愚劣の代償Ⅱ~地下迷宮~
椿達が攫われてから数時間後。
時刻は深夜に差し掛かろうとしていた。
月は天頂から少し傾き、煌々と紅い光を放って空で輝いている。
眷属狩り支部3階の執務室では、未だに帰ってこない椿達の事を、アズールが心配して待っていた。
気が散って仕事が捗らないのか、今では書類に手すらつけず、外した眼鏡を片手に街が見渡せる窓辺に立ち、眉間に皺を深く刻みながら眺めている。
いっそ仕事を投げ出して、自ら街に探しに行った方がいいのではないか、ツバキ達が救世主という重圧に耐えかねて逃げた可能性も無い訳では無いが、ツバキの反応からそれは低いだろう。いや、自分の知らない所で何か聞いて、それが原因でいなくなったとも・・・。
などなど、そんな詮無いことをグルグルと考え、無用の不安を増大させ続けていると、執務室の扉をノックする音が響く。
その音でアズールは我に返ると、すぐに入室を許可する。
扉を開けて入って来たのはガイだ。
「失礼しやす」
「戻ったか。どうだ?」
実はアズール、夜になっても一向に帰ってこない椿達を案じて、顔見知りでたまたま1階の待機場にいたガイ達に椿の捜索を頼んでいたのだ。
その時に、武器屋までは椿達と一緒に行動していたと報告を受け、なおの事ガイ達に手分けして探してもらったのだが、なにぶん街は広い上に道が蜘蛛の巣状に複雑に入り組んでいた為、戻ってきたのがこんな夜中になってしまったという訳だ。
「申し訳ありません。未だ発見出来ず・・・」
沈痛な面持ちで悔しげに言うガイ。
正直、浮かない顔つきでガイが部屋に入って来た時点で、その答えは予期出来たものだったが、それでも実際に否定されてしまうと、アズールも落胆の色を隠せない。
「そうか・・・。一体どこに・・・」
「武具屋に寄って買い物をした所までは確認がとれているんですが、そこから先が・・・」
言葉に詰まるガイに、アズールも何も言えずに黙ってしまう。
しばし静寂が場を支配した所で、再度扉をノックする音が聞こえた。
「入れ」
その声に応じて扉が開き、入って来たのはキールだった。
「失礼いたします。夕方、彼女達を見かけたと言う目撃者がいまして、詳しく話を聞いたところ、ツバキ達は少年を追って北東方面に走って行ったと」
「北東ってーと、貧民街か?なんだってそんな・・・。スリにでもあったのか?」
ガイが眉尻を上げながら聞いてくる。
「そこまでは・・・。ただ少年を追っていたのは間違いないようです。そして、これは関連があるのかわかりませんが・・・」
言葉を濁すキールにアズールが続けるように促すと、少し逡巡した後に重い口を開いた。
「彼女達が消えた北東方向の路地から、エルンドラ家の馬車が出てきて、邸宅のある南地区方面へと走り去っていったとの目撃情報があります」
それを聞いた途端、ガイの顔色が一気に悪くなる。
「まさか!あのク・・・貴族は今、南の交易都市にいるんじゃ!」
「どうやら夕方ぐらいに帰ってきたみたいで、その時にいつも通り東大通りを抜けて行ったとのことです」
苦虫を噛み潰したような表情で報告するキールに、アズールも思わず同じ顔をしてしまう。
「もしその時に、ツバキさん達を見かけたのだとしたら・・・」
「エルンドラの野郎が攫ったって訳か!ヤツならやりかねん。なんせ珍しいモノには目がねぇからな。薄紫銀の髪やら金の目を見逃すはずがねぇ!」
アズールの前だというのに、敬語も忘れて語気荒く憤慨するガイに、アズールは冷静に諭す。
「まだそうと決まった訳では無い。証拠も無く断言するのは危険だぞ」
「はっ。しかし・・・」
アズールの言葉を一旦は受け入れるも、納得出来ないのかガイは言い募る。
「わかっている。その可能性が一番高いだろう」
アズールも、ガイの言い分を否定したいわけではなく、むしろその予想が九割九分当たっている事を理解している。
エルンドラ家の悪名は、この街では知らない人間はいない。それでも、証拠も無く一貴族の邸宅に行って、邸内を改める事など出来はしない。
まして、自分達は眷属を狩る事が専門なだけで、騎士団でも街の治安を守る警備隊でもない。捜査権限なんてものは持っていないのだ。
どうしたものかと、アズールが深くため息を吐いたのと同時に、突如街に轟音と振動が響き渡った。
その音と振動はもちろん支部にも届いていて、執務室の窓ガラスは空震によってビリビリと震え、天井からはパラパラと埃が落ち、シャンデリアは左右に揺れていた。
何事かと、アズールとガイ、キールの三人は窓の外を見る。
そこには、紅い月光に照らされて、遠く南地区の方向から赤い火の手と黒い煙が立ち上るのが見てとれた。
「爆発したのは南地区の何処かの様ですが、まさかこれもエルンドラが関わっているなんて事は・・・」
キールが引き攣った顔でそう言うと、再びズズンッと爆発音が鳴り響く。
「この騒ぎだ。恐らく警備隊が出向いているだろうが、負傷した人が多くいるかもしれない。その中にはエルンドラ家もあるだろう。彼等を救助する為にも、人手は多いに越したことは無い。今、待機中の狩人全員に声をかけろ。すぐに装備を整えて、私達も南地区に向かうぞ」
つまり、この騒ぎに便乗してエルンドラ家に乗り込むことを言外に命じるアズールに、ガイもキールも反対するどころか目を活き活きとさせて威勢よく応じる。
アズールはそれを見て頷くと、続いて細かい指示を伝える。
「準備の出来た者から順次南地区に出発。街中での転移魔法の使用も許可する。場合によっては攻撃魔法も容認しよう。ただし、エルンドラ家に踏み込むのは私とガイのチームだけだ。他の者は周囲の被害状況の確認と、負傷者の救助。一応、警備隊の手助けと言う名目で出向くわけだからな。ガイ達は先に下りて皆にこの指示を伝えろ。終わったら支部を出て噴水前で私を待て。私の転移魔法でエルンドラ家に直行する」
『了解!』
ガイとキールは鋭く答えると、迅速に執務室を出ていく。
ここマレ・ペンナに限らず、どの町どの都市でも治安維持のため、攻撃魔法はもちろん街中での魔法の使用は緊急時を除いて下級までと定められている。
アズールが言っている転移魔法は中級に分類され、使用者のマナ使用量に応じて転移できる距離、人数が変わる代物だ。
下手をすれば空き巣やら強盗やらに転用出来てしまうので、扱える者をかなり厳選していて、1000人強の狩人が所属するこの支部で、使えるのはアズールを含めて7人しかいない。
眷属狩りは、行政とは完全に切り離されている独立機関だが、その役目の重要性から統括であるアズールには、一国の大臣と同じだけの権力を与えられている。
普段であれば、その権力を使う事など無いアズールだが、今回は南地区の異変、そして救世主が関わっているかも知れない案件に際し、緊急であると判断した為、攻撃魔法や転移魔法の使用許可を出したという訳だ。
この騒動が治まったら王に提出する報告書をまとめねば、などと考えつつアズールは机に眼鏡を置き、机に立てかけられていた長剣を手に取ると、ガイ達に続いて執務室を後にした。
向かった先は執務室の隣にあるアズールの自室だ。
部屋に入ると明かりも点けず、真っ先にクローゼットを開いて中に吊るされた紺の剣帯を取り出し、慣れた手つきで腰に巻くと、そこに剣を差して装備する。
久しぶりに帯剣をするが、昔と変わらずしっくりくる感じに自然と笑みが浮かぶも、すぐに気を引き締めて足早に退室した。
1階に下りると、ちょうどガイが他の狩人に号令をかけた直後なのか、皆慌ただしく動き回って準備をしている。
そんな中でも、アズールの姿が見えると全員手を止めて、直立不動で出迎えた。
アズールは軽く手を上げて、気にせず続けろと指示する。
それを受けて、またバタバタと忙しなく動き始める狩人達。
ガイ達の姿が見えないが、彼等は最初から準備が整っているので、すでに外で待機中だ。
アズールも扉を開けて支部の外に出ると、冷たく澄んだ夜風が頬を撫で、束ねてある髪を靡かせる。
ガイ達は命令通り、噴水前で静かにアズールを待っていた。
ふと南地区方面の上空を見ると、赤い光と青白い光が瞬き、少しして爆発音と振動が伝わってくる。
明らかに中級以上の魔法を行使している。
「アズール様」
ガイの促すような声に、アズールは視線を空からガイ達に戻し、噴水前へと歩みを進める。
「転移する。行先は南地区、エルンドラ家付近。皆、心の準備はいいな。転移した先で何が起こっているのか皆目見当もつかない。転移が完了した瞬間、戦闘になることも十分考えられる。気を抜くなよ」
『はっ!』
全員のその声を聞くと、アズールは回路にマナを通し、転移魔法を始動。
アズールの足元を中心に、周りにいるガイ達を飲み込む大きさの魔法陣が地面に展開されると、イメージが整ったところでアズールが魔法を発動する。
「移空」
言い終えた瞬間、アズールとガイ達の姿は金色の燐光を残して、噴水前から忽然と姿を消していた。
------------------------
「これは・・・」
「ひでぇな・・・」
キールとガイのその言葉に、仲間達は絶句しつつも頷き、アズールも眉を顰めて辺りを見渡す。
転移した先は酷い有様だった。
エルンドラ家など跡形も無く破壊し尽くされ、それどころか邸宅のあった場所が、一つのクレーターになっていた。
さらに周囲200mに渡って更地になっていて、チロチロと赤い火の点いた家屋の残骸が、そこかしこに散乱している。
遠くでまだ原型を残している屋敷や館は、爆発の余波で半壊したり、火災が発生しているらしく、黒い煙と共に赤々と炎が燃え盛っている様子が見れた。
風に流されて、煙のきな臭い匂いや、人々の悲鳴、救助に駆け付けた人間の掛け声、野次馬の喧騒が微かにだが、ここまで届いてくる。
アズール達が転移した場所は、クレーターから少し離れた地上部分だ。
「自分達は生存者がいないか、周辺を捜索してきます」
「よろしいでしょうか?」
『お願いします』
キールとティオ達は神妙な面持ちで、アズールとガイに訊ねる。
だが、ほぼ荒野と化してしまったこの場所で、生存者は絶望的である事は容易に想像がつくが、それでもキール達は探さずにはいられないのだろう。
その心中を察して、アズールもガイも反対はせずに送り出す。
「わかった」
「気ぃつけろよ」
「はい。ありがとうございます」
そう言うとキールは、ティオをジルと、一番経験の浅いゾフィールを自分と組ませ、二人一組となって散開して行った。
草木一本存在しない黒く灼けた大地には、至る所に赤やピンク、黄色の物体が散らばっているが、距離があるせいでそれが何なのか判別出来ない。
まだ警備隊はこの場所には来ていないようだ。
そんな中、かつてはエルンドラ家の邸宅があった場所から、爆発音と剣戟の音が聞こえてくる。
警戒しつつも素早くクレーターの中を一望出来る場所に、アズールとガイが移動して覗いてみると、そこには二人の人物が焔と雷の魔法を撃ち合い、甲高い音を立てながら剣を交えて戦っていた。
マナの残滓である金色の粒子が消える間もなく、頻繁に魔法を打つせいで、辺りは場違いなほど幻想的で美しい風景を醸し出している。
久しぶりに見る戦いの光景に、思わずアズールが見入っていると、二人の内の一人がクレーターから地上にいるアズールとガイの所へ弾き飛ばされてきた。
金の粒子が乱舞する中、薄紫銀を持つその人物は猛スピードで飛ばされながらも、空中でくるりと上手く受け身を取り、足から着地すると、紫の刀を地面に突き立てて勢いを殺す。
砂埃を舞い上げて、アズール達の手前でようやく停止すると、振り返るなり平坦な口調で告げる。
「あれ、ガイ?」
その人物とは、まぁ椿なのだが、その目は右が赤紫、左が金色のオッドアイに変化していた。
------------------------
時を遡ること3時間前。
エルンドラ家は、現当主であるバルドス・フォン・エルンドラと、その妻ターレン、一人息子のカルミリスの三人家族だ。
その自宅は南地区大通りに面した一等地にある、目に痛いほど煌びやかな大邸宅だった。
金色の塀に金色の外壁、金色の門扉、金色の外灯、敷地内に敷かれた歩道まで金色だ。
上下左右、どこを見ても必ず金が視界に入る。建物で金色じゃないのは、せいぜい窓ガラスぐらいだろう。
今は夜の為まだマシだが、晴れた日の昼ともなると、陽の光を乱反射して迷惑な事この上ない。
実際、近隣の住人は当然、道を通りがかる人々もなるべくこの邸宅の前を歩きたくないらしく、鬱陶し気に回り道をする始末。
そんな状況なのに、エルンドラ一家は気づかないのか、それとも気にしないのか、改修工事をする気配は全く無い。
エルンドラ家は広い敷地の中に本邸と別邸の二つがあり、本邸がこの金の邸宅。別邸は白い外壁をした屋敷で、本邸の後ろに隠れるように存在している。
一家が住んでいるのは、もちろん本邸の方である。
本邸は2階建ての吹き抜け造りで、入ってまず目につくのは大理石の敷かれた床と、中央に置かれた当主であるバルドスの巨大な金の像だ。
その像は、実物よりもかなりスマートかつ容姿を整えて造られていて、これがバルドスの像と言われても誰も信じないだろう。
1階の四隅には金の燭台が置かれ、天井に豪華な金のシャンデリア、ダマスク柄と呼ばれる花がモチーフの金と白の壁紙に、像の真後ろには2階へ上がる為の階段がある。
左右に分かれた階段の途中、踊り場には過度に修正された一家が描かれる、これまた巨大な絵が金の額縁に収まって飾られていた。
1階の間取りは、階段両脇にプレイルームとドレスルーム、左側にダンスホール、コレクションルーム、右側は食堂、大浴場となっている。
2階は廊下が四角く一周してあり、床には赤い絨毯、壁に窓と金の燭台が等間隔に取り付けられ、吹き抜け側は金の柵と手すりがある。
階段を上ってすぐの正面にバルドスの部屋。左側に妻であるターレンの部屋、右側にカルミリスの部屋、階段の反対側にゲストルームが3室造られていた。
別邸は白い外壁をした横に長い2階建てで、使用人専用の住居として使われている。
その別邸の左隣に、茶会をする為の広い薔薇園が本邸側に跨ってあり、右隣には馬を繋いでおく厩舎と、少し離れた所に一家が乗っていた馬車と運搬車、そして椿達を攫った小さめの馬車が停めてあった。
しかし、椿が目を覚ましたのは、エルンドラ邸ではあるものの、先に説明したどの場所でも無かった。
本日2回目の見知らぬベッド、見知らぬ部屋。
椿は、まだ完全に意識が覚醒していないのか、ベッドの上で顔を横に向けて寝転がったまま、ぼうっと目の前にある自分の右手と赤と金の壁紙、金色の柱を見つめていると、妙な息苦しさを覚える。
疑問を抱いて視線を胴体に下げると、そこには白地に金の刺繍が施されたスーツを着た、見知らぬ豚の様な男が椿の身体に覆い被さり、鼻息荒くキスしようと、脂ぎった顔を椿に近づけている所だった。
「-っっ!!ぅわぁぁああぁぁぁあああ!!!」
その瞬間、椿の意識は一気に覚醒すると、色気皆無の叫びと共に、反射的にバルドスの顔面を全力で殴っていた。
メギシャッと、彼の前歯と鼻骨が折れる嫌な音と感触が、椿の拳に伝わってくる。
絶叫を上げながら鼻血を吹き、仰け反った勢いそのままに、ベッドから落下して転げ回るバルドス。
床にはバルドスの鼻から飛び散った血と、折れた前歯2本が落ちていた。
だがそんな事よりも椿は、ヌルリとバルドスの汗と皮脂が自分の手に付いた事に、嫌悪感で皮膚が粟立つ。
急いで手をベッドシーツで丹念に拭くと、自分の身体を見下ろす。
服は脱がされかけていて、ボタンが4つ外され、下に着ていた灰色のタンクトップのインナーが見えている。まだショートパンツが脱がされていないのは不幸中の幸いだろうか。
椿は汚物でも見るかのように、のたうち回るバルドスを一瞥すると、急いで服のボタンを留めていく。
腰に下げていた剣帯と刀が見当たらない。
ざっと部屋を見回すと、ベッドの横にあるチェストに、剣帯に装備されたままの刀が立て掛けて置いてあった。
広いこの部屋は、金の蔦模様が刻まれた赤い壁紙に、金の小さい燭台が四方に一つずつ。
部屋の中央には金の天蓋と金のベッド、さすがにシーツや布団は金色では無かったが、それでもけばけばしい赤色のツルッとした生地が敷かれていた。
椿が見ていた金の柱は、どうやら天蓋の一部だったらしい。
そのベッドの左隣には、金の金具が眩しい白いチェストだけが置かれ、派手な内装の割にこの二つしか家具が無いのは、どこかアンバランスだった。
部屋に窓は無く、その代わりに出入り口である扉が二つ存在している。一つはベッドの頭側である背後、もう一つはベッドの下方、椿の真正面だ。
兎にも角にも、椿は素早くベッドから降りると、何よりもまず最初に剣帯を手に取り、腰に巻く。レッグホルスターとダガーは外されず、太ももに巻かれたままだ。
どうやら服を脱がし始めて間もなかったらしい。
椿は頭をフル回転させて記憶を辿る。
確かヴァンとか言う泥棒少年から、財布を取り返した辺りでシンが倒れ、近づこうとした所で自分も倒れたのだった。
現在の状況から、攫われてここに運ばれたのは間違いない。
部屋に窓が無い為、ここが一体どこなのかも、昼なのか夜なのかその見当もつかない。
床でピーピー喚きながら、無様に転がっている男をどこかで見たような気がするが、誰なのか迄は思い出せずにいると、いつもなら近くにいるはずのシンの姿が見えない事に気づく。
多分、別の場所に隔離されているんだろうと考え、バルドスに問い詰めようとしたタイミングで、勢いよく部屋の扉が開いた。
入って来たのは、白地に金の刺繍が入った裾が長いスーツ、それと同色の靴を履いている、もみ上げが発達した金髪の青年と、鉄の甲冑を着た男が二人の計3人だ。
青年、カルミリスは床に転がる父親を発見すると、急いで駆け寄る。
「父上!悲鳴が聞こえたので来てみれば、これは一体!何があったのですか!?」
カルミリスは片足を床につき、バルドスを抱え起こして訊ねると、バルドスは顔の下半分を血で真っ赤に染めながら、ふがふがと口を開く。
見事に鼻が潰れ、前歯2本が欠けているバルドスを見て、カルミリスの表情が痛ましげに歪む。
「ひょ、ひょこのほんなが、わ、わひゃひを、なふっひゃのだ」
前歯と鼻が折れている為不明瞭だが、どうやら‟そこの女が、私を殴ったのだ”と言っているらしい。
カルミリスは真剣な顔でうんうんと頷くと、扉近くで直立不動の兵士二人に命令する。
「なんと痛ましい・・・。そこの不届きな女を捕らえろ!父上、すぐに治しますからね」
『はっ!』
とっさに身構え、抵抗を試みようとする椿だが、刀を抜く前に兵士達は椿を囲み、二人がかりで羽交い絞めにしてしまう。
「離して!」
「暴れるな!」
「大人しくしろ!」
そうしてカルミリスの前に無理矢理連れてくると、ちょうど魔法を使用してのバルドスの治療が終わったのか、バルドスの眼前に広げられたカルミリスの手の平周辺で、金の粒子が舞っている。
最後に顔に付いた血を、カルミリスが持っていた白いハンカチで拭うと、バルドスは元通りテカテカ光る脂肪の塊のような顔に戻っていた。
カルミリスの助けを得て、ようやく立ち上がったバルドスは、怒りで顔を真っ赤にしながら荒々しく椿に近寄ると、拳を大きく振りかぶり、殴った。
「っ!!」
ガッと痛そうな音を立てて横っ面を殴られた椿は、衝撃と痛みに顔を顰めるも、すぐにバルドスとカルミリスを鋭く睨みつけた。
軽く舌で口内を確認すると、歯は折れていないがどうやら切ってしまった様で、じんわりと鉄の味が口中に広がっていく。
「女一人を大の男が寄ってたかって嬲ろうとするなんて、恥ずかしいと思わないの?」
軽蔑を含んだ口調でそう言うと、カルミリスは碧の目に嘲りを浮かべて椿を見る。
「別に思いませんね。躾のなっていないじゃじゃ馬には、適切な対応だと思いますよ」
「拉致監禁についても?」
「我々はそれを許されている立場なんですよ。あなたの様な平民風情は、我ら貴族を楽しませてこそ価値がある。むしろ感謝して欲しいぐらいです」
「下衆が」
「私達は貴族だぞ!卑しい身分のクセに、なんて態度だ!この、身の程知らずが!!」
椿の反抗的な態度に、バルドスはより怒りが深まったのか、再度椿を殴ろうと拳を振り上げた所で、カルミリスに止められた。
「父上。このような下賤な女はいくら甚振ろうとも心が折れることはありませんよ。それよりも、どうでしょう?先に放り込んだ者と同じく、餌にしてしまうのは」
その提案に、バルドスは一瞬目を丸くするが、すぐに下卑た笑みを椿に向けて賛成する。
「それは良い。素晴らしい案だぞ、カルミリス」
「目当ての薄紫銀の髪は、すでにひと房保管してあります。なんの未練もありません。存分に恐怖と苦しみと絶望の中、アレらの養分になってもらいましょう」
それを聞いて、椿は自分の髪を見ると、確かに胸下付近まであった両サイドの毛髪が、顎下でパッツリと切られているのが確認出来た。
だがそれよりも、椿はカルミリスが言った言葉が気になる。
‟先に放り込んだ者”と確かに言った。という事は自分がこれから連れていかれる所に、シンがいる可能性が高い。
‟餌”の単語から、碌でもない事になっているのは容易に想像できるが、シンと合流すれば現状を打破出来るかもしれないと考え、椿は黙って大人しく拘束され続ける。
「その者を第3補給口まで連れて行きなさい。武器はそのままで構いません。みっともなく足掻いてもらいましょう」
バルドスと同じ笑みを湛えるカルミリスは、口を楽しそうに歪めて兵士達に命令した。
部屋を出るとそこは、赤い壁紙に赤い絨毯、もはや定番となりつつある金の燭台が並ぶ廊下だった。
天井までは3m、横幅は大人3人が並んでもなお余るぐらい広かったが、部屋と同じく窓が無い為、なんとなく窮屈に感じてしまう、そんな造りだった。
廊下の左手へと進む椿達は、椿と椿の腕を両脇で拘束する兵士二人を先頭に、カルミリスとバルドスが続いて歩く。
心なしか、歩みを進めるごとに空気が澱んでいく感覚を覚えるが、その原因を窓が無い為風が通らないからだと椿は結論付け、それ以上考えないようにする。
もしも、今いるここが椿の予想通りだとすると、脱出するのが大変かつかなり面倒だからだ。
途中、右に曲がる廊下があったが、そこを素通りし、直進して歩いていると、時折バルドスが椿の膝裏を蹴って転ばそうと嫌がらせをしてくる。
クソうぜぇと苛立つも、我慢して舌打ちだけで済まし、黙って歩き続ける椿。
やがて、3つの扉をくぐり、その倍の部屋を通り過ぎると、鉄格子の扉が見えてくる。
それはただの鉄格子では無く金の格子で、表面には呪文なのか文字がびっしりと彫られ、それと同じ物が奥に3つ、門の様に縦に並んで設置されていた。
兵士は腰に下げていた鍵で格子を順番に開けていき、最後の扉を開けると、椿を掴んでいた手を離す代わりに、彼女を突き飛ばして格子の向こう側へと放り込む。
思わず這いつくばってしまう椿の後ろで、格子がガシャンと無情にも冷たい音を響かせて閉まり、続いて鍵をかける音が続く。
椿が膝を払って立ち上がり振り向くと、ちょうど最後の格子が閉められた所だった。
「それでは、ご健闘を」
「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
赤と金の廊下側で、カルミリスは心にもない事を嘯き、バルドスは間の抜けた笑い声を上げて、兵士二人を連れだって去って行った。
「あなたが活躍する姿、楽しく拝見させていただきますよ」
カルミリスは最後にそう椿へ言葉をかけると、バルドスに続いて立ち去る。
「うんこたれクソバカやろぉぉおおおおお!!」
今までの鬱憤を晴らすかのように、バルドス達が消えた廊下に向かって盛大に悪態をつくと、多少すっきりしたのか一つ息を吐いて椿は奥に続く廊下を見る。
格子の向こう側とこちら側では様相が大分変わっていて、天井の高さや横幅は変わりないものの、向こう側が赤と金の廊下だとしたら、こちら側はコンクリート打ちっぱなしの灰色の道、と形容するのが相応しい。
椿はダメもとを承知で格子を刀で斬りつけるが、当然の如く格子は切れない。
二回、三回と続けて格子に刀を振り下ろすが、特殊な材質なのか、それとも格子に彫られた呪文のせいか、一向に傷一つ付けられない事にやがて椿は力なく刀を下ろすと、ため息を吐いて鞘に収める。
そして灰色の道を振り返った。
通路は緩やかに降って行ってるらしく、道の先は暗く見通せない。
「・・・いった」
気が抜けたことで、改めて殴られた箇所が痛んだのか、椿はそう零しながら右手で頬を撫でる。
何気なく、左頬を撫でている手の甲を見ると、ちょうどバルドスを殴った関節付近が痛々しい青痣になっていた。
「っつ!」
どうやら痛みを発していたのは頬だけでなく、右手もだったようだ。
痣を自覚した途端、よりズキズキと右手が痛みを訴えてくる。
手は問題なく動くので、折れてはいないし酷く腫れている訳でもない為、罅も入っていないが、とにかく痛い。
「ろくでなしの豚野郎が・・・」
ウンザリと痣を眺めつつ、バルドスに対して毒づいた後、トンネルの様な通路に視線を移した。
見た限り、今のところ一本道なのでとりあえず先に進むか、と痣の痛みを努めて気にしないようにして椿は歩き始める。
道には冷え冷えと白く光る外灯がポツポツとあるおかげで、足元がおぼつかなくなる事は無いとは言え、やはりいつも隣にいる人がいないと心細く感じてしまう。
椿は、そんな弱気な自分を必死に叱咤するのだった。
しばらく道なりに進んでいると、そのうちに大きな広間に出た。
その部屋は天井も横幅も、今まで歩いてきた通路の倍以上ある三叉路になった広間で、椿の前に二つの道が続いている。
どちらにしようか少し悩むが、結局椿は直感の命じるまま、左の道に進むことを決め、足を踏み出そうとして、ふとおもむろに広間の天井を見上げ、息をするのも忘れて固まった。
そこには監視カメラの様に、天井中央にエメラルド色の半球体が設置されているのが見えたが、重要なのはそこじゃない。
その半球体の横に、へばりついた黒い蜘蛛がいる。
ただの蜘蛛なら、椿も顔を渋くするぐらいで済んだんだろうが、今椿が見つめる蜘蛛は身体が天井の四分の一を占めるほど大きい。
軽く見積もっても1m半はある。
ちなみに、椿は全ての虫が大嫌いだ。どのぐらい嫌いなのかと言うと、発見したら即殺さずにはいられないほどである。
小さいものならハエ叩きやノートを駆使して潰し、大きいものは殺虫剤を使って殺していたが、今は持っていないし、それ以前にそんなものではどうにもならない大きさの虫を目の当たりにして、椿はそろりそろりと、蜘蛛を刺激しないように左の道へ進み始める。
視線は蜘蛛から逸らさず、あと少しで部屋を出られると言うところで、突然蜘蛛は天井から落下してきた。
地響きをたてて着地した蜘蛛は、紅い複眼を椿に向ける。
通路の入り口で立ち尽くす椿と、部屋の真ん中に陣取る黒い蜘蛛。
その蜘蛛は、タランチュラを人間並みに大きくしたようなもので、体長、体高共に椿の背丈程度、血色の紅い複眼と、太い脚に身体を黒い体毛で覆う、低位種4級に分類される‟墨蜘蛛”と呼ばれる眷属だった。
低4級の階級からわかる通り、狩人になりたての新人でも狩れる比較的弱い眷属で、注意すべき点は一つだけ。
墨蜘蛛の腹から出される糸に捕らわれない事、それだけである。
この糸はかなり粘度が高い為、一度捕まってしまうと自力での脱出はほぼ不可能。
武器で切断しようとしても逆に糸にくっついてしまい、動かせない。炎で焼く手もあるが、一部分ならともかく全身を巻かれていると、糸から逃れる前に人間の方が焼死する。
だが、電撃で一箇所だけ瞬間的に熱して切る方法や、糸を凍らして割る手段もあるので、チーム戦であれば糸もそれ程脅威にはならず、倒すのは容易い。
しかし今いるのは椿一人だけ。かつ、椿が眷属に遭遇するのはこれが初めての為、そのような予備知識は無い上に、いつも助言をくれるシンもいない。
大嫌いな虫、墨蜘蛛の紅い目と椿の赤紫色の目が、瞬きの間交差する。
次の瞬間、墨蜘蛛はガラスを爪で引っ掻いた音に近い鳴き声を上げると、椿に向かって猛烈な勢いで走り出した。
それと同時に、椿も左の通路に飛び込み走る。
「無理無理無理無理無理無理無理無・・・」
ボソボソとひたすら‟無理”を連呼しながら、顔を土気色にして走る椿の表情は無だ。いや、よく見ると目尻が引き攣っているか。
(黒い体色の生き物。あれが、シンやガイ達の言っていた‟眷属”って奴なの?だとしたら、最悪)
ガチガチと、すぐ後ろに迫る墨蜘蛛の足音に椿は焦るが、脳裏に夕方ヴァンを追いかけた際、回路にマナを通し足に集中させたことで走る速度が劇的に上がったのを思い出すと、すぐにそれを実行した。
狙い通り、グンッと速度が上がり墨蜘蛛との距離が開き始めるも、それで諦めるほど潔い訳も無く、むしろ心なしか先ほどよりもスピードを上げて椿を追い始めている気がする。
椿は全力で走りたい欲求を、故意に抑えて逃げ続けている。
その理由は簡単で、体力の温存だ。
シンのいる場所や出口が分かっているのであれば、全力疾走しても問題ないのだが、今は出口どころかシンの居場所さえ分からない。後どれだけ彷徨うのかさえ不明なのに、無闇に体力を使う訳にはいかないという訳だ。
それに、椿が全力で走ることが出来る時間は5分にも満たない。
5分間全力で走って、後ろの墨蜘蛛を引き離すことは出来ても撒けるかと問われれば、それは難しいだろう。
とは言え、このままずっと逃げていても埒が明かないのは分かっている。出来れば速やかに墨蜘蛛を排除するのが望ましい事も。
それでも椿がそう出来ないのは、墨蜘蛛を斬りつけて、斬った時の感触や万が一にもその体液が身体に触れるのが嫌だったからだ。
そんな事で、と思うが椿にとってその懸念は、生き死にの天秤にかけてもいいほど重要な事柄なので、未だ踏ん切りがつかず、以上の点から、椿は今現在一定のペースでもって走り続けていた。
通路の上部には一定の間隔で、広間で見かけた半球体と同じものが取り付けられている。
(カルミリス・・・だっけ。あいつ‟拝見”って言ってた。って事は、あの半球体が監視装置って考えるのが妥当か・・・)
椿が眉根を寄せて考えながら走っていると、墨蜘蛛が居た部屋と同じ三叉路の広間に出た。
今度は即座に右の道を選んで走る。
右の道は蛇行しながら降っていて、その先にはさらに3つの道が提示されていた。
もはや考えるのが面倒な椿は、真っ直ぐ真ん中の道を選び進んで行くと、通路の奥からガサガサと音が聞こえてくる。
こういう時の嫌な予感はよく当たるもので、椿の行く先から紅い目をした墨蜘蛛と同じ大きさの黒い蟻が姿を現し、こちらに駆けてくるのが見えた。
「勘弁してよ・・・」
涙声で椿は呟くが、蟻も墨蜘蛛も足を止める事無く走ってくる。
蟻との距離が10mになった辺りで、椿は勢いよく跳躍して蟻を飛び越え、上手いこと背後に着地した。
マナを足に集中させている今なら、もしかしたら跳躍力も上がっているのでは、と予想しての行動だったが、どうやら的を得ていたらしい。
ドズンッと鈍い音が響き、椿が振り返ると、そこには墨蜘蛛と蟻が頭から激突していた。
(うわぁ・・・。痛そう。ってかキモイな)
なんてことを呑気に考えていると、椿の目の前で予想だにしていない事態が起こる。
墨蜘蛛が突然、腹から糸を出し蟻をグルグル巻きにしてしまったのだ。
そしてギイギイと叫ぶ、身動きの取れなくなった蟻に噛みつくと、口から溶解液を出して蟻を溶かし、ジュルジュルと食べ始める。
あまりの光景に、椿は逃げることも忘れて固まり、目を見開いて一部始終を見てしまう。
やがて蟻の核であろう、拳大の紅い球体をゴリッと噛み砕いて、墨蜘蛛の食事は終わった。
その途端、墨蜘蛛は唐突に脱皮をする。
バリッと背を割り、新しい身体が出てくると、墨蜘蛛の体格は一回り大きくなり、紅い目の輝きが増している気がした。
眷属は共食いをする種族だ。
と言うよりも、共食いによってその眷属が溜めたマナを得て力を増していく種族、と言った方が適切か。
もちろん人間の方が数も多く、そのマナも捨てたものでは無いので、メインで襲うのは人間だが、ありつけない時やより自らの力を高めたい場合は、同じ眷属を襲う傾向にある。
これは眷属の位、階級が上がるほど顕著になっていき、高位の眷属は人間よりも自分と同等、もしくは自分より強い眷属を食べる事に執心する者も多い。
この事が直接的な原因かは不明だが、高位の眷属をなかなか見かけない理由の一つになっているのは確かだ。
墨蜘蛛は低位4級の為、知性など無いに等しいが、共食いによって力を増すことは本能で理解しており、目の前に現れた自分より階級の低い同族を食べる事によって力を増し、より極上の存在を得る為の足掛かりにする決定をし、実行に移した。
眷属の知性は、これも位、階級が上がっていくことで発達していく。
低位種は単純な思考回路しか持たないが、高位種は人間の言葉を発し、人間よりも高い知性を持つ者も多い。
狙い通り、蟻を食したことによって、墨蜘蛛の身体は大きくなり、その外骨格も上がった。恐らくは敏捷性も上がっているだろう。
知性も僅かに芽生えたようで、立ち尽くす椿を美味そうに見る。
その邪心を見抜かれたのか、椿は脱兎の勢いで逃げ出す。
美味そう、食べたい、愉しい。この3つの欲望に従って、墨蜘蛛は再度椿を追いかけ始めた。
(ヤバい)
椿はそれだけを感じて走り出す。
あの紅い目を見た瞬間、全身に鳥肌が立った。
この感覚は、昔電車内で痴漢にあった時に感じたものと一緒だ。下卑た下心に、身体全部、魂の全てで拒否する感じ。
今すぐ逃げなければ、それだけを思った。
しかし、椿は嫌悪感だけでなく、ふつふつと怒りを覚えていた。
走るの疲れた。何故、自分がこんなに執拗に追われるのか。いい加減にして欲しい。腹が減っていたのであれば、先ほどの蟻で満足だろうに、と。
同時に、速さを増した墨蜘蛛が、刻一刻と距離を詰めてくる中、冷たく静かな理性が椿に警告を発する。
(ダメだな。このままだと追いつかれる。まだ距離が開いている今、殺るしかないか)
そう決めたはいいものの、やはり直接斬るのは避けたい。
どうしたものかと考えて、椿は自分が魔法を使えることに考えが及ぶ。
どうしてこんな簡単な答えに、今まで思い至らなかったのか、自分で自分にウンザリするが、焦っている時ほど頭と言うのは働かないものだ、と自分を無理矢理納得させる。
魔法で墨蜘蛛を殺すことに決めた椿は、さてどんな魔法にしようか思案する。
すぐ背後には墨蜘蛛が迫っている。あまり悠長に悩んではいられない、と急いで頭を働かす。
焔の魔法は、この閉鎖された空間では酸素を消費してしまい、危険なので使いたくない。
風で細切れにすると、通路が大惨事になるから却下。土で押し潰すと、通路が埋まる上に相手が死んだかどうかわからない。
であれば、と椿は考え、使用する魔法を決めた。
椿は一度大きく跳躍して、墨蜘蛛から一時的にでも距離を離すと立ち止まり、手の平を墨蜘蛛に向けた。
そして、大気中に漂う水分を集めて凝縮し、冷たく固めるイメージをすると、手の平の先に中ぐらいの大きさの金の魔法陣が出現する。
最後に、相手をどう殺すかのイメージが確定すると、椿は思い切ってその魔法を放つ為に口を開いた。
「穿て、十氷槍」
金の粒子を残して魔法陣が消えると、魔法が発動する。
すなわち、椿からあと3mの位置にいる墨蜘蛛を取り囲むように、上下左右から細く長い青い氷柱が10本形成され、それが槍の如く墨蜘蛛の全身を貫く。
穴だらけになった墨蜘蛛は、どうやら氷柱の一本に核を破壊されたようで、甲高い絶叫を上げながら、溶け崩れて黒い液体になってしまう。
墨蜘蛛を貫いた氷の槍は、重力に従って落下し、豪快な音を立てて地面で砕け、大小さまざまな大きさの氷の塊になってバラバラと地面に転がった。
墨蜘蛛であった黒い液体は、黒蟷螂の時と同じく、すぐに空中に霧散して消える。
ドッと疲れたからか、それとも無事墨蜘蛛を倒せたことに安堵したからなのか、椿は荒い息をして壁に寄りかかり、呼吸が落ち着くのを待つ。
(あれが、眷属の死にざまか・・・)
段々と元の安定した呼吸に戻り始めると、椿は通路の上部に、例の半球体があることに気づいた。
(なるほどね。この半球体で眷属に襲われて食われる人を、楽しく見ているって訳。悪趣味な・・・)
椿は半球体に近づくと、‟ざまあみろ”と会心の笑みを浮かべて、中指を立てたファックサインを、半球体からこちらを見ているであろうカルミリス達に向けて繰り出した。
------------------------
その様子を別室で見ていたカルミリスは、吹き出しそうになるのを必死に堪えていた。
何故なら、彼の父親であるバルドスが、茹でダコの様に顔を真っ赤にして地団駄を踏み、激怒していたからだ。
「クソ!クソ!クソ!!何故アソコで食われんのだ!!もっと無様に泣き叫んで、命乞いをして、絶望と恐怖の中食われんか!!つまらん!つまらん!!」
「まぁまぁ父上、眷属はまだまだ沢山いますし、それに今日仕入れた特上ネタがありますから」
バルドスの肩に手を置いて、優しく宥めるカルミリスだが、バルドスはそれを振り払い怒鳴りつける。
「うるさい!!私はターレンの様子を見てくる!この売女が死にそうになったら呼びに来い!!」
カルミリスにそう命令して、バルドスは大きな足音を立てながら扉をバンッと勢いよく閉め、部屋を退出してしまう。
ここは本邸1階にあるプレイルームの隠し部屋だ。
エルンドラ一家と、彼等と同じ趣味を持ち、かつ信用の置ける者しか立ち入ることを許されない、地下迷宮の監視装置映像を見れる唯一の場所だった。
部屋自体はそれほど大きくないとは言え、腐っても貴族の邸宅。それでも十畳ほどの広さがある。
プレイルーム側でダーツの的に偽装された扉は回転式となっており、左右どちらかを押せば反対側が開く造りだ。
赤い壁紙に金の幾何学模様が描かれた部屋に窓は存在せず、部屋の中央にエメラルド色の小さい球体が乗せられたテーブルと、そのテーブルを囲むように三人掛けの金の装飾が施された緑色の豪華なソファーが3つ、コの字型に置かれていた。
椿が予想していた通り、エメラルド色の半球体は監視カメラと同質の物で、半球体側で撮り、球体側で映像を転写する。そのような仕組みになっていた。
今エメラルド色の球体からは、ちょうどソファーの置かれていない部屋の壁に向かって、半球体から送られてくる映像を映している。
プロジェクターのような物だが、プロジェクターと違って、赤い壁紙などものともせず転送されてくる映像は鮮明だ。
部屋には照明類が無いので、球体からの映像の光のみの為、全体的に薄暗い。
だが、そんな中でもカルミリスは迷いなく歩き、転写されている壁と相対するソファーに腰掛ける。
そして改めて、壁に映し出された、こちらに向かって中指を立てる椿を見て、堪えきれずに吹き出した。
「ぷっふ!ふっふっふっふっはっはっはっはっあっはっはっはははははははははははははは!!」
爆笑しながら膝を手でパンパン叩くカルミリスの目には、涙まで滲んでいる。
たっぷり1分間笑うと、はーはーと荒い息を吐いて涙を拭う。
「はぁぁ。此度の救世主は中々どうして、面白いじゃないか。ただのつまらない女かと思ったが、間違いなく歴代一位だ」
ドカッとカルミリスはソファーに寄りかかり、背もたれに両腕を乗せる。
「さぁて、ここから無事お仲間と合流出来るかな?いや、してもらわねば。そしてアイツと出会って、もっと面白くなってくれたまえよ。救世主サマ」
壁に映し出された映像は二分割されていて、左に椿、右には退屈そうに通路を歩くシンと、そのシンに怯えた様子でくっついて歩いているヴァンが映っている。
その両方を見ながら、カルミリスは口と翡翠色の目を愉し気に歪めた。
------------------------
「はぁ。また?」
あれからも淡々と歩く椿は、今度も広い部屋に出る。
今回、椿の目の前に広がるのは4つに分かれた道だ。
もしかしたらそうかも、とは思っていたが、いよいよもってこれは迷宮であると確信すると、迷路系が苦手な椿は、もう何度目か分からないため息を吐いた。
「はぁ・・・。どーれーにーしーよーおーかーなー」
考えるのが面倒くさくなった椿は、昔ながらの神頼みで道を選ぶ。当たったのは左から2番目の道。
2番目の道を進んでいる最中、ふと椿は立ち止まり、時折落ちていた白い塊を拾い上げる。
この白い塊に気づいたのは、墨蜘蛛から逃げている最中だった。
小石などを下手に踏んでこけたら、洒落にならない状況だったので、注意して走っていたら目に入っただけの話。
それでも何故か気になってしまい、余裕のある今ならば、と手に取った。
石かとも思ったが、質感が違う。石よりも軽く脆いこの物体に、思い当たる節があった。
この迷宮に存在している眷属、カルミリスが言った‟餌”の単語。ここから導き出される答えなんて一つしか無い。
(大きさからして、大人の骨かな)
苦い顔をしながらも、平然と手に持ち続ける。
祖父母と両親、親族の骨を既に何度も拾ったことのある椿にとって、骨なんてただの物体でしかなく、なんの感慨も湧かない。
ただ、こんな迷宮に放り込まれたあげく、眷属に食われてしまった事は可哀想だなと思う。
一歩間違えれば、自分がこの骨の仲間入りをしていたかも知れないと考えるが、今自分は生きている。
椿はしゃがんで骨を道に戻すと、手を合わせて形ばかりの祈りを捧げ、立ち上がってまた歩き出した。
椿が目を覚まし、ここに放り込まれてからそろそろ一時間。
いい加減シンと合流したいところだが、現実はなかなか上手く進まない。
半球体を見かける度に中指を立てて威嚇してきたが、それもそろそろ飽きてきた。
墨蜘蛛と戦った後は、眷属と遭遇することも無く、平和な道程の為、段々と緊張感が薄れてくる。
「足いたーい。腹減ったー。ラーメン、ギョーザ、チャーハン食べたーい。ふかふかのベッドで寝たーい。あ、その前にお風呂に入ってサッパリしたーい」
自らの欲望を、間延びした口調で呑気に垂れ流しながら歩いていると、後ろから物音が聞こえた。
ドキッとして後ろを振り向くと、そこには遠くから椿に向かって飛んでくる、巨大な羽に紅い目の模様が浮かんだ黒い蛾がいた。
反射的に、椿は本日3回目になる、足にマナを集中させる、マナ走法で走り始める。
「鱗粉キモイ羽の模様がキモイ飛んでくるのもキモイ・・・」
グチグチ言いながらも足は働きもので、通路を風の様に疾走する。
さっきの氷の魔法の要領で倒そうと、走りながら手に魔法陣を浮かべて集中する。
今回イメージするのは、氷の剣だ。対象に突き刺さった瞬間、冷気を発して相手を凍らせる。そんなイメージを浮かべた。
「氷剣」
金の粒子が散り、椿の手に空中からカキカキと氷の剣が作られていく。
3秒ほどでアイスブルーが美しい、氷のロングソードが椿の手に収まっていた。
氷を手にしているのに、全く冷たくない事を不思議に思いながらも、椿は急ブレーキをかけて立ち止まり、今度は腕にマナを集中させてから手にした氷剣を投げナイフのように水平に放つ。
蛾に向かって打ち出された剣は、風を切り裂いて寸分の狂い無く頭部に突き立つと、冷気を放出して、蛾の頭部を氷漬けにする。
しかし椿は知らなかった。眷属は体内の核を破壊するまで活動を止めない事を。
どうやら蛾の核は頭部には無かったようで、頭部を凍らせたまま飛び続け、椿との距離を詰めてくる。
「へ?」
予想外の展開に、椿は間の抜けた声を上げると、先ほどと変わりなく、バタバタと赤黒い鱗粉を撒き散らしながら、こちらに飛んでくる蛾にしばし見入ってしまうが、すぐに我に返り、動揺しながらも即座にもう一度氷剣を作成して投げ放つ。
剣は再び猛スピードで蛾に迫ったが、椿が動揺したまま投げたせいで、胴体では無く、羽の方を貫通してしまう。
羽に穴を開けたおかげで、蛾は失速するも、瞬く間に穴の開いた部分が黒く埋まっていき、時を置かず貫通したのが嘘のように元通りの羽になって飛んでくる。
その事でさらに焦ってしまい、続けざまに作った2本の氷剣は出来がかなり悪く、‟剣”と言うよりも‟杭”と表現した方が適切だ。
それを連続で投擲すると、一本は再度羽を貫き、もう一本は胴体下部に突き立ち凍らせるが、やはり羽は元通り修復され、胴体も頭部と同様に凍ったまま、変わることなく椿に飛来してくる。
倒せない事、そして蛾との距離がかなり詰まってきたことも相まって、椿は即行で逃げに転じる。
もちろん、マナ走法で、だ。
「なんで生きてんのよぉ!!」
半球体の向こうで、カルミリスがソファーを激しく叩きながら、再度爆笑している事などつゆ知らず、椿はべそをかきながら走っていると、次の大きな部屋に出る。
そこには、椿が待ち焦がれた姿があった。
その大部屋は今までの三叉路の部屋よりも大きく、椿の来た道を含めて6つの出入り口が存在している。
シンとヴァンはその部屋の真ん中で、どれにしようかなーと悩んでいる最中だった。
「ジーーーーーーーーーン゛!!」
泣いたせいで鼻が詰まっているが、そんな事気にせず濁音付きでシンの名前を叫ぶ椿。
その声を聞いて、シンは椿の方をバッと勢いよく振り向き、椿の姿を確認すると、一瞬驚いた後すぐに破顔して笑顔になる。
「椿!」
椿は怒涛の勢いで、シンの懐に飛び込んで抱きつく。
かなりの勢いだったので、そのままシンを押し倒してしまい、傍から見ると椿がシンを襲っているように見えなくも無い。
「やだなぁ椿ー。積極的なのは凄く嬉しいし、据え膳は頂きたいけど、人が見てるよぉー」
シンがテレテレと頬を赤く染めながらそう言うが、椿はそれを無視して、指を追いかけてくる蛾に向ける。
「あれー!!頭に剣ぶっ刺して凍らせたのに死なないの!!なんで!?」
「えぇ?」
シンが椿の指の先を見ると、そこには通路から飛び出してきた黒い蛾がいた。
「うわぁぁぁ!!」
ヴァンも驚いて飛び退き、シンの後ろに隠れてしまう。
「あぁ、核を破壊してないからだよ。ちょっとゴメンね」
シンは椿に対して軽く謝ると、その身体を優しく退かして立ち上がる。
そして後ろ腰から例の短剣を引き抜き構えて、短剣の中央に嵌まった透明な球体にマナを集中させる。
球体の真ん中に金の粒子が舞い始めた途端、球体から下、金の短剣部分の左右からも透き通った水晶の様な細身の刀身が出現して、瞬きの間にシンの身長と同じぐらいの長剣へと変じた。
シンはその長剣を一度軽く振って、手に馴染ませる。
「あれの核は頭じゃなくて胴体にあるんだよ。だから」
そこでシンはこちらに飛んでくる蛾に向かって、透明な剣を下から上に切り上げた。
すると、軽く切り上げただけなのに刀身から剣風が発生し、まだ距離があったにも関わらず、蛾の胴体が縦中央から真っ二つに切り裂かれる。
あまりにも切れ味が良かった為か、蛾の黒血は一瞬の間を置いてゴプッと溢れ、その胴体の真ん中、胸付近に紅い球体が見えるが、それもパックリ二つに斬られていた。
「こんな感じで壊さないと、ずっと動き続けるんだよ」
椿に振り返って説明するシンの背後で、蛾の眷属の死体は空中に霧散する。
シンは剣に集中していたマナを拡散させて散らし、元の短剣状態に戻してから腰の鞘に仕舞い、金具で留めた。
剣の刀身が、空気に溶けるようにスッと消えたのが印象的だった。
拍子抜けするほどあっさりと蛾を退治してしまうシンに、へたり込んだ椿が呆然と見ていると、何を勘違いしたのか、また軽口を繰り出す。
「なになに、惚れ直したー?いいんだよ、どんどん惚れてくれても!椿なら大歓迎さ!」
「ば」
「ん?」
「ばがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
椿は再び頭からシンの胴体にタックルする。
ぐえっとシンの喉から、カエルを潰したような呻き声が出るが、そんな事お構いなしにドスドスとシンの身体を叩く椿。
「なんで近くにいないのよ!おかげで私、キモイデブ野郎に犯されかけるし、殴られるし、眷属に追われるし、出口見つからないしで散々だったんだから!!」
怒りと安堵で椿の感情メーターが振り切れたらしく、涙と鼻水で顔面をぐしゃぐしゃにしながらシンに訴える。
シンはポンッと椿の肩に手を置くと、椿の目を合わせて薄く微笑を浮かべ、穏やかな声色で訊ねる。
「椿、椿を襲った上に殴った奴、誰?」
椿は涙で視界がぼやけていた為わからなかったが、そばで見ていたヴァンはゾッとする。
シンの表情は微笑んでいたが、その金の目には、背筋が凍るなど生ぬるい、魂の奥底から震え上がるほどの殺意を湛えていたからだ。
心臓に氷の塊でも突っ込まれたかのように、全身の血が冷たくなっていく感覚を味わいながら、ヴァンは息を呑んで後ずさってしまう。
「え?ブクブクに太った金髪碧眼の50ぐらいのオッサンだったけど、なんで?」
椿が鼻を啜って言うと、シンは二ッと笑い椿の頭を撫でる。
「そっかあ、じゃあそいつには後でお礼参りしないとねぇ」
「いや、私はもう会いたくないんだけど」
ようやく落ち着いてきたのか、冷静に拒否する椿に、シンはえ~っと不満げに声を漏らす。
「と言うか、椿。さっきから気になってたんだけど、右手と髪どうしたの?それも椿を殴った奴が?」
椿は右手に視線をやり、あぁ、と説明する。
「右手は豚野郎を殴ったら痣になっちゃっただけ。髪については気がついたら無くなってたから、誰がやったかまでは・・・。でも会話を聞いた限りだと、カルミリスってもみ上げ野郎がやったみたいよ?」
「そう。アイツ・・・。とりあえず、右手と殴られた頬を出して。髪を再生させるのは無理だけど、これぐらいなら治せるから」
「ん」
椿が左頬をシンに向けると、シンはその頬に右手を当てて治癒魔法を使う。
「治癒」
そのままの名称を発すると、小さい金の魔法陣が現れて、少しの間椿の頬を照らすと、魔法陣は金の燐光を残して消えた。
治癒魔法は、攻撃魔法や転移魔法と違って、対象の傷が癒えた時点で魔法陣が消える仕組みになっている。
これは、マナに仕込まれた治癒のイメージを、対象者の身体に送り込んで治すからだ。
つまり、使用者のイメージ通りに治るまでマナを放出し続ける必要がある為、治るまで魔法陣は消えず、治ったところで魔法が完了したと判断され終了する、という訳である。
次に椿は右手をシンに差し出す。
シンは先ほどと同じ要領で治癒魔法を使うと、ほの暖かい感覚と共に右手の痣はみるみる引いていき、数秒で元の綺麗な白い肌に戻っていた。
魔法が完了した後、シンは椿の痣が完全に消えたのを確認してから右手を離す。
「はい、いいよ」
「おぉ、すごい」
椿は右手を握ったり開いたりしながら呟くと、シンは得意気に胸を張った。
「ふふん!まぁね!」
「ありがとう」
椿がシンに礼を言ったところで、ようやくシンの斜め後ろで置物の如く突っ立っているヴァンが目に入る。
「ん?あーーっと・・・ヴァン・・・だっけ?え、なんでそいつがここにいるの?」
「あぁ、少年?この迷宮の途中でバッタリ再会してね。眷属から助けたら、そのままついてきちゃったんだ」
シンが後ろにいるヴァンをチラッと見て、そう説明する。
「いやいや、そういう事じゃなくて、私達を拉致するのに協力したはずの人物が、なんでここにいるのかを聞いてるんだけど」
椿が首を横に振りながら、訝し気な表情で訊ねる。
ヴァンは気まずそうに顔を逸らすだけで、何も喋らない。
その様子を見て、呆れ顔をしつつもシンが助け船を出した。
「あの後、少年も攫われてきたんだってさー。目的の人物、まぁ僕達だったんだけど、それを貧民街の指定された場所まで連れて行き足止めする。たったそれだけで金貨3枚が貰える、簡単で美味しい仕事だったのに、気がついたら自分も攫われた挙句、眷属の巣みたいなこの地下迷宮に放り込まれてたんだってー」
「へぇー」
一番聞きたくない単語を耳にしてしまった椿だが、抑揚の無い返答をシンに対してすると、ヴァンを無言で見る。
居心地悪そうに、椿と視線を合わせないヴァン。
頑なに口を開かないヴァンに対して興味を失ったのか、椿が立ち上がって膝を払っていると、ヴァンは視線を逸らしたまま、拗ねたようにボソッと呟いた。
「・・・自業自得、とでも思ってんだろ」
ずいぶん小さく呟いたが、椿の耳にはちゃんと届いていたみたいで、スッと視線をヴァンに向けて答える。
「・・・まぁ、そうね」
否定しない椿に、ヴァンは振り向いて椿を睨む。
「実際、その通りでしょ?何?‟そんな事無いよ”って言って欲しかったの?お生憎様、私は性格が悪いので、そんな事逆立ちしても思いませーん」
突き放してるのか、それともバカにしてるのか分からない態度で椿は言うと、シンに向き直る。
「シン、さっきの会話でちょっと気になる事を聞いたと思ったんだけど・・・。ここって・・・」
「地下迷宮だよ!」
キッパリ笑顔で言い切るシンに、椿は目眩が襲ってきたのか、ふらりとよろめく。
「椿だって気づいてたでしょ?こんなジトッと空気が澱んでいて、なおかつ道はどんどん降って行ってるんだから」
「そう・・・だけど・・・。ちなみに出口の目星とかは・・・」
そこでヴァンが会話に加わってくる。
「分かってたら、こんなとこでウロウロしてねぇっての」
皮肉たっぷりに言うヴァンを、椿はギッと睨むが堪えないのか、べーっと舌を出して椿をバカにしてきた。
それに椿も眉を寄せながら中指を立てて応戦すると、その光景はさながら小学生のケンカだ。
シンは、こめかみを押さえてため息を吐くが、その顔はどこか楽しそうに微笑んでいた。
「ほらほら、じゃれてないで、とにかく先に進むよ。さっさとこんな辛気臭い所から抜け出したいんだから」
『わかってる!!』
二人で息ピッタリにそう言うが、お互い同時に返事をしたのが気に食わないらしく、フンッとそっぽを向いて、椿とヴァンは一番近い通路へと真っ直ぐに歩き出す。
「まだどの道に進むか決めて無かったんだけど、まぁいっか」
シンはそう独り言ちると、しゃがみ、床に短剣で3つの矢印を刻む。
自分達が入って来た通路、椿が飛び出してきた通路、そしてこれから進む通路だ。これは、迷いやすいこの迷宮で、同じ通路を何度も巡らないようにする為の必須行動と言える。
シンは、しっかりと刻んだ矢印を満足気に眺めると駆け出し、先に行ってしまった二人の後を追いかけて行った。