夢の入り
早朝。
雲一つない高く澄み切った空。
冬特有のピリッとした冷たい空気を頬に受けながら、一人の女性が駅へとかなりの足早で歩いている。
女性には珍しくパンツスタイルのスーツを着ていて、肩から大きめの黒いトートバッグを下げていた。
外見は20代後半ぐらいだろう。
肩まで伸びた黒髪はくせ毛なのか、所々跳ねている。意志の強そうな目は焦げ茶色で肌の色は雪のように真っ白だが、急いでいるためか頬は薄紅色に染まり、口からは白い息を吐いていた。
背丈は女性の平均身長よりは低く150㎝あるかないか、と言ったところだ。
顔は特段美人ということもなく、愛嬌のある顔でもなく、あまり特徴のない顔というのが適当だろう。しっかりと化粧をすれば、ある程度化けるのだろうが、精々ファンデーションをしてある程度なので、素顔と然程変わらない。
「やっぱり洗濯物干したかったなぁ~・・・」
少し顔を顰めポツリと呟きながらも、その足は迷いなく駅へと向かっている。
実はここ一週間ほどずっと天気が悪く、天日干し派の彼女の家には洗濯物が溜まっていた。ようやく晴れるこの日に、洗濯物を一気に干そうと思っていたが、運悪く目覚まし時計の電池が切れており、急げば遅刻こそ免れるものの、洗濯物をする時間は取れなかった、という次第だ。
ため息を吐きつつも歩き続けると、ほどなく駅に着いた。
階段を上り、二階にある改札でICカードをタッチしてホームへと降りていく。
通常であれば通勤ラッシュが始まる時間帯の手前で並んでいるのだが、今日は寝坊のためラッシュにぶつかってしまい、ホームには電車を待つ人達が長蛇の列をなしていた。
彼女は、降りる駅で改札が最短距離になる列の最後尾に並ぶと、それとほぼ同時に電車がホームへと入ってくる。
扉が開くと、降りる人は一人二人で、その約4倍~5倍の人が電車へとなだれ込んでいく。彼女も乗車率100%の満員電車に押し寿司の様に詰め込まれていった。
電車の中は暖房と人々の熱気により、冬にも関わらず、まるで夏の様に蒸し暑く、窓は結露している。さらに空間に対して過剰な人口密度の影響で空気は薄く感じられ、この状態で目的の駅まで我慢しなくちゃいけないのか・・・と彼女はげんなりしつつも、今後絶対に寝坊しない。と固く決意した。
それから目的の駅に到着するころには乗車率は120%を超えていて、電車の扉が開くのと同時に人々が堰を切ったように降りていく。
彼女はホームに降りるのと同時に深呼吸をするが、落ち着く間もなく次々と降りてくる乗客達に押し流され、半ば無理やり改札へと向かって行った。
駅を出ると会社まで歩いて10分程だ。
急いだおかげか、多少時間に余裕がある。これなら普通に歩いても遅刻することは無いだろう。
途中、コンビニに寄って、缶コーヒーと昼食用のサンドイッチを買っていく。
彼女が働いている会社は、大通りから一本入った通りにある5階建てのビルで、築年数は20年を超えるが、きちんと清掃と補修をしている為、窓ガラスは太陽を反射して輝いており、新築のビルと比較しても見劣りはしない。
ビルに入ってすぐに守衛のいる受付があり、その奥にエレベーターと階段がある。
守衛に社員証を見せた後、受付にある機械でその社員証をスキャンし、出勤の打刻をする。
彼女の働く部署は3階だ。
彼女はエレベーターと階段、どちらを使うかで少し悩み、結局エレベーターを使う事にした。
エレベーターを降り、部署に入ると持っていたバッグを自分の机に取り付けられているフックに掛け、椅子に上着を掛ける。
そうしてようやく椅子に座り、買ってきた缶コーヒーを飲んで一息ついていると、既に来ていた佐藤という隣の席の同僚から声を掛けられた。
「椿さん、いつも早いのに今日は遅かったね。どうしたの?」
「おはようございます。佐藤さん。実は目覚ましが壊れてまして、寝坊してしまったんです。焦りました」
アハハと疲れた笑い声を出す。
「そっかー、大変だったねー。ところで今日クリスマスじゃん!椿さんは誰か好い人いないの?」
そう。今日は12月25日。クリスマス。本来であればイエス・キリストの誕生を祝う日だが、こと日本においては主に恋人の祭典になっている。なので
「残念ながら、いないですね」
彼女には、何の意味もない日。ただの平日。
「そうなの?私はねー、仕事が終わったら彼氏が迎えに来てくれて、一緒にディナーするんだー!」
「それは良かったですね。楽しんでください」
彼女はニッコリと、満面の笑みで返した。
雪村 椿。女。35歳。独身。彼氏いない歴=年齢。童顔なため、よく20代に間違われるが、れっきとしたアラサー(ギリギリ)である。
椿はかなり二面性のある人間で、誰もいない時はネガティブで短気。かなり口汚く排他的、さらに筋金入りの人間嫌いだ。お世辞にも性格が良いとは言えない。その逆で、誰かと一緒にいる時は明るく礼儀正しく、気配りが出来るなど、とても人柄が良い。
仮に、一人の時を‟裏”誰かといる時を‟表”とするならば、椿本来の性格は‟裏”である。
かといって‟表”の方も自分の意思と反しているとは言えず、言わば一つの人格と言っていいもので、ふとした拍子に‟裏”の顔が覗く事はあるものの、基本的にその口から出る言葉に嘘はない。
その為、たとえ嫌いな人間であろうと‟表”の人格が働いている間は、良好な人間関係を築けている。
その後も、軽快に彼氏自慢を続ける佐藤に適度な相槌を入れて流していると、間もなく始業の時間になり、朝礼が始まった。
自分に割り振られた仕事を黙々とこなしていると、あっという間にお昼休憩の時間になる。
途中、佐藤から何かしら話しかけられた気がするが、内容は忘れた。きっとそれ程重要な内容じゃ無かったんだろう。そう椿は考えると、その佐藤に話しかけられる前に、バッグから貴重品と持参したブランケット、朝コンビニで缶コーヒーと共に買った昼食用のサンドイッチが入った袋を取り出し、会社の屋上に行くために席を立つ。
すると、それに気づいた佐藤とは別の同僚から声をかけられた。
「あっ雪村さん、駅前に新しいイタリアンのお店が出来たんですけど、良かったら一緒にランチ行きませんか?」
「ごめんなさい。今日は手持ちが無くて・・・。明日なら大丈夫だと思うんですが・・・」
椿は顔を曇らせ、申し訳なさそうに断るが、同僚は気を悪くした風もなく
「そうですか、ではまた明日誘いますね!」
と言ってくれた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
ほっとしたような笑顔で答えると、エレベーターに乗るため廊下に出る。
視界の端に、椿に声を掛けようとする佐藤の姿が映った気がするが、気が付かなかった事にした。
佐藤という同僚のことは、好きか嫌いかで言うと、間違いなく嫌いだ。と言うよりも、どうでもいい人と言った方が適切かもしれない。価値観が全く合わないのだから、好きになれという方が無理な話だろう。ただ隣の席だし、職場内で余計な波風を立てたくないから、話に付き合っているだけ。
椿はそんなことを考えつつ、エレベーターに乗り込んだ。
会社の屋上は少し特殊な形状で、わかりやすく言ってしまうと温室、もしくは鳥籠の様な造りをしている。
広さはテニスコート約8面分あり、高さは6~7m程ある。それをドーム状になった強化ガラスが覆っており、台風や雪が降っても耐えられる仕様だ。
その屋上は国の屋上緑化推奨計画に基づき、面積の7割方に草木が植えられていて、中心には背の高い梅の木があり、その梅の木を囲むように二人掛け用のベンチが5つ置かれ、その周りをさらに囲むように芝生が4つに区分けされて植えられている。
梅の木、芝生の区画にはそれぞれ時限式のスプリンクラーが設置されていて、水やりの手間がかからないようになっている。
給水塔やビルの換気口は景観の邪魔にならないように、屋上の一番奥に造られていて、更にその奥にはドーム状の出口であり、非常階段があった。
椿はエレベーターから降り屋上に出ると、中央にある梅の木の近くにあるベンチに向かって歩いていく。
屋上は温室風になっているとは言え、今は冬。さらに今日は、かなり強い寒波まで来ていて、羽織るものがあったとしてもそこそこに寒い為、椿しか人はいない。
それでも、晴れて太陽の日差しがある分、外に比べたら暖かいのだが、この会社には冷暖房完備の食堂が備えられてあるので、他の人は皆そちらに行ってしまい、屋上には誰もいかないと言う状況である。
椿はベンチに座ると、まずブランケットを膝にかけ、その上にサンドイッチを置いて食べ始める。
コンビニで選んだのは、椿の好物である卵サンドイッチだ。
『へぇ~、今日は卵サンドかぁ。美味しそうだね!』
唐突に話かけられる。
と言っても屋上に人はいない。この声は、椿の頭に直接響いているものだ。
「嫌味のつもり?目覚ましが壊れてたんだから、今日くらいコンビニのサンドイッチでもいいでしょう?」
椿は特に驚くこともなく、むしろいつもの事の様に返答する。
それもそのはずで、この声は椿が物心ついた頃から聞こえていたもので、昨日今日の話では無いからだ。
『嫌味なんかじゃないよ。相変わらずネガティブだねぇ』
クスクスと笑うその声の主は椿に対して、自信と椿は同一の存在だと言っているが、真偽のほどは定かでない。だが、本当にしても嘘にしても、困る事も無いので放っておいているのが現状だ。
椿はサンドイッチをモグモグと食べながら、そう言えばこの声の呼び名すら考えた事無かったな。いや、ふとした時に名前の事を考えた事はあるが、結局自分にしか聞こえていないんだから、決めてもしょうがないと流していたんだった。
そう考えていると
『呼び名?椿の好きに呼んでくれていいよ』
こちらの考えを読んだかのように、その声は答えた。
「勝手に私の心を読まないでくれる?気持ち悪いんだけど」
『気持ち悪いだなんて、酷いなぁ。僕は君なんだから、君の考えている事なんてお見通しなだけさ』
酷いと言っておきながら、全く傷ついた風のないその声は、むしろ楽しんでいるかの様に返す。
「‟私の考えてる事がお見通し”なら、私が不快な思いをしてる事もお見通しなんでしょ。黙って」
『別にいいじゃない?今は誰もいないんだし、椿が‟独り言”を喋っていても、不審に思う人はいないよ。それに僕、君が本当に嫌がる事はしたこと無いと思うんだけど?』
確かに、その声は椿が本気で嫌がることはしたことが無い。
だが、そういう事じゃないと、椿は眉間にシワを作りながら思う。
「本当によく喋るのね。朝はずいぶん静かだったと思うんだけど?」
『椿、朝は忙しかったでしょ?空気を読んであげたんだよ。感謝してくれてもいいんだよ?いや、むしろ感謝するべきだね、うん!』
椿は深いため息を吐き、会話を強制終了させると、無言でサンドイッチを完食する。
ゴミを持ってきた袋に入れて、朝と変わらず雲一つない青い空をボーっと眺めていると、途端に眠気が襲ってきたのか、欠伸が出る。
最近、気を抜くと睡魔に襲われる日が多いなと思う。今日寝坊したのも、目覚ましが原因ではあるが、それでも身についた体内時計で起きれるはずだった。睡眠時間もきっちり8時間とっていたので寝不足は考え辛い。それが働かないぐらい眠りが深かったのは、年齢のせいで疲れが取れにくくなっているからなのか、それとも他に理由があるのか・・・。
椿は鬱々とそんなことを考えながら、腕につけた時計を見る。女性用の細身な時計だ。
昼休憩が終了するまで、あと43分。
『眠いなら寝ちゃえば?休憩が終わるまで、まだ40分以上あるよ?』
「んー。でも、また起きられなかったらマズイからやめとく」
『大丈夫だよ。その腕時計、アラーム機能がついてるんでしょ?電池だって、こないだ交換したばっかりだし。アラーム設定して寝ちゃいなよ』
椿が着けている腕時計は、見た目は何の変哲もないただの腕時計だが、実はアラーム機能がある。しかも、振動と音のダブルでお知らせしてくれる上に、音は止めるまで徐々に大きくなっていくハイテクな奴だ。
だが、椿は何が腑に落ちないのか、怪訝そうな声で訊ねる。
「いやに私が寝るのを勧めてくるわね。何企んでるの?」
『企んでるなんて人聞きが悪いなぁ。ただ、このまま寝ないで戻っても、眠気で仕事に支障が出るかもって心配してるんじゃないか。それに、適度な昼寝は作業効率がアップするんだよ』
ドヤァと、得意気に声は言う。
そのドヤ声に多少イラつきつつ、確かに理に適ってはいるけど・・・と椿は眠気であまり働かなくなった頭で考えるが、いよいよ睡魔が本気を出してきたのか、瞼が自然と落ちてくる。
我慢しても無駄か。と椿は諦めると
「・・・あなたの助言に従うわけじゃないから」
そう言いながら、ベンチに横になり、膝に掛けていたブランケットを身体に移動させ、枕代わりに貴重品を頭の下に置く。
『ツンデレ?』
「くたばれ」
思わず、椿が治そうと苦心している素の言葉が出てしまうが、それに気づかず、椿は腕時計のアラームを昼休憩終了5分前に設定すると、そのまま眠りにつく。
その直前に
『今日は、神の子の降誕祭だ。きっといい夢が見られるよ。おやすみ、椿』
その言葉を最後に、椿の意識は闇に沈んでいった。