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(前編)

 髪の長い女が、葬列の先頭にいる。

 巫女である。

 花かざりのついた、祭事用の巫女衣装であるが、葬儀のさいは白でなく黒で統一する。

 死者の色だ。

 先頭の迎え巫女だけでなく、両脇で花びらを散らす役目の巫女も、魔除けの踊り手も、棺桶を運ぶ僧も、そのまわりを囲む死者の知己たちも、みな黒い服を着ている。

 棺桶の中から、腐臭がする。

 つんと、まち針で鼻の奥をさすような痛みをまとった匂いだ。

 さすがに、僧と巫女は顔色をかえることはないが、参列者のうちには、風向きがかわるたびに鼻をつまんでいるものもいる。

 さて──。

 先頭をゆくのは、まだ若い迎え巫女である。

 背は女にしてはずいぶん高いが、顔立ちと体つきからすると、まだ18にもなってはおるまい。

 黒の花冠をかぶった頭のまわりには、白い光球が4つ、浮いている。


 ふわり、


 と、脇を固める年かさの巫女たちが、花びらをまく。


 しん、


 と、迎え巫女が、片足を大きく前に出し、地面にうちつける。手は、ぶらりと下げたまま。

 鬼歩という作法である。

 その動きにあわせて、手足に飾りをつけた踊り手の巫女たちが、くるりと舞う。

 舞いながら、ゆるやかな節をつけて、送り歌を。


 ──くろいおににはやるまいぞ、

   わがともがらはやるまいぞ。


   くろいところに、

   くらいところに、

   しずかにねむる、ともがらを。 


 運び手の僧と、花を撒く巫女は、ふつうの歩みかたに見えるが、足音はほとんどたてない。

 歌のあいまに、参列者たちのかすかにたてる衣擦れの音や、ため息が大きく響くほどだ。

 本日の参列者は4人だけ。ずいぶん少ない。

 みな、どこか怒りのこもった真剣なおもざしをしている。


 さて、


 大通りを進む葬列のゆく先に、ふたりの男がむかいあって立っている。

 素肌に巻衣を着崩した、ざんばら髪の若い男と、短めのチュニックに薄布の上着をはおり、細紐を額に結んだ年かさの男である。

 二人とも、酒に酔っているようだ。

「どけよ。」と、巻衣の男が言った。だいぶ苛立っている。

「ふざけるな。お前が、わしの財布を盗んだのだろうが」

 年かさの男も、声を荒げている。

「誰が盗むか」

「なんだと。しらばっくれるのか。」

「しらばっくれてなんか、いねえ」

「いい加減にしろ」

 だんだん、声のトーンが高くなっていく。

 まわりに人が集まりはじめた。

「盗人が」

 少し、おさえたような声で、年かさの男がいった。

 腰の剣に手をかける。

「ぬすっと、だと」

 若い男も、おびえた様子はない。こちらも、腰帯に剣をさしている。

「お前が盗っ人じゃねえか、因縁つけやがって。あべこべに俺の財布をとろうってんだろう」

「誰が、そんな……」

 年かさの男の顔が、かあっと赤くなる。

「もう勘弁ならんぞ」

 勢いのままに、剣を抜いた。

 遠目に見てもわかるくらい、震えている。

「おい、」

 若い男が、すこし青ざめて後ずさる。


 びゅっ、


 刃が風を切る音がした。

 血が地面に落ちる。

 若い男の脇腹が、赤く染まった。

「てめえ、」

 さきほどよりもっと青ざめて、若い男も剣に手をかけた。左手で傷をかばいながら、右手ですっと細剣を鞘からぬきはなつ。

 足はおぼつかなかったが、きっさきは震えていなかった。


 迎え歌が遠くから聞こえて来る。


 野次馬たちが、一段と大きくざわめき始めた。

 ひゅっ、と若い男が、直ぐに構えた剣を突き出す。

 年かさの男が、剣の腹ではじいて受けようとする。

 若い男が、ぐっ、と右手に力をこめて、剣をひねる。

 受けようとした剣から、うまく逃げるようにして、きっさきが男の腹に吸い込まれていく。

 ぐ、と獣のようなうめき声。

 灰色のチュニックが、じんわりと赤黒く染まってきた。

 野次馬の女が悲鳴をあげた。


 と、──

 二人をかこんでいた人垣が、大きく割れた。


 ふわり、と黒い花びらが舞う。


 しん、


 と、しずかな強い力をこめて、迎え巫女が地面を踏んだ。


『夢見の巫女』だ、とだれかがつぶやいた。


「お願い申し上げます」

 ろうろうと歌うように、巫女は呼びかけた。

 二人の男の方をまっすぐ向いていたが、目はどこか遠くを見ているようだった。

「葬列です。道をお譲り下さい」


 ひゅぅ、


 きっさきが、巫女の前髪をかすめた。

 細剣についていた血糊が、飛び散って右目に入った。

 巫女は、じっと目を見開いたまま、身じろぎもしない。

「あんた、」

 若い男が、荒い息をおさえながらつぶやいた。

「このようすが見えねえのか」

 剣はゆだんなく構えたまま。

 チュニックの男も、同じく、

「巫女。しばらく待ち給え」

 大剣をもうひとりの男にむけて、

「わけはどうあれ、こうして血を流したからには、やめるわけにはいかん」

 ぽたり、ぽたりと、腹から流れた血が膝から地面に落ちている。

 二人とも、酒はとうに醒めたようであった。

 巫女の眼から、涙にまじった血が、つうと落ちた。

「諸々事情はございましょうが、いずれ生者のあいだのこと」

 頬のあいだをつたって、唇へと入る。

「死者にはかかわりがありませぬ。どうか、道をお開け下さい」

 巫女は身じろぎもしない。

 二人の男が、また、剣を重ねようとした、

 その刹那、


 巫女の額のまわりに浮いていた、白い光球が、ふたつ、ふっと飛んだ。


 ひゅうと、風に乗るように弧をえがいて滑り、男たちのうなじのあたりで消える。

 光がぼんやりと浮かんで、吸い込まれる。二人の胴の傷口に、強い熱が生まれて、きえる。

 男たちは、とつぜん力を失ってくずおれた。

「血は、もう流れておりませぬ」

 淡々と、冷たくすら聞こえる声で、巫女はいった。

「道をお開け下さい。葬列が通ります」

 しばらく間があって、男たちは座りこんだままぼんやりと巫女の顔を見あげた。

 無言のまま、たがいに道の反対側へ、剣を杖のようにして離れてゆく。


 腐臭が、ぷうんとあたりに流れた。


 何事もなかったかのように、迎え巫女はまた足を踏み出した。

 鬼歩のリズムにあわせて、踊り手があわててステップをふむ。

 花びらが舞う。

 送り歌が、またはじまる。


 集まっていた人々が、あわてて道をあけ、葬列に敬意を示す礼をする。

(ああ……あれが『夢見の巫女』か)

 誰ともなく、人々のつぶやく声がきこえる。

(なんだか人間離れしたようで……いっそ恐ろしい)

(まったく……聞いたかね、そういえば、こたびの葬儀は特別だと)

(何が特別なんだね)

(それが……ただの噂だが、)

 人ごみの中。

 年のころは巫女と同じくらい、厚手の服をきて腰に剣をさした銀髪の少年が、足を止めていた。

(なんと……。鬼に喰われたのだとさ)

(鬼に、だと)

(それも……)

 なんとなく、話の内容が気にかかり、少年は聞き耳をたてる。


(夢見の巫女が、屍体を鬼に喰わせたのだと)


 聞いたとたん、ぞわり、といやな感じがした。巫女の顔が脳裏にちらつく。

 そんなことが、あるものだろうか。

 そう、考えながら、通りすぎようとする葬列に目をやった瞬間。


 一瞬だけ、夢見の巫女がふりむき……こちらを、じっと見ていたような気がした。


 

 強弓から放たれた矢が、鋭い音をたててエルの頭上をかけぬけていく。

 ぎりぎりのところで、雪ねずみには届いていない。

 エルは、地面に伏せたまま、構えていた小弓をさげた。ここからでは射っても無駄のようだ。

「登るぞ、エル」

 アスターに促され、立ち上がった。

 雪ねずみを狩るには、高所を占めるのが重要である。

 アスターのあとに続いて、がけに手をかける。それほど高い斜面ではないが、急いで登らねばならない。

 この狩りに参加しているのは9人。うち、強弓をもった射撃手がアスターをいれて3人。槍をもった戦士が2人。荷運びの見習いが2人で、魔法使いが1人。

 エルは、そのどれでもない。小弓と剣をもち、状況により射撃手と戦士のどちらも務める。小柄で力がないかわり、隠れて待ち伏せるのが得意である。

 だが、今はたいして役にたちそうもない。

「上には?」

「フォスターと、たぶんジャスが」

「カルナーは?」

「あっちで雪ねずみを追ってた。上にはまだ来てないと思う」

 登りながら、短く会話する。

 雪ねずみは、西側を大きく迂回して登ってきている。このがけを登れば、先回りできる。

 崖上に出てすぐ、エルはあたりを見回した。一足遅れて上がってきたアスターに、状況を報告する。

「雪ねずみは登って来てる。ジャスが狙ってるみたい。フォスターの姿は見えない」

「そうか」

 アスターは小さくこたえて、背中にしょっていた強弓をはずした。

 雪ねずみは、人間の倍ほどの背丈がある、強大な魔獣である。

 重さは、成人男性のおよそ10倍もあり、力も相応にある。だから、まともに戦うのは下策だ。

 離れたところから、弓で狙う。

 相手より高所をとりたがる習性を利用し、斜面を登るところを撃つのである。

 その時、射撃手は、雪ねずみと同じ高さで横から狙うのが望ましい。斜面の下と上から、戦士が囮となって注意をひき、射撃手の安全を確保する。

 今は、下からカルナーが追い、上ではフォスターが注意をひいている筈であった。

 アスターは強弓をかまえた。

 エルは、かれの視線をふさがぬよう注意しながら、剣に手をかけて周囲を警戒した。今のところ、雪ねずみはこちらに向かってきていないが、もし来ればアスターを守らねばならない。来なければ、弓に持ち替えてアスターの援護だ。

「……ジャスがあそこに、」

 なるべく声をおさえながら、アスターの注意をうながす。わかっている、というふうに頷く。

 雪ねずみとかれらのちょうど中間あたりに、新入りの魔法使いがいる。

 遠目でも震えているのがわかる。雪ねずみを狙っているようだったが、位置どりが悪い。

 斜面を登ってくる魔獣の横ではなく、前方に近い場所にいる。これでは、雪ねずみの注意をひいてしまう。それは、撃ちつくせば無防備になる魔法使いの役目ではない。

 新入りをフォローするはずのフォスターの姿は、ここからは見えない。囮役として動くうちにはぐれたか、新入りが先走ったかだ。

 アスターが舌打ちした。

「射線に入るなッ!」

 するどく叫ぶ。

 ぎりぎり聞こえるくらいの声に抑えていたが、おそらく雪ねずみの耳にも入っただろう。

 新入りの魔法使いは、すぐに反応した。

 胸の前にかざした手のうちに包んでいた、茶色の光球が、瞬時に大人の頭ほどの大きさの岩となり、かちかちに張った強弓で撃ち出した矢のように、するどい音をたてて宙を走ってゆく。

 岩弾の魔法である。命中すれば、雪ねずみといえど無傷ではすまない。

 ぎぃんと、大きな音をたてて、太い枝が幹から抜け落ちる。

 枝の根本に岩弾があたって、狙いがそれたのだ。

 雪ねずみの耳元をかすめて、轟音とともに地面に刺さる。

 魔獣がこちらをむいた。

 ジャスはあわてた様子で、こちらへ向かって走ってきた。

「ばか!」

 しんそこ慌てた声で、アスターがさけぶ。

 エルは剣をぬきはなち、雪ねずみに向かって走り出そうとした。

 とん、と右肩に軽い衝撃を感じた。

 ジャスがぶつかってきたのだ。

 バランスを崩しかけて、あわててもちなおす。反射的に後方に目をやる。

 アスターが落ちかけていた。

 考える間もなく、体が動いていた。

 崖際へと体を投げ出し、手首をつかんだところで、二人分の体重を支えられないことに気づく。足がすべり、空中に浮いてから、とどまるべきだったと後悔した。

 ジャスは、アスターとぶつかった後、一人で逃げたらしい。

 エルはなんとか大きく転がって受け身をとり、崖下の地面に足をつけた。弓はあるが、剣は落としたようだ。

「アスター!」

 思わず悲鳴をあげる。

 アスターは崖から10歩ほど離れた木にぶつかって倒れていた。顔色がおかしい。右腕と、左足が、おかしな角度に曲がっているように見える。

 駆け寄る途中で、ふと嫌な予感がして、崖の上に目をやる。


 雪ねずみが、大きな赤い目でこちらを見下ろしてきていた。


 ぞくり、と身が震えた。

 雪ねずみが高所へ向かうのは、その体重を利用して低いところにいる獲物を叩き潰すためだ。

 そして今、崖の下で弱っている人間を、雪ねずみは見た。

 手元に剣はない。仮にあったとしても、牛よりも重い雪ねずみの突撃に、一人で対処できるとは思えない。

 アスターが何かうめいた。

 ひざまづいて、耳を近づける。

 荒い吐息にまじって、こう聞こえた。


「……はやく、逃げろ。エル」


 それを聞いた瞬間、何かがはじけた。

 アスターの強弓を奪い取る。

「よせ、」

 なにか言っているようだったが、

「女の力で引けるものか。」

 無視する。

 ぴたりと、雪ねずみの眉間にむけて、矢をつがえる。

 雪ねずみが体を丸めた。

 鞠のように丸くなって転がり、おしつぶす。それが、雪ねずみの攻撃方法だ。

 だから、急がないといけない。

 きりり、と指が悲鳴をあげる。

 革手袋に弦がくいこむ。

 肩の筋肉が限界を訴えてくる。

 奥歯を噛みしめる。

 

 雪ねずみが地面を蹴った。


 弦が半ばほどまで動いた。

 きしきしと、いやな音が聞こえる。弓ではなく、腕と指からだ。

 汗が目に入る。

 まだ一呼吸ほどの時間も経っていないはずだが、息苦しくて頭が痛い。


 崖の半ばほどを転がる雪ねずみが見える。やけに、ゆっくりと。


 だれかの悲鳴のような声が聞こえた。自分の声だったかもしれない。


 肘のあたりの強烈な痛みで、我に返った。

 弓は、かたく引き絞られていた。

 腕の感覚はないが、支障はない。

 全身で狙いをつける。


 はなつ。


 どん、と大きな音がした。

 矢が、雪ねずみの背に突き刺さる音であった。

 血がしぶく。

 だが、転がり始めた勢いは止まらなかった。

 ぱきん、と矢が折れた。雪ねずみの背に突き刺さったまま、地面との間に挟まれたのだ。

 血まみれになったまま、魔獣の巨体が向かってくる。


 次の矢。

 あわてて、構えようと意識を向けるが、体は動かない。

 押しつぶされる──


 目を閉じてはいなかったはずだ。

 だが、そうとしか思えなかった。

 気がつくと、雪ねずみの突進は止まっていた。

 えんじ色のマントをまとった壮年の男が、両手で構えた素槍で、魔獣の喉を刺し貫いていた。

 男の頭のまわりには、白い魔法球が2つ、浮いている。

 カルナー=メンサ。もと僧兵で、今はこの退魔師団の隊長をつとめる戦士である。

「……遅れて、すまぬ」

 低い声で、カルナーはそういった。

 鉄の柄をささえる太い腕は、ぴくりとも動かぬ。

 身丈は人間の倍ほどもある雪ねずみの重みを、それだけで支えているのだ。


 と、見えた刹那、


 雪ねずみの手、いや右前足が、動いた。

 槍でさしつらぬかれた喉もとから、かるがると、カルナーの左頬に張り手をするように。

 岩を壊すほどの力をこめて。

 カルナーも上体をそらすが、ただ手を伸ばすほうが速い。当たれば、頭はつぶれるだろう。

 

 しかし、その手が届くことはなかった。


 雪ねずみの全身から一気に力が抜け、カルナーの前にどうと転がる。

 その背中に、小剣がささっていた。

 ちょうど心臓の位置である。

 鉄片入りの革鎧で全身を覆った大男が、渋面をしてそこに立っていた。

 フォスター=リマム。囮を引き受けたはずの戦士である。

「遅れて、すみません」

 言葉はカルナーに向けていたが、目線はそれを通りこしてエルとアスターのほうを見ていた。


 エルは、いつのまにか膝をついていたことに気づいた。


「応、」

 カルナーは満足げに頷くと、くるりと後ろをむいた。

 つかつかと二人のほうに近づき、

「ご苦労だった」

 言葉とともに、魔法球がひとつ、アスターのところに飛んでゆく。

 光球が触れたところから光が広がり、怪我がいえていく。

 巫女と僧兵が使う、治癒の魔法である。

「ありがとうございます、…」

 アスターはすぐに顔をあげたが、立ち上がることはできなかった。

 治癒の魔法を受けると、体力を消耗する。傷が深いほど、その度合も大きい。

 動こうとするアスターを制して、カルナーは言葉を続けた。

「エル=サラナよ。素晴らしい勇気だった」

 エルは、顔が紅潮するのを感じた。

「だが、方法は最善ではない。矢を受けただけでは、雪ねずみの突進は止まらぬ。あの場合、何としてでもアスターを線上から逃がす方法を考えるべきだった」

「はい」

 こくんと頷く。全くその通りであった。

「とはいえ、その覚悟は珠玉である。他の者も見習うように」

 いつのまにか、雪ねずみの死体を囲むように、他の仲間たちも集まってきていた。

 フォスターは、崖を大きく迂回してきていたジャスを見つけ、硬い声で言った。

「ジャス。……解体は、おまえ一人でやれ。半日かかってもだ。いいな」

 はい、と消えいりそうな声で、新米の魔法使いは目を伏せたままうなずいた。


 すこしは手伝ってやろう、とエルは考える。

 雪ねずみの生命力の一端なりとも、理解したい気持ちもあった。

 

 ともかくも、凱旋であった。



 くらやみの中で、エルはゆっくりと目を開いた。

 悪夢を見たようだが、はっきり思い出せない。

 ただ、全身が汗でべとついている。呼吸も、脈も荒い。

 いやな気分だ。


 肩口の傷がいたむ。治癒の魔法で、とっくに治ったはずだが──


 吐き気がする。


 ぼんやりと、まとまらない思いをたぐりながら、エルは起き上がろうとした。

 全身がじんわりとしびれて、力が入らない。

 長い長い時間をかけて、なんとか寝床から這いでる。

 もうとっくに夜は明けている。暗いのは、雨戸を閉めているせいだ。


 研ぎ師のところに剣をとりに行かなくては。


 そう思う。胸がずきりと痛む。

 もう7日ばかり、同じことを思い続けている。


 窓ぎわに立つ。

 雨戸をあけようと、手をかける。

 ひどく重い。


 急に、目の前が暗くなる。

 部屋のすみに、剣がたてかけてあるのが見える。


 いや、あるわけがない。研ぎ師に預けてあるのだ。


 目をとじる。まぶたの裏に、血に染まった剣がうつる。

 かろうじて悲鳴をこらえる。


 必死で、雨戸にかじりついて、わずかに隙間をあける。

 まだ、思ったほどの時間ではなかったらしい。早朝の市場から喧騒がきこえてくる。


 市場のはしに、見知った顔があった。

 銀髪に、赤い目。森妖精の末裔らしい、端正な顔だち。母親によく似ている。

 退魔師見習いのアーサーだ。


 とっさに目を伏せる。

 見られたただろうか?


 なぜ、隠れなければならないのか自問するが、答えはない。


 窓際にしゃがみこんだ。

 ひとりでに涙がながれてくる。


 このままではいけない。

 そう、思う。


 退魔師の誇りはどこへ消えた? 自問する。

 答えはない。誰もこたえてくれない。


 カルナーも、アスターも、ジャスも、そして兄も、とっくに死んでしまった。

  


 窓を見上げるのをやめて、アーサー=カルアは歩き出した。

 今、エルにかける言葉を自分は持っていない。

 まして、狩りに出たこともない見習いの身では…。


 ため息ひとつ。


 テべーとの輸送路が滞っているせいで、市場ではあらゆるものが値上がりしている。

 卵も、たたら芋も、予定の半分しか買えなかった。

 みんな、とかげ鳥のせいだ。


 口の中で愚痴をこぼしながら歩いていたせいで、前方に注意を払っていなかった。


 ふと、違和感をおぼえて顔をあげると、長髪の女が、じっとこちらをみすえて立っていた。

 知らない女だ。


 いや。

 一度だけだが、見たことがある。


 長髪、ぼんやりとした切れ長の目、のっぽでやせぎすな体型、姿勢のいい立ち姿、

 それに何より、頭のまわりに浮いている4つの白い魔法球。


 夢見の巫女、ルナ=サリナイだ。



 ルナは夢を見た。


 豪奢な飾り付けのされた大広間のまんなかで、ひざまづく銀髪の男。

 長い口上のあと、公爵の徽章をつけた初老の男が、純白の布でおおわれた台からそっと王冠をとりあげて、高くささげた。

 右の脇から、裾の長い衣装を幾重にもかさねた女が、鞘にはいった宝剣をもって出てくる。

 左の脇から、4つの宝石をのせた盆をもった女が。

「アルセア王に、永遠の誉れあらんことを、」

 初老の男がそういって、王冠を男の頭にのせた。

「アルセア王に、豊穣の恵みあらんことを。」

 盆をもった女がそういって、茶色の宝石を王冠にはめこむ。

「アルセア王に、善き風の恵みあらんことを。」無色の宝石を、

「アルセア王に、遠き海の恵みあらんことを。」青い宝石を、

「アルセア王に、毅き火の恵みあらんことを。」赤い宝石を。

 そして、

「我らアルセアの民に、王の守護あらんことを。」

 剣をもった女が、男の胸に宝剣をおしあてる。

 男は、たちあがり、受け取った剣をすらりと抜き放った。

 剣身には、銘が刻んである。

 それは、この大陸の名であり、闇を祓う戦士の名であり、初代アルセア王の名でもあった。

 公爵が、最後の口上をのべる。

 それは、男の名と、王となった男がこれから名乗る名の2つであった。



 そして、目の前にいるその男は、いくぶん若いようにも見えたが、やはり王には違いなかった。

 

 すっ、


 と、なめらかに膝をついて、ルナは顔を伏せたまま男に伝えた。

「アーサー=アルセア。あなたは、王となるべき人です。」



「…なぜ、」

 とつぜんのことに、アーサーはぼんやり問い返すしかなかった。

「夢に見たからです。アーサー=アルセア」

 巫女はよどみなく応える。

 きょうは巫女衣装ではなく、ありふれた地味なワンピースだ。しかし、大通りの真ん中でひざまづいていれば、いやでも目立つ。

「そんなふうに呼ばないでください、巫女」

「なぜですか?」

 アーサーは言葉に詰まった。

「ぼくの姓は──」

 ふだん使っている、母方の姓を言おうとすると、

「ああ、わかりました。」

 わざとのように、会話の間をはずして、

「では、こうお呼びします。……アーサー=ブルガナン。今は、まだ。」

 それは、アーサーの父方の姓だった。

 そして、魔物の王、闇王国の首魁ブラストを弑した者に与えられる、英雄の姓であった。



「…それで、あんたはなぜここに?」

 少し、ほんの少しだけいらだちを表にだして、退魔師フォスター=リマムはそう訊いた。

 ここは、ミナ=ブルガナンの薬草店である。ミナの息子であるアーサーは、この店で退魔師たちの姿を見ながら育った。

 アルセア王国で薬草屋といえば、退魔師の溜まり場と相場が決まっている。薬草だけでなく、松明や携帯食料など退魔師に必要な品を売り、ときには祓いの依頼を取りついだりもする。

 この店はもと旅籠で、1階の、かつて食堂だった大きなスペースが、退魔師たちの打ち合わせや歓談の場となっている。広間に、六人がけの丸机が7つ、団体用の大きなテーブルが2つ。今は、アーサーたちのいる丸テーブルのほかはすべて空いている。

「夢を見たからです。」

 帯剣した大男にものおじもせず、ルナは静かにいった。

「予知夢を見たと?」

 アルセア・シティーに住むものであれば、『夢見の巫女』のうわさくらいは、誰でも知っている。

 信じるかどうかは、別の話だが。

「はい。彼、アーサー=ブルガナンが…」

 同じテーブルで、少し遠慮がちに席についているアーサーにちらりと目をやって、

「アルセア王となる夢を。」

 そう言われた瞬間、アーサーはさっと目を伏せた。

 そして、軽く息をついて、顔をあげたとき、

 フォスターは笑っていなかった。

「それで?」

 低い、つめたいくらいの声で、男は問い返した。

「おれが聞きたいのは、あんたは何がしたくてここに来たのかってことだ。」

「王の即位を手伝うために。」

 そう、とっさに口をしたが、実をいうとルナにはまだ迷いがあった。


 いや。

 そうではない。

 迷い、というわけではないが、ひとつ心にひっかかっていることはあった。


「そうか。」

 フォスターは、それ以上追求しなかった。

「つまり、こいつが名をあげるのに協力したいというわけだ」

 閑散とした店内に、かるく目をやって、それから、ルナの頭上の魔法球を数えるようにしてから、

「歓迎するさ。……夢見の巫女。あんたが、この街で退魔師をやると言うんならな」

 そういわれても、ルナはかすかにも表情をかえなかった。


 ただ、じっと考えていた。さきほどから、心にかかっていることを。


 あの夢に、

 自分の姿がなかったのはなぜか?

 


 退魔師とは、その名のとおり、魔を退けることを役目とする職業である。

 魔とは、人を惑わしおびやかすものの総称であるが、退魔師が対峙するものは大きく分けて3つある。


 人の間にひそむ魔。

 野外にて人をおそう魔獣。

 そして、闇王国の尖兵たる魔族。


 すなわち、退魔師とは、

 人の心に憑いた闇を祓う祈祷師であり、

 害獣を狩る猟師であり、

 魔王軍と戦う正義の使徒である。



「……何か、あったのですか」

 アーサーと二人で表通りに出ると、ルナは少しだけ緊張がとけたような顔つきになった。

「どういう意味?……ですか」

 なんとなく、どういう態度をとるべきかはかりかねたまま、アーサーは聞き返す。

「あのお店には、いつもはもっと人がいるのでは?」

 意味がよくわからず、見返すと、ルナはふしぎそうに続けた。

「ミナ=ブルガナンの薬草店は、この街でもっとも大きな退魔師の拠点の一つだと聞きましたが」

「そんなこと……、知っていたんですか」

「もちろんです。」

 かすかに、笑ったようにみえた。

「何も調べずに、声をかけたとお思いでしたか。」

 言われてみれば、その通りであったが──、

 なんとなく、釈然としないものを感じる。

「わかりました。……歩きながら話しましょう。」

 ともかくも、アーサーは語りだした。



 100日ばかり前。

 テベーからアルセア市へ、定期的に往復していた隊商が、ふっつりと来なくなった。

 少人数で街道を旅する吟遊詩人や商人が魔獣に殺されるのは、珍しいことではない。しかし、少なくとも10人の退魔師が護衛する隊商が、とつぜん消息を絶つというのは、滅多にあることではなかった。

 次のテベーゆきの隊商には、通常より多い13人の退魔師がついた。退魔師たちは、隊商がテベーにつきしだい、すぐにアルセア市に戻り、街道の状況を知らせることになっていた。

 しかし、その隊商も、退魔師たちも、アルセアに戻ってこなかった。

 そして、ついに、30人の退魔師からなる大調査団が編成され、テベーへと出発したのである。



 転び猫、雪ねずみ、とかげ鳥。

 このあたりに出る魔獣といったら、そんなところだ。

 いちばん厄介なのは、転び猫か。しかし、13人の退魔師隊が全滅するとは思えない。

 百鬼夜行が出たのだ、と言う者もいる。

 そうであれば、そこらの退魔師が100人集まってもどうにもなるまい。十数年前、勇者ランガが鬼と一騎打ちをして退けたという話もあるが、真似できるものではない。

 アルセア市を出て、およそ半日。

 山道をいったん抜けて、草原地帯へ入る。街道沿いはすこし高台になっていて、遠くに水平線が見える。草が生い茂っていてよく見えないが、海のほうへ少し進むと急斜面があって、その先は海岸まで平地になっているはずだ。

 先頭を歩く男が、あっと声をあげた。

 

 赤黒く染まった、布鎧の切れはしが落ちている。


 匂いはしなかった。しかし、引き裂かれた毛皮と綿材のかけらを見れば、その持ち主が辿った運命は容易に想像できた。

「このあたりか。」

 隊長格の男がつぶやいた。すぐに、全員が周囲に目を向ける。

 その気になって探してみると、痕跡はいくらでもあった。

 服のきれはし、地面に残る血のあと、放棄された武器、壊された荷車。それから、散らばった羽根。

 誰かが、とかげ鳥のくちばしと頭蓋の一部を見つけた。

 死体といえるようなものはほとんど残っていなかった。喰いつくされたのだ。最初の襲撃者か、後からやってきた屍肉喰いの獣か。あるいは、その両方に。


 隊商はここで全滅したのだ。おそらく、二度とも。


 誰かが、嘔吐していた。

 骨があるということは、おそらく最初の襲撃者はとかげ鳥だ。

 だが、普通、とかげ鳥は二頭か三頭で行動するし、統率された退魔師の集団を蹴散らすほどには強くない。たとえその倍でも、13人の退魔師がいれば難なく対処しただろう。

 何か、よほどのことがあったか──

「おい、」

 誰かが、青ざめた声で言った。

「あれ、見えるか。」

 

 ばさばさっ、と何かが風をたたく音がした。森のほうだ。


 木々のあいだで、何かが動くのが見えた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ…

 茶色い尾羽根。ここらに散らばっているのと同じものだ。

 くちばし。牙。

 とびあがったときに見える、後ろ足の鋭い鉤爪──


 とかげ鳥だ!


 反射的に、かれは仲間たちに背をむけて走りだした。嫌な予感が全身を這いまわっていた。

 それが、命運を分けた。

 背を向けるまでの一瞬に見えた影の数は、やけに多かった。


 戦う音、悲鳴、爪をたてられた肉の音。

 すべてを振り払うように、息が切れるまで走ってから、振り返った。

 木々のあいだに身をかくすようにして、29人の退魔師が一方的に虐殺されるのを見る。


 とかげ鳥は、けっして恐ろしい敵ではない──ただし、こちらが数で大きく勝っていればの話だ。


 すぐに遠くに離れるべきだったが、そこから目が離せなかった。

 かわりに、とかげ鳥の数を数える。正気を保つためと、自分に言い聞かせながら。

 途中でわからなくなって、何度も数え直した。

 

 正確な数は、わからない。わかりようもない。

 だが、少なくとも40。多ければもっとか。

 そう、数え終わってから、かれはそっと目を閉じた。嗚咽が喉元までこみ上げてきた。



 一人だけ生き残った退魔師が、アルセア市に戻って状況を告げた。

 とかげ鳥が大きな群れをなして隊商を襲うというニュースは、それだけでアルセア王国の流通を脅かすに十分だった。

 2、3頭のとかげ鳥と戦うには、一人前の退魔師が5人は必要だ。

 ならば、40〜50頭の群れに対抗するには、退魔師が80人か、100人は要るか。

 しかし、通常、退魔師たちは3人から10人ほどの小集団で魔獣狩りをする。大人数で戦うのには慣れていない。

 まして、アルセア市に住む退魔師を全員あわせても300人はいない。祓いが専門で魔獣狩りには出ない者もいるから、実際の戦力はもっと少ない。


 だが──


 15日後、あらゆる困難を乗り越えて、100余名からなる退魔師隊が編成され、魔獣退治に向けて出発した。

 この隊には、アルセア市に根城をもち、魔獣狩りを生業とする退魔師のほとんどが参加していた。

 ……少数の例外を除いて。



「……そうして、また、全滅した。今から10日前のことだけど。」

 アーサーはそう言って、大きく息をついた。

 少し不正確な言い方だったが、それ以上言葉を続ける気になれなかった。

「それでは、あなたたちは……」

 ルナが何かいいかけたとき、二人はちょうど鎧店の前に立っていた。アーサーは、かまわず扉を開けた。



「いらっしゃい」

 小太りの中年の店主が、陰気な声をかけてきた。

 鎧店、というので想像していた雰囲気とは、少し違っていた。店内は薄暗く、大きなハンガーラックが所狭しと並んでいる。ラックにかかっているのは、ルナの目には鎧ではなく普通の服ばかりに見えた。壁際には鍵のかかったガラス棚があり、その中にはちゃんとした鎧が並んでいるようだ。

「布鎧一式を仕立てて欲しいんだ」

 アーサーは並んでいる商品には目もくれず、店主にそう言った。店主は低い声で、そっちの子にかい、言って目線を向けた。アーサーが頷くと、あごをしゃくって店員に指示をだしたようだった。

 ほどなく、店の奥から若い女店員が出てきた。

「少し測りますね」

 女は、かるくルナの体に触れてから、エプロンのポケットに手を入れて巻尺を取り出した。首周りと手首を測ってから、服を脱ぐように促してきたので、店主のほうを見ると、すでにアーサーと一緒に姿を消していた。

 横あいからパーテーションがさっと出てくる。試着室のようなものはないらしい。

 入り口のほうを気にしながら、ワンピースを脱ぐ。店員は慣れた様子で、手早く採寸をすませた。

 採寸して服を買ったことなどないので、勝手がわからなかったが、随分あちこちを測るのだなと、ルナは少し不思議に思った。

「魔獣狩りに着ていかれるのでしょう? 少しでも動きやすいよう、全身の寸法を合わせるのですよ」

 店員は笑って言った。

「……布鎧とはどういうものなのですか?」

 急いで服を着ながら、訊いてみる。

「そこに、沢山並んでいるでしょう」

 そう言われて、見るが、鎧というよりただの地味なつなぎのようなものにしか見えない。

「まあ、ただの服と、そうは変わりゃしません。ただ、少しでも身を守れるように厚く作ってあるのと、要所には固く絞った綿布を裏打ちして、刃物や牙が通りにくくしてあります。

 鍛えてらっしゃる方ですと、一部に硬質の革を縫いあわせたものをお使いになりますが、重くなりますし、動きも制限されますので──」

 店員は、いつのまにか戻ってきていたアーサーに目を向けた。アーサーはかるく頷いた。

「あなたの場合、ごく普通の布鎧だけになさるのが良いと思います。……巫女様なのでしょう? 前線は、男性がたが守ってくださいますからね」

「女戦士もいるぞ」

 まぜっかえすように店主が言った。女店員は愉快そうに笑った。

 ふと心配になって、ルナはアーサーに耳打ちした。

「私、あまりお金を持ってきていないんですが」

「……フォスターから貰ってきてるから、心配しなくていいよ」

 意外な答えであった。

「いいんですか?」

「手兵の装備品は、かしらがもつもんだよ。」

「てべい?」

「まだ見習いということさ。……僕も、君もね」

 そんなものか、とルナは首をかしげた。

 


「なぜ、巫女が退魔師になろうと?」

 特にきっかけがあって訊いたわけではない。

 もう一度、はっきり聞いておくべきだと思っただけだ。

「夢を見たから、と申し上げました」

 火打ち石がいくつも並んでいる棚から目をあげもせず、ルナは答える。

「……退魔師になる夢を見たわけじゃないんでしょうに。」

「もちろんです、」

 頷きながら、ひとつ手にとってみる。

「あなたの未来を。この国の王に──」

「下手なことを言わないでくれ。」

 思わず、アーサーはルナの手をつかんで止めていた。

 ルナは、振り払うでもなく、くるりと横をむいてアーサーの顔を見つめた。


 抗議するでもなく、

 何か問うでもなく、

 ただ、表情を動かすことなくしばらく見つめてから、


 また、向きなおって棚のものを触りはじめる。

 それから、こともなげに、

「心配しなくとも、大丈夫ですよ。……誰かに知られたからといって、未来が変わってしまったりはしません」

「そういうことを言ってるんじゃ……」

「あなたは、なぜ退魔師になろうとしているのです?」

 こんどは目をあわせぬまま、とつぜん尋ねてくる。

 アーサーは一瞬言葉に詰まってから、

「死んだ父が、…」

「勇者ランガは、職業的退魔師ではなかったと聞いています」

「同じことだよ。魔王を滅ぼすのが勇者なのだから、」

「……ならば、それがあなたの未来なのでしょう。」

 言いながら、かるく目を伏せた少女の横顔は、


 なぜか、すこし失望しているように見えた。



 ふと街できいた話を思いだした。


 夢見の巫女は、死者を鬼に喰わせたといわれている。

 それは、実はこういうわけだという。


 クラナ通りにある長屋に、若い夫婦が住んでいた。

 ある日、夫が起きると、妻が布団のなかで冷たくなっていたのだという。

 理由は、わからない。急な病とも、悪いものに憑かれたためだとも。

 とにかく、夫は、妻の死を悼んだ。

 そして、悲しみのあまり、人であることをやめ、鬼になったのだ。


 夢見の巫女が、その長屋を訪れたとき、すでに、男は身も心も鬼と化していた。

「鬼よ、鎮まり給え、」と、巫女は鬼に言った。

「何を以て、」と、鬼は問い返す。

 いくぶんかのためらいと、焦りをおもてに浮かべて、巫女はついに言った。

「供物として、死せる女の躰を捧げん」

 そして、鬼はそれを受け入れた。


 鬼が、どのように死んだ女の体を貪ったのかは、よくわからない。

 それが、文字通りの意味なのか、あるいは鬼のように狂った男が、死んだ妻の体で欲を満たしたという話であるのか。それも、アーサーにはわからない。

 とにかく、夢見の巫女は、女の体が喰われるあいだ、誰も邪魔をせぬよう戸口に立ち、三日三晩見張りをしたという。



「なぜ、あなたたち2人が、街に残ったのですか?」

 あらかた、必要なものを買い込んだあと、最後に寄った狩猟用具店で、ルナはあらためてそう訊ねた。

「……ぼくら二人は、カルナー=メンサの派閥に属しているんだ。だから、ルパード=ケナルス率いる討伐隊には参加しなかった。」

「どういう意味です?」

「カルナーはフォスターの師匠だ。そもそも、今回、狩りに参加したやつらの半分くらいは、本来カルナーの弟子筋にあたるはずだ。だけど、やつらはルパードについた。」

「カルナーという人も、討伐隊に参加したのでしょう?」

 ルナは首をかしげた。アーサーはいまいましげに続けた。

「カルナーは、この作戦には反対だったんだ。別の策があったんだと思うけど、詳しくはわからない。とにかく、決戦を急ぐのは危険だといっていた。それで、ルパードとは意見が対立したんだ。ルパードだって、カルナーの弟子の一人なのに。」

「偉大なかただったのですね?」

「もちろん。……いや、君にはわからないよ。」

 思わず、いら立ちをぶつけていた。

「結局、カルナーはルパードと決闘することになった。……そして、負けたんだ。ルパードが意見を通すことになり、カルナーもやむなく討伐隊に参加した。でも、他の退魔師が参加するかどうかは自由意志に任されていたから、ぼくとフォスターは、カルナーの意をくんで残ることにした。」


 思わず、漏れ出てしまったという様子で──

 アーサーは、ルナの目をにらみつけて、訊いていた。


「ぼくたちを卑怯者だと思うか?」 

「いいえ。」

 あっさりと──まるで、あたりまえのことのように、ルナは答えた。

「己の信ずるところをなすのが、当然です。天もそう言っておられます。」

「天だって?」

「私は、天教の巫女ですから。……たとえ死しても、己の信ずるところに従うのが、天の教えです。あなたがたは、あなたがたが正しいと信じることをした。それでいいではありませんか。」

「それなら……」

 もう、やつあたりだ。わかっていたが、止められなかった。

「決闘に負けたために、ルパードの部下になって狩りに出たカルナーは? 正しくないと?」

「そうですね……」

 たまたま、手を触れたとでもいうように。

 棚の上にあった短剣を、ルナは無造作に抜き放って、刀身をかざした。

「……私なら、自分が正しいと思うことができなくなるような決闘は、いたしません。あるいは──」

「あるいは?」

「──どうしてもするのなら、死ぬまで、負けを認めずに戦うでしょう。」


 曇りひとつない、鉄の刃。海のむこうからの輸入品らしい。

 巫女が短剣など使い慣れているはずもないが、なぜか、やけに似つかわしく見えた。

 刀身に銘文が刻んである。


『刃にて鬼神悪鬼を祓う可し』


 アーサーが黙っていると、ルナはすとんと短剣を鞘におさめて、

「これ、買います。自費で。」

「……必要な装備だろ。フォスターにもらった金で買えばいい。」

「いえ、──これは、自分で買いたいんです。」

 本当に──、何を考えているのか。

 アーサーはもう、理解するのをあきらめて、

「これを。」

 入り口近くにあった、長い木の棒をルナに放った。

「刃物もいいが、こっちのほうが必要だと思う。持っておきなよ」

「……まじない用ですか?」

 魔法を使うのに、道具など必要ない。アーサーも魔法使いである以上、そんなことは知っているはずだが。

「山歩き用の杖だよ。……きみは、狩りを甘くみてる。」

 そう言って、アーサーはわざとらしくため息をついてみせたが、すこしも溜飲は下がらなかった。



 翌日──、


 アーサーは、ふたたびエル=サラナの家の近くにやってきていた。

 エルの住まいは、ミナの店があるサン・ドラクマ通りから一本脇道にそれたところにある、商店街に面したアパートの二階である。

 二階へのぼる外階段を、何度もためらいながら上る。


 ルパード隊が敗北した、あの日。

 エルは、ひとりで帰ってきた。


 ドアのまえに立つ。

 表札に、ちいさなかたちのいい字で、エル=サラナと書いてある。

 サラナ通りで生まれたエル、というほどの意味である。


 血まみれでミナ=ブルガナンの薬草店に入ってきたエルの、力のない目と、

 あわてて抱きとめた体の重みを思いだした。


 うめくように、小さくふるわせていた唇も。


 ことん、と、ドアのところで音がした。アーサーはあわてて居ずまいをただした。きぃと蝶番がきしんで、扉がひらいた。

 黒髪の、小柄な女。アーサーより2歳ばかり年上のはずだが、背は頭ひとつ小さい。

 いや、こんなに小さかっただろうか?

 寝間着用の寛衣にゆるく細帯をしめて、厚手の綿着をはおっている。今おきたばかりというような格好だが、ぼんやりとこちらを見上げてくる目つきは、寝起きというよりまだ夢の中にいるようだ。

「アーサー?」

 かすれた声で。

 何かいわなければ、と口を開いたが、言葉が出なかった。

「…入って」

 くるりと、少しふらついたような足どりで、エルは身をひるがえしてアーサーを促した。

 あとについて部屋に入った瞬間、つんと汗のにおいが鼻についた。



 エルが、ルパード隊に参加した理由は、兄が参加していたからだという。


* 


 部屋の中は、思ったよりも散らかっていた。

 しきっぱなしなのか、それとも今まで使っていたのか、部屋の半分は夜具がしめている。枕元には、膳がそのまま。

 エルは、ぱたんぱたんと布団をたたみ、膳を小箪笥のうえに載せた。長持からクッションをふたつ出して、敷物のうえに並べる。

「飲み物は用意がなくて。」

 申し訳なさそうに言う。アーサーはあわてて首をふった。クッションの上に向かいあって座る。ししばらく沈黙してから、

「……なにかあったの?」

「いや、別に、…」

 また、短い沈黙。

「体調、良くないの?」と、ようやく言葉をしぼりだす。

 エルは、うん、と小さく頷いて、

「少しね。風邪かな、……」言葉を濁す。

 そう、とアーサーは頷いて、また少し間をおいた。

 そして、ようやく、話そうと思っていたことを話す決心をして、口を開く。

「……夢見の巫女が、うちの店に来たよ」

「ルナ=サリナイが? どうして?」エルは目を大きくして聞き返した。ルナは有名人である。

「夢を見たんだってさ。……僕が、アルセア王になる夢を」

 それをきいた瞬間、エルは顔色をかえた。

 はっと息を飲む音がきこえた。アーサーが口を開く前に、エルは立ち上がって、くるりと戸棚のほうをむいた。

「やっぱり、お茶入れる。ちょっと待って」

 かちゃかちゃと茶器をさがす音。

「朝から火を入れてないから、冷たいのしかないけど…」

 そういえば、この部屋はひどく寒かった。部屋の隅に火鉢があるが、熱気はまるでない。

 炭を切らしているのか。まさか、そこまで困窮しているはずもないが。

 ことん、とアーサーの前に湯のみが置かれた。

「あなたのお父さんのことは、どのくらい知っているの?」

 ふと、思いもかけないことを聞かれて、アーサーは戸惑った。

「少しは……物語歌にある程度には。あとは、祖父や知り合いから少し。」

 アーサーは、父親の顔を知らない。

 ランガ=ブルガナン──当時はブルガナン姓ではなかったが、かれは、ミナがアーサーを身ごもった直後にマヌルガへと旅立ち、戻らなかった。

 出国したのちの彼の足跡は、『勇者ランガの物語歌』として語られている。ブルガナン大陸全土をまわって精霊王と会い、パンドル王の軍勢を従えて闇王国へと攻め入り、魔王を弑したと。

 このことは、アルセア人なら誰もが知っている。

「私も同じくらい。けれども、この街で退魔師をやるものには、勇者ランガの名はなによりも重い。ミナの店に退魔師たちが集まってくるのも、それが理由なんだよ」

 アーサーは頷いたが、どこか現実味のない話にしか思えなかった。

 アーサーにとって、父は他人であり、母はただ母でしかなかった。

「エル、僕は、…」

「ブルガナンを名乗るのが怖い?」

 エルの声はとても優しくおだやかだったが、アーサーは刃をつきつけられたように感じた。

「そうじゃない、でも……」

「でも?」

「僕は、……勇者とよばれるようないわれは何もない」

 それは、アーサーの真情であった。

「父が、ブルガナンと呼ばれるようになったのは死後のことだし……魔王とさしちがえて死んだというのも、誰も見たものはいないんだ。……いや、そうだとしても、それは父で、僕じゃない」

「魔王を倒したものが、勇者の姓で呼ばれるのは昔からのならいよ。親の姓を子が継ぐのも、何もおかしなことはない」

 エルはかすかに笑った。

「あなたの気持ちはわかるわ。あなたは、ただの退魔師見習い。勇者ではない。今は、まだ」

「今は、だって?」

「夢見の巫女が、あなたはアルセア王になると言ったのでしょう」

 エルは、すっと居ずまいをただした。

 アーサーの目をまっすぐにみつめて、しんのある声で、

「それは、アーサー、あなた自身の運命なんでしょう。巫女は、あなたの姓や血筋ではなく、あなた自身を見て霊感を得たのだから」

「でも……、」

「あなたが啓示を受けたと聞いても、誰も驚きはしないでしょう。勇者の子がやはり、と思うだけ。それを受け入れるかどうかはあなた次第だけれど」

 エルは、そこまで言って、緊張をときほぐすようにふんわりと笑った。

「なんて、厳しいことを言いすぎたかな」

「……いや、」

 アーサーの顔つきも、いつのまにか少し変わっていた。

「ありがとう。なんだか……」

「今日は少しゆっくりしていけるの? なにか、作ろうか」

 たちあがろうとする気配を察したかのように、エルはそういった。アーサーは首をふった。

「役所へいくところなんだ。……こんどの狩りには、連れていってもらえるらしい。だから、免状をもらいに」

 ただ、人手が足りずに呼ばれただけだが、それでも初めての狩りには違いなかった。

「よかったじゃない」

 エルは手をうって喜んだが、なぜか声は沈んでいるように聞こえた。

「ありがとう。……エルも来るんだろう」

「そうね。体調がよくなれば。」

 二人はどちらからともなく立ち上がった。かるく目配せをするように視線をあわせて、黙ってにっこりと笑う。相変わらずエルの顔色はよくなかったが、それでも笑っていた。

「それじゃ、」

 アーサーが笑顔のままドアをしめて、いなくなってから、


 エルは、ひそかにそこにうずくまって、嗚咽した。



 とかげ鳥は、鳥と竜のあいのこだと言う者もいる。

 実際には、むろんそんなことはない。アルセア王国に多く生息する魔獣の一種にすぎず、伝説上の竜とは何のかかわりもない。

 ただ、その姿は、一般人が思い描く竜の姿に似ていなくもない。

 二足歩行だが、鳥のように前傾姿勢をとって行動するため、頭の高さは人間とあまり変わりない。体そのものはかなり大きく、頭から尾の先までの長さは、成人の身長の倍くらいはある。

 全身に羽毛が生えており、前肢には翼のように広がった羽があるが、飛行能力はない。そのかわり、走る速度は人間よりずっと速い。

 武器は、鉤爪と牙。最も大きく強いのは後足の鉤爪だが、前肢の爪も十分に強力であり、革鎧くらいなら切り裂いてしまう。

 素早く、攻撃力もあり、大型獣の例にもれずタフでもある。武装した戦士であっても、一人で殺すのは難しい。

 さて──

 ルパード隊に参加した103名は、およそ半日かけて、とかげ鳥の巣にたどり着いた。

 事前の偵察で、だいたいの位置はわかっている。

 アルセア市から、西のテベーへ向かう街道の南側に広がる草原地帯である。

 とかげ鳥の巣は、ふつう、枝や枯れ草を固めた円形のマットであり、ひとつの巣に1~3頭のとかげ鳥が住んでいる。

 この営巣地には、それが、何十個と並んでいるはずであった。

 営巣地の南は、海へと続く平地である。東側には、少しだけ岩場があり、その奥は森林地帯。西側も、同じく林が広がっている。

 今回は、北側から攻める。

 街道と営巣地の間に、短い斜面があるからだ。崖というほど急ではなく、たいして高さもないが、身を隠すには十分であり、弓で射るにも有利になる。

 風向きは、南から北へ微風。

 先頭にたつルパード隊長と、数人の退魔師が、まず、崖の上から営巣地を見渡した。

 事前に偵察をしたと言っても、近くから見たわけではない。東の岩場ちかくから、とかげ鳥の姿を確認し、営巣地らしきものをかすかに見ただけである。

 とかげ鳥の数については、前回の生存者の証言から、およそ40から50匹であろうと推定されていた。

 しかし──

 いま、崖の下にいるとかげ鳥は、どうみても、その倍はいた。

 ルパード隊長は、しばらく迷っていたらしい。

 仮に、とかげ鳥の数が100頭だとするなら、こちらの退魔師の数とほぼ同じである。

 しかし、ここで一度退却したとしても、もっと多くの戦士を集めるあてはどこにもなかった。



 カルナーとエルは、隊列のかなり後方にいたが、退魔師たちのささやく声で、だいたいの状況は伝わってきていた。

「……まずいな、」と、カルナーはつぶやいた。

 エルの耳もとに、さっと口を寄せて、ささやく。

「合図したら、全力で逃げよ。誰にも構うな」

 エルは驚いてカルナーを見上げた。カルナーは厳しい顔をして、前方をじっと見据えていた。

 白い魔法球が、すっと降りてきて、エルの首筋に触れた。

 全身を、白いぼんやりした霧のようなものが包みこむ。対象を災いから守る『保護』の魔法である。

「なぜ、…?」

 エルは声をひそめてきいた。カルナーは、やはり小さな声で、そっけなく答えた。

「誰かが生き延びねばならん、ということだ」



 熟考のすえ、ルパードは仲間たちのほうをむいて、言った。

「作戦に変更はない。合図とともに攻撃を開始せよ」

 そして、戦闘が始まった。



 強弓が、やっと届くかどうかの距離であった。

 当初の打ち合わせでは、数人がまず鏑矢を射ち、注意をひくことになっていた。

 しかし、その段取りは守られなかった。ルパードの合図とともに、大勢の射手がいっせいに弓をひいた。前列のものは、流れ矢を避けてあわてて伏せなければならなかった。

 第一射は、ほとんど命中しなかったようだ。それでも、とかげ鳥たちの注意をひくことはできた。

 こちらへ向かってくる群れに対し、第二の矢がつがえられた。

 魔法使いたちの出番は、魔法球が届く距離までひきつけてからのはずだった。しかし、幾人かの魔法使いと僧兵が、先走って攻撃魔法を放った。

 その中に、はじけて閃光と轟音を放つ、白い魔法球があった。



 何が起こったのか、すぐにはわからなかった。

 閃光弾の魔法だ、と気づいたのは、全身の感覚を失った後だった。

 轟音と強い光で感覚を麻痺させ、転倒させる、僧兵の魔法である。

 昼間の屋外では、それほど強烈な効果はない。しかし、味方が密集しているところで、合図もなしに使うような魔法ではない。

 経験の浅い者が先走ったか──。

 詮索している場合ではなかった。

 エルが正気をとりもどして立ち上がるまで、それほど時間はかからなかったはずだ。

 しかし、そのわずかの間に、とかげ鳥は退魔師たちのなかに飛び込んできていた。

 剣を構える。

 目の前に、一頭のとかげ鳥がいた。

 きぃぃ、とかん高い声をあげて、前足の鉤爪を振り上げる。

 剣で受ける。

 体重をかけてくる。雪ねずみほどではないが、とかげ鳥の体も人間よりはるかに重い。

 押しあっている間に、とかげ鳥の口が、すぐ目の前にきていた。

 喰われる──。

 するどい牙をそなえた嘴状の口から、とがった舌がちろちろと出入りするのが見える。

 おしまいだ、と思った瞬間、横あいから出てきた槍の穂先が、とかげ鳥の首を刺し貫いていた。

 カルナーの槍であった。

「逃げよ、」と、カルナーは言った。

「嫌です」と、即座に返す。

 その間にも、あらてが向かってくる。別のとかげ鳥の鉤爪を、鉄製の柄で受けながら、カルナーは再度言った。

「逃げよ。逃げて、この戦いの仔細を伝えよ。でなくば、また同じ過ちを繰り返すことになる」

「ここで負ければ、後はありませぬ」

 いいながら、エルは、カルナーと戦っているとかげ鳥の懐にとびこんだ。鉤爪が脇をかすめるが、気に留めない。保護の魔法があっても当たるようなら、それまでだ。

 腹に突きを撃ち込む。同時に、カルナーが鉤爪を押し返している。

 倒した。

 いける、と思った。いつのまにか、まわりに他の退魔師の姿は見えなくなっていたが、カルナーと二人でいくらでも戦えるような気がした。

 目の前に、3頭のとかげ鳥が立っていた。

 そのなかの、ひときわ大きい1頭が、なにかをくわえていた。

 がり、と硬いものを砕く音がして、口許から血がしたたり落ちた。

 口のなかにあったのは、ちぎれた退魔師の死体。

 ぽろりと、首のところで咬み切られて、頭が落ちてくる。

 それは、ジャスの生首であった。


 膝がくだけるような気がした。


「逃げて、フォスターに伝えよ」

 かさねて、カルナーは言った。

 頭上にあったもう一つの魔法球が、はじけてカルナーの体に溶け込んだ。目が赤く光り、腕の筋肉が大きくふくれあがった。

 恐怖心をなくして戦闘能力を高める、狂戦士の魔法であった。

 その意味するところを悟って、エルはついに戦意を喪った。

 きびすをかえし、一目散に駆け出した。しばらくして一度だけ振り返ったが、すぐにそのことを後悔した。

 カルナーは、5頭のとかげ鳥に八つ裂きにされ、内臓を喰われていた。



 2頭のとかげ鳥が追ってきていた。

 無我夢中で森の中に駆け込み、戦った。1頭を斬り伏せ、もう1頭に手傷を負わせて追い払った。

 鉤爪を腹に受け、重傷を負ったが、なんとか街まで辿り着いた。

 保護の魔法がなければ、何度も致命傷を受けていたはずだ。



 その日以来、エルはずっと体調を崩して、アパートにこもっている。



 さて──

 エルの家を訪れたあと、アーサーはシルマ通りをとおりかかった。

 表通りから少し奥へ入った道で、単身者や生活に余裕のない家族者が住む長屋があるところである。

 ふと、視界のすみに知った顔が映ったような気がした。

 足を止めて、ちらりと見る。

 ルナ=サリナイだ。

 長屋の一室、玄関の前に、昨日と同じワンピース姿で立っている。

 その前に、若い男がいた。

 なんとなく気弱そうな、二十代前半くらいの黒髪の男である。両手に、なにか籠のようなものを抱えている。

 なにか問答をしているようだ。男が、手に持っているものを、ルナに渡そうとしているようにも見える。

 ルナは、それを受け取らぬまま、かすかに笑みを浮かべて戸を開けた。

 そのまま、二人で部屋に入っていく。

(関係のないことだ)

 アーサーは、そう自分に言い聞かせて、また歩きだした。

 なぜか、疼くような苛立ちが胸に生まれていた。



 10日後──



 明け方。

 ルナは、山歩き用のブーツを履き、靴紐をきつくしめた。

 杖をかるく振ってみる。

 布鎧、と称するものは、要は全身を覆うつなぎのような服である。全体に厚手で、関節部は緩めにつくってあるが、それ以外の部分はきゅっと締めてある。首筋と胸、腹部、脛は、きつく絞った綿でさらに厚手にしてある。

 夏はつらそうだな、と思う。

 玄関を出てドアを閉め、鍵をしてから体のむきをかえ、一度立ち止まって息をつく。

 腰にさした短剣をたしかめる。

 背負い袋の紐を直す。

 足踏みを一度して、ブーツの感触を確かめてから、ルナは歩き出した。



 ミナの薬草店の裏には、退魔師たちが鍛錬に使う空き地がある。

 以前は、早朝でも退魔師やその見習いたちで賑わっていたが、今はエルしかいない。


 昨日研ぎ師から受け取ったばかりの長剣を、かるく振ってみる。

 20日ちかくも預けっぱなしにしていたせいか、前よりも重く感じる。

 構える。

 攻めの型と、守りの型。

 2度ずつおさらいして、鞘におさめる。

 汗がにじんでいる。

 手足はちゃんと動く。だが、体幹が微妙にずれているような気がする。

 弓をとる。

 こちらも、ずいぶんと久しぶりだ。

 張ったばかりの弦をぴぃんとはじき、矢をつがえる。

 構える。


 狙う──


 カルナーに教わったとおり、親指と人差指でつくる輪を、最小の的としてイメージする。

 本当に射つわけではない。ただ、狙うだけだ。


 的が、ぶれた。


 たっぷりふた呼吸の間、そのままこらえて、そっと弓をさげる。

 狙えない。いや、集中できないだけだ。

 矢を筒にしまう。

 呼吸がずれている。

 手がひどく汗ばんでいた。

「エル!」

 アーサーが呼びにきたようだ。

「そろそろ出発するよ、……、」

 目があった瞬間、アーサーはぎょっとしたような顔をした。

 初陣で、緊張しているだけではないような──

「うん、……わかった」

 笑って、返事をする。

 笑って。いた、はずだ。



 同じく退魔師を生業としてはいたが、兄とは疎遠であった。

 だから、今にして思い出すのは、幼いころのことばかりだ。



 早朝から歩き続けて、そろそろ正午になる。

 ここらの木々には、退魔師たちがつけた目印がびっしりと刻まれている。フォスターも、あちこちに符牒を刻みながら歩いている。

 かなりゆっくりしたペースだが、ルナ=サリナイは息を乱していた。もっとも、山歩きとは無縁の巫女であることを思えば、十分よくやっていた。

 フォスターは、たびたび立ち止まって、地面を調べていた。足跡や、獣の糞を探しているのだ。

 もっとも、こんな街の近くに魔獣はいない。普通は、もっと森の奥へ入ってから、待ち伏せするポイントを探すものだ。

 あんなに時間をかけて、フォスターは何を調べているのか?



 ルパードのことはあまり好きではなかった。口数が多く、うさんくさい男だと思っていた。

 兄はひどく称揚していたが。



 退魔師たちに踏み固められてできた空き地で車座になり、昼食をとった。

 携帯食料は、ミナの薬草店で調達している。焼き固められた味付け餅、芋と、干した果物、少しの燻製肉。

 あまり味はしなかった。もっとも、ここしばらく、食べ物をうまいと思ったことはない。



 日が暮れるまで歩いて、野営にした。

 結局、今日1日で、通常の3分の1ほどしか歩いていない。

 それでも、ここまで来れば十分、魔獣の生息地域に入っている。

 木々のあいだの、ほんの少し広くなった窪地のようなところを、野営地とした。

 アーサーが、火打ち石で種火をおこす。枝のあいだに防水布をはり、風よけにする。天幕を持ってきていないので、火のまわりで毛布にくるまって寝ることになる。

 今回は、二人ずつ、交代で見張りにたつ。睡眠時間を確保するため、食事は見張りのときに交代でとることにした。

 順番は、フォスターが決めた。



「フォスター、」

 思いきって、アーサーは口をひらいた。

「エルのことだけど、──」

「言うな。」

 フォスターはぴしゃりと遮った。

「自分で解決するしかない。そういうものだろう」



 兄が死ぬ夢を見た。

 幾頭ものとかげ鳥に、爪で切り裂かれ、ついばまれる夢だ。


 実際には、そんな場面は見ていない。


 エルは、カルナーにずっとついていたし、兄はルパード隊長のそばにいたはずだ。

 だが、同じようなことはきっと起こったのだろう。



 アーサーに起こされ、見張りを交代した。

 見張り番といっても、火を絶やさぬようにしながら、起きて座っているだけだ。

 近くに獣の気配はない。

 枯れ枝のぱちぱちいう音と、かすかな風で枝葉がゆれる音が響く。

「……ちょっと考えていたんだけど、」

 アーサーが、ためらいがちに口を開いた。

「このまま、とかげ鳥の群れを退治できなかったら、どうなるのかな」

「…そうだね、」

 考えたくないことだが、アーサーの不安もわかる。

「テベーとの連絡が絶たれたら…」

「陸路では、あの街道を使わないとどこへも行けないからね。テベーどころか、その先のカボタへも、フルールへも」

「……それじゃ、」

「海路があるから、すぐ日干しになるわけじゃないけど、相当苦しいことにはなるね。それ以上は、なんとも言えないな」

 微笑んで、アーサーの肩を抱いてやる。

 今度は、うまくいったと思った。

「心配しないで。……カルリア侯爵が、騎士団の出動を要請してみると言っていたよ。いつまでもこのままってことはない。」

 普通の声音で、そう言ったつもりだ。

 いや、少し、ほんの少しだけ震えていたかもしれない。

 アーサーは、なぜか悲しそうな目でこちらを見返してきた。

「エル。……きみは、」

「シッ!」

 黙らせる。


 獣の気配だ。


「…二人を起こしてきて。いいね?」

 アーサーは無言で肯く。

 エルは、剣の柄に手をかけて、すこし離れた斜面の上に目を向けた。


 大きな白い影。

 雪ねずみだ。



 雪ねずみが、こちらを狙っている。

 本来なら、すぐに散らなければならない。雪ねずみの注意をそらして、少しでも有利な位置取りをするべきだ。

 だが、フォスターは、その場を動かなかった。

「アーサー、エル、弓を用意しろ。ルナは下がれ」

 短く、命じる。

 アーサーはまだしも、雪ねずみ相手にたちまわるのはルナには無理だ。

 フォスターは、ルナから5歩ほど離れて守るように立ち、がさごそと音がする斜面の上にむかって槍をむけた。

 エルは弓に手をかけ、斜面のうえに神経を集中する。


 ぞわりと、ざらついた舌のような気配が背筋を這う。


 枝をかきわける音と、白い影が見えるだけだが、雪ねずみの動きははっきりとわかった。

 こちらをちらちらと見ながら、木を登ろうとしている。

 雪ねずみは器用に木に登る。大きな体をやわらかく伸ばして、体重を分散させるのだ。

 たぶん、今、幹に前足をかけたあたりだ。


「まだだ、」フォスターの声。

 狙い、即座に射る、その手順をイメージする。そのやり方も、カルナーから習った。


「構えろ、」

 弓を向ける。

 とたんに、視界がぶれる。


 そんなに調子を崩しているのか? 私は。


「射れ!」

 フォスターの声と同時に、アーサーがさっと弓をひくのが見えた。

 出遅れた、と思う前に、手が勝手に動いている。雪ねずみの額を見すえ、狙い、弓を引き絞る。

 そこまでは、すぐにできた。

 また、的がぶれる。


 ひと呼吸おく。


 焦点があわない。視界がゆれる。

 いや、

 ゆれているのは、私の体だ。

 胸の奥──心の臓。

 覚悟が決まっていないだけのことだ。


 舌をかむ。


 ひゅん、とアーサーの矢が宙をかけてゆく。

 少年らしい、迷いのない矢だ。

 当たった様子はない。


 狙いをつけ直そう。

 そう思った瞬間、指がゆるんでいた。


 矢が逃げてゆく。

 尾羽根をはためかせて、闇のなか、一直線に──


 かぁん、と鏃が幹につきささる音がした。


「来るぞ、」

 かすかに緊張のにじむ声で、フォスターが言った。

 ルナは、アーサーにかばわれて雪ねずみの射線からはずれている。

 エルは、剣の柄に手をかけた。そのまま抜こうとしたが、なぜか手が動かなかった。

 雪ねずみは、幹から前足をはなして、空中でくるんと丸くなった。

 ずぅん、と地響きの音がして、大きな白い影が着地するのが見える。

 一瞬だけ、両脚を動かして地面を蹴っている。

 そのまま、勢いにまかせてゆるい坂を転がり落ちる。

 フォスターは、石突を地面にかるく突き立て、斜めに槍を立てた。

 脇をしめ、両手で槍を保持し、正面から魔獣を睨みつける。

 衝突まで、あと、一呼吸ほど。


 エルはまだ動けなかった。


 まっすぐ、すさまじい勢いで、白い巨体が転がってくる。

 きっかり三度。雪ねずみの赤い目がこちらを見たのを、フォスターははっきりと感じた。


 激突!


 槍の穂先が、雪ねずみの厚い毛皮を切り裂いて突き刺さる。同時に、すさまじい重圧がフォスターの腕にかかる。

 コケラエダの柄がたわむ。

 ぴしりぴしりと、柄に細かいひびが入り、かすかな振動が腕をたたく。

 血管がはじけそうになる。



 割ってはいるなら今だ。

 エルは、そう自分に言い聞かせたが、足は動かなかった。



 フォスターは腰を落とした。

 ぐっと、足に力をこめて、腕を伸ばす。

 

 地面を蹴る!


 てこのように突っ張った槍をそのままにして、横っ飛びに体を逃がす。

 大きな音がして、槍の柄が折れる。

 地響き。

 雪ねずみは、そのまま転がって、窪地の反対側にある木にぶつかった。

 幹にひびがはいる。雪ねずみは動きをとめる。

 間髪入れず、フォスターは小剣を抜き、雪ねずみのうなじに突き刺した。

 血がしぶく。

 かん高い鳴き声をあげながら、雪ねずみはゆっくりと向きをかえた。

 右肩のあたりに、槍の穂先が刺さったままだ。

 フォスターの手には、もう武器はない。

 ちらりと、ルナとアーサーのほうを見てから、フォスターは腰を落として構えた。


 組み打ちするつもりか。


 全身が総毛立った。

 考える前に、体が勝手に動いていた。

 地面をける。

 ひととびで、フォスターの前にとびこむ。

 目の前に、雪ねずみの顔があった。

 獣臭い息が、じかに鼻の奥に入りこんでくる。呼吸をこらえて、剣の柄に手をかける。



 あのとき残っていれば、カルナーは生き延びていただろうか?


 もちろん、そんなわけはない。

 それでも、もしかしたらと思う。



 ひどい頭痛がした。

 剣が抜けない。焦っているせいか。

 足がもつれる。


 にぶい衝撃。


 とつぜん、目の前が暗くなったような気がした。


「エル!」


 誰かが叫んでいる。アーサーだろうか。それとも、兄?

 気がつくと、うつぶせに倒れていた。

 どろりと、血の塊が顔にかかる。雪ねずみの血かと思ったが、そうではないようだった。

 必死に首を動かして、見上げる。

 雪ねずみが、大きく口を開けて、こちらを見下ろしてきていた。

 ふしぎと、嫌悪感はなかった。



 魔獣という言葉は、市井ではさまざまに使われるが、退魔師が使う場合には、ただ単に「人を食い殺す獣」というほどの意味である。



「エル!」

 アーサーは思わず叫んだ。

 雪ねずみが大きく上半身をおこして、前肢を動かした。

 と、見えた次の瞬間、エルの額から大きく血がしぶいて倒れ込む。

 雪ねずみは、エルの体のうえに覆いかぶさるように身を沈めた。


 エルを喰おうとしているのだ。


 アーサーは無我夢中で飛びだした。雪ねずみの腰のあたりに、思いきり剣を突きたてる。

 思いのほか硬かった。

 全体重をかけて押し込むが、殺せる気がしない。

 大きすぎる。


 ずぶりと、生々しい音がして、雪ねずみの背中から刃が飛び出してきた。

 エルの剣のようだ。

 魔獣はついに息の根が止まったらしく、くずおれるように横に転がった。

 エルは、その足元に倒れていた。

 とどめをさしたのは、フォスターであった。エルの剣を抜き取り、雪ねずみの胸を突いたのだ。

 フォスターは、息を荒くして、ルナに命じた。

「治癒の魔法を。すぐにだ」



 魔獣を狩ったあとは、すぐに血抜きをする。地面の傾斜に沿って仰向けに寝かせ、首の動脈を切断するのだ。

 毛皮は、すでにかなり汚れてしまっているが、それでも、できるだけ血をかぶらないように気をつかう。

 幸い、死ぬまでにずいぶん出血していたので、あまり血は出なかった。

 それから、喉元から股間まで、ナイフで一直線に刃を入れる。

 白い肉が、一気に露出する。

 その線にそって、二人がかりで皮をはいでいく。

 アーサーにとっては、はじめての作業である。フォスターの指示をうけながら、ていねいに刃を入れる。

 うまくいかない。

 刃の向きが悪いのか、皮と肉の間にうまく入らず、何度もひっかかってしまう。

「角度をつけろ」

 言われて、刃を斜めにする。

 入らない。

 フォスターのほうを見る。さして力を入れているようでもないが、なめらかに刃が動いている。

 しばらく、悪戦苦闘する。

 手がかじかんで動かなくなるころ、ようやく、腹の皮が剥げた。

「よし、」

 フォスターが、こちらを見て頷く。

 ほっと安心して、顔をあげる。

 そこに、エルの姿はなかった。



 焚き火から少し離れると、もう足元も見えない。

 さきほどまで月が出ていたはずだが。

 エルは、よろよろと足を進めた。

 気分が悪い。

 

 つきあたった木の根本にうずくまって、嗚咽する。


 解体作業など、珍しくもない。自分でやったことだって、何度もある。

 血のにおいには慣れている。


 だが……、


 急に、胃の中のものが暴れだした。

 こらえるいとまもなく、勝手に喉から逆流してくる。

 地面に落ちる。

 すえた匂い。

 体の自由がきかない。

 くそ。

 じんわりと痺れたような嫌な感覚が、全身を這い回っている。

 脂汗がひどい。


「大丈夫。治癒魔法の後遺症が出ているだけですよ」


 ふいに、背後から女の声。

 血の気がひく。

 いくら暗闇だって、普通なら、足音か気配に気づいたはずだ。


 私は、そんなに鈍っているのか?


「ルナ、……」

 何も、言葉が出てこない。

 ぐっと、手の先に布のようなものが押しつけられた。

「使って下さい。」

 手巾であった。



「……なぜ、退魔師に?」

 くらやみのなか、ぼんやりと座り込んだまま、エルは、巫女に問いかけた。

 べつに、知りたいわけではない。

 ただ、何か喋ろうと思っただけだ。


「夢を見たからです」

 端的に返ってくる。


 闇が深すぎて、距離がつかめない。すぐ隣にいるような気もするし、十歩ほども離れているような気もする。


「夢って、」

「かれが、──アーサー=ブルガナンが、アルセア王となる夢を。」

「そう、……」


 それで、終わるはずだった。

 だが、

 次の言葉が、口をついて出てしまった。


「……それで、なぜ退魔師に?」

「それは、」

「アーサーを王にしたいのなら、それなりの方法があるでしょう。」

 考えがあっての言葉ではなかった。

 が、巫女は、

「そうですね、」

 と、つぶやくように言って、

「それでも、この街で退魔師をすることには、意味があると思います」

「なぜ?」

「……でなければ、誰がとかげ鳥を倒すのです?」

 いつのまにか、ルナの声は冷え冷えとして、するどい刃で刺すように触れてきていた。

 闇のなか、姿は見えない。だが、嗤っているようだった。いや、エルには、そのように思われた。

「そんなこと、……」

 あんたの知ったことか、と言ったつもりだったが、途中で消えていた。

 ぞわり、と闇が動いた。

 すっくと、立ち上がるような気配がして、まっすぐにこちらに向けた視線が刺さる。

 顔はまだ見えない。

 いや、

 ぼんやりと、にじむように浮かびあがってくる、その姿は。

 血に、まみれて。


(まさか──、)


 眼窩から、こぼれ落ちんとする眼球が、こちらを見ていた。

「やめろッ!」

「……どうか、しましたか?」

 巫女の声がする。

 いいしれぬ悪寒が首筋を這う。


 死霊術。


 ききかじった単語が頭をかすめる。

 呼吸を整えようとする、が、肺がいうことをきかない。

 立ち上がる。

「エル=サラナ、あなたは、」

 ろうろうと、呪文を唱えるように、巫女の声が響く。

 死者の幻は、いつのまにか消えていた。

「とかげ鳥を倒すのは、誰であるべきだと?」

 誰、だと。

「どういう意味、」

 問い返したのは、理解できなかったからではない。

 理解したくなかったから。いや、

 理解するのが怖かったからだ。

「この街で、退魔師を名乗るならば、──」

「勝手なことを!」

 振り払うように大声で叫ぶ。

 思わず、剣に手をかける。

「何も知らぬくせに……!」

 声がかすれる。

「思い出して下さい、エル=サラナ。あの日のことを。」

 なぜ、そんなことをいうのか。

 私は、


 いや、我々アルセアの退魔師たちは、あの日、とかげ鳥に負けた。

 それだけのことではないか!


「幾人の退魔師が犠牲になったか。あなたの腹に傷を負わせ、息も絶え絶えにしたのは誰か」

 なぜ、そんなことを知っている?

 アーサーか、フォスターに聞いたのか。

 どうでもいいことだが、無性に腹がたった。

「……あなたの師を殺したのは?」

 そして、その決定的な一言を聞いたとき、

 エルは、全身の血が逆流するのを感じた。

 悪寒は消えていた。

 すっと、自然な動きでかまえ、右手で剣を抜き放った。ほとんど無意識のうちに。

「それ以上言ったら、殺してやる。」

 我ながら驚くほど、落ち着いていた。

 死者の幻はもう見えなかったが、別の確信があった。

 目の前にいるこの女は、人ではない。

 鬼だ。

「殺しなさい。…それが、あなたが信じる道であるならば。」

 女は、ぴくりとも動いた気配をみせなかった。


 ジャスの生首が。


「あなたに、退魔師の誇りがあるならば、」


 ついばまれるカルナーの屍体が、


「死した同胞を、魔獣にふさがれた街道を、そのままにできましょうか。」


 そして、肉を切り裂く、とかげ鳥の牙と鉤爪が、夜に浮かんで、消えた。


「あかしだてをなさい。サラナ通りのエル。あなたが、まだ戦士であるのだと。」


 エルは小さく呻いた。涙は出なかった。

 気配だけを頼りに、二歩、踏み出す。

 巫女はまだ動かない。

 やはり、本当に鬼か、気狂いか。

 剣を構える。


 ぽん、と、胸を叩くような音がした。合図のように。


「いやあぁぁぁッ!」

 無我夢中で、エルは体ごと剣を突きだした。何かに当たる。硬いものに刺さったようだ。

 さあっと、風が吹いた。

 月を隠していた雲が大きく動き、強い光がさしこんだ。エルは呪いが解けたように全身が軽くなるのを感じた。

 剣のきっさきは木の幹に刺さっていた。

 そして、その刃は、巫女の脇腹を裂き、地面に血溜まりをつくっていた。


 鬼などいなかった。


「ルナ、……」

 どうしていいかわからずに、エルはそうつぶやいた。

 巫女は、うすい笑みを浮かべたまま、柄を握るエルの手にそっと自分の手をそえた。

「よくぞ、臆さず剣を振るわれました」

 騎士の武勲を褒め称える貴婦人のように、

 しずかに、力強く。

「退魔師とは、魔を祓うもの。あなたが、これからも退魔師を名乗るのなら──」

「……わかってる。」

 かるく目を伏せて、エルは答えた。


 本当は、ずっと分かっていたのだ。



 解体をおおむね終えたころ、ようやく、エルが戻ってきた。

 アーサーは声をかけようとしたが、できなかった。なんともいえない違和感があった。

「フォスター」

 すこし高ぶった、硬い声で、エルはいった。

「話がある、」

 フォスターは、かわらず落ち着いた表情で、肉を包んだ袋をアーサーに渡し、手を拭いた。

「聞こう」

 エルは、しばらく目線をさまよわせて、

 やがて、すっと息をはいて、言った。

「とかげ鳥を、狩るべきだ。」

 そして、口からでた言葉を追いかけるように、もう一度、今度は早口で、

「退魔師の、私たちアルセアの退魔師たちの誇りを、取り戻すんだ。フォスター」

 そう、まっすぐにフォスターの目をみて、言った。

 復讐を、とは言わなかった。それは、彼女の矜持だった。

「わかった、」

 フォスターは、にやりと──本当に、似合わぬほどのはっきりした笑みを浮かべて、応えた。

「ならば、そうしよう」

 待ちかねていた、とでもいうように。



 ずいぶん遅いな、とアーサーが思いはじめたころ、木のかげでがさごそと音がした。

「……ルナ?」

 声をかけると、もごもごと小さな返事が返ってきた。

 目をこらして見る。白い肌が目に入り、あわてて目をそらす。

「何してるんだ!」

「……少し、汚れてしまったので」

 アーサーは眉をひそめた。汚れてしまった、だって? こっちは血まみれで獣を解体したっていうのに!

 しばらくして、着替えおわったルナがこちらへやって来た。ひどく、疲れた顔をしていた。

 ひとこと言ってやろうと思っていたが、なんとなく口を開けなかった。

「……治癒魔法を受けた奴は、寝ちまえ。見張りは俺たちがやる」

 フォスターがそう言うと、エルと、なぜかルナも頷いて、はい、と返事をした。

 いつのまにか、ルナの頭上の魔法球は、2つに減っていた。



 しらじらと、夜が明けはじめていた。

 フォスターは、ちらりと横を見た。見張りをしていたはずのアーサーは、座ったまま寝息をたてている。

 懐から一枚の布紙を取り出して、かるく息をつく。


 それは、とかげ鳥の営巣地の地図。

 かれが、カルナーから受け継いだ、たったひとつの遺産であった。


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