落ちた世界
「失礼しやす!また出やしたぜ!」
茶色の髪を短く刈り上げた山賊風の男が、息を切らしながら、怒号と共に勢いよく扉を開ける。
かなり強面な橙色の目を持つこの男は、年齢は40程。身長は180cm半ばぐらいでなかなかに大きい。良く鍛えられた身体は筋肉で分厚い為、身長以上に大きく見える。上半身にハーフプレートの鎧、その上から獣皮のベストを着ていて、ズボンのベルトには回復薬や解毒薬、鎮痛剤の薬草が詰まったポーチを下げている。足には脚甲を装備し、背中には身の丈程もある鈍色の武骨な大剣を背負っていた。
山賊や野盗と言われても、誰も否定しない風貌だが、どこか愛嬌のある顔は、どちらかと言えば熊に似ていると言った方がいい。
蝶番を破壊しそうな勢いで開けた扉の先はかなり広く、書斎兼執務室と言った様相で、壁一面に本が並んでいる。
天井にはシャンデリア、床には赤いビロードの絨毯が敷かれていて、部屋の隅には一見しただけで高価だとわかる燭台が置かれていた。
その部屋の中央奥に唯一ある窓を背にして、大きな執務机があり、机の上には所狭しと書類が置いてあるが、整理整頓が行き届いている為、散らかっている印象は無い。
机の横には護身用なのか、何の飾り気も無い剣が一振り、立て掛けてあった。
「位と階級、数は」
応じたのは、机の上にある書類を消化していた、群青色の長髪を一つにまとめた20代ぐらいの人物だ。髪と同じ色をした目は切れ長で、眼鏡を掛けている。
白を基調に青いラインの入った、スーツとローブが一緒になった不思議な服を着用し、足には革靴を履いているが、机に隠れていて見えない。
洋服越しでもわかるその細い身体は、荒事とは無縁なのを示していて、実際その人物の今の仕事はデスクワークがメインだ。
それでも、かつては第一線で戦っていた為、見た目に反して、今でも実力は山賊風の男を軽く凌駕している。
中性的な顔立ちで、一見すると男か女か迷うが、声からすると男だろう。
「低3級が10体です。アズール様」
アズールと呼ばれた男は書類作業の手を止め、顎の下で組むと、眉を顰めた。
「低位3級。しかも10体か。いくら低位とは言え、多いな」
本来、低位種は群れるとしても4体までが限度なのだが、その2倍以上の数は異常と言っても差し支えない。
「どうしますか」
このどうしますか、と言うのは、もちろん出撃するかどうかの判断を仰いでいるのでは無く、いったい何人派遣するのかを聞いている。
アズールは僅かばかり考えると、すぐに指示を出す。
「念の為5人1チームで2チーム出す。まだ他でも出現するかもしれないからな、これで凌いでくれ。メンバーの選出はガイ、お前に一任する」
「了解」
そう返事をすると、ガイと呼ばれた山賊風の男は、ドスドスと部屋から慌ただしく出て行った。
アズールは、掛けていた眼鏡を外し立ち上がると、窓の外を見る。
まだ朝だが、雨が降っているせいか外は暗い。
遥か遠くに天空へと伸びる柱が見える。
その柱はかなり遠い所にあるらしく、この場所からだと一体なんの柱なのか、判別する事は出来ない。
アズールは憂鬱そうに、外の景色を眺めながら、ポツリと呟いた。
「もうすぐ降誕祭か・・・」
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椿の意識が覚醒すると、そこは360度青い空間だった。
身体を起こし、立ち上がる。目をパチパチさせ、キョロキョロと周りを見るが、どこを見ても青。
息が出来るので、水の中ではないだろう。
下に大地は無いので、空の上でもない。
夢、明晰夢だとしても意識が鮮明すぎる。
状況が理解できない椿は、疑問符を頭の上に大量に出して困惑していると、例の声が聞こえてきた。
『やぁ、おはよう!椿!』
椿は、いつもと変わらず聞こえてくるこの声に、若干安堵した後、ここぞとばかりに疑問をぶつけた。
「これ、あんたの仕業?ここどこ?私、会社の屋上で寝たんだと思ったんだけど?」
『まぁまぁ、順番に説明するから!でもまずは、このままだとやり辛いから、僕の姿を創造してくれない?頭の中で思い浮かべるだけでいいから!』
「は?創造って・・・」
『いいからいいから!早く!』
何が何だかさっぱりわからないし、腑に落ちないし、想像で創造ってどういうこと?と色々心の中で突っ込みながらも、結局はそれで話が進むなら、と椿は目を閉じ、この声の姿を思い浮かべる。
まず、この話し方からして13歳前後の子供だろう。
一人称が僕なのだから、性別は男。
出来れば好みの容姿が良いから、体型は細くてしなやかで、将来はエルフばりの超美形なるだろうと思わせる可愛い顔。
私と同一の存在なのだから、色白の肌に髪の色は漆黒。私の憧れていた、真っ直ぐサラサラの髪質でショートヘアが良い。
性格がネコ科なイメージだから、目の色は金色かな。
そこまで想像して目を開けると、椿の目の前には考えた通りの男の子が立っていた。
服は、黒い半袖の上着にカーキ色のTシャツ、紺色のハーフパンツを着ていて、さらにふくらはぎまである茶色いミドルブーツまで履いている。
エルフばり、と考えたせいか耳が少し尖っていた。
「へぇ~、これが椿が思い描いた僕かぁ~」
くるりと回りながら、感嘆したようにその子供は言う。高くもなく低くもないその声は、椿の頭に響いていた声と遜色ない。
「かなり可愛い姿だけど、椿ってショタコンだったっけ?」
無遠慮な憎まれ口もそのままだ。
「違う。その腹立つ物言いを中和するために可愛くしてあげたの」
「ふ~ん、まぁいいけど。じゃ、次は僕の名前ね!」
ニヤニヤしながら、その子供は楽しそうに次の要求をしてきた。
え!?と目を見開き驚く椿。
「姿だけじゃないの!?」
「名前を決めてくれたら、今度こそちゃんと状況を説明してあげるから!」
手をヒラヒラさせながら言うその子供は、やはり楽しそうだった。
椿は舌打ちをしながら、目の前にいる子供の名前を考える。
なんだかんだ言いつつ、椿は素直な性格だ。
う~ん。と体感で小一時間は悩んでいる椿。
「そんなに凝った名前じゃなくていいよ?」
立っているのに疲れたのか、その子供は胡坐をかき、欠伸までしながら言う。
「でも、名前って一生ものでしょ?ちゃんと考えないと」
そうしてまた悩み続ける。
「本当、椿ってその性格に反して、すごい真面目で律儀だよねぇ~」
呆れているのか、感心しているのか分からない口ぶりでそう言った後、ゴロンと寝転がった。
それから更にしばらくして、ようやく決まったのか、椿はよしっと言いながら手を叩く。
「決まったぁ~?」
椿が名前を考えている間、飛び跳ねたり逆立ちしたり、走り回ったりと動き回っていたが、今ではする事も無くなってゴロゴロと転がっている。
「えぇ、あなたの名前はシンよ」
「シン?」
「そう。あなた私の心なんでしょ?だから、シン」
「かなり悩んだのに、ずいぶん安直な名前にしたんだね」
「凝りに凝った名前より、わかりやすくて、呼びやすい名前の方がいいって結論に至ったの。嫌なら別のを考えるけど?流詩譜亜とか黒乃主とか・・・」
「ううん。気に入ったし、これがいい」
首をブンブン振りながら、食い気味にそう言うと、シンは立ち上がって椿に手を差し出す。
椿は多少残念そうに、そう?と言うと、その手を怪訝そうに見つめて
「なにこれ」
「何って、握手だよ握手!僕の名前も決まったんだし、改めてね!」
ふ~ん。と淡白な反応をしながら、椿も手を出す。
「よろしく!椿!」
輝くような満面の笑みで言った。
「よろしく、シン」
それにつられて、椿も笑顔で返した。
やはり、可愛くしたのは正解だったと思いながら。
「それで、ここはどこ?夢なの?」
椿は青い空間をぐるりと見渡しながら聞く。
「そ!安心して、現実の椿はグッスリ寝てるから!僕達は今、ちょうど落ちてる所だよ」
「え、落ちてる?そんな感じ無いけど・・・」
「ちょっと時間が無いから、巻きでいくね!突然だけど、椿はこれから行く世界で3つだけ願いが叶うとしたら、何をお願いする?」
「は?願い事?時間が無いって」
シンは、目を見開いて驚きながら言う椿の言葉を遮り、首をガックリと落としゲンナリした様子で
「ごめんねぇ。本当はもっと色々と説明してあげたいんだけど、まさか僕の名前を決めるだけで、あんなに時間がかかると思わなかったから・・・。さ、とりあえず早く願い事を言って!」
気を取り直したように、そう急かしてきた。
「そんな急に、願い事って言われても」
「早く早く!」
手を上下に振りながら、更に急かしてくるシン。
「えぇ~?う~ん、言葉が通じる・・・かな。夢の世界とは言え、相手が何を言ってるのか分からないのは致命的だし」
椿は宙を見つめ、顎に手を当てながら答える。
まずは一つ目。
「うんうん!言葉は大事だよね!自動翻訳っと。二つ目は?」
「・・・・・・なんでも、いいのよね」
念押しして聞いてくる椿に、シンはコクリと頷く。
「じゃあ・・・。私の身長を160㎝にして、外見を17歳まで巻き戻して!あ、体重は40㎏ね。あと、髪はサラサラのストレートロングで、顔を絶世の美女とまでは言わないけど、そこそこの美人にして!可愛くじゃなくて美人ね!ここ大事!」
シンに詰め寄りながら、怒涛の様にまくしたてる椿。
それに押されたのか、シンは仰け反り半歩後ずさった。
「えぇ!?それ一つじゃないよねぇ!?しかも、なんて俗物的な・・・」
「いいでしょ!これを一つにまとめて」
「そんな無茶な」
「時間が無いんでしょ、早く」
鬼気迫った様子の椿は、今度はさっきと逆にシンを急かす。
シンは、椿の断固とした意志をその目から読み取ると、僅かばかり考える。
「・・・・・・わかった。なら容姿改変って事にする」
そう言うと、シンはパチリと指を鳴らす。
次の瞬間、椿の姿は17歳ほどの美少女に変わっていた。
と言っても元の椿の顔から劇的に変わった訳ではなく、精々、小顔にして目を少し大きくしてパッチリさせ、鼻を高くしたぐらいだ。
身長は希望した160㎝、細身の体型。胸は元々大きすぎず小さすぎない平均サイズだったので、そのまま続投。
絹糸さながらの美しい髪は、腰までの長さのストレートロング。ただし、髪の色は薄い紫色をした銀髪で、目の色が赤紫色に変わっていた。
服は、白地に紫色のラインが入ったシンプルな軍服風の半袖ワンピースを着用し、足には膝下の茶色いロングブーツを履いている。
ちなみに、ワンピースの下には紺色のショートパンツを履いている。
この服、実は椿の学生時代の服だ。おそらく、外見年齢を17歳と限定したことで、洋服もその頃に一番よく着ていた物に変わったのだろう。
「凄い、本当に変わった!身体が軽い!腰も膝も痛くないし、余計な脂肪も無い!でも髪の色までなんで?」
椿は驚きながらも、その変化を楽しんでいるのか、声が弾んでいる。ただ、鏡が無い為、自分の目の色まで変わっていることに気が付いていない。
「椿、中二病だもんね!そういうの憧れてたでしょ?サービスだよ!で、最後の願いは?」
得意気な顔をしながら、三つ目の願いを聞くシン。
椿は、確かに35にもなって未だに中二病を卒業できていない。
別に、その事を恥に思ったことも無ければ、無理にでも卒業しようと思ったことも無い。
だからシンの言葉に反論しないのだが、それでも面と向かって言われるのは嫌なようで、つっけんどんな言い方で、最後の願いを口にした。
「そうね。なら、もし私に何か困ったことがあれば、必ず助けて。肉体的、精神的に限らず」
「心体支援って事でいいかな?その場合、僕が椿の身体を借りて動かすことになるけど、それでも良い?」
「えぇ、構わないわ」
「りょーかい!」
シンは笑顔でそう言うと、手をひとつ叩く。
「そうそう、これだけは伝えておかなくちゃ!これから行く世界では、現実ほどでは無いにせよ、椿の五感と三大欲求、それに痛覚が鮮明になってるから。いくら僕が助けるとは言え、うっかり死なないように気を付けてね!」
「・・・え?」
椿が、シンの言った言葉を理解するよりも早く
「出るよ」
シンのその言葉と共に、二人は空へと投げ出された。
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青い空間から出た瞬間、重力に従って二人の身体が落ち始めると、それと同時に、凍えるような冷たい風が、物凄い圧力を持って全身に吹き付けてきた。
落下時に特有の、内臓が浮くような感覚に、皮膚が怖気立ち息が詰まる。
だが、そんな感覚を忘れるほどに、椿は目の前に広がるこの世界に見惚れていた。
「綺麗」
現実の世界では決して見ることの叶わない光景。遠くに見える太陽の様な眩い光と、天を貫くが如き柱。
その反対には赤く煌めく月があり、遥か下には紺碧の海と緑の大地。
見上げれば空。それを包むように覆っている、群青色の水。さらにその上に見える、広大な茶色い大地の底。
それだけで、ここが椿のいた世界じゃないことは明白だ。ちょうど夕暮れ時なのだろう。光はずいぶんと傾き、空は赤紫色に染まっていた。
どうやら、椿とシンのいた青い空間は、空を覆っている水の中だったらしい。空間から出た衝撃で水が飛び散ったのだろう、椿のすぐ近くを水滴が浮いている。
そういえば、と椿が顔を横に向けると、そこには笑顔で椿を見るシンがいた。
「気に入った?」
落下しているとは言え、高度がかなり高い為、無重力状態になっている。シンはその状態で、器用に胡坐をしていた。
器用な奴。と思いながら、ぼうっとしていた椿の意識は、急速に現状を認識し始める。
現在、スカイダイビングよろしく、超高高度からの自由落下中。もちろん背中にパラシュートなんて無いし、空を飛ぶ術なんて持ち合わせていない。と言うことは、行き着く先は墜落死。全力で叩きつけられたトマトの様に、悲惨で無残な姿になるのは必至。
潰れた自分の姿を想像してしまったのだろう、椿の心臓は早鐘を打ち始め、ドクドクとうるさいまでに鼓膜にその音が届く。
ダメ押しで、シンから落ちる直前に言われた言葉を思い出した。
『現実ほどでは無いにせよ、椿の五感と三大欲求、それに痛覚が鮮明になっている』
心臓が爆発するんじゃないかと思うほど、鼓動がさらに早くなる。
さらに言うと椿は、2階程度の高さですら怖くて竦んでしまう、極度の高所恐怖症だ。
なので、本来であれば絶叫のひとつもあげて然るべきなのだが、あまりの恐怖に荒い息をするだけで、声は出ない。
まだ、かなりの高さがある為、地上に激突するには多少の時間があるが、そんな事何の気休めにもならない。
なにせ、解決法が無いし、そもそもテンパった頭では何も思い浮かばないのだから。
真下の地上は、どうやら深い森が広がっているらしく、こうしている間にも木々の緑がどんどん近づいてくる。
「どうしたの?」
そんな椿の状態を知っているにもかかわらず、シンは呑気な声で聞いてきた。
椿は、シンを泣きそうな目で見た後、この恐怖から逃れるために意識を手放した。
「あれ?つーばき、おーい?」
シンは落下しながらも椿に近づき、その頬をペシペシと軽く叩くが、反応は無い。
「あらら、気絶しちゃってる。おーい椿!このままじゃあ早速死んじゃうよぉ~?」
さらにペシペシと、さっきよりも強めに叩くが、意識が戻る様子は無い。
グングン近づいてくる地上は、すでに木々の形まで視認できる。
それを横目で確認すると
「う~ん、本気で不味いかな。椿の許諾は取っていないけど、しょうがないか」
そう言いながら、シンは椿の手を取る。
次の瞬間、シンの身体が金色の光の粒子になり、椿の身体を繭の様に包む。
そして、瞬きの間に内側から弾けて消えると、すぐに椿の目が開く。
その目はシンと同じ、黄昏と見間違うほどの美しい金色をしていた。
「さてと」
椿と同化したシンは、もはや手を伸ばせば掴める距離になった木々を見ると、手近な太めの枝に手を伸ばし、掴む。
落下していた勢いのせいで、枝が折れそうなほどしなる。
腕の筋に急激に負担がかかり傷みそうになるが、鉄棒の大車輪の様に身体を縦にぐるりと回し、遠心力でいなして飛び、別の樹の上に立つ。
降り立った樹はかなりの樹齢らしく、幹は大人の男が5人手を広げて囲むよりも太く、高さは数10メートルはある。
本来の椿であれば、へたり込んで動けなくなっていただろう。
だが、今はシンが主人格となっている為、そんな気配は全くなく、むしろ下を覗き込んで距離を測っているぐらいだ。
「このぐらいなら、飛び降りても問題ないかな」
そう言うと、階段を下りるような気軽さで、立っていた枝から足を離して飛び降りる。
普通であれば、捻挫か骨折をしていてもおかしくない高さだが、シンはまるで重さを感じない軽い音で着地すると、周りを見回して状況を確認した。
森は鬱蒼としており、今が夕暮れ時と言うのを差し引いても暗い。
きっと昼日中でも、陽が差すことは無いだろう。
陽が完全に落ちてしまうと、真っ暗になってしまって身動きが取れない。
そうなってしまう前に森を出ようと、空から落ちてる最中に見た、現在地から一番近い森の出口方向に身体を向ける。
走れば、陽が完全に落ちきる前に森を抜けることが出来る距離だ。
幸いにも、その出口から少し行った所に街の明かりも見えた。
金銭は持ち合わせていない為、宿に泊まることは出来ないが、それでも森の中で野宿よりはマシというもの。
さて、走るかと足に力を込めた所で、シンは唐突に後ろを振り向いた。
ジッと森の奥を見つめた後、体を反転させ出口へと、勢いよく駆け出す。
次の瞬間、シンが見ていた森の奥から、ドゴォッという音と共に木々を薙ぎ倒しながら、身の丈3メートルはある鮮やかな紅い目をした、巨大な鎌を4つ持つ黒いカマキリの様なモノが飛び出してきた。
そしてそのまま、シンの後を追いかけ始める。
場所が森の中である為、飛んで来れないのは良かったが、それでも時速40キロに及ぶスピードで追ってくる。
だが、シンの走る速度も尋常ではなく、そのカマキリもどきよりも速い速度で、倒木やら木の根を飛び越えながら走り続ける。
とは言え、障害物を避けながら走るシンと、持ち前の巨大な鎌で、ブルドーザーの様に邪魔な障害物を軒並み破壊しながら突き進むソレとでは、いくらシンの速度が上回っていても、徐々に距離が詰められてしまう。
シンは時折後ろを気にしつつ、走りながら手頃な木の枝を折る。
そしてタイミングを見計らうと、ザっと宙で一回転しながら、持っていた枝を投げナイフの要領で、カマキリもどきの目に向かって投擲する。
矢の様に放たれた枝は、狙いを違えることなく、カマキリもどきの目に突き刺さる。
目から黒い血液を撒き散らし、悲痛な鳴き声が響くが、そもそも倒すのが目的ではなく足止めの為の攻撃だったらしく、シンは着地した勢いそのままに走り続ける。
一方のカマキリもどきは、枝によって目を潰したかに見えたが、数秒するとその枝は、ズブズブと目に飲み込まれていき、元の綺麗な状態に戻っていた。
この攻撃に激昂したのか、カマキリもどきは雄叫びを上げると、さっきよりもさらに速度を上げてシンを追いかけ始める。
それからは、枝を折り投擲し、足止めをする一連の行動を三度繰り返しつつ走り続けていると、ようやく森の出口に着いたのか、視界が開けてきた。
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森を抜けた先は、草が青々と茂った草原で、そこには10人の武装した男たちが、黒い塊を囲んで何やら作業をしていた。
その中の一人、鉄製のフルプレートを着て腰に赤銅色の剣を下げた、焦げ茶色の髪に澄んだ水色の目をした30歳ぐらいの副官らしい男が、山賊風の男、ガイに報告する。
「これで報告のあった眷属は全部です」
「おう!なんとか日暮れまでには間に合ったか。全く、低位種とは言え3級を10体は骨が折れたな」
倒された低位種、細切れになったスライムの様なモノや、元は蜘蛛や蛾に似た形であったであろうモノの残骸が山と積まれている。
そのどれもが、紅い目に漆黒の体色をしていた。
その為、一見するとただの黒い塊にしか見えない。
ガイは、それを目の前にして、疲れたように首に手を当て、ゴキゴキと鳴らす。
「はい。しかし、低位に限ってもここ最近眷属の出現数が多くありませんか?今日だけでも10体。昨日は6体。この一週間を合わせると30体は軽く倒していますよ?これは通常の平均一ヵ月分に相当します」
深刻な顔で、副官の男はガイに聞いてくる。
「そうだな。アズール様曰く、降誕祭が近いからその影響だろうと仰っていた」
「降誕祭・・・ですか?」
「お前も聞いたことあるだろう。千年に一度、薄紫銀の髪を持つ神の子が、混沌の眷属蔓延るこの世界を救うとかなんとか・・・。その誕生を祝う祭りだよ。で、その神の子を狙って眷属どもが活発化するんだと」
「救世主の話は、私が幼い時分によく寝物語で聞きましたが、おとぎ話では無かったのですか!?」
「さあなあ。俺ぁただの人間だから分からんが、アズール様がそう言うなら本当なんだろうよ。なんにせよ、俺たちのやる事は変わらねぇ。出てくるクソ眷属共をぶっ殺すだけよ!」
ニッと不敵に笑いながら宣言するガイ。
それを見た副官の男もフッと笑い、そうですねと返す。
「さぁ!モタモタしてねぇで、陽が完全に沈む前にこの低位種共の残骸を灼いちまうぞ!」
応!と威勢よく言う部下達を満足気に見た後、ガイは浮かべていた笑みを消し、森を振り返った。
日中でも陽は差すことが無く、人間はおろか動物でさえ寄り付くことが無い。
存在するのは草木と虫のみ。
それ故に“静寂の森”と呼ばれている。
その森から、音が聞こえた気がしたのだ。
ガイは森から視線を逸らすことなく、背にある大剣に手を伸ばす。
「どうかなさいましたか?」
ガイのただ事じゃない様子を察したのか、副官が声を落として聞いてくる。
だが、ガイはそれに答えることはせず、静かにと手で制した。
その場に緊張が走る。
リーダーのガイは、一見山賊同然で粗野に見えるが、その実、眷属狩りのベテランで、とても冷静な人物だ。
今回の低3級10体を相手にした時も、余裕の態度は崩さなかった。
その男の気配が、張り詰めている。
低位種の残骸処理は後回しにして、各々武器を手に取り始め、その他にも保険として、地面に何本か剣を突き立てる。
ジッと森を見ること数十秒。
轟音と共に、木々を両断しながら現れたソレは巨大な鎌を4つ持ち、紅い目をした体長3メートルの黒いカマキリの様なモノだった。
その姿を視認したガイは、部下全員に聞こえるように叫ぶ。
「低位種1級!黒蟷螂!」
それを聞いたメンバー全員が武器を構え、戦列を作る。
つまり、前衛は最前列に、後衛は後列、サポート役は、そのさらに後ろに。
混沌の眷属は、高位種、中位種、低位種に分かれており、その中でさらに1級~5級に分類される。
数が小さくなるほど強くなる仕組みだ。
位に限らず、一つ階級が違うだけで段違いの強さになる為、たとえ低位種と言えども油断は出来ない。
黒蟷螂が低1級に振り分けられているのは、その巨体と巨体に似つかわしくない素早さ、巨大な4つの鎌、鋼鉄以上の硬さを持つ上に全身を覆う外骨格が理由だ。
下手な武器ではかすり傷すら負わせるのは難しい。
それどころか、下手に近づけばその自慢の鎌で両断されてしまう。
だから、黒蟷螂に限らず低1級を相手取るには、眷属狩りの経験豊富なベテランが複数人と事前の入念な作戦、それに合わせた装備を整えるのが必須だ。
しかし、今回の事前報告では、数は多いと言えど低位種は3級。
ガイしかベテランがいない今は、かなり分が悪い上に、装備は3級を前提にしている為、1級相手となると心許ない。
下手したら全滅する。
そう覚悟するぐらい、不味い状況だ。
現に、まだ眷属狩りに出て日の浅い新人は恐怖の為、構えた武器がカタカタ鳴るぐらい震えている。
ガイは一度撤退して、街にいる仲間に援軍を頼むか考えるが、すぐにその考えを捨てる。
第一に、あの眷属の速さを考慮すると、逃げ切れるか際どい所だったから。
逃げ切れなかった場合、全滅は確実。
メンバーの中から数人選んで、街に知らせに行くかも考えるが、援軍を引き連れて戻ってくる時間を考えたら、今人数を減らすのは得策ではない。
第二に、逃げ切れても、街を危険に晒すリスクがあったから。
もしも万が一、街に入り込まれたら、一般市民に甚大な被害が出るだろう。
第三に、これが撤退の考えを捨てた最たる要因だが、森から出てきた眷属の前を逃げ走る人間を見つけたからだ。
まだ距離がある為、その人物の年齢や容姿、性別の判断がつかないが、そんな事関係ない。
ガイは、その強面な顔に反して、正義感が強く、善良な一般人は守るべきものとして認識している。
だから、例え眷属低1級で勝ち目は薄くとも、追われている人を放置して逃げるなど、断じて出来ない。
「俺が先陣を切る!前衛は俺に続け!ヤツを円形に囲む。一箇所に固まるのはやめろ、まとめてぶった斬られて死ぬぞ!ヤツの懐に入っちまえば鎌は使えない、そこを突く!後衛は弓と魔法で遠距離攻撃!サポート役は前衛に強化魔法と負傷した場合は、即座に治癒魔法をかけろ!余裕があれば、後衛の魔法士にマナを補充!後は適宜それぞれの判断で動け!」
ガイは、前衛3人、後衛3人、サポート3人の計9人にそれぞれの役職に応じた支持を飛ばす。
メンバーは返事の代わりに、武器を再度構えて応える。
サポート役からは、既に強化の魔法が前衛にかけられ始めている。
この世界の魔法はとてもシンプルで、複雑な工程や呪文は必要ない。
ただ身体に取り込んだ世界素を回路に通して、思い浮かべたイメージと各個人で決めた単語を元に放出するだけ。
そして魔法を使用すると、その魔法の規模に応じて、金色のマナが魔法陣の様に使用者を中心にして発現する。
大規模魔法であれば使用者の頭上や背に、中、小規模であれば手や足、発動される場所を中心に陣が描かれる。
魔法の行使が完了すると、魔法陣は金の燐光を残して消える仕組みだ。
青いローブを着た、灰色の髪を持つ20代前半ぐらいの魔法士は、手の先に魔法陣を浮かべると、ガイに強化魔法を施す。
「身体硬化」
これだけで、素の肉体と装備している武具の防御力が上がる。
イメージをより強化し、強大な威力の魔法を放つために長い詠唱をする事もあるが、何より、それだけの威力の魔法を使うには、それに見合うだけのマナと頑丈な回路が必要になる。
世間一般の人間には、個人差こそあれどマナを溜められる容量が決まっているので、そこまで大きな魔法は使えないのが普通だ。
その為、基本的には時短の意味も含めて、短い単語で魔法を放つ事が多い。
ガイに「身体強化」と「身体硬化」の魔法がかけられ、攻撃と防御、その両方が強化される。
ガイは、背負っていた大剣を振り下ろし黒蟷螂を待ち構えていると、こちらに向かって走ってくる人物を見て驚く。
それは、10代中頃の女と言うこともあったが、なによりその髪。
ついさっきまで部下と話していた、薄い紫色を帯びた銀髪をしていたからだ。
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シンは森を出ると、一直線にガイ達のいる所へと走る。
追いかけてくる後ろのヤツは気にしない。
ここまで来たら、足止めをしても意味が無いからだ。
シンはさらに速度を上げ、ガイのいる集団に、紫銀髪を翻しながら滑るようにして駆け込む。
しかし、ガイ達には一瞥すらせず、地面に突き刺さった剣を一振り取ると、そのまま遠心力を付けて黒蟷螂に向かって勢いよく放つ。
白刃の煌めきを残し、猛スピードで疾走する剣は、黒蟷螂の腕関節から先を切り飛ばし、鎌の一つを無力化する。
腕の一つを失った痛みに絶叫する黒蟷螂を無視し、続いて同じ要領で二つ三つと剣を放つが、それらは痛みの為か、それとも防衛本能の為か、黒蟷螂が無我夢中で振り回した鎌に防がれてしまう。
そこで、今まで傍観者になっていたガイが、ようやく現実に戻ったように声を上げる。
「おっおい、あんた・・・。いや、それは後か!お前ら円陣を」
「動かないでくれる?下手にうろちょろ動かれると邪魔なんだよね」
ガイの言葉を遮って、シンは冷たく言い放つ。
「いっいや、だが・・・」
言い募るガイに、凍てつく目線をくれると
「聞こえなかった?邪魔なんだってば。僕が欲しいのは君達の武器だけだよ」
そう言い捨てると、近くにいた男の腰に差してあった剣を無造作に引き抜く。
さすがに、腕を切り飛ばされると修復も再生も出来ないのか、黒蟷螂は3本鎌のままシンに向かって襲い掛かってくる。
それに応じる様にシンも、疾風の如く黒蟷螂に向かって走り始めた。
鎌が振り下ろされるよりも速く懐に入ると、その胸部に剣を突き立てようとして、全身を鎧の様に覆った外骨格のあまりの硬さに、剣が砕ける。
先ほどは、外骨格の無い関節を狙った為、鎌を切り飛ばすことに成功したが、今回は簡単に攻撃を通してくれない。
普通の剣では貫通させる事は出来ないと悟ると、シンは思わず舌打ちをしてしまう。
そして懐から飛び退きながら後退し、元の場所に戻る。
「ちょっとその剣、貸して」
言われたのはガイだ。
「な」
問答無用でガイの手にある大剣を奪い取り背負うと、またもや黒蟷螂に向かって走る。
懐に入れまいと振り下ろされた鎌を、重力を感じさせない身軽さで上空に跳んで回避し、背後を取る。
シンは、剣を槍のように構えると、強化の魔法をかけた。
「硬化、重化」
シンの手首に、二重の魔法陣が展開する。
持っている剣に、強度を上げる魔法と重力を倍加する魔法をかけると、倍になった重力と共に剣を黒蟷螂の背に突き刺す。
だが、それだけでは飽き足らず、そのまま胸を貫通させ地面に縫い留めた。
外骨格が砕け、体内を突き抜ける感触が腕を伝う。
周囲に、黒蟷螂のひときわ高い絶叫が響く。
剣から手を離すと、今度は右足のつま先を中心に魔法陣が形成される。
そのままつま先で、黒蟷螂を貫いている剣の柄を小突き、物体の位置を固定化する魔法を放つ。
「固定」
はたから見ると、ピン留めされた虫の標本さながらだ。
しかし、胸を貫通してもまだ死なないらしく、シンは剣を抜こうと藻掻く黒蟷螂の背から肩まで駆け上がり、両手、いや両腕で頭を掴み、首を360度回転させて千切り取る。
千切り取った首から、噴水の様に漆黒の血が噴き出てシンの顔と身体を黒く染めるが、それを気にした風もなく、左手にあるもぎたての新鮮な首を、ガイ達に向けて無造作に放り捨てた。
だが、頭部を失っても活動停止には至らないのか、身体は元気に動いている。
シンは黒蟷螂が振り回している鎌に気を付けながら、一旦肩から降りると、ガイ達の所へと戻ってくる。
「下等生物のクセに、ずいぶん働き者の手足だね。やっぱり核を潰さないとダメか」
血で真っ黒になった顔を、袖で拭いながら呆れたようにシンはそう言うと、ガイ達を見回す。
その中の一人、副官が手にしている剣を見ると
「それ、ちょっと貸して」
「は?」
「形が残ってたら返すからさ」
そう言いながら、先のガイの時と同じく、相手の返事を待たずに奪い取った。
剣の材質は純銅製なのか、綺麗な赤銅色をしている。
シンはその剣を槍投げの様に右肩に構えると、身体から剣へとマナを通す。
その際に、放電したように蒼白い電光が剣に走る。
未だ地に縫い付けられ、蠢いている黒蟷螂に狙いを定めると、右肩に大きめの魔法陣を展開させ、魔法を放つ為の言葉を、静かに口にした。
「灼き尽くせ、燼雷」
氷の如く冷えた声色と共に、肩に構えた剣を、下からすくい上げる形で水平に黒蟷螂へと放つ。
剣の赤と雷電の蒼白がコントラストを描きながら、稲妻の様な鋭さと速さで、草を焼き地を溶かして、黒蟷螂の貫かれた胸へと飛来し突き刺さる。
その瞬間、体内へ超々高圧の電流が流れる。
ざっと落雷の数十万倍の威力を持ったその電流は、体内の肉を焼き、内臓を溶かし、それだけでは治まらず、体外の外骨格にまで蒼い電流を放出すると、次の瞬間その身から蒼い焔が噴き上がり、その尽くを文字通り雷によって灰燼へと帰した。
それは、体内の何処かにあった核も例外ではなく、黒蟷螂の身体は飴の様に溶け崩れる。
後に残されたのは焼けた大地と、黒蟷螂だったであろう黒い液体、熱によって歪んでしまった大剣だけ。
その黒い液体も、地面に直立する大剣だけ残して、数秒の後に空中に溶けるように消えて無くなった。
眷属は、身体の何処かにある核を破壊しない限り活動を続ける。それは、頭部を失っても動き続けた黒蟷螂の例を見ても明らかだ。そして、核を壊すと活動停止となり、実質死ぬ。
その後、残骸となった身体は焔で灼かれる事によって浄化され、溶け崩れてそのまま跡形もなく消えて無くなる。
原理は定かでないが、眷属とはその様に造られていた。
声を出すことも忘れて一部始終を見ていたガイ達は、シンのため息を聞いて我に返る。
「やっぱり投げた剣は残らなかったかぁ。ごめんね?貸してくれた人」
副官に謝りつつも、全く悪びれた様子は無いシン。
「あんた、一体・・・」
ガイはようやくそれだけ言う。
「僕?僕は・・・」
シンはそこで言葉を止めると、少し考えてから
「僕の事なんて、どうでもいいじゃない!それより、さっきの戦闘のおかげで身体がボロボロなんだ!治癒魔法を使える人がいたら、治してくれない?」
人懐っこい笑顔でそう言うと、シンは口から真っ赤な血を吐き、バタリと地面に倒れた。
慌ててガイが治癒魔法を使える部下に声をかける。
それを横目にしながら、誰にも聞こえない声で
「回路を通したばっかりなのに無茶したからなぁ。跳んだり走ったりだけならまだしも、魔法まで使っちゃったから、筋肉や神経がズタズタだよ。ごめんね、椿」
副官に謝った時とは違い、申し訳なさそうにシンは呟くと、そっと黄昏色の目を閉じた。
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ガイに強化魔法を施した、青いローブを着た灰色の魔法士が、椿のそばに跪くとその鳩尾に手を置く。
「身体走査」
まず、椿の身体の状態を魔法で診断してみるが、シンが言ったボロボロと言う言葉が生易しいほど酷い状況だった。
まず、両腕と両足の筋肉が断裂し、内臓に僅かだが損傷があり、次に右肩の骨が外れていた。右肩から先は魔法を打った影響か、裂傷と共に火傷を負っている。ダメ押しに、全身の神経が傷ついていて、どう見ても重症だ。
ガイは自分たちの魔法では手に負えないと判断すると、出来る限りの治癒を施した後、街へと戻る算段になった。
とりあえず応急処置として、椿の右肩の骨を嵌めて、右腕の裂傷と火傷を治す。
その後、ガイは意識の無い椿を右脇に抱えると、放ったらかしにしていた眷属の残骸処理を部下たちに任して、街へと急いだ。
陽は完全に沈み、空には赤い月が昇っている。
辺りには宵闇が広がっていたが、幸い街には街灯の光が溢れていた為、迷うことなく到着した。
この街、マレ・ペンナは眷属狩りの支部が置かれているという以外に、海からの物流と南から北にある王都へと向かう旅人や商隊を迎え入れる交易の要衝として機能している為、かなり大きい。
人口は、ここに住んでいる者だけでも約8万、直径8㎞の街で、西にある港以外を円形の高い城壁で囲み、東、北、南に巨大な城門がある。
その城壁の三方と、港の灯台に眷属避けの結界が張られていて、金色の魔法陣が絶えず生成されている。
とは言え、気休め程度の物なので、低位はともかく中位は低級まで、中級から上級にはちょっと嫌だなぐらいの効果で、高位種に至っては全く効果が無い為、低位限定の結界になっていると言っても過言では無い。
虫除けスプレーのイメージと言ったら、分かりやすいだろうか。
ガイは急いで東門の門番に、眷属狩りの紋章を見せると、城門の隣にある通用口を開けてもらう。
城門が開いている時間は、陽の出から陽の入りまでで、原則的にそれ以外の時間は出入り出来ない。
陽が沈んだ後は眷属が活発化していて、外に出るのは危険だからだ。
例外として、眷属を退治し、市民を護っている眷属狩りの人間だけは、その証となる盾の紋章を見せれば、どの時間帯でも出入りは自由。
だがその際も、防犯上の観点から巨大な城門ではなく、通用口を開けることになっている。
街の造りは、東西南北に大通りが貫いていて、その大通りを中心に毛細血管の様に道が郊外へと向けて広がっている。
街は、西に行くと港。北に行くと一般市民の住宅地と墓地。墓地の先には北地区から東地区にかけて貧民街がある。南に行けば貴族や豪商等、資産家が住んでいる閑静な住宅街。
ガイが入ってきた東地区は、旅人宿や飲食店、商店が並んでいて活気に満ち溢れていた。
街の中心地には、眷属狩りの支部と都市長の館、その他様々な行政機関が集中している。
街の中心部から城壁のある外側に行くにつれて人口密度が薄くなっていくが、東にある城門は街道に面している為、北、南に比べると格段に人の出入りが多い。それが理由で、東地区に限っては城門付近の方が栄えている。
ガイは街に入ると、眷属狩り支部に向けて一目散に駆け出す。
街の人々は、猛スピードで走り抜けるガイと、その脇に抱えられた椿に何事かと目を向けるが、向かっている先が眷属狩り支部だとわかると、何事も無かったかのように、それぞれの日常へと戻っていった。
やがて街の中心地にある眷属狩り支部に到着すると、荒々しく扉を開ける。
支部の外観は、かなり大きい3階建ての白いレンガ造りになっており、館の周りを高い柵で囲っている。
中は1階に受付と狩人の待機場。2階左手に一部ベテラン陣の居室、右手に会議室と右手奥に応接室。ガイの部屋も、この2階にある。
3階真正面に、眷属狩り統括であるアズールの執務室、左手奥にアズールの居室があった。3階右手奥にも部屋があるが、そこは書庫になっている為あまり人は立ち入らない。
ガイは、驚く受付係やたむろしていた狩り仲間を一顧だにせず、3階執務室にいるであろうアズールの元へと急ぐ。
踏み抜きそうな勢いで階段を真っ直ぐに駆け上がると、執務室の扉をノックする。ノックと言うよりは殴りつけてるに近いが。
部屋の中から、静かな声で入室を許可する旨が告げられると、ガイは扉の蝶番が取れそうな勢いで開けた。
「失礼しやす!」
朝、指示を仰いだ時と変わらず、アズールは執務机に座って書類を消化している。
書類が減っているように見えないのは、それだけ眷属の報告や被害状況が多い事を意味しているのだろう。
「どうした?」
そう訊ねながら、眼鏡を外して顔を上げると、ガイの脇に抱えられた人物を見る。
普段、ポーカーフェイスを崩さないアズールが、僅かに目を見開く。
そして、ガイが口を開くよりも早く、抱えられた椿に近づくとすぐに状態を判断する。
「アズール様」
「話は後だ。すぐに私の部屋に」
「はっ」
アズールは、ガイの脇でダランとしている椿を見ながら
「ガイ、その運び方だと彼女の身体に障る」
そう言うと、ガイの脇から椿を受け取り、横抱きにする。ようは、お姫様抱っこだ。
「はっ、急いでいたもので、申し訳ありません」
執務室を出ると、急いでアズールの部屋へと向かう。
アズールの部屋は、広いがかなり質素だ。質素と言えば聞こえが良いが、より適切な表現をすると、殺風景が相応しい。
部屋に入って真正面にベランダに出るための大きな窓、その右隣に出窓がある。
左手には普段着や仕事着の入ったウォークインクローゼット、右手に天蓋付きのキングサイズベッドが置いてあるだけで、他には何も無い。
白い壁紙に白いカーテン。真っ白い天蓋にベッド、真っ白なシーツと真っ白い布団、白の部屋と言ってもおかしくない様相をしていた。
アズールは部屋に入ると、足元に魔法陣を作り、靴で床を一つ鳴らすと魔法で明かりを点ける。
「光よ」
その言葉を発すると、燭台や照明器具は無いのに、部屋全体が明るくなった。
アズールはベッドまで歩を進め、椿をゆっくりと寝かせると、椿の身体に手を当てて治癒魔法をかけ始める。
心なしか血色が良くなり始める椿を見て、ガイは安堵の息を吐く。
「それで、経緯を話してくれるか?」
アズールは治癒魔法を椿にかけ続けながらガイに訊ねる。
「はっ。まず、報告のあった低3級10体は問題なく処理を完了しています。その後、倒した眷属の残骸を片付けている最中に、その娘と共に低1級に分類される‟黒蟷螂”が‟静寂の森”より出現-」
ガイは、椿が現れた状況と負傷した経緯を掻い摘んで話す。
アズールは、黒蟷螂の単語を聞いた瞬間にピクリと反応するが、横やりは入れず静かに聞く。
やがてガイの報告が終わると、アズールは目を閉じ
「わかった。詳細は報告書にまとめて、後で提出してくれ」
「はっ」
「そろそろ、お前の仲間たちも戻ってくる頃だろう。出迎えてやれ。それが終わったら、今日は休んでいい。ご苦労だった」
「はっ。失礼しやす」
ガイはアズールに一礼すると、心配そうに椿をチラリと見てから部屋を退室した。
部屋にはアズールと椿の二人だけ。
黙々と椿に治癒魔法をかけ続けながら、その姿を眺める。
「救世主・・・か。まさか、今回はこんな年端もいかぬ娘とは・・・」
重たくそう呟くと、アズールは椿の髪と服を見た。
椿の身体には、シンが椿の身体を借りて倒した黒蟷螂の黒血を全身に浴びており、手や髪の一部、服に至ってはほぼ全面が血を吸ってしまった為、黒く染まってしまっている。
眷属の体色や血は、例外なく黒色をしている。
これは、眷属を生み出している混沌が漆黒の存在だと伝えられているからだ。
それ故に、この世界では黒という色は混沌、ひいては眷属の色として忌避されていて、使われることは無い。
アズールは、黒く染まった椿のその姿に、一抹の不安を覚える。
その不安を振り払うように一度頭を振ると、椿への治癒魔法を中断して、浄化の魔法を使った。
「白焔よ」
椿の身体が白焔に包まれる。
厳密に言えば、その身に付いた黒血が。
不思議なことに、燃えている筈なのにその髪も皮膚も、洋服でさえ焼け落ちる様子は無い。
僅かの後、白焔は黒血を灼き尽くすと自然に消えた。
そこには、この世界に落ちてきた時と同様の、紫色のラインが入った軍服風ワンピースに白い肌、薄紫銀の髪を持つ椿がいた。
アズールは問題なく黒血を灼き尽くしたことを確認すると、再度治癒魔法をかけ始める。
時刻が深夜に差し掛かる頃、ようやく椿の身体の修復が完了する。
終わるまでかなり時間がかかったが、それだけ危険な状態だったのだろう。
規則的な寝息を立てながら眠る椿に布団を掛けると、アズールは残った仕事の続きをする為に部屋を後にする。
アズールが退室すると、部屋の明かりも自動的に消えた。
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夜明け前、世界が最も暗くなる時間に椿は目を覚ます。
「・・・・・・」
ぼやけた意識で周りを見回すと、窓の近くにいる人影に気づく。
「シン?」
その人影は、ゆらりと椿に近づこうとして、凍ったように動きを止めた。
「そう。そこから先は近づいたらダメだよ」
制止したのは、ベッドで横たわる椿の上半身付近に腰かけたシンだ。
「椿に手を出さないなら、このまま見逃してあげる」
無感情に言い放つシンの言葉を聞きながら、椿はシンだと勘違いした人影をよく見て、背筋に悪寒が駆け上った。
真っ黒な人影は目だけが赤々と輝いている。
その血の様に赤い目が、まるで最上級の食事が目の前にあるかの如く、貪欲に飢えた目で椿を見つめていた。
思わず息を呑む椿に、シンは穏やかな声で言い聞かす。
「おはよう、椿。でもまだ夜明け前だ。もう少し寝ていなよ」
「でも」
漆黒の影に怯える椿に、シンは優しい笑顔を向ける。
「大丈夫。アレはこれ以上近づいて来ないよ。それに、僕は何があっても椿の近くにいて、君を守るから。さ・・・」
蜜の滴るような甘い声で椿の恐怖や思考能力を奪うと、強制的に眠りへと誘う。
そうして、シンは椿の瞼に手を置く。
「・・・・・・うん」
急激に襲ってきた睡魔に抗うことは出来ず、その言葉と共に、椿は再度意識を喪失する。
それを確認してから、シンは乗せていた手を外し、未だにいる影へと視線を戻す。
「さ、僕の気が変わらない内にさっさと消えなよ」
だが影は動かない。ジッと椿に見入ったままだ。
「最後だ。失せろ」
普段のシンとはまるで違う、冷淡な口調でそう言うと、影はようやく闇に溶けるように消えた。
まるで、影が消えるのを待っていたかのように、世界が明るくなり始める。
「まったく、前途多難だねぇ。椿」
椿の頬を手の甲で軽く撫でながら楽しそうに呟くと、シンは金の粒子を残して姿を消した。
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朝。陽が昇る。窓から差す光に反応して、椿は目を覚ます。
見知らぬ天井を見上げながら、ぼうっと椿は考える。
天蓋がある。そして自分は広くてふかふかのベッドで寝ている。確かに、確かに自分は幼少時、天蓋付きのベッドに憧れた。むしろ35歳になった今でも憧れている。なんだったら、この幸せを噛みしめながら二度寝したい。
でも、だからと言って見知らぬ天井、見知らぬ部屋、見知らぬ場所、中性的で見目麗しいとは言え見知らぬ人に見られながら、憧れのベッドでもう一度寝るだなどと、そんな太い神経持ち合わせていない。
ベッドの横に立つ群青色の髪と目を持つ人、アズールは、どうしようと冷や汗を流しながら、布団の中で固まっている椿を見ると、おもむろに声をかける。
「どうだ、身体は痛まないか?」
椿は、アズールの低い声を聞いて、男性かと軽く驚く。
そして、すぐに自分に話しかけられたことを思い出すと、寝ていた身体を起こす。
「え、身体・・・ですか?いえ別に・・・平気ですけど・・・?」
質問の意図するところが掴めず、逆に疑問形で返してしまう。
「何かあったんですか?」
アズールは、怪訝そうな顔でさらに椿に返す。
「覚えていないのか?」
「覚え・・・」
そこまで言って椿は、自分が空に投げ出された時のことを思い出す。
内臓が浮いているかと錯覚してしまう感触、吹き付ける冷たい風、遥か眼下の大地。そしてブラックアウト。
その時の感覚を思い出し、思わず身震いする。
「え、私なんで生きてるの?」
アズールはその言葉を、眷属に襲われた時のことを言っているのだろうと勘違いして聞く。
「君が眷属。しかも低1級を一人で倒したんだろう?」
「眷属・・・?なんですか、それ?」
まるで分らないと首を傾げる椿を見て、アズールは絶句し、少し考えて口を開いた。
「そう言えば、まだ名乗っていなかったな、失礼した。私の名はアズールと言う。まずは君の名前を教えてくれるか?」
「アズールさん、ですか。私は椿と言います」
「ツバキ?珍しい名前だな。とりあえず、君の覚えている範囲で構わないから教えて欲しい」
「あ、はい。えっと確か・・・」
椿はそこまで言った所で、シンの姿が見当たらない事に気が付く。
「あの、すみません。シンを見ませんでしたか?13歳ぐらいの男の子なんですけど・・・」
「いや、私は見ていないが・・・。弟か?」
「まぁ・・・そんな感じです」
シンをどう説明していいか分からず、椿は曖昧に言葉を濁した後、とりあえずどこから話そうか考える。
ひとまず、この世界に落とされた所から話そうと決めて、口を開きかけた瞬間、唐突にベランダへ続く窓が開くと、そこからニコニコしながらシンが入って来た。
「おっはよー!椿!起きた?今日は、すごく良い天気だよ!」
シンの服は、青い空間で見た黒い上着ではなく、代わりにフードの付いた、丈が胸辺りまでしかない薄茶色の半袖シャツを着ていた。
シャツ前には一体化したリボン状の帯が付いていて、シンはそれを胸下で結んでいる。
ベランダから入って来た予期せぬ客人に、一瞬で戦闘態勢に入ったアズールが身構えると、何よりその侵入者の姿を見て驚く。
髪の色が、黒だからだ。
混沌に連なる色として黒は忌避されている。
それが理由なのかはわからないが、この世界の人間は、髪や目に濃灰色や濃紺など黒に近い色が発色されることはあっても、完全な黒色が発現することは無い。
もしも、黒色を持つ者がいたとしたら、それは混沌に連なるモノ、つまり混沌の眷属と言うことになる。
その存在が報告されることは滅多に無いが、実際、眷属の高位種は人間と変わらない姿をしていて、黒髪をしているそうだ。
高位種は人間が何人束になっても勝てない、規格外の存在で、万全の体制の城塞都市でも単騎で壊滅させることが出来る存在と言っていい。
今、ベランダから入って来たこの人物が、もし高位種であるなら、アズール一人では万に一つも勝ち目が無い。
アズールは奥歯をギリッと噛みしめると、いつでも魔法を繰り出せるように、全身の回路にマナを行き渡らせる。
その張り詰めた空気に逆らって、ベッドの上の人物から侵入者に対して声が飛ぶ。
「シン!どこに行ってたの!?」
「っ!?」
思わず、侵入者から椿へと視線を移してしまう。
そんなアズールを無視して、シンは笑顔のまま椿の問いに答える。
「ちょーっと街を散歩してた」
シンはアハハーと笑うと、自分を凝視して敵意を向けてくるアズールを見る。
「で、そこのお兄さんは何で僕に殺気を向けてくるの?僕、何かした?」
「・・・・・・貴様、高位種か」
アズールは警戒しながら、シンに対して簡潔に問う。
「え?あー違うよ。この髪色を見て勘違いしてるんだろうけど、僕は眷属じゃない」
「信じると思うのか」
「逆に、何をしたら信じてくれるのさ」
不敵な笑みを浮かべながらシンが訊ねると、アズールはそれを見て、さらに険しい顔をした。
一触即発な緊迫した空気に、椿は口を挟むことも出来ず、オロオロと成り行きを見守っている。
「そうだな。血を見せてくれるか」
「黒血なのか確認するんだね?いいよ」
そういうや否や、シンは自分の左腕を胸辺りまで持ち上げると、爪を立てて勢いよく皮膚を切り裂いた。
そしてすぐに裂いた腕から糸の様に赤い鮮血が、肘を伝い滴り落ちる。
「これで満足?」
さっきと変わらない笑みでアズールに訊ねる。
その血を見て、一旦アズールは警戒を解くと、シンに謝罪する。
「十分だ。不快な思いをさせてすまなかった。私はアズールと言う。だが、その髪以外にも彼女の弟だからと言って、唐突にベランダから入ってくるのは如何なものかと思うぞ」
呆れながら抗議するアズールを見て、シンは一度大きく息を吸い、吐き出す。
「僕はシン。別にいいよ。この髪色だからね。警戒するのもわかる。でも、ひとこと言わせてもらうなら、ベランダが一番手薄だったからそこから入ったんだよ。悔しかったら外壁周辺にも用心するんだね」
ベランダからの入室はともかく、シンの髪の何がそんなにダメだったのか理解できない椿。
そんな椿の様子に気が付いたシンは、少し笑うと椿に話しかける。
「椿には何の事かわからないよね。これまでの経緯を説明する必要もあるし、とりあえず起きて朝ご飯を食べよう!あ、その前にこの腕の傷治して」
左腕をアズールに向けると、ふてぶてしく要求した。
アズールが、魔法を使ってシンの傷を治している間、椿はその様子を穴が開きそうなほど凝視していた。
魔法を目の当たりにして、顔を真っ赤にしながら興奮する椿をなだめつつ、三人は2階右奥にある応接室に移動する。
その際、シンの髪色を考慮して、シャツに付いていたフードを目深に被せて移動した。
支部の中には食堂や飲食する場所が無い為、アズールは廊下を掃除していた女性に声をかけると、応接室に軽食でいいので持ってくるように頼む。
応接室は、ベージュの壁紙と木製の柱で全体的にシックにまとめられ、左手と中央奥にある窓からは、朝の陽光が差し込んで明るかった。
中央奥の窓下には、レンガ造りの暖炉があり、中に薪は入っているが火は点いていない。
広々とした部屋の中央に、緩い曲線が特徴の茶色い木枠で囲われた、ガラス製の机が置かれており、その机を挟んで茶褐色の三人掛け用のソファと一人用のソファが二脚置かれていた。
床には白いラグが敷かれ、天井にはシンプルで派手さは無いが、それでも趣味の良い円形のシャンデリアが下がっている。
壁には港の風景や草原などを描いた絵画が飾られていて、それを挟むように等間隔に燭台が取り付けられていた。
シンと椿は三人掛け用のソファに、アズールはその向かいにある一人用のソファに座る。
するとすぐに部屋にノックの音が響く。
アズールが了承の返事をすると、応接室に先ほど声をかけた女性が、サンドイッチと水の入ったコップを乗せた銀のトレーを持って入ってくる。
そして机の上に、トレーに乗っていた物を置くと、三人に一礼をして部屋を出て行った。
「さて、あまり時間は無いが、君たちのこれまでを説明してもらえるか?」
アズールは静かにそう聞く。
椿はサンドイッチに伸ばしていた手を引っ込めると、覚えている範囲を語り始める。
「えっと、私が覚えているのは、青い空間から放り出されて、空を落下していた所までです。正直、なんで生きているのか不思議なほどで・・・」
「青い空間?空を落下?」
状況が掴めないと、アズールは訝しげに椿を見る。
だが実際、椿がこの世界に来て覚えているのはそれだけなので、これ以上説明のしようがない。
思わず目を泳がせて俯いてしまう椿に、シンはサンドイッチを頬張りながら、発言の後押しをする。
「椿が覚えているのは、本当にそれだけだよ。落ちてる最中に気を失っちゃったからね。そこから先は、僕が椿の身体を借りてした事」
「行儀悪いでしょ。食べ終わってから喋りなさい」
それを見て、食事のマナーに厳しい椿は、シンに向かって叱る。
「むぐ。はぁーい」
ゴクリと飲み込むと、シンはアズールに向かって要点のみを簡潔に話す。
「椿は神によってこの世界に招かれた。でも、混沌の妨害によって招かれた先は天水の中で、そのまま椿は空に投げ出されたってわけ。それから椿は落ちてる最中に気を失ってしまって、僕が緊急処置で椿と同化して身体を操って事なきを得た。落ちた先は静寂の森で、そこで眷属低1級に遭遇。逃げながら森を出た所で、眷属狩りの一行を発見。その人たちの所に行き、彼等の武器を借りて眷属を撃破。その後、満身創痍で倒れちゃったけど、多分あの中の誰かがここまで運んでくれたってところかな?」
色々と聞きたいことはあったが、とりあえず椿は、勝手に自分の身体を使われたことに言及した。
「え、勝手に人の身体を使ったの?」
「だって椿、意識無かったし、それにあのままだとぺちゃんこに潰れて死んでたよ?」
「・・・・・・確かにそうね。ありがとう」
納得したのか、サンドイッチを食べ始める椿。
やだ素直・・・。とシンは思わず口に手を当ててそうこぼすが、すぐに我に返ると一度咳払いをして気を取り直し、話を戻した。
「ま、そんなわけで、椿はこの世界に来たばっかりだから、今現在何もわからない状態だよ」
アズールは一つ頷くと、机の上に、ジャリっという硬質な音と共に小さな革袋を置く。
「そうか。低1級を倒したのはシンだったか。ではまず、これを君に渡しておく」
「なにこれ」
シンは袋を怪訝そうに見ると、手元に寄せて口を結んでいる紐を解いた。
革袋の口を開けて中を見ると、サンドイッチを食べ終わったのか、隣にいた椿も一緒に覗き込んでくる。そこには銀色の硬貨が複数枚入っていた。
「なにこれ」
もう一度、今度はアズールを見ながら聞く。
「それは眷属低1級を討伐した報奨金だ。銀貨が18枚入っている」
まだこの世界の貨幣価値を知らない椿は、銀貨18枚と言われてもピンと来ないようで、難しい顔をして革袋を凝視している。
それを察したシンから、おおよその目安としての説明を椿にする。
「この金額なら1ヶ月は楽に過ごせるよ。節制すれば2ヶ月いけるかな」
この世界の貨幣は、鉛貨、銅貨、銀貨、金貨、白金貨、琥珀金貨の7種類で成り立っていて、一番価値の低い物が鉛貨、最も価値の高い物が琥珀金貨になっている。
鉛貨50枚で銅貨1枚。銅貨30枚で銀貨1枚。銀貨20枚で金貨1枚。金貨10枚で白金貨1枚。白金貨100枚で琥珀金貨1枚。
という形で価値が上がっていく。
琥珀金貨はその歴史的価値と希少性から、白金貨よりも遥かに高い位置づけになっていて、主に国家間でのみ使われ、一般に流通することは無い硬貨だ。
ちなみに、この貨幣価値を現実世界に照らし合わせてみると、鉛貨1枚が約5円。銅貨1枚が約170円。銀貨1枚が約5千円。金貨一枚が約10万円。白金貨1枚が約100万円。琥珀金貨1枚が約1億円という具合になる。
一般市民の平均月収が、大体銀貨10枚と銅貨27枚に鉛貨46枚なので、変換すると約5万5千円ほどだろうか。
それを踏まえて、今回の報奨金を見てみると、シンが言った目安はなかなか的を得ていて、銀貨18枚なら節制すれば2ヶ月は暮らせる金額だ。
この眷属を退治して得られる金を目当てに、一攫千金を夢見て眷属狩りになる者も多い。
「え!?そんなに貰っていいの?」
驚く椿にアズールから、正当な対価だから問題ないと返されると、それに続きシンも首肯する。
「貰えるものは貰っておこうよ。これからどうするにせよ、先立つものは必要だし。どうしても気が引けるなら、椿が大怪我を負った慰謝料だと思えばいいんじゃない?」
その瞬間、椿の身体がピタッと固まった。
「・・・・・・待って。大怪我って何?どういう事、シン?」
そして首をゆっくりとシンに向けると、引き攣った笑顔で訊ねる。
椿の背後に、揺らめく焔が見えた・・・気がした。
「あ」
しまったと顔を歪めると、冷や汗を流して、両手と首を一緒にブンブン振りながら、必死に言い訳を始めるシン。
「え、えっと、いや!不可抗力!不可抗力だったんだよ!ちょっと無理しないと間違いなく死んでたんだから!でも今はどこも痛くないし、無事なんだからいいじゃない!」
「無事なら何してもいいって訳じゃ無いでしょ?後で何があったのか、話してもらうから」
「はい・・・」
シンがしゅんと肩を落として返事をするさまを見た後、椿は居住まいを正して、アズールに礼を言う。
「何があったのかはわかりませんが、正当な報酬だと言うならありがたく頂戴します」
その言葉を聞くと、シンは早速銀貨の入った革袋を、シャツの内側に取り付けられたポケットに仕舞う。
一方のアズールは、椿の言葉に少し微笑み頷くと、真剣な顔に戻り話し始めた。
「ツバキ、この世界は異世界から来た君にとって、法則も原理も、摂理すらまるで違う未知の世界だ。その説明は追々するとして、これだけは伝えておく。君は我々にとって、いやこの世界にとって特別な存在だ。だから、あまり無茶な行動は慎んでくれ」
「私が特別な存在・・・ですか?」
「君は、この世界の救世主なんだよ」
「救世主!?」
驚きのあまり、声が裏返ってしまう椿を横目で見ながら水を飲んでいたシンは、コップを置くと口を開いた。
「あまり、椿にプレッシャーを与えないでよね。ただでさえ、いっぱいいっぱいなのに、今はこれ以上の情報は過多だよ」
「大切なことなのだがな」
「呑み込めなかったら意味無いでしょ」
僅かな間静寂が支配するが、シンが険悪になりかけた空気を散らすようにフッと息を吐くと、わかったと続けた。
「椿が落ち着いたら、僕から説明しておくから。それでいいでしょ?」
そう言うと、この話はこれで終わりとばかりに、窓の外へと目を向ける。
一応は納得したのか、アズールも何も言わずに窓の外を見て陽の高さを確認すると、まだ昼とは言わないが、そこそこ高くなっていた。
アズールは、そろそろ仕事に戻らないと支障が出ると判断して、二人に向かって話しかける。
「さて、まだ色々と訊ねたい事はあるし、今後についても話し合いたいのだが、今は少し忙しい。先に重要な事を確認させてもらう。シン、ツバキは君のことを弟だと言っていたが、真実は違うのだろう?それはいい。今は君の正体について言及するつもりはない。だが、これだけは正直に答えてほしい。君はツバキの味方か?」
「もちろん。僕はいつでも、何があっても椿の味方だし、彼女が本当に嫌がることは絶対にしない。椿を裏切ることは、僕が消滅しても無いよ」
アズールの目を真っ直ぐに見て即答し、断言するシンに、椿は思わず赤面してしまう。
アズールは、その真偽を見定めるように、しばしシンの金色の目を見つめ続けると、やがて納得したのか、短く息を吐き目を閉じる。
「わかった。その言葉、信じよう。とりあえず、また夜に話を聞かせてもらう。それまでは、さっきいた私の部屋でくつろいでいてくれ。あぁ、この建物の周辺と東地区なら外を散策しても構わないが、その時は受付にいる人間に一言声をかけてくれ」
「わかりました」
椿の返事を聞くと、アズールは立ち上がり、応接室を後にした。
その際、アズールへの書類を執務室に置いてきた帰りなのか、3階から降りてくる女性に、応接室の片づけをするよう声をかける。
奇しくも、その女性は先ほど椿達に軽食を持ってきた女性だった。
応接室に入って来た女性を見て、椿とシンも一度アズールの部屋に戻る事に決めて、部屋を出る。
アズールの部屋に戻ると、椿は開口一番に、どういう事!?とシンに詰め寄る。
「救世主って何!?」
「文字通り、世界を救う主だね。おめでとう!椿、いつもこういう物語の主人公になりたかったものね!」
椿は真顔になり、シンの襟を勢いよく掴み上げると、至近距離でどすの利いた低い声で告げた。
「今は、その、おちゃらけた風に喋るのやめて。頭の血管がキレそうだから」
「わかった、ごめん」
シンが冷や汗を浮かべながら謝ると、椿は掴んでいた襟を離してベッドに座る。
シンは被っていたフードを外し、出窓に腰かける形で落ち着いた。
「で、なんなの?救世主って」
「そのことを話すには、まずこの世界の事を説明しないとなんだけど・・・長くなるよ?」
「よろしく説明して」
じゃあ、とシンは一つ咳払いをして話し始める。
「この星はエデンって言うんだ。世界には世界素という名のマナが満ちていて、人々はこれを使って魔法を行使している。天には天水って水が天空を覆っていて、その向こうに天使の領界である4大陸があり、そのさらに向こうに神の領域である至高天がある。この至高天が太陽の代わりに世界を照らしてて、地には混沌の眷属って言う、まぁ混沌から生まれた魔物みたいなモノが蔓延っていて、人々の暮らしを脅かしているんだ。混沌の眷属は高位、中位、低位から成り立っていて、その中で5段階に階級分けされてる。この混沌の眷属を倒すことを生業にしてるのが、アズール達、眷属狩りの人達だね。巷では‟黒狩り”とか、もっとわかりやすく‟狩人”って呼ばれてるけど。昨日、椿が気を失った後、僕が椿の身体を使って倒したのが、この混沌の眷属、低位種1級。椿の身体にマナを通す回路を開いたばっかりなのに、そいつを倒すために無理してそこそこの威力の魔法を使っちゃって、そのせいで椿の身体はボロボロになっちゃったんだけど、そこは許してほしい。あいつしつこいから、どうしても倒すしかなくて・・・。救世主は、この混沌の眷属を滅ぼすなり封印するなりして、世界に安寧をもたらす選ばれた存在なんだよ」
椿は頷いた後、自分の手足を見たり身体を触ったりしながら、怪訝な表情でシンに訊ねた。
「・・・いいわ。倒すしか道が無かったんなら、怪我については許す。でも、重症って言ってた割に私の身体に傷一つ付いてないけど、なんで?」
「さっきも言ったけど、この世界には魔法がある。ここに担ぎ込まれた椿をアズールが治癒魔法を使って治してくれたんだよ」
「え、そうだったの?後で改めてお礼を言わないと・・・。あれ、さっきの話を聞いた限りだと、私も魔法が使えるの?」
シンは大きく頷き肯定する。
「うん、使えるよ!ただ、まだ大きな魔法は負担が大きいから、簡単な奴しか使えないけど」
「そう。じゃあ後で使い方を教えて。それにしても、神とか天使とか魔物とか、ずいぶんファンタジックね。しかも私が異世界から来た救世主とか・・・。ひと昔前に流行った異世界転生・・・いや、死んでないから転移?でも現実の私は寝てるとは言え、ちゃんといるから転移でもないか・・・。とにかく異世界物だなんて」
「椿、中二病だし、願望が反映されたんじゃない?この世界は少なからず椿の知識や願望が反映されてるから。椿の知ってる名称や物体も存在してるしね」
ハハッと笑うシンに、真顔で言いかえる椿。
「精神年齢が青春してるって言って。なら、救世主の私はその眷属?を倒していけばいいの?」
「役割に沿うなら、そうだね。でも、やりたくないなーって思ったらやらなくてもいいよ?椿の好きにすると良い」
「そんな適当な・・・。まぁいいわ。考えとく。所で、なんでシンはそんなにこの世界に詳しいの?」
シンは足をブラブラさせながら失笑すると、自分の頭を指でトントンと叩く。
「椿、忘れたの?僕はずっと椿の中にいたんだよ?つまり、椿の夢でもあるここは、僕にとって独壇場も同然。それに僕は、この世界のガイド役も担ってるからね」
「その理屈で言うなら、私もこの世界で向かうところ敵無しって事になるけど?襲ってくる敵をバッタバッタと薙ぎ倒して、傷一つ負わない!みたいな」
手をブンブン振り回しながら楽しそうに喋る椿を見て、シンはいい笑顔で注意する。
「やろうと思えば出来るよ。ただ、身体が慣れないうちに無理をすると、腕とか足が弾け飛んじゃうから気を付けてね!」
その言葉を聞いてギョッと硬直する椿を見ながら、さも当然とでも言う様に、シンは話を続けた。
「そりゃそうだよ。椿が重傷を負ったのだって、無理して威力の高い魔法を使ったせいなんだから。例えるなら、そうだなぁ~・・・。処女に無理矢理、極太の男性器を」
「だぁあああ!やめろ!わかったから!!やめてくれ!!」
椿は、まだシンが説明している途中で、素の口調で思いきり遮り、顔を真っ赤にしながら両手で頭を抱えている。
「唐突な下ネタとか、なんなんだよ・・・マジで・・・」
消え入りそうな音量で呟くと、真っ赤な顔のままギロリとシンを睨む。
「一番わかりやすいかなぁって」
悪びれる様子も無く、あっけらかんとそう言うシンに、諦めと共に全ての感情を込めて大きくため息を吐く。
「もう・・・いい。とにかく無双できるのね?」
頭を抱えていた腕をだらっと下ろすと、一気に疲れた声を出しながら、シンを見上げて聞く。
「身体が慣れれば、ね!」
眩い笑顔で肯定するシンを見て気が付いたのか、それとも話題を変えようと思ったのか、はたまたその両方か、椿が疑問を投げかけた。
「そう言えば、アズールさんはシンを見て驚いてたけどなんで?金の目以外、普通じゃない?」
「あぁ、その事も説明しないとね。この世界ではね、黒は混沌の色として嫌われてるんだよ。実際、眷属は例外なく黒色をしているし、眷属以外で黒髪とか黒目の人はいないからね。だから眷属狩りの人は‟黒狩り”なんて二つ名で呼ばれてるのさ。さらに高位の眷属は人と変わらない姿をしてるから、それでアズールはあんなに警戒してたってわけ」
「へぇー。現実では黒髪も黒目もそこら中にいるのにね」
「世界が違うからしょうがないよ。だから椿も、僕以外の黒髪を持つ奴がいたら、即逃げるか僕を呼んでね!すぐに飛んで行って、ボッコボコのボコにしてやるから!」
自信満々に、見えない何かを殴るように腕を振るシンを見ながら、椿は首を傾げる。
「でももしシンと一緒で、たまたま黒髪をしていたら?」
「いないけどねぇ~。まぁ判断に迷ったら、アズールが僕にしたような確認の仕方をするといい。血を見せてもらうのさ。眷属は全て血がコールタールみたいに黒いから」
シンは肩をすくめた後、アズールに治してもらった左腕を持ち上げて、傷があった場所を指差しながらそう言う。
「さてと、他に質問は?」
椿はお手上げとばかりに両手を上げると、疲れたように息を吐きだす。
「これ以上はキャパオーバー。消化したらまた聞くわ」
「おっけー!じゃ、時間もお昼に近いし、外に行ってご飯がてらデートしよ!」
出窓からぴょんと降りると、シンは輝く笑顔でそう提案した。