pf.A.T.E.M.--Automat1c replicating Transistor Elucidate M0dule
壁
今僕は、作文を書いている。
そして空は暗い。
しかし朝は明るかったのだ。
◇
四百並ぶ正方形が六十一の薄橙色をした直線に囲われて顕現している様だ、つまるところ原稿用紙である。
一行目の一升目は空いており、そこから三行に渡って喜怒哀楽の欠如した私小説が綴られている。
一行一行がその文章の表したい意味を二つに分けるので、二の三乗通りの読み取り方をしてみてもいいと思う。ただ、これは作文ではなく作文を書いている主人公が登場する私小説であるとする方が面白いことは明らかであり、この一見荒唐無稽な文字列でさえ趣深く思える解釈が最善であろう。
しかしそんなことはどうでもいい。
なんとある朝、グレゴール·ザムザが気掛かりな夢から目を覚ますと、寝床の上で一匹の壁になっていた。
などという過去を持たないままにも、何と、何故か知れなくあって私の正体は驚くべき壁であったのである。
ちなみに私はグレゴール·ザムザではないし、名前はまだない。
私は自身が驚くべき壁であることに何の疑問も抱いていない。よって私は自身に対し驚くべき点は発見できず、断固として私は驚くべき壁ではないと主張する。これは以前の発言と矛盾しているが、それこそが驚くべき点なのである。
しかしそんなことはどうでもいい。
原稿用紙は依然として壁に張り付いている。
私がいくら剥がそうとしてもまとわりついてくるその原稿用紙。そもそも壁とは、私とはいったい何であったか。壁とは、現実と私とを隔てるものであり、私とは、冷酷で強欲で傲慢で、世界の全てのものを拒絶した者である。私は自身の心と世界の間に、自分という壁を作ったのだ。(つまり僕だ。)嫌でいやで仕方のないこの世界を視界から覆い隠してしまうために。やってみれば、現実から逃げることはそう難しいことではなかった。嘘、偽り、幻想、虚像で連ねられた数多の原稿用紙によって、僕という壁を形成していく、ただそれだけのことなのだから。
そう、僕は壁だが、作文を書いているのは僕だが、原稿用紙も僕なのだ。終いには私でもある。手のつけようがない。
しかしどこまでも私は物理的存在として私であり、僕はどこまでも物理的存在として僕であり、壁はどこまでも物理的存在として壁であり、原稿用紙も物理的存在として原稿用紙だ。
そして壁というのは原稿用紙の集合体としての面と壁としての面、双方を持っていることは言うまでもない。
つまり、すべて物体なのだ。なんとややこしいことか、しかし真実は偽りなく記述されるべきであり、記述され得るはずである。
寧ろその証明のために私は居る/あるといってもいい。
では主観を持った私は壁面を背にして歩き出そうと思う、そちら側にはまた壁があってその下は床に繋がっているかもしれない、その床が、今私が歩いている床ということになる。
張り付いていた原稿用紙はひとまず私の主観ではなくなって、自身であった過去は記憶だけの嘘になる。真実であったとしても私はそれを信じる根拠も度胸も無く、嘘であればそんな風にひき起こされた間違いは何かを達成する壁になると思う。
その壁の向こうには達成がある理屈になる。壁になる要素が無くても達成と非達成の区別は行われているはずで、そこを超えるために苦労がない訳がないと気付く。それでは壁はあることとなる。
それに、達成とは如何なるものでもあり得ないように思える。至るべき極点が達成であれば壁の向こう側という自由な空間は達成でありえないのではないだろうか、その壁には向こう側があるというのは勘違いでただ硬いコンクリートか粘土が延々続いているのではないだろうか、しかもそうすると今いる場所は何なのか、達成が極点であれば壁の中も今いる場所も同時に非達成であり、ここも壁の中ではないか、そもそもそれは壁なのか、一様に続く土の世界ではないか。
そんなことが、すなわち達成が極点であるなどというのは間違っているというのは当然である。達成とはもっと自由なのかもしれない。キッシュを食べたい人がそれをフランスで食べようが夢の中で食べようが地球の中心で食べようがそれは達成である。けれど、やはりそれは特異なものだと思う。この世に食べ物が一億種類あればキッシュを食べている確率は一億分の一として、この世に日常行動が一億種類あれば何かを食べ、またそれがキッシュである確率は一京分の一とすることが出来る。
言うまでも無く近似である。しかし二分の一ではないだろう。達成と非達成が一枚の壁で隔てられているだけではそれらは区別することが出来ない。自分がどちらにいるかを判断することが出来ても、自身がいる方が既に達成であるというのは何か違う気がするし、自身がいる方を非達成とすれば達成に至ると同時に非達成が達成になり反復運動を続ける。若しくは壁になる。
達成とはパターン数が少ないから達成なのだと思う。少なくなければダイヤモンドも天才も宝くじの一等も、硬い石と平均的人間とインフレメイカーである。どちらかというと達成とは壁に閉じ込められた箱のようなものである必要があるのだと思う。部屋だと思う。
そんな思考をする壁は最早壁ではない。
壁から目を逸らし壁から垂直に歩く一人の主観なのだ、その主観に壁は見えない、故に壁ではない、壁ではなく……そして壁になった。
壁の反対側には壁があった。
私が壁を見ると、壁も私とその向こうにある原稿用紙の張り付いた壁を見る。
だから私はその全てなのだ。
少し悲鳴をあげて九十度回転、そしてそこに壁を見つけて絶叫した。
ならばと四十五度回転するもそこには壁しかない。
こうして回転する度合いを絶叫のたびに半々にしていくが、回転の速度は変わらないため絶叫の頻度だけがいたずらに増してゆく。
近似的に常に叫んでいるのと変わらなくなった頃、縦方向の回転を加えれば天井か床が見えるだろうと思い立つ。
グルン
「壁。」
なんということか、天井すら壁である。相も変わらずそこには原稿用紙が張り付いており、やはりそれは400字詰め、そしてやはり一行目の一升目が空欄で埋まり、以降各行毎に改行しつつ、
今僕は、作文を書いている。
そして空は暗い。
しかし朝は明るかったのだ。
と続けられていて、その後白紙となっている。いや、見る人が見れば全角スペース(U-3000)の存在に気付けるかも知れない。
しかしそんなことはどうでもいい。
目下問題なのは、角度に関わらずどちらを向いても壁がある、その事実だ。これが確かなら、いや確かでないとした方が精神衛生上良いのか判断しかねるし確かでないとする証拠を列挙せよと言われても頗る徹底的に困る以上、確かだと言ってしまいたい、言ってしまおう、少々の自分を誤魔化したことへの罪悪感を纏いつつ。
これは確かであるから、この空間は(そういった認識を初めて持ったことに私は、僕は聊かハッとさせられた)壁で満たされているということになる。どういうことか。私は壁である。上記の理屈から。そして同じ理屈から私はこの空間全て、であろう。壁が壁に満たされた空間で回転できるとはどういうことか。引っかかったりしないのか。寧ろ物体同士の反発で互いに弾き飛ばされたりとか……いや、壁の「材質」は原稿用紙であり、同時に原稿用紙は心理的障壁、といった所である以上、一寸でかいだけの心理的障壁が重ね合わさって存在できない理由はどこにもない。
相矛盾しない類の∞重心理的障壁塊。突破は不可能とされてしかるべきであろう。
としても、心理的障壁が相互不干渉だろうと物理的存在としての原稿用紙は部分的にだろうと同じ場所に同時に存在出来てたまるはずがない。
分からない、分かりようもない。
分かりようもない以上、考えても意味がない、気にしないこととしよう。
ではどの壁にもその素材としてではなく張り付いている、唯一記述のある、記述され続けている原稿用紙はなんであるか。
といったことを考えつつ私は、僕は絶叫を続け、三次元的回転を不規則且つ小刻みに、ほぼ止まっていないように見えるほどに繰り返し続け……遂に私から、僕から原稿用紙が剥がれ落ちた。壁に満ち満ちた空間で物が落下するとはどういうことか、しかして私は、僕はそこに落下の停止、即ち床の存在を見出した。いや、見いだせなかった。最早私は、僕には何も見えていなかった。しかし落下の感知はできており、聴覚によってであったかもしれないし、他の何かであったかもしれない何らかの感覚によってそれは行われたのだと思う。僕は絶叫を止めずに回転を続けようとしたが、覚束なかった。
回転を行おうとしている僕自身がどちらを向いているかも分からず、回ろう回ろうとして通常唯一得られるはずの加速すらも感じない。自身が等速で運動しているか、同じことだが止まっているのか、もしくは加速を感じ取れていないのかを判別できず、そもそも自身が充ち満ちた一様で対称の壁であるなら全体の回転運動などというのは回転前と回転後で互換性を持っているから過程も結果もへったくれも有りはしない、ということに今更ながら気づく。
そんな私も原稿用紙の落下に大きく衝撃を受けてどこかへ消えてしまった。
どうも僕の私はそれがどういうことかを大方理解していたようであり、元来備え付けの緊急時の対応の通り消えてしまった。
要は僕の気が動転しているのである。
ああ、回っていないな、直感的にそう思い、叫ぶのを止める。
当然である、私はもうずっと分かっていたし、原稿用紙が有ろうが無かろうが結局代わり映えのしない一枚画だった。壁であるか、それすらないかだけの違いである。
回転を感じられないから気が動転している訳がない。回転は常に感じられなかったのだ。回転を感じることが出来た過去を、ああ、こんな風だったかな、などと真似てみただけなのである。
常に同じ壁が立ちはだかり、原稿用紙に外のことが書き込まれることはもう無かった。自身が壁であっても壁の外のことは分からないし、そもそも僕は壁では無かったのだ。
僕が取れる唯一の立場は私小説の読み手であったのに、作家は原稿用紙に手が届かず、僕はゲシュタルト崩壊しきった文字列の意味を思い出しながら欠けた主人公を私として補い物語を紡ごうとしたが、それはただ華々しい思い出と現状の比較にしかならず苦しいだけで、いつしか楽しみなのは幕引きだけになった。
◇
第一部の終焉ならあったのだけど、その時はまだそんな心地にはあれずに非難した、戻らせてくれと、その先には絶望しか無く思えた。まだ世界が二乗的な情報量を持っていた頃、原稿用紙だって片方は何か紡いでいて本当に白んでギラギラしていたのは半分だけだった。互いに全く別物で、線形の関数で足しあわされただけのように映っていたそれが朝起きると半減している。悲劇でしかない。
そっちはもう如何にもならないらしいって、そしてこっちもあやふやにモザイクが掛かってゆく、ぐちゃぐちゃになって、そして段々と見えてくるのだ。赤味掛かったそれと網目、ギラギラした壁。
常に同じ壁が立ちはだかり、原稿用紙に外のことが書き込まれることはもう無かった。自身が壁であっても壁の外のことは分からないし、そもそも僕は壁では無かったのだ。
僕に見ることが許された最後の変化であり、やはりその瞬間はとても感動的だった。
消えてゆく私、消えてゆく壁。それらはまるきり無くなった訳ではないが少なくとももう僕の視界から消えて関係のないものになった。
感情の昂ぶりに打ち震える。閉じることの出来なかった瞼をついに閉じたのだ。
目の前には常に壁があり、逃げてもいくらでも迫ってきた。どちらを向いても壁があり、体こそ自由だったが屹度心は幽閉されていた。いくら足掻いても心理的障壁を取り除くことは出来ない。私は原稿用紙を剥がそうとしたが私に何もできないことなど分かりきっていた。
昼間だって夜だってそれは明るく見えていて、僕の意思とは裏腹に僕は壁をまっすぐ見つめて泣いても泣いても歪まない視界の中眠る。夢を見ると僕は私で、毎日少しずつ原稿用紙を剥がしていった。それだけの物語だった。
でもそれも終わり。
泣いても歪まない視界はもうない。どっちを向いても何もなく、しいて言うなら何処までも突き抜けているだけだった。
何処にでも行ける、今まで嵌っていたストッパーがやっと外れていろんな感覚が流れ込んできた。食べ物にこんなに色々な味があるなんて知らなかった。気色悪い不動のMVが付かない音楽で小躍りを決めてついに空を飛ぶ!
しかし、
「壁。」
絶叫と共に僕はしかし目を覚ませはしないのだ。