと顔を背ける。
「ふん!オレはもっと楽に稼ぎたいんだよ!眷属と戦うことが生業だなんて、そんな危ない事はしたくないね!」
「その‟楽”な仕事とやらのせいで、今こんな事になってるんじゃないの?」
椿がジト目でヴァンに突っ込む。
「うっせぇ!ババア!!」
「誰が、ババアだ!てめぇ!!」
ヴァンの‟ババア”発言で、再び椿が額に青筋を浮かべてキレるが、それをシンがやれやれといなす。
「もぉー。まだ眷属来てるんだから、痴話喧嘩はもうちょっと我慢してよねー」
『痴話喧嘩じゃねぇ!!』
「ホント、息ピッタリなんだから。ちょっと妬けちゃうなぁー」
さらに二人揃って否定する言葉を聞きながら、シンは自分に向かってくる蠅型の眷属を、先ほどと同じように核ごと切り刻んだ。
それからしばらく戦い続け、ようやく眷属の猛攻が止む頃には、既に倒した眷属の数は両手の指の数を優に超えていた。
「・・・灼焔!!」
ぜいぜいと肩で息をしつつ、最後の眷属を燃やし尽くすと、ヴァンはその場でドサッと尻もちをつき、額に流れる汗を腕で拭いながら、天を仰ぎ見る。
「あ゛ーー!疲れたーー」
ヴァンのその言葉に合わせるように、椿もヴァンの向かいにある壁に寄りかかって荒い息を吐く。
首筋を伝う汗が気持ち悪い上に、頬や首に髪が張り付いて鬱陶しいことこの上ない。
「同意ー。何、シン達ってこんな大変な中進んでたの?」
シンだけは汗一つかかずに、やはり涼しい顔で剣を短剣に戻して鞘に仕舞う。
「はは。まさか。もうちょっとマシだったよ。それにしても、こんな狭い空間で共食いもせずに、群れて僕達を襲ってくるなんてね」
「確かに・・・。なんか変だな」
シンの言葉に、ヴァンが神妙な表情で首肯する。
「とにかく、ちょっと休もう。マナをある程度回復させないと、その先辛いし」
シンは提案すると同時に、自分も椿の隣で通路に座って壁に寄りかかった。
ふーーっと長く息を吐いて呼吸を落ち着かせた後、椿がシンに訊ねる。
「ねぇ、マナの回復ってどうやるの?」
この世界の住人であるヴァンにとって、その質問はかなり奇異なものだったらしく、形容しがたい表情を浮かべて椿を凝視する。
「マナは世界素と言うだけあって、大気中や水、生き物に食物等々ありとあらゆる物に含まれているものなんだ。だから、早くマナを回復したい場合にはマナを抽出した専用の薬を飲んだり、食事を摂取するのが一番手っ取り早いんだけど、今は食べ物自体が無いからね、急激な回復は見込めないかな。それでも、こうやって休んでいるだけで、大気中のマナを補充してジワジワと回復していくから、今は大人しく休んでいた方が良いよ。お腹は膨れないけどねー」
「へぇー、そうなんだー」
目を閉じながら椿に説明するシンに、椿はそれだけ言うと、同じように目を閉じて呼吸を整える。
「あんた、本当にナニモンだよ。マナの回復の仕方なんて、誰でも知ってる常識だぞ?」
ヴァンが椿を見上げて聞くが、返答するのももはや億劫らしく、椿は‟うるさい”とだけ返して黙ってしまう。
しばし通路には互いの呼吸音しか聞こえなかったが、それも徐々に落ち着き始めた頃合いで、椿が誰ともなしに聞いた。
「ねぇ、思ったんだけど、魔法があるなら転移魔法とかも使えるんじゃない?それを使ってここから脱出・・・」
「とっくに試したよ。オレは出来ないけど、シンが使えるらしいから」
ヴァンが椿を見上げて答えた後、シンの方を見る。
「結果は?」
「今オレ達がここにいるのが、その答えだよ。察せバカ」
それを聞いて、椿はツカツカとヴァンに近寄り、無表情で彼の頭をスパンッと叩く。
「転移を阻害する為の術式が働いてるみたいでね、無理だったよ。多分、格子に刻んであった呪文の中に、転移阻止の式があるんだろうけど・・・」
その様子を眺めながら、苦笑して説明するシンだが、そこで言葉を切って、少し悩んだ後続けた。
「まぁ、今さら戻れないし、戻れたとしても、あの格子をバラバラにするのは難しいだろうから、諦めて先を急ごうか!」
そう言ってシンが立ち上がると、つられてヴァンも腰を浮かした所で、ズボンのポケットから革袋が滑り落ちた。
チャリッと澄んだ硬い音を響かせて、床に落下したその革袋に、全員が釘付けになる。
『・・・・・・・・・』
時が止まったと勘違いするほどの静寂の中、一番初めに口を開いたのは椿だ。
「・・・・・・それ」
ようやく‟それ”だけ言った所で、ヴァンが転がるように革袋を拾い上げ、立ち上がって急いでポケットに押し込む。
椿はボタンの隙間から懐に手を入れて財布を探すが、当然そこには何の感触も無く、薄っぺらいポケットがあるだけだった。
椿が立っているヴァンにゆっくりと近づき、優しく肩に手を置いて、至近距離でヴァンと視線を合わせる。
「ねぇヴァン?その革袋、どうしたのかな?ものすごーく、見覚えがあるんだけど?」
必死に顔を背けようとするヴァンだが、椿は執拗に追いかけてきて、逃げることを許さない。
「しょうねーん。謝るなら今のうちだよー」
間延びした声で、どこかで聞いたようなセリフをシンが口にした後、椿が続ける。
「今なら、正直に言えば許す。でも、嘘を吐くならあんたをここに置いていくから。覚悟して答えて。その革袋、私の財布よね」
冷静に訊ねる椿に、ヴァンは椿から視線を外したまま答えようとした。
「・・・ち」
「人間ってね、嘘を吐くとき、罪悪感や嘘がバレる恐怖から、無意識に相手と目を合わせないようにするんだって」
椿はヴァンの言葉を遮ってそう言うと、ヴァンの肩に置いていた手を離し、今度はその顔を両手で挟んで、自分に向き直らせ、強制的に目を合わさせる。
「さ、どっち?」
目が泳ぐヴァンと根気よく見つめ合うこと1分。ヴァンは観念したように、目を伏せた。
「・・・ごめん」
素行は悪いが根は素直なヴァン。
無言の空間と椿の目力、そして罪悪感に負けて、ヴァンはポケットからおずおずと財布を取り出し、椿に差し出す。
「ん。許す」
椿は財布を受け取って中身を確認すると、ヴァンの頭をガシッと掴み、豪快に撫でまわした。
ボサボサ頭がさらにボサボサになったところで、ヴァンはウザったそうに、頭を撫でくり回す椿の手を払って椿から距離をとる。
「やめろって!・・・あんた、怒んないのか?」
払われた手が寂しく空中に漂う中、椿はキョトンとすると、さも当然とでも言うように頷いた。
「そりゃあ財布も返って来たし、何より‟許す”って言ったからね。それに、謝罪までされたのに、これ以上怒るなんて事出来ないでしょ。・・・あれ?地面にいくらかばら撒いたと思ったんだけど、減ってる様子が無いわね?」
「拾って入れといたんだよ。もったいないから」
財布を覗いて抱いた椿の疑問に、ヴァンがぶっきらぼうに答える。
「そう。ありがと、拾っといてくれて」
椿はヴァンに礼を言うと、服のボタンを2つ外して、財布を内ポケットに仕舞う。
その様子を横目で見ながら、ヴァンはボソッと呟いた。
「・・・変な奴」
「そこが椿のいい所でしょ?少年」
いつの間に近づいたのか、シンがヴァンにコソッと耳打ちする。
驚いて、囁かれた右耳を手で覆い、シンを勢いよく見るヴァン。
「良かったね少年!椿が許してくれて!」
笑顔のはずなのに、どこか迫力を感じさせるシンを息を呑んで見ていると、服のボタンを留め終えた椿から声がかかる。
「よし!じゃあ、そろそろ出発しよっか!って何してるの?」
「椿が許してくれて良かったねーって話してただけ!行こ!」
そうして早速先頭を歩き始めるシンを、椿は不思議そうに眺めた後、動かないヴァンに対して話しかける。
「ヴァン?」
「あ、あぁ。今行く」
答えながら、ヴァンはふと考える。
もしも。もしもあの時、しらを切り通していたら一体どうなっていたのか。
恐らくシンは、一切の躊躇無く椿を連れ、自分を撒いて行ってしまっただろう。
今日出会い、この迷宮で僅かな時間しか一緒に過ごしていないが、ヴァンにはそう確信できた。
彼は彼女以外に何の価値も見出していない。
自分の事を、いつまでも‟少年”呼びするのも、そういう事だろう。
だから、彼女が自分を見捨てると言えば、その通りに実行する。そこに何の感情も芽生えさせないで。
ゾクリッとヴァンの背筋に寒気が走るが、頭を一度振って自分の嫌な想像を払い、先を行く椿達に駆け寄って一緒に歩き始めた。
その後、低1級の眷属2体に遭遇した以外は概ね順調に、再度横一列になって通路を進んでいると、椿がシンに話しかける。
「でも、これだけ大量に眷属を倒しているんだから、眷属狩りに報告したら、凄い額の報奨金が貰えそうよね!」
ホクホクした雰囲気の椿に対して、ヴァンが思いっきり冷水をぶっかける様に口を挟む。
「何言ってんだ。ここに狩人はいないし、黒狩りの紋章も無いんだから、無理に決まってんだろ」
「・・・え・・・どういう事?」
意味が理解できない椿は、呆然とした様子で聞くも、その返答自体予期していなかったのか、ヴァンもポカーンとしてしまうが、すぐに我に返るとシンを見やった。
「説明してあげて、少年」
シンが深く頷いてヴァンに促す。
「えぇ?!マジでわかんねぇのかよ。黒狩りの紋章が映像を記録してんだよ。それを黒狩りの管理部の人間が確認したら、報奨金が出るの」
ヴァンの大雑把な説明に、余計疑問が増えた椿は、やはり頼りになるのはシンだとばかりに、シンを見つめる。
それを受けてシンは嘆息すると、改めて詳しく説明を始めた。
「ザックリすぎるよ少年。椿、そもそも不思議に思わなかった?眷属の死体は消えてしまうんだよ?それなのに、どうやって倒したって証明するのか」
シンの問いに、椿はポンッと手を打ち、確かに!とシンを指差した。
「それを解消するために、眷属狩りの紋章には小さな青い玉が埋め込まれていてね、それが映像記録媒体になっているんだ。眷属を倒した証明として、その紋章を報告書と共に提出すると、後日報奨金が貰える仕組みって訳」
「へぇー、よく考えられてるのねー」
感心する椿に、ヴァンが片手を腰に当てて小馬鹿にしたように話す。
「当ったり前だろ!じゃねーと不正されて、横領されまくりだってーの!」
「最初に倒した黒蟷螂の時は、ガイ達がいたからね。ガイ達が見届け人になって報告してくれたから、僕達に報奨金が支払われたんだよ。でも、今回は僕達と少年しかいないから、報奨金は無理だろうねぇー」
最後にシンがそう付け加えると、椿はあからさまに肩を落とす。
「はぁー。骨折り損のくたびれもうけか・・・」
「戦闘と魔法のいい練習台って思う他ないね」
シンの慰めるセリフが、より辛く椿にのしかかる。
気分を変える為に、椿は努めて明るい声でヴァンに話しかけた。
「魔法って言えば、ヴァンの魔法凄いよね!まだ10歳そこらで、あれだけの魔法が使えるなんて!」
「そうだね。魔法の才能や、マナを貯蔵出来る量は遺伝することが多いから、少年の両親は高名な魔法士だったのかな?」
シンが頷いてヴァンに聞くと、ヴァンは途端仏頂面になり、吐き捨てるように言った。
「母ちゃんは知らねぇ。でも、父ちゃんはそれなりに有名だったみてぇ。若い頃は騎士団の魔法士だったって言ってたから。でも、オレが産まれてすぐ、貴族の偉い奴を護衛した時に気に障るような事をしたらしくて、騎士団をクビになった。そうしたらあっという間に落ちぶれて行って、最後は貧民街に行き着いた挙句、2年前オレを置いて消えちまった・・。今ごろ何してんのかね」
ヴァンの経歴が、予想以上に重いものであったことに、軽い気持ちで話題を振った椿は、何と言ったらいいかわからず、閉口してしまう。
「正義感の強い熱血野郎だったから、暑苦しくてたまらなかったけどな!弱いものいじめはするな。人に迷惑をかけるな。困っている人がいたら助けろ。他にも色々言われた。・・・だけど、汚い事をしなきゃオレは生きていけなかった。今のオレを見たら、父ちゃんすんげぇ怒るんだろーなぁー・・・」
歩きながら天井を見上げ、ヴァンはしみじみと話す。
その穏やかな紅い目には、懐かしさと一緒に寂しさが見え隠れしていた。
しばし懐かしい記憶に浸っていたヴァンだったが、一度嘆息して現実に戻ってくると、椿とシンに今の自分の気持ちを素直に伝える。
「いなくなった父ちゃんの事、別に恨んじゃいねぇよ。貧民街にいたら、そんな話ゴロゴロあるし。ただ、なんで?とは思うけどな」
「・・・そう」
報奨金の話など霞むほどの暗い話に、椿はようやくそれだけ言うと、その先は誰も口を開くことなく進む。
やがて、あれほどあった分岐が無くなり、一本道になる。
唐突に一つきりになった道を、警戒しながら進み、そのうちにこれまでで一番の広い空間に出た。
そこは巨大な球状に抉り取られた空間で、それに沿うよう造られた灰色の円形闘技場が、静かに存在していた。
------------------------
それより少し前、椿達が報奨金の話で盛り上がっている頃。
隠し部屋でずっと椿達をモニターしていたカルミリスは、ニンマリと口を三日月形にして笑い、突然立ち上がると、部屋を出てバルドスとターレンの元へと向かった。
今この本邸には、時間も時間な為、兵士や使用人の類いは誰もおらず、エルンドラ一家3人しかいない。
プレイルームを出て、人気の薄くなった邸宅の階段を上がり、左側にあるターレンの部屋に足取り軽く進んで、扉をノックする。
部屋の中から、バルドスがだみ声で入室を許可する旨を告げた。
相変わらず醜い声だ。とカルミリスは内心バルドスを蔑むが、そんな様子はおくびにも出さず、扉を開ける。
「失礼します。父上、母上。お加減はいかがですか?」
見ると、ターレンは腕と肋骨を骨折しているようで、上半身は白と金の豪華なドレスの上から、包帯と専用のギプスでぐるぐる巻きにされ、腕にもギプスが嵌められていて、首にかかった布で宙づりにされていた。
「これのどこが良さそうに見えるんだ?お前の目は節穴か?」
カルミリスの気づかいの言葉に、苛立たし気に答えたのはバルドスで、ターレンはと言うと余程ショックな事があったのか、あれから2時間以上経つのに未だに放心状態から抜け出せていない。
「申し訳ありません」
カルミリスは腰を90度に折って謝罪を口にするが、バルドスから見えないのをいい事に、その表情は侮蔑の色が強く滲んでいた。
「で?何の用だ。あの売女めが死んだか?」
「いえ、それはまだ。ですが、母上をその様な状態にさせた者も含め、そろそろそうなりそうなので、呼びに来た次第です」
顔を上げたカルミリスの顔には、先ほどの侮蔑の色など微塵も感じさせず、いけしゃあしゃあと宣う。
「そうか。では、プレイルームに行くとしよう」
そう言ったバルドスを、カルミリスは軽く手で制して提案する。
「いえ、あそこでは無く、実際に見物してみませんか?母上も連れて」
その言葉に、バルドスは目を吊り上げて猛反対した。
「何を言っている!そんな事、危険すぎて出来るはずが無いだろう!第一ターレンはこんな状態で動かせん!」
以外にも愛妻家なのか、バルドスは妻の身体状況を慮っている節があるが、それが見かけだけなのをカルミリスはよく知っていた。
真の愛妻家であるならば、他の女など目もくれない筈だが、バルドスは事あるごとに好みの女を攫ってきては凌辱の限りを尽くし、飽きれば眷属のエサにするという事を幾度となく繰り返している。
使用人に手を出したことも数知れずだ。
一方のターレンも、バルドスとよく似ていて、美少年を攫っては情事に耽り、飽きればやはり眷属のエサにしてしまうのが常だった。
そんな事がカルミリスが産まれた時からの日常になっていた為、カルミリスは密かに自分の父親は本当にバルドスなのか、長い間疑念を抱いてきたが、今ではもはやどうでもいい事に分類されていた。
仮面夫婦、仮面家族など、貴族でなくとも何処にでもある話。
自分の種が誰かなど、こうなった今となっては些末な事だ。
「いいえ。大丈夫ですよ、父上。安全に最下層まで行けるルートがございますから。そこでしたら、眷属に襲われる心配もございません。母上は私がお運びしますので」
春の木漏れ日の様な穏やかな笑顔で、カルミリスはバルドスに進言する。
「そ、そうか。いつの間にそんなルートを・・・。いやしかし、やはりやめておこう。私はモニターで見るだけで十分だ」
カルミリスに気おされて、バルドスは同意しかけるも、どうしても嫌らしく、結局は拒否した。
「そう仰らずに、あの者達の無様な姿を見れば、きっと母上も正気に戻ります」
それでも諦めずに、カルミリスはバルドスに再度提案をゴリ押しすると、いい加減しつこかったのかバルドスが声を荒げる。
「しつこいぞ!行かんものは」
「そう仰らずに。道中は安全ですから。ね?父上」
カルミリスの翡翠色の目が妖しく光ると、急速にバルドスの目から意思が薄れていくのが見てとれる。
簡単な催眠状態にしただけなので、ちょっとした刺激ですぐに正気に戻ってしまうが、そもそもバルドスを移動させるのが目的の為、大した問題でも無い。
自我を失くしたバルドスは、平坦な声でカルミリスの言葉を反復する。
「・・・・・・安全」
「はい。あの者達が苦しむサマ、見たいですよね?父上」
「・・・・・・見たい」
「私も母上も一緒ですから、なんの心配もございません。行きますよね?父上」
「・・・・・・行く」
「では参りましょう」
「・・・・・・」
人形とやり取りをしているかのような、気味の悪い光景だが、ここには人形の様になってしまったバルドス、正気を失ったターレン、首謀者のカルミリスの3人しかいない。
事態の異常性を認識できるものは一人もおらず、だからこそ、あれ程までに被害が拡大してしまったのだろう。
いや、結局のところ、特権階級という肩書きで諦め、数々の異常を見逃してきたこの町の失態、と言えるのかもしれない。
いずれにしても、その話はもう少し先の事だ。
とにかく、カルミリスはターレンを横抱きにして運び、バルドスは虚ろな目でカルミリスの後に続いて部屋を出て行った。
向かった先は1階にあるバルドス像。
カルミリスはターレンを抱えている為、両手が塞がっている。
「父上、お願いします」
「・・・・・・」
カルミリスがバルドスに促すと、バルドスは無言で像に近づき、像の裏、太もも付近にある隠しレバーを引く。
するとバルドスの像ごと、床の大理石がパズルの様に横へとスライドし、像の下に隠された階段が現れる。
カツカツとカルミリスが階段を下り、やはりその後ろにバルドスが続く。
着いた先は地下1階。
ここには真正面にバルドス、右手にターレン、左手にカルミリス、それぞれの秘密の部屋がある。
秘密の部屋と言えば聞こえはいいが、要は攫ってきた人間との情事部屋の事だ。
椿とシンが連れ込まれたのもココである。
カルミリスも、以前は両親と同じように、少女やら少年やらを連れ込んで楽しんでいたが、今ではもっぱら眷属の調整に励んでいた。
カルミリスは左手にある自分の部屋に向かうと、像の時と同じくバルドスに扉を開けさせて入室する。
部屋の内装はバルドスの部屋と変わらない。
赤と金を基調にしたケバケバしい部屋だ。
違うのは扉が3つある事だけ。
一つは今入って来たバルドス像に繋がる扉。もう一つはベッドの下方、第2第3補給口に通じる扉。この扉の先からバルドスの部屋にも通じている。
最後の一つはベッドの左手、今入って来た扉の反対側に作られた扉で、これが先に割愛した第4補給口だ。
カルミリスがバルドスに内緒で造らせた、最下層の闘技場に直通で繋がっている、唯一の通路となっていた。
カルミリスはベッドを迂回して、第4補給口に進むと、またしてもバルドスに扉を開けさせる。
扉の先は殺風景な灰色で統一されていて、スロープでは無く階段になっており、傾斜はそれほどキツくないものの、椿達が通っている通路と比べたら、急激に下へと向かっていた。
迷宮と同じく、通路には外灯が点々と取り付けられていて、白く冷たい光が階段を照らしている。
コツコツと階段を下る音だけが響く。
やがてそう時間をかけずに、カルミリス達は目的の地下闘技場に通じる扉に行き着いた。
だがカルミリスは扉を開けずに、その横に作られた、上に向かう階段を上がり始める。
階段はすぐに終わりを迎え、アーチ状の出口を潜ると、そこは最前列の観客席だった。
「照光」
足元に金の魔法陣を作り、短く言うと、一瞬で魔法陣が闘技場の端から端へと広がり、金の燐光を残して消える。
それと同時に、闘技場全体が真昼の様に明るくなった。
迷宮側の出入り口に目を向けるが、椿達はまだ到着していないらしい。
バルドスに座るよう命じ、ターレンをその左隣に座らせると、カルミリスは塀に手を突いて見下ろし、闘技場のメインステージで座っている人物に話しかける。
「やぁ。元気そうで何よりだ。え?さっぱり元気じゃない?ははは、見れば分かる。皮肉だ。今回の救世主はなかなか面白いぞ。何せ私を爆笑させるほどだ。何?お前を笑わせるなど造作も無い?貴様と言う奴は、相変わらず癇に障る奴だな。だから、そんな有様になるんだぞ。まぁいい。とにかく期待して待て」
親し気に話しているが、座っている人物は一度も声を出していない。
全てカルミリスの独り言のはずだが、そうとは言い切れない何かが、ここには漂っている。
カルミリスはトサッとバルドスの右隣に足を組んで座ると、椿とその仲間達の到着を、今か今かと期待に胸を躍らせて待つことにした。
------------------------
しんと静まり返った丸い空間は、一番高い所では天井まで30mあり、直径はエルンドラ家の本邸と別邸を足してもさらに大きく、恐らくはエルンドラ家の敷地全てに跨った広さであることが伺える。
そこに建設された円形闘技場は、ご丁寧にも階段状になった観客席まで設えられ、茶色い乾いた地面と観客席のある所まで、6mの高い塀が築かれている。
出入り口は椿達が入って来たアーチ状の通路と、椿達から見て左側にある扉の二つしか無い。
椿達は闘技場のメインステージである、むき出しの地面に足を踏み入れ、警戒しながら進む。
多少進んだところで、誰もいないと思われた闘技場を見回すと、椿達の対角線上に、塀に寄りかかるようにして黒い人影が、静かに座っていた。
椿が人影に近寄ろうか悩んでいると、シンが椿を庇うようにスッと前に出る。
ヴァンはと言うと、何かを察したのか、逆に椿の後ろで身体の半分を隠していた。
「どうやら、ここが終点みたいだね」
シンが冷静にそう言うと、突然観客席からパチパチと拍手が上がる。
「congratulation!おめでとうございます!この闘技場に辿り着いたのは、あなた方を含めて二組目ですよ!」
拍手をしながら声高らかにそう労ったのは、左側の扉の上、観客席の最前列で笑みを浮かべて優雅に立つ、金の長髪に発達したもみ上げ、翡翠の目をしたカルミリスだった。
次の瞬間、ノーモーションでシンが短剣を長剣に変えて勢いよく切り上げ、発生した巨大な剣風がカルミリスの右隣の座席を上2つに渡って切り裂いた。
凄まじい破砕音と共に、座席部分は大きく破壊され消えて無くなり、その瓦礫がバラバラと周辺に降り注いだ。
余波の風がカルミリスの髪を散らかし、爆音が鼓膜を激しく震わせる。
小さな礫となった石の塊が、バルドスとターレンに当たり、それが原因でバルドスの催眠状態が解かれる。
ターレンも僅かに意識が戻ったのか、虚ろな目でおもむろに視線を下げ、シンを視界に収めた。
その途端、ターレンは目を見開き、その喉から絹を引き裂いたような、もしくは隙間風のような甲高い絶叫が響き渡った。
「ひぃ!ひゃぁあああぁぁああ!!あぁ、や、ぐひっひぃぃっぃひっひい」
もはや悲鳴なのか嗚咽なのか分からない声を上げながら、必死に足を動かし、少しでもシンから距離を取ろうと、階段の座席を登って逃げようとするターレンに向かって、カルミリスはゆっくりと動く。
「こ、ここは、最下層!?い、いつの間に!一体何が?!」
ターレンの部屋で催眠状態になってから、今に至るまでの記憶が無いバルドスは、状況を飲み込むことが出来ずに、ただただ混乱して視線をあちこちに彷徨わせている。
そのバルドスの目の前を、音も無く優雅に通り過ぎたカルミリスは、座席を登ろうとするも腰が抜けている為、這いずる事しか出来ていないターレンに近づき、その肩に手を置いて優しく、しかし絶対的な強制力でもって元の席に座らせた。
「駄目ですよ。母上。ここを、動かないで下さいね」
「ひぃっ!ひぎっっ」
カルミリスの翡翠の目を見たターレンは、引き攣った声を出した後、顔を醜く歪ませたまま、彫像の様にピクリとも動かなくなってしまう。
「ターレン?ターレン!?」
ターレンの肩を掴んで揺さぶり、呼びかけるバルドスだが、一切反応しない妻を見て、妻の目の前に立っているカルミリスに、困惑と怒りの篭った目を向ける。
「カルミリス!貴様、一体何をした!!」
「父上、お静かに」
カルミリスは人差し指を唇に当ててそう言うと、バルドスはそれを聞いた途端、ターレンと同じように固まってしまう。
だが、先ほどと違うのは、バルドスの目に確固とした意志が存在している事だ。
自我を奪わず、ただ黙らせる。
カルミリスがしたのはソレだった。
突然の出来事に、椿とヴァンは唖然とするばかりで、カルミリスはと言うと、ゆっくりと振り返り笑顔を崩すことなく、シンを見据えた。
「危ないじゃないですか。何をするんです?」
シンは鉄の様に冷たく、カルミリスに詰問する。
「君でしょ?椿の髪を切ったの。謝ってよ」
カルミリスは一瞬目を丸くすると、口に手を当ててクスクスと笑い始める。
「まさか、それだけの理由で?たかが髪、しかも一部分ですよ?そんな事で私に斬りかかったんですか?」
「僕にとっては十分な理由だよ」
シンがカルミリスに剣を向けたまま、冷ややかに言うと、カルミリスは大仰に手を広げて、芝居がかった調子で答えた。
「それはそれは、大変申し訳ございませんでした。これで、ご満足ですか?」
「あからさまに謝意が篭ってないのが気に障るけど、謝罪は謝罪か。どう?椿?」
唐突に話に巻き込まれた椿は、驚いて身体を跳ねさせる。
「え!?私!?私は別に・・・。髪なんて放っとけばまた勝手に伸びるし」
冷や汗と共に椿が言うと、シンは剣を下げて上から目線でカルミリスを許す。
「椿もこう言ってるし、許してあげるよ。カルミリス・・・だっけ?良かったね」
「私、一応貴族なのですがね」
「どうでもいいよ」
睨み合うシンとカルミリスに、椿の後ろにいたヴァンがいきなり怒声を浴びせた。
「おい!!そんな事より、ここが終点ってなら出口もあるんだろ!さっさと教えろよ!!」
カルミリスはついっと疎まし気に、ヴァンに視線を向ける。
「躾のなっていない人間ですね。出口ならありますよ。この下にある扉、その先の階段を上って行けば地上に出られます。ただし、そこに座っている奴に勝てたら、扉が開くシステムになっていますので、悪しからず」
カルミリスが視線で示す‟奴”とは、椿達の正面奥にいて、ずっと座ったままで一言も喋らない人影の事だった。
よくよくその人物を見た途端、椿とヴァンは一気に顔を痛々し気に歪める。
人影は、身体の四分の三が黒く焼け焦げていて、辛うじて焼け残ったのは右上半身と右顔面だけだ。
黒い短髪に映える、血の様に紅い目を異常にギラつかせた‟奴”を見て、ヴァンは息を呑んだ後、絞りだすように呟いた。
「高位・・・眷属・・・」
「本日、帰宅する途中で見つけたんですよ。どこかの誰かさんに、かなり手酷くやられたみたいでしてね、こんな痛々しい姿になっていました。おかげで、口はきけない、動くこともままならない、哀れなこのモノをそのままにしておくのも忍びなく、こうしてここに門番として置いているのです」
カルミリスが、わざとらしく目元を手で拭いながら流暢に語る。
「あぁでも、動けなくてもあなた達を相手にするぐらいは訳ありませんから、ご安心を」
先ほどとは打って変わり、ニッコリと微笑んで宣言すると、それに反応してヴァンが激昂した。
「だからってお前!!」
「この迷宮と言い、眷属を連れてくる事と言い、こんな危険な事してあなたに何のメリットがあるの?」
平静を失ったヴァンを落ち着かせようと、身体を使って言葉を遮り、代わりに椿がカルミリスに訊ねる。
「メリット・・・ですか?はは。懐かしいですね。そんな事を聞いてきたのはあなたで二人目ですよ。一人目は、そこで骨になっていますが。それはともかく、この迷宮も眷属を配置するのも、全ては父の発案です。ここは本人に直接聞くのが良いでしょうね」
そう言うと、カルミリスは身体を反転させ、バルドスの肩に軽く手を置いた。
「父上、喋っても構いませんよ」
カルミリスがその言葉を口にした瞬間、バルドスはぶはっと息を吐きだす。
別に息を止めさせていた訳では無いが、バルドスからすると、それと同等の苦痛だったようで、荒い息を繰り返していた。
バルドスはすぐに呼吸を落ち着かせ、真っ先にカルミリスを怒鳴る。
「カルミリス!貴様!!父親の私に向かってよくも!!」
「父上、そう興奮なされては身体に障りますよ」
興奮する原因を作った張本人が、いけしゃあしゃあと言い、火に油を注ぐ。
「貴様!!」
その瞬間、息子を殴ろうと立ち上がったバルドスの額に、カルミリスはトンッと軽く指を置いた。
「嫌な記憶があるから憤ってしまうのです。さ、忘れてしまいましょう」
途端、すうっとバルドスの表情から怒りが消え失せ、その後には状況が呑み込めていない、キョトンと立ち尽くすバルドスがいた。
「私は一体・・・。ここは?」
「父上、ここは最下層の闘技場です。メインディッシュの最後を見たいからと、私と母上の三人でここに来たのですよ。お忘れですか?」
すかさずカルミリスが、一部記憶の失ったバルドスに虚偽の情報を吹き込んで誘導する。
「おぉ!そうだったな!卑しい者どもめが!」
わっはっはと愉快に笑うバルドスに、さらにカルミリスは誘導していく。
「つきましては、あの者達がここを造った経緯を知りたいとの事です。是非、偉大な父上からご説明頂きたいと思うのですが、いかがでしょうか?」
‟偉大な”と持ち上げられたことで気を良くしたバルドスは、しきりに首を縦に振り快諾する。
「いいともいいとも!!」
バルドスはカルミリスを横に退けて、ずいっと前に出ると、あの馬車の中で見たナメクジの様な微笑を浮かべて、椿達を見下ろした。
「何故ここを造ったか!そんな分かり切った事を聞くとは、やはり下等生物だな!当然、私達貴族の優雅な嗜みだからだよ!」
椿は、カルミリスがバルドスに施した事について、問いただしたい気持ちを抑え、バルドスと向き合う。
「優雅な嗜み?確かに、イイ趣味をしてるけど、それって街を危険に晒してまでする事?何の罪も無い人達を、エサとして犠牲にするほど重要な事なの?」
「当たり前だ!私達は貴族だぞ?この国の、ひいてはこの世界の経済を回しているのは私達貴族だ!その心労たるや、貴様ら下賤の者には理解出来まい。であるならば、それを解消する為の催しに、多少の危険や犠牲など、考えるに値せん!」
「・・・クソ野郎が」
堂々と手を広げて、悠々と演説するバルドスに、ヴァンが嫌悪を込めて吐き捨てる。
「腐ってる・・・」
続けて椿も、不快感を隠すこともせず毒づいた。
「っと、こういう訳です。用はストレス解消ですね。庶民には理解されないのが辛い所です」
「楽しそうなストレス解消法だね。巻き込まれた人達はたまったものじゃないけど」
カルミリスがやれやれと、ため息交じりにぼやくと、シンが嫌味をふんだんに含んだ口調で返す。
「今のお前達と同じようなことを言った不敬者がいたな。確か2年前か?この闘技場まで辿り着いて、最後の中位種を倒せば、貴族に取り立ててやると言った者がいただろう?」
バルドスが天井を見上げて、記憶を探りながら話す。
最後の問いかけは、カルミリスに対してしたものだ。
「あぁ、いましたね。カーディナル・・・と名乗っていましたか。炎のような赤い髪と目が特徴的な男性でした。ですが、‟貴族に取り立てる”のではなく‟騎士団に戻してやる”が条件だったかと」
「え」
思わず呟いたのはヴァンだった。
「おぉ、そうであったな!」
「まぁ、結局は勝てずに、中位種の腹に収まってしまいましたけれど。かなり健闘したのですが、最後の最後でマナが尽きてしまいましてね。惜しい方を失くしました。あぁ、彼の残骸なら、あなた達の後ろに転がってますよ」
それを聞いたヴァンは一気に反転すると、迷宮側の出入り口へと駆け出す。
そして、出入り口近くの塀の下に、白いコロコロとした塊を発見してしまう。
「ちょっと、ヴァン!?」
突然走り出したヴァンを追って、椿とシンも塀に向かって走る。
その後ろから、カルミリスの声が追いかけてきた。
「そう言えば、彼は食われる直前に、何か壁に書いていましたね。遺書でしょうか?せっかくなので書き終わるまで待っていたかったのですが、上手く眷属の制御が出来なかったもので、その前に食べられてしまいました。まだ2年ですし、そこに残っていますかね?」
平然と宣うカルミリスの言葉を聞いて、白い塊の前で立ち尽くしていたヴァンは、恐る恐る壁を見やる。
そこにはカルミリスの言う通り、この世界の言葉で何やら文字が刻まれていた。
「どうしたの?ヴァン」
追いついた椿が、心配そうにヴァンに話しかけるが、ヴァンはピクリとも動かずに壁の文字を凝視している。
「シン。なんて書いてあるの?」
椿が訊ねると、隣に立ったシンが壁の文字を読む。
「‟済まないヴァーミリオン。せめてもう一度会いた”・・・そこで終わってるね」
ヴァンの見開かれた目から、大粒の涙がポロポロと零れて、地面を濡らしていく。
「嘘・・・。嘘だ・・・。父ちゃん・・・・・・」
涙と共に零れ落ちる言葉を聞いて、椿はハッとヴァンを見る。
「ヴァン、もしかして」
「おぉ!思い出したぞ!カーディナル!!以前、私を護衛した際に‟無闇に人々を虐げるな”等と無礼な口をきいた騎士だったな!あまりにも腹が立ったから、騎士団に居れないようにしてやったんだったわ!わっはっはっはっは!!」
「はい。それで挽回の為に、この地下迷宮の攻略に乗ってくれたんですよ。息絶える寸前まで、無様に‟ヴァン”と繰り返していましたねぇ」
椿とヴァンを無視して、バルドスとカルミリスが心底楽しそうに笑い、会話を繰り広げる。
それが最後の一押しだったのか、ヴァンは膝から崩れ落ちて、へたり込んでしまう。
そうして、一気に感情が爆発した。
「うそ・・・やだ・・・や、やだあぁぁあああぁぁぁぁああぁぁあ!!」
ヴァンは叫び声を上げると、地面に蹲り、父親の骨の欠片を握りしめて、堰を切ったように咽び泣き始めた。
ヤダと繰り返して泣きじゃくるヴァンに、椿はかける言葉が見つからず、同じように座って、ただ沈痛な面持ちで背中をさすり続ける。
「はっはっは!どうした?知り合いだったか?ん?はっはっは!!」
喜色満面で嘲笑うバルドスに、椿は明確な殺意を抱き、ギリッと歯ぎしりをしてバルドスを鋭く睨んだ。
それを受けて、バルドスは殴られた時を思い出したのか、ひっと怯えた声が口から漏れるが、椿と自分の間にかなり距離があることを思い出し、すぐにふてぶてしい笑みに戻る。
「フンッ!身の程知らずの愚か者に相応しい、惨めな最期だったわ!余興にはちょうど良かったぞ!」
ぷつっと、椿の中で何かが切れる音が聞こえた気がした。
多分それは、堪忍袋の緒とか理性の糸と呼ばれるもの。
すうっと急速に頭が冷え、自らの残酷な部分が急浮上してくるのを感じながら、顔をヴァンの背中へと戻す。
「シン。先に行って、あのゴミ一家を引きずり下ろしてくれる?私もすぐに行くから」
いつもよりワントーン低い声で、椿は瞬きすらせずに、淡々とシンに言う。
シンは一瞬目を丸くした後、金色の目を輝かせて、薄く微笑み聞き返した。
「いいよぉ。殺す?」
「まだいい」
「おっけー」
ニッコリと笑い、遊びに行くような気軽さでシンは言うと、高く跳躍してエルンドラ一家の元へと向かって行った。
「ヴァン」
残った椿は、嗚咽の止まらないヴァンの背中に、ポンッと手を置く。
ビクッと反応したヴァンは、涙を目に溜めたまま、ゆっくりと椿を振り返った。
ヴァンの顔は、涙と鼻水でグズグズになり、瞼は腫れあがり目は真っ赤に充血していて、憐れなほど痛ましい状態になっている。
その顔を真っ直ぐに見つめて、椿は話し始めた。
「ヴァン。私、救世主なんだって」
「は?」
ヴァンは顔を手で拭いながら、身体を反転させて椿と向き合うと、唐突な話に意味がわからず、思わず聞き返してしまう。
「私もピンと来てないんだけどね。救世主なんて二次元でしか聞いた事無かったし。でもま、私がここで与えられた役割が救世主だって言うなら、それに従おうと思ってる。だから、あそこで座ったままの奴が眷属なら倒すし、眷属の巣を作ってるあのゴミ一家を処分するつもりでいる」
そこまで言うと、椿はおもむろにレッグホルスターからダガーを抜き、ヴァンの目の前に置く。
「これで何とかなるとは思わないけど、一応護身用に置いてく。ヴァンはここから動かないでくれると助かる。でも、あの一家に復讐したいのなら、好きにするといい」
「・・・止めないのか?」
椿の背後でバルドスの怒鳴り声と、それに続いて爆発音が聞こえてくる。
チラッと確認すると、シンがカルミリスとバルドスを相手に、戦闘を始めたのが見えた。
粉塵が舞っている為、ターレンが無事なのか、そこまでは分からない。
シンならばしばらくは持つだろうと判断し、椿はヴァンに視線を戻して話を続ける。
「止めない。‟死んだ人は復讐なんて喜ばない”とか‟復讐しても死んだ人は生き返らない”とか、そんなテンプレは聞き飽きた。復讐なんて、結局は当人の自己満足でしかないんだから、そこをきちんと理解しているなら、幾らでも復讐するといい。逆に、下らない説得に応じるぐらいなら、最初から復讐なんて考えるな」
救世主にあるまじき事を平然と言う椿に、ヴァンは唖然とした後フッと笑う。
「あんた、本当に救世主かよ?」
「私が聞きたいぐらいよ」
椿は肩を竦めて、困ったように言うと、ヴァンと顔を見合わせて軽く笑った。
背後では爆発音と地響き、叫び声が聞こえてくる中、椿とヴァンの周りだけは穏やかな空気が流れている。
そんな錯覚を起こしてしまうほど、二人の表情は和やかだった。
「それじゃあ、私は行くから。そろそろ行かないと、シンがむくれる」
そう言って立ち上がった椿の手を、ヴァンは咄嗟に掴んで、怯えた様子で椿に訴えた。
「なぁ!オレ、さっきから変な声が聞こえるんだ!‟復讐したいのなら手助けしてやる”とか‟オレと契約すれば絶大な力を与えてやる”とか!オレ、オレどうしたらいいんだ!?確かにあいつ等を殺したい。100万回殺しても飽き足らないぐらい憎い!でも、この声に応えたら、もう後戻りできない気がして・・・。オレ・・・」
俯いて苦しそうに話すヴァン。
尋常でないヴァンの様子に、椿はまた跪いて掴まれている手を握り返す。
「ヴァン。それも、自分で決める事だよ。後悔の無い人生なんて存在しない。みんな、何かしらが起因して後悔の人生を歩んでいる。ヴァンがその‟声”に応じようと応じまいと、きっと何かしら後悔すると思う」
椿はそこで一度言葉を途切ると、言葉を選んでいるのか、それとも伝えるべきことをまとめているのか、少し考えた後話を続けた。
「だから重要なのは、自らの頭でよく考え、確固たる意志を持って選択する事だけ。覚悟さえ決まってしまえば、後悔の度合いも軽くなる。私は、ヴァンが自分で決めた事なら、それを否定したりしない」
椿の言葉が、素直に自らに染み渡っていくのを感じ、ヴァンは自分の頬が緩むのを感じる。
「・・・変な奴。そんな事言われたの、初めてだ」
ヴァンがそう言うと、椿も笑顔になって立ち上がり、ヴァンに向かって穏やかに話す。
「価値観は人それぞれだからね。私はそう考えてるだけ。どう受け取るかは、ヴァン次第だよ。それじゃ、ヴァン。覚悟ある選択をしてね」
最後にヴァンにそう伝えて、椿はシンの元へと走っていく。
「救世主って、わけわかんねぇな」
微笑を浮かべてヴァンは呟き、手の中で握りしめていた、父親の骨を眺める。
「覚悟ある選択・・・か。シンにも同じような事、言われたな・・・」
ヴァンの眼前で、椿が残したダガーが静かに光を反射し、銀色に輝いていた。
------------------------
シンに向かって駆け出した椿が見たのは、バルドス達がいた場所は抉られ、さらに少し横にずれた座席部分が崩落し、地面に軽い丘が出来上がった光景だった。
横にずれていたおかげで、なんとか地上へと上がる扉は無事なようだ。
シンは言いつけ通り、エルンドラ一家を地面に落とし、カルミリス、バルドスと戦っている。
ターレンはあの戦闘の中、運よく生き残っていたが、新たに足を折られたらしく、戦っている三人から遠ざかろうと、必死に這いずりながら、迷宮の出入り口方向へ逃げている最中だった。
ターレンを殺そうかどうか、一瞬考えた椿だったが、シンと合流するのが先決と考え、ターレンを無視して走る。
カルミリスは風の魔法が得意なようで、バルドスに風で作った緑色の長剣を与え、さらにシンに対して風の刃を放って攻撃をしていた。
緑色の長剣は、柄から刀身まで緑一色。十字型の平凡な形をしており、刀身には逆巻く風を纏っている。
本来風に色は無いが、分かりやすくする為に、わざと着色しているらしかった。
風の剣を与えられたバルドスは、その脂肪の塊の身体に見合わない機敏さでシンに斬りかかっているが、どうやらカルミリスに身体を操られているみたいで、その口からは必死に‟やめてくれ”と叫び声が上がっている。
シンはと言うと、右手の剣でバルドスの風剣を受け、左手で雷の魔法を使用し、カルミリスの風の刃を打ち消して対抗していた。
「シン!」
椿がシンに呼びかけると、シンはすぐに振り返り抗議した。
「遅いよ椿!すぐって言ったのに!」
椿はザっとシンとバルドスの間に滑り込むと、バルドスの身体を勢いよく蹴って弾き飛ばす。
「いぎぃ!!」
ラードのような顔を涙と鼻水、涎で塗れさせたバルドスは、激痛からか苦悶の呻き声を上げる。
よく見れば、バルドスの両腕は酷い有様で、手首は醜く捻れ、肘からは白い骨が突き出していて、明らかに剣を握れる状態では無かった。
それなのに、その手は剣を手放す様子が全く無く、椿とシンから距離を取りつつも、構えを解く気配は感じられない。
椿はシンと背中合わせになりながら刀を抜き、バルドス、カルミリスと対峙する。
椿がバルドス。シンがカルミリスと、と言った配置だ。
「うわぁ・・・。痛そう・・・」
バルドスの両腕を見て、思わず椿が零すと、シンがしれっと答える。
「椿を襲った上に殴ったんだ。当然の報いだよ。本当なら挽き肉にしてやりたかったけど、あの程度で我慢してあげたんだ、むしろ感謝して欲しいよ」
「・・・あれ、シンがやったんだ」
引き攣った顔に苦笑いを浮かべて椿が言うと、シンは深く頷いた。
「まぁね!で?向こうはいいの?」
‟向こう”とは、もちろんヴァンの事だろう。
椿がなぜ残ったのか、その理由にもある程度見当がついているが、改めて椿に聞いてみる。
「えぇ。伝えるべきは伝えた。後はヴァンが自分で決める事」
「この状況で悠長に会話などと、ずいぶん余裕ですね。風牙」
言うが否や、カルミリスは手に魔法陣を浮かべ、風の刃を椿とシンに向けて放ってくる。
その刃を、シンが剣風で相殺して打ち消した。
「と言うか、私達では無くカレと戦って欲しいんですがね。いかがです?今からでもあっちと戦いませんか?」
顎をしゃくり、少し困ったように提案するカルミリスに、シンは続けて剣風を放ちながら椿を見る。
「だって。どうする?椿」
カルミリスは、シンの剣風を軽く身を捻って躱した後、椿の様子を窺う。
「あっちとも戦うけど、あなた達の処分が先よ」
椿がバルドスから目を離さず、冷酷に答えると、カルミリスは口の端を吊り上げて笑い、楽しそうに宣った。
「それは残念です。では父上。謹んで救世主のお相手を務めて下さいね」
「ぎぃああ!いだいぃ!!助けて!やめてくれぇ!!」
言葉とは裏腹に、バルドスが折れた腕で剣を構え、椿に向かって斬りかかってくる。
とは言え、手首と肘が完全に折れている為、剣を握ってはいるものの、ブランブランと威力に欠ける斬撃を繰り返す。
肘からは剣を振るたびに、血がパタパタと周囲に飛び散っていた。
それを横に跳んで避ける椿は、カルミリスに問いかけた。
「コイツ、あんたが操ってるの?」
「えぇ。そうですよ。父上は戦闘なんて逆立ちしても出来ませんからね。ご助力して差し上げているのです。まぁ、こちらも戦闘中ですので、動きが多少単調になってしまうのは仕方ないのですが」
「自分の父親でしょ?せめて、痛覚を消してあげようとは思わないの?」
「まさか。それではつまらないでしょう?阿鼻叫喚こそが、父上が望まれた事。であるならば、これは父上の本望ですよ」
「・・・そう」
やたらめったら斬りかかるバルドスから適当に逃げて、カルミリスと問答を続けた椿だったが、結局理解することは出来ないと悟り、短くそう言った後、会話を打ち切った。
「いだい、いだいぃ!!やべろぉ!!」
バルドスは激痛に喚きながら、機能しない関節を利用して、腕を鞭の様にしならせ剣を振ってきた。
椿は、これ以上シンと離れるのは避けたいと考え、刀でバルドスの剣を受けようとした所で、シンから珍しく切迫した声が飛んでくる。
「椿!その剣を受けないで!!」
「――っっ!!」
それを聞いて、椿は声を出す間もなく、咄嗟に身を仰け反らせて剣を回避すると、椿の鼻先数センチ上を風の塊が通り過ぎていく。
「その剣は高密度の風なんだ!だから、――っ!」
シンが椿に、風剣の注意点を説明している途中で、カルミリスからシンへと風の刃が放たれる。
シンは舌打ちすると、風の刃が自分に着弾する前に、左手に小さい金の魔法陣を浮かべ、雷の魔法を使ってそれを打ち消した。
「ちょっと、邪魔しないでよ」
「そう仰らずに、私と遊んでください」
シンから少し離れた所で、カルミリスは微笑を浮かべて言いながら、連続して風の刃を繰り出してくる。
「鬱陶しいなぁもう!!とにかく椿!その剣は剣じゃなくて、カマイタチの類いだと思って対処して!」
シンは風の刃を紙一重で回避しつつ、簡潔に助言した後、椿をカルミリスの魔法に巻き込まない為に、徐々に離れていく。
「カマイタチって、ちょっとシン!?」
驚く椿の声に、シンは後ろ髪惹かれる思いを振り切って、カルミリスと改めて対峙する。
「そんなに、あの者が大切ですか?」
「まぁね。半心だし、何より‟愛”してるからね」
「ふっ。あなたのソレは、世間一般で言うところの‟愛”ではありませんよ」
「知ってるー」
シンとカルミリスは、親し気な様子で軽くそんなやり取りを交わした後、再び戦闘を再開した。
一方、椿はシンの助言を熟考しつつ、バルドスの剣を回避し続けていた。
動きはバルドスの体型にしては機敏、と言うだけだったので、逃げることに専念すれば、剣を躱すのは難しい事ではない。
(カマイタチってどういう事よ。打ち合うのがダメって言ってたけど、シン、思いっきり受けてたわよね。高密度の風・・・)
「いぎぃあぁ!!だず、だずげで」
バルドスの悲鳴に、椿は視線をバルドスの肘に移す。
無理矢理振っている為、もはや肘は伸びきり、皮と筋で辛うじて繋がっている状態だ。
放っておいても、肘から先が千切れ飛ぶのは時間の問題だろう。
このまま逃げ続けて、千切れるのを待つべきか・・・と考えていると、不意にバルドスが握っているはずの風剣が、椿に向かって飛んできた。
「わっっと!」
思わず椿は足を止め、その剣を打ち払ってしまう。
椿の刀と風剣が触れた瞬間、その接触点を中心に暴風が吹き荒れ、椿のみならず、バルドスも勢いよく数メートル飛ばされ、奇しくも妻ターレンの近くに、ドサッと落ちた。
椿はと言うと、バルドスよりもさらに遠く、崩れた観客席の後方まで飛ばされてしまっていた。
飛ばされつつも咄嗟に受け身を取り、壁に一度着地した後、客席に降り立つ。
そしてまず初めに自分の身体状況を確認する椿。
吹き飛ばされても刀を手放さなかったのは、学生生活での厳しい修練の賜物か。
風剣と打ち合ってしまった右腕は、暴風の中心にあったせいで、多数の裂傷を負ってしまい、肘の先からポツポツと鮮血が垂れている。
運が良いのか、それとも腕の良い鍛冶職人が作ったものだからか、刀の刀身が折れたり欠けたりしていないのは不幸中の幸いだ。
「なるほど、こういう事」
自らの身をもって、風剣と打ち合う事の危険性を把握した椿は、ズタズタになった腕を眺めながら冷静に呟く。
数多くの裂傷を作りながらも、椿が冷静でいられるのは、現実よりも痛覚が鈍い為だ。
そう言えば、エデンに来るときに、シンが、痛覚はあるが現実ほどでは無いと言っていた事を思い出す。
これが、現実との違いかぁ、としみじみ感じていると、焦った様子のシンの声が聞こえてきた。
「椿!大丈夫!?」
椿は声のした方向に顔を向ける。
カルミリスと戦っているシンは、椿が立っている座席から、対角線上に数メートル離れた所にいた。
魔法を打ち合っての戦闘をしているからか、シンとカルミリスの周囲には金の粒子が漂っている。
「平気!気にしないで!」
刀と共に、血塗れになった手をブンブン振る椿を見て、シンは顔を顰める。
「後で必ず治すから!」
そう叫んだ瞬間、バルドスがいる方向から絶叫が響き渡った。
突然聞こえてきた絶叫に、椿もシンも、カルミリスでさえ戦闘の手を止めて、声がした方を見入ってしまう。
そこには、銀色のダガーでターレンの喉を切り裂き、返り血で顔も身体も真っ赤に染まったヴァンが立っていた。
首から紅い鮮血を噴水の様に撒き散らし、地面に横たわって絶命しているターレンを、ヴァンは無表情で見下ろしている。
その目に、達成感や充実感は微塵も感じられない。
椿は、灰色の冷たい座席の上でヴァンを眺めながら、温度を感じさせない声色で、そっと呟いた。
「ーそう。それが、あなたの‟選択”」