(前編)
髪の長い女が、葬列の先頭にいる。
巫女である。
花かざりのついた、祭事用の巫女衣装であるが、葬儀のさいは白でなく黒で統一する。
死者の色だ。
先頭の迎え巫女だけでなく、両脇で花びらを散らす役目の巫女も、魔除けの踊り手も、棺桶を運ぶ僧も、そのまわりを囲む死者の知己たちも、みな黒い服を着ている。
棺桶の中から、腐臭がする。
つんと、まち針で鼻の奥をさすような痛みをまとった匂いだ。
さすがに、僧と巫女は顔色をかえることはないが、参列者のうちには、風向きがかわるたびに鼻をつまんでいるものもいる。
さて──。
先頭をゆくのは、まだ若い迎え巫女である。
背は女にしてはずいぶん高いが、顔立ちと体つきからすると、まだ18にもなってはおるまい。
黒の花冠をかぶった頭のまわりには、白い光球が4つ、浮いている。
ふわり、
と、脇を固める年かさの巫女たちが、花びらをまく。
しん、
と、迎え巫女が、片足を大きく前に出し、地面にうちつける。手は、ぶらりと下げたまま。
鬼歩という作法である。
その動きにあわせて、手足に飾りをつけた踊り手の巫女たちが、くるりと舞う。
舞いながら、ゆるやかな節をつけて、送り歌を。
──くろいおににはやるまいぞ、
わがともがらはやるまいぞ。
くろいところに、
くらいところに、
しずかにねむる、ともがらを。
運び手の僧と、花を撒く巫女は、ふつうの歩みかたに見えるが、足音はほとんどたてない。
歌のあいまに、参列者たちのかすかにたてる衣擦れの音や、ため息が大きく響くほどだ。
本日の参列者は4人だけ。ずいぶん少ない。
みな、どこか怒りのこもった真剣なおもざしをしている。
さて、
大通りを進む葬列のゆく先に、ふたりの男がむかいあって立っている。
素肌に巻衣を着崩した、ざんばら髪の若い男と、短めのチュニックに薄布の上着をはおり、細紐を額に結んだ年かさの男である。
二人とも、酒に酔っているようだ。
「どけよ。」と、巻衣の男が言った。だいぶ苛立っている。
「ふざけるな。お前が、わしの財布を盗んだのだろうが」
年かさの男も、声を荒げている。
「誰が盗むか」
「なんだと。しらばっくれるのか。」
「しらばっくれてなんか、いねえ」
「いい加減にしろ」
だんだん、声のトーンが高くなっていく。
まわりに人が集まりはじめた。
「盗人が」
少し、おさえたような声で、年かさの男がいった。
腰の剣に手をかける。
「ぬすっと、だと」
若い男も、おびえた様子はない。こちらも、腰帯に剣をさしている。
「お前が盗っ人じゃねえか、因縁つけやがって。あべこべに俺の財布をとろうってんだろう」
「誰が、そんな……」
年かさの男の顔が、かあっと赤くなる。
「もう勘弁ならんぞ」
勢いのままに、剣を抜いた。
遠目に見てもわかるくらい、震えている。
「おい、」
若い男が、すこし青ざめて後ずさる。
びゅっ、
刃が風を切る音がした。
血が地面に落ちる。
若い男の脇腹が、赤く染まった。
「てめえ、」
さきほどよりもっと青ざめて、若い男も剣に手をかけた。左手で傷をかばいながら、右手ですっと細剣を鞘からぬきはなつ。
足はおぼつかなかったが、きっさきは震えていなかった。
迎え歌が遠くから聞こえて来る。
野次馬たちが、一段と大きくざわめき始めた。
ひゅっ、と若い男が、直ぐに構えた剣を突き出す。
年かさの男が、剣の腹ではじいて受けようとする。
若い男が、ぐっ、と右手に力をこめて、剣をひねる。
受けようとした剣から、うまく逃げるようにして、きっさきが男の腹に吸い込まれていく。
ぐ、と獣のようなうめき声。
灰色のチュニックが、じんわりと赤黒く染まってきた。
野次馬の女が悲鳴をあげた。
と、──
二人をかこんでいた人垣が、大きく割れた。
ふわり、と黒い花びらが舞う。
しん、
と、しずかな強い力をこめて、迎え巫女が地面を踏んだ。
『夢見の巫女』だ、とだれかがつぶやいた。
「お願い申し上げます」
ろうろうと歌うように、巫女は呼びかけた。
二人の男の方をまっすぐ向いていたが、目はどこか遠くを見ているようだった。
「葬列です。道をお譲り下さい」
ひゅぅ、
きっさきが、巫女の前髪をかすめた。
細剣についていた血糊が、飛び散って右目に入った。
巫女は、じっと目を見開いたまま、身じろぎもしない。
「あんた、」
若い男が、荒い息をおさえながらつぶやいた。
「このようすが見えねえのか」
剣はゆだんなく構えたまま。
チュニックの男も、同じく、
「巫女。しばらく待ち給え」
大剣をもうひとりの男にむけて、
「わけはどうあれ、こうして血を流したからには、やめるわけにはいかん」
ぽたり、ぽたりと、腹から流れた血が膝から地面に落ちている。
二人とも、酒はとうに醒めたようであった。
巫女の眼から、涙にまじった血が、つうと落ちた。
「諸々事情はございましょうが、いずれ生者のあいだのこと」
頬のあいだをつたって、唇へと入る。
「死者にはかかわりがありませぬ。どうか、道をお開け下さい」
巫女は身じろぎもしない。
二人の男が、また、剣を重ねようとした、
その刹那、
巫女の額のまわりに浮いていた、白い光球が、ふたつ、ふっと飛んだ。
ひゅうと、風に乗るように弧をえがいて滑り、男たちのうなじのあたりで消える。
光がぼんやりと浮かんで、吸い込まれる。二人の胴の傷口に、強い熱が生まれて、きえる。
男たちは、とつぜん力を失ってくずおれた。
「血は、もう流れておりませぬ」
淡々と、冷たくすら聞こえる声で、巫女はいった。
「道をお開け下さい。葬列が通ります」
しばらく間があって、男たちは座りこんだままぼんやりと巫女の顔を見あげた。
無言のまま、たがいに道の反対側へ、剣を杖のようにして離れてゆく。
腐臭が、ぷうんとあたりに流れた。
何事もなかったかのように、迎え巫女はまた足を踏み出した。
鬼歩のリズムにあわせて、踊り手があわててステップをふむ。
花びらが舞う。
送り歌が、またはじまる。
集まっていた人々が、あわてて道をあけ、葬列に敬意を示す礼をする。
(ああ……あれが『夢見の巫女』か)
誰ともなく、人々のつぶやく声がきこえる。
(なんだか人間離れしたようで……いっそ恐ろしい)
(まったく……聞いたかね、そういえば、こたびの葬儀は特別だと)
(何が特別なんだね)
(それが……ただの噂だが、)
人ごみの中。
年のころは巫女と同じくらい、厚手の服をきて腰に剣をさした銀髪の少年が、足を止めていた。
(なんと……。鬼に喰われたのだとさ)
(鬼に、だと)
(それも……)
なんとなく、話の内容が気にかかり、少年は聞き耳をたてる。
(夢見の巫女が、屍体を鬼に喰わせたのだと)
聞いたとたん、ぞわり、といやな感じがした。巫女の顔が脳裏にちらつく。
そんなことが、あるものだろうか。
そう、考えながら、通りすぎようとする葬列に目をやった瞬間。
一瞬だけ、夢見の巫女がふりむき……こちらを、じっと見ていたような気がした。
*
強弓から放たれた矢が、鋭い音をたててエルの頭上をかけぬけていく。
ぎりぎりのところで、雪ねずみには届いていない。
エルは、地面に伏せたまま、構えていた小弓をさげた。ここからでは射っても無駄のようだ。
「登るぞ、エル」
アスターに促され、立ち上がった。
雪ねずみを狩るには、高所を占めるのが重要である。
アスターのあとに続いて、がけに手をかける。それほど高い斜面ではないが、急いで登らねばならない。
この狩りに参加しているのは9人。うち、強弓をもった射撃手がアスターをいれて3人。槍をもった戦士が2人。荷運びの見習いが2人で、魔法使いが1人。
エルは、そのどれでもない。小弓と剣をもち、状況により射撃手と戦士のどちらも務める。小柄で力がないかわり、隠れて待ち伏せるのが得意である。
だが、今はたいして役にたちそうもない。
「上には?」
「フォスターと、たぶんジャスが」
「カルナーは?」
「あっちで雪ねずみを追ってた。上にはまだ来てないと思う」
登りながら、短く会話する。
雪ねずみは、西側を大きく迂回して登ってきている。このがけを登れば、先回りできる。
崖上に出てすぐ、エルはあたりを見回した。一足遅れて上がってきたアスターに、状況を報告する。
「雪ねずみは登って来てる。ジャスが狙ってるみたい。フォスターの姿は見えない」
「そうか」
アスターは小さくこたえて、背中にしょっていた強弓をはずした。
雪ねずみは、人間の倍ほどの背丈がある、強大な魔獣である。
重さは、成人男性のおよそ10倍もあり、力も相応にある。だから、まともに戦うのは下策だ。
離れたところから、弓で狙う。
相手より高所をとりたがる習性を利用し、斜面を登るところを撃つのである。
その時、射撃手は、雪ねずみと同じ高さで横から狙うのが望ましい。斜面の下と上から、戦士が囮となって注意をひき、射撃手の安全を確保する。
今は、下からカルナーが追い、上ではフォスターが注意をひいている筈であった。
アスターは強弓をかまえた。
エルは、かれの視線をふさがぬよう注意しながら、剣に手をかけて周囲を警戒した。今のところ、雪ねずみはこちらに向かってきていないが、もし来ればアスターを守らねばならない。来なければ、弓に持ち替えてアスターの援護だ。
「……ジャスがあそこに、」
なるべく声をおさえながら、アスターの注意をうながす。わかっている、というふうに頷く。
雪ねずみとかれらのちょうど中間あたりに、新入りの魔法使いがいる。
遠目でも震えているのがわかる。雪ねずみを狙っているようだったが、位置どりが悪い。
斜面を登ってくる魔獣の横ではなく、前方に近い場所にいる。これでは、雪ねずみの注意をひいてしまう。それは、撃ちつくせば無防備になる魔法使いの役目ではない。
新入りをフォローするはずのフォスターの姿は、ここからは見えない。囮役として動くうちにはぐれたか、新入りが先走ったかだ。
アスターが舌打ちした。
「射線に入るなッ!」
するどく叫ぶ。
ぎりぎり聞こえるくらいの声に抑えていたが、おそらく雪ねずみの耳にも入っただろう。
新入りの魔法使いは、すぐに反応した。
胸の前にかざした手のうちに包んでいた、茶色の光球が、瞬時に大人の頭ほどの大きさの岩となり、かちかちに張った強弓で撃ち出した矢のように、するどい音をたてて宙を走ってゆく。
岩弾の魔法である。命中すれば、雪ねずみといえど無傷ではすまない。
ぎぃんと、大きな音をたてて、太い枝が幹から抜け落ちる。
枝の根本に岩弾があたって、狙いがそれたのだ。
雪ねずみの耳元をかすめて、轟音とともに地面に刺さる。
魔獣がこちらをむいた。
ジャスはあわてた様子で、こちらへ向かって走ってきた。
「ばか!」
しんそこ慌てた声で、アスターがさけぶ。
エルは剣をぬきはなち、雪ねずみに向かって走り出そうとした。
とん、と右肩に軽い衝撃を感じた。
ジャスがぶつかってきたのだ。
バランスを崩しかけて、あわててもちなおす。反射的に後方に目をやる。
アスターが落ちかけていた。
考える間もなく、体が動いていた。
崖際へと体を投げ出し、手首をつかんだところで、二人分の体重を支えられないことに気づく。足がすべり、空中に浮いてから、とどまるべきだったと後悔した。
ジャスは、アスターとぶつかった後、一人で逃げたらしい。
エルはなんとか大きく転がって受け身をとり、崖下の地面に足をつけた。弓はあるが、剣は落としたようだ。
「アスター!」
思わず悲鳴をあげる。
アスターは崖から10歩ほど離れた木にぶつかって倒れていた。顔色がおかしい。右腕と、左足が、おかしな角度に曲がっているように見える。
駆け寄る途中で、ふと嫌な予感がして、崖の上に目をやる。
雪ねずみが、大きな赤い目でこちらを見下ろしてきていた。
ぞくり、と身が震えた。
雪ねずみが高所へ向かうのは、その体重を利用して低いところにいる獲物を叩き潰すためだ。
そして今、崖の下で弱っている人間を、雪ねずみは見た。
手元に剣はない。仮にあったとしても、牛よりも重い雪ねずみの突撃に、一人で対処できるとは思えない。
アスターが何かうめいた。
ひざまづいて、耳を近づける。
荒い吐息にまじって、こう聞こえた。
「……はやく、逃げろ。エル」
それを聞いた瞬間、何かがはじけた。
アスターの強弓を奪い取る。
「よせ、」
なにか言っているようだったが、
「女の力で引けるものか。」
無視する。
ぴたりと、雪ねずみの眉間にむけて、矢をつがえる。
雪ねずみが体を丸めた。
鞠のように丸くなって転がり、おしつぶす。それが、雪ねずみの攻撃方法だ。
だから、急がないといけない。
きりり、と指が悲鳴をあげる。
革手袋に弦がくいこむ。
肩の筋肉が限界を訴えてくる。
奥歯を噛みしめる。
雪ねずみが地面を蹴った。
弦が半ばほどまで動いた。
きしきしと、いやな音が聞こえる。弓ではなく、腕と指からだ。
汗が目に入る。
まだ一呼吸ほどの時間も経っていないはずだが、息苦しくて頭が痛い。
崖の半ばほどを転がる雪ねずみが見える。やけに、ゆっくりと。
だれかの悲鳴のような声が聞こえた。自分の声だったかもしれない。
肘のあたりの強烈な痛みで、我に返った。
弓は、かたく引き絞られていた。
腕の感覚はないが、支障はない。
全身で狙いをつける。
はなつ。
どん、と大きな音がした。
矢が、雪ねずみの背に突き刺さる音であった。
血がしぶく。
だが、転がり始めた勢いは止まらなかった。
ぱきん、と矢が折れた。雪ねずみの背に突き刺さったまま、地面との間に挟まれたのだ。
血まみれになったまま、魔獣の巨体が向かってくる。
次の矢。
あわてて、構えようと意識を向けるが、体は動かない。
押しつぶされる──
目を閉じてはいなかったはずだ。
だが、そうとしか思えなかった。
気がつくと、雪ねずみの突進は止まっていた。
えんじ色のマントをまとった壮年の男が、両手で構えた素槍で、魔獣の喉を刺し貫いていた。
男の頭のまわりには、白い魔法球が2つ、浮いている。
カルナー=メンサ。もと僧兵で、今はこの退魔師団の隊長をつとめる戦士である。
「……遅れて、すまぬ」
低い声で、カルナーはそういった。
鉄の柄をささえる太い腕は、ぴくりとも動かぬ。
身丈は人間の倍ほどもある雪ねずみの重みを、それだけで支えているのだ。
と、見えた刹那、
雪ねずみの手、いや右前足が、動いた。
槍でさしつらぬかれた喉もとから、かるがると、カルナーの左頬に張り手をするように。
岩を壊すほどの力をこめて。
カルナーも上体をそらすが、ただ手を伸ばすほうが速い。当たれば、頭はつぶれるだろう。
しかし、その手が届くことはなかった。
雪ねずみの全身から一気に力が抜け、カルナーの前にどうと転がる。
その背中に、小剣がささっていた。
ちょうど心臓の位置である。
鉄片入りの革鎧で全身を覆った大男が、渋面をしてそこに立っていた。
フォスター=リマム。囮を引き受けたはずの戦士である。
「遅れて、すみません」
言葉はカルナーに向けていたが、目線はそれを通りこしてエルとアスターのほうを見ていた。
エルは、いつのまにか膝をついていたことに気づいた。
「応、」
カルナーは満足げに頷くと、くるりと後ろをむいた。
つかつかと二人のほうに近づき、
「ご苦労だった」
言葉とともに、魔法球がひとつ、アスターのところに飛んでゆく。
光球が触れたところから光が広がり、怪我がいえていく。
巫女と僧兵が使う、治癒の魔法である。
「ありがとうございます、…」
アスターはすぐに顔をあげたが、立ち上がることはできなかった。
治癒の魔法を受けると、体力を消耗する。傷が深いほど、その度合も大きい。
動こうとするアスターを制して、カルナーは言葉を続けた。
「エル=サラナよ。素晴らしい勇気だった」
エルは、顔が紅潮するのを感じた。
「だが、方法は最善ではない。矢を受けただけでは、雪ねずみの突進は止まらぬ。あの場合、何としてでもアスターを線上から逃がす方法を考えるべきだった」
「はい」
こくんと頷く。全くその通りであった。
「とはいえ、その覚悟は珠玉である。他の者も見習うように」
いつのまにか、雪ねずみの死体を囲むように、他の仲間たちも集まってきていた。
フォスターは、崖を大きく迂回してきていたジャスを見つけ、硬い声で言った。
「ジャス。……解体は、おまえ一人でやれ。半日かかってもだ。いいな」
はい、と消えいりそうな声で、新米の魔法使いは目を伏せたままうなずいた。
すこしは手伝ってやろう、とエルは考える。
雪ねずみの生命力の一端なりとも、理解したい気持ちもあった。
ともかくも、凱旋であった。
*
くらやみの中で、エルはゆっくりと目を開いた。
悪夢を見たようだが、はっきり思い出せない。
ただ、全身が汗でべとついている。呼吸も、脈も荒い。
いやな気分だ。
肩口の傷がいたむ。治癒の魔法で、とっくに治ったはずだが──
吐き気がする。
ぼんやりと、まとまらない思いをたぐりながら、エルは起き上がろうとした。
全身がじんわりとしびれて、力が入らない。
長い長い時間をかけて、なんとか寝床から這いでる。
もうとっくに夜は明けている。暗いのは、雨戸を閉めているせいだ。
研ぎ師のところに剣をとりに行かなくては。
そう思う。胸がずきりと痛む。
もう7日ばかり、同じことを思い続けている。
窓ぎわに立つ。
雨戸をあけようと、手をかける。
ひどく重い。
急に、目の前が暗くなる。
部屋のすみに、剣がたてかけてあるのが見える。
いや、あるわけがない。研ぎ師に預けてあるのだ。
目をとじる。まぶたの裏に、血に染まった剣がうつる。
かろうじて悲鳴をこらえる。
必死で、雨戸にかじりついて、わずかに隙間をあける。
まだ、思ったほどの時間ではなかったらしい。早朝の市場から喧騒がきこえてくる。
市場のはしに、見知った顔があった。
銀髪に、赤い目。森妖精の末裔らしい、端正な顔だち。母親によく似ている。
退魔師見習いのアーサーだ。
とっさに目を伏せる。
見られたただろうか?
なぜ、隠れなければならないのか自問するが、答えはない。
窓際にしゃがみこんだ。
ひとりでに涙がながれてくる。
このままではいけない。
そう、思う。
退魔師の誇りはどこへ消えた? 自問する。
答えはない。誰もこたえてくれない。
カルナーも、アスターも、ジャスも、そして兄も、とっくに死んでしまった。
*
窓を見上げるのをやめて、アーサー=カルアは歩き出した。
今、エルにかける言葉を自分は持っていない。
まして、狩りに出たこともない見習いの身では…。
ため息ひとつ。
テべーとの輸送路が滞っているせいで、市場ではあらゆるものが値上がりしている。
卵も、たたら芋も、予定の半分しか買えなかった。
みんな、とかげ鳥のせいだ。
口の中で愚痴をこぼしながら歩いていたせいで、前方に注意を払っていなかった。
ふと、違和感をおぼえて顔をあげると、長髪の女が、じっとこちらをみすえて立っていた。
知らない女だ。
いや。
一度だけだが、見たことがある。
長髪、ぼんやりとした切れ長の目、のっぽでやせぎすな体型、姿勢のいい立ち姿、
それに何より、頭のまわりに浮いている4つの白い魔法球。
夢見の巫女、ルナ=サリナイだ。
*
ルナは夢を見た。
豪奢な飾り付けのされた大広間のまんなかで、ひざまづく銀髪の男。
長い口上のあと、公爵の徽章をつけた初老の男が、純白の布でおおわれた台からそっと王冠をとりあげて、高くささげた。
右の脇から、裾の長い衣装を幾重にもかさねた女が、鞘にはいった宝剣をもって出てくる。
左の脇から、4つの宝石をのせた盆をもった女が。
「アルセア王に、永遠の誉れあらんことを、」
初老の男がそういって、王冠を男の頭にのせた。
「アルセア王に、豊穣の恵みあらんことを。」
盆をもった女がそういって、茶色の宝石を王冠にはめこむ。
「アルセア王に、善き風の恵みあらんことを。」無色の宝石を、
「アルセア王に、遠き海の恵みあらんことを。」青い宝石を、
「アルセア王に、毅き火の恵みあらんことを。」赤い宝石を。
そして、
「我らアルセアの民に、王の守護あらんことを。」
剣をもった女が、男の胸に宝剣をおしあてる。
男は、たちあがり、受け取った剣をすらりと抜き放った。
剣身には、銘が刻んである。
それは、この大陸の名であり、闇を祓う戦士の名であり、初代アルセア王の名でもあった。
公爵が、最後の口上をのべる。
それは、男の名と、王となった男がこれから名乗る名の2つであった。
*
そして、目の前にいるその男は、いくぶん若いようにも見えたが、やはり王には違いなかった。
すっ、
と、なめらかに膝をついて、ルナは顔を伏せたまま男に伝えた。
「アーサー=アルセア。あなたは、王となるべき人です。」
*
「…なぜ、」
とつぜんのことに、アーサーはぼんやり問い返すしかなかった。
「夢に見たからです。アーサー=アルセア」
巫女はよどみなく応える。
きょうは巫女衣装ではなく、ありふれた地味なワンピースだ。しかし、大通りの真ん中でひざまづいていれば、いやでも目立つ。
「そんなふうに呼ばないでください、巫女」
「なぜですか?」
アーサーは言葉に詰まった。
「ぼくの姓は──」
ふだん使っている、母方の姓を言おうとすると、
「ああ、わかりました。」
わざとのように、会話の間をはずして、
「では、こうお呼びします。……アーサー=ブルガナン。今は、まだ。」
それは、アーサーの父方の姓だった。
そして、魔物の王、闇王国の首魁ブラストを弑した者に与えられる、英雄の姓であった。
*
「…それで、あんたはなぜここに?」
少し、ほんの少しだけいらだちを表にだして、退魔師フォスター=リマムはそう訊いた。
ここは、ミナ=ブルガナンの薬草店である。ミナの息子であるアーサーは、この店で退魔師たちの姿を見ながら育った。
アルセア王国で薬草屋といえば、退魔師の溜まり場と相場が決まっている。薬草だけでなく、松明や携帯食料など退魔師に必要な品を売り、ときには祓いの依頼を取りついだりもする。
この店はもと旅籠で、1階の、かつて食堂だった大きなスペースが、退魔師たちの打ち合わせや歓談の場となっている。広間に、六人がけの丸机が7つ、団体用の大きなテーブルが2つ。今は、アーサーたちのいる丸テーブルのほかはすべて空いている。
「夢を見たからです。」
帯剣した大男にものおじもせず、ルナは静かにいった。
「予知夢を見たと?」
アルセア・シティーに住むものであれば、『夢見の巫女』のうわさくらいは、誰でも知っている。
信じるかどうかは、別の話だが。
「はい。彼、アーサー=ブルガナンが…」
同じテーブルで、少し遠慮がちに席についているアーサーにちらりと目をやって、
「アルセア王となる夢を。」
そう言われた瞬間、アーサーはさっと目を伏せた。
そして、軽く息をついて、顔をあげたとき、
フォスターは笑っていなかった。
「それで?」
低い、つめたいくらいの声で、男は問い返した。
「おれが聞きたいのは、あんたは何がしたくてここに来たのかってことだ。」
「王の即位を手伝うために。」
そう、とっさに口をしたが、実をいうとルナにはまだ迷いがあった。
いや。
そうではない。
迷い、というわけではないが、ひとつ心にひっかかっていることはあった。
「そうか。」
フォスターは、それ以上追求しなかった。
「つまり、こいつが名をあげるのに協力したいというわけだ」
閑散とした店内に、かるく目をやって、それから、ルナの頭上の魔法球を数えるようにしてから、
「歓迎するさ。……夢見の巫女。あんたが、この街で退魔師をやると言うんならな」
そういわれても、ルナはかすかにも表情をかえなかった。
ただ、じっと考えていた。さきほどから、心にかかっていることを。
あの夢に、
自分の姿がなかったのはなぜか?
*
退魔師とは、その名のとおり、魔を退けることを役目とする職業である。
魔とは、人を惑わしおびやかすものの総称であるが、退魔師が対峙するものは大きく分けて3つある。
人の間にひそむ魔。
野外にて人をおそう魔獣。
そして、闇王国の尖兵たる魔族。
すなわち、退魔師とは、
人の心に憑いた闇を祓う祈祷師であり、
害獣を狩る猟師であり、
魔王軍と戦う正義の使徒である。
*
「……何か、あったのですか」
アーサーと二人で表通りに出ると、ルナは少しだけ緊張がとけたような顔つきになった。
「どういう意味?……ですか」
なんとなく、どういう態度をとるべきかはかりかねたまま、アーサーは聞き返す。
「あのお店には、いつもはもっと人がいるのでは?」
意味がよくわからず、見返すと、ルナはふしぎそうに続けた。
「ミナ=ブルガナンの薬草店は、この街でもっとも大きな退魔師の拠点の一つだと聞きましたが」
「そんなこと……、知っていたんですか」
「もちろんです。」
かすかに、笑ったようにみえた。
「何も調べずに、声をかけたとお思いでしたか。」
言われてみれば、その通りであったが──、
なんとなく、釈然としないものを感じる。
「わかりました。……歩きながら話しましょう。」
ともかくも、アーサーは語りだした。
*
100日ばかり前。
テベーからアルセア市へ、定期的に往復していた隊商が、ふっつりと来なくなった。
少人数で街道を旅する吟遊詩人や商人が魔獣に殺されるのは、珍しいことではない。しかし、少なくとも10人の退魔師が護衛する隊商が、とつぜん消息を絶つというのは、滅多にあることではなかった。
次のテベーゆきの隊商には、通常より多い13人の退魔師がついた。退魔師たちは、隊商がテベーにつきしだい、すぐにアルセア市に戻り、街道の状況を知らせることになっていた。
しかし、その隊商も、退魔師たちも、アルセアに戻ってこなかった。
そして、ついに、30人の退魔師からなる大調査団が編成され、テベーへと出発したのである。
*
転び猫、雪ねずみ、とかげ鳥。
このあたりに出る魔獣といったら、そんなところだ。
いちばん厄介なのは、転び猫か。しかし、13人の退魔師隊が全滅するとは思えない。
百鬼夜行が出たのだ、と言う者もいる。
そうであれば、そこらの退魔師が100人集まってもどうにもなるまい。十数年前、勇者ランガが鬼と一騎打ちをして退けたという話もあるが、真似できるものではない。
アルセア市を出て、およそ半日。
山道をいったん抜けて、草原地帯へ入る。街道沿いはすこし高台になっていて、遠くに水平線が見える。草が生い茂っていてよく見えないが、海のほうへ少し進むと急斜面があって、その先は海岸まで平地になっているはずだ。
先頭を歩く男が、あっと声をあげた。
赤黒く染まった、布鎧の切れはしが落ちている。
匂いはしなかった。しかし、引き裂かれた毛皮と綿材のかけらを見れば、その持ち主が辿った運命は容易に想像できた。
「このあたりか。」
隊長格の男がつぶやいた。すぐに、全員が周囲に目を向ける。
その気になって探してみると、痕跡はいくらでもあった。
服のきれはし、地面に残る血のあと、放棄された武器、壊された荷車。それから、散らばった羽根。
誰かが、とかげ鳥のくちばしと頭蓋の一部を見つけた。
死体といえるようなものはほとんど残っていなかった。喰いつくされたのだ。最初の襲撃者か、後からやってきた屍肉喰いの獣か。あるいは、その両方に。
隊商はここで全滅したのだ。おそらく、二度とも。
誰かが、嘔吐していた。
骨があるということは、おそらく最初の襲撃者はとかげ鳥だ。
だが、普通、とかげ鳥は二頭か三頭で行動するし、統率された退魔師の集団を蹴散らすほどには強くない。たとえその倍でも、13人の退魔師がいれば難なく対処しただろう。
何か、よほどのことがあったか──
「おい、」
誰かが、青ざめた声で言った。
「あれ、見えるか。」
ばさばさっ、と何かが風をたたく音がした。森のほうだ。
木々のあいだで、何かが動くのが見えた。
ひとつ、ふたつ、みっつ…
茶色い尾羽根。ここらに散らばっているのと同じものだ。
くちばし。牙。
とびあがったときに見える、後ろ足の鋭い鉤爪──
とかげ鳥だ!
反射的に、かれは仲間たちに背をむけて走りだした。嫌な予感が全身を這いまわっていた。
それが、命運を分けた。
背を向けるまでの一瞬に見えた影の数は、やけに多かった。
戦う音、悲鳴、爪をたてられた肉の音。
すべてを振り払うように、息が切れるまで走ってから、振り返った。
木々のあいだに身をかくすようにして、29人の退魔師が一方的に虐殺されるのを見る。
とかげ鳥は、けっして恐ろしい敵ではない──ただし、こちらが数で大きく勝っていればの話だ。
すぐに遠くに離れるべきだったが、そこから目が離せなかった。
かわりに、とかげ鳥の数を数える。正気を保つためと、自分に言い聞かせながら。
途中でわからなくなって、何度も数え直した。
正確な数は、わからない。わかりようもない。
だが、少なくとも40。多ければもっとか。
そう、数え終わってから、かれはそっと目を閉じた。嗚咽が喉元までこみ上げてきた。
*
一人だけ生き残った退魔師が、アルセア市に戻って状況を告げた。
とかげ鳥が大きな群れをなして隊商を襲うというニュースは、それだけでアルセア王国の流通を脅かすに十分だった。
2、3頭のとかげ鳥と戦うには、一人前の退魔師が5人は必要だ。
ならば、40〜50頭の群れに対抗するには、退魔師が80人か、100人は要るか。
しかし、通常、退魔師たちは3人から10人ほどの小集団で魔獣狩りをする。大人数で戦うのには慣れていない。
まして、アルセア市に住む退魔師を全員あわせても300人はいない。祓いが専門で魔獣狩りには出ない者もいるから、実際の戦力はもっと少ない。
だが──
15日後、あらゆる困難を乗り越えて、100余名からなる退魔師隊が編成され、魔獣退治に向けて出発した。
この隊には、アルセア市に根城をもち、魔獣狩りを生業とする退魔師のほとんどが参加していた。
……少数の例外を除いて。
*
「……そうして、また、全滅した。今から10日前のことだけど。」
アーサーはそう言って、大きく息をついた。
少し不正確な言い方だったが、それ以上言葉を続ける気になれなかった。
「それでは、あなたたちは……」
ルナが何かいいかけたとき、二人はちょうど鎧店の前に立っていた。アーサーは、かまわず扉を開けた。
*
「いらっしゃい」
小太りの中年の店主が、陰気な声をかけてきた。
鎧店、というので想像していた雰囲気とは、少し違っていた。店内は薄暗く、大きなハンガーラックが所狭しと並んでいる。ラックにかかっているのは、ルナの目には鎧ではなく普通の服ばかりに見えた。壁際には鍵のかかったガラス棚があり、その中にはちゃんとした鎧が並んでいるようだ。
「布鎧一式を仕立てて欲しいんだ」
アーサーは並んでいる商品には目もくれず、店主にそう言った。店主は低い声で、そっちの子にかい、言って目線を向けた。アーサーが頷くと、あごをしゃくって店員に指示をだしたようだった。
ほどなく、店の奥から若い女店員が出てきた。
「少し測りますね」
女は、かるくルナの体に触れてから、エプロンのポケットに手を入れて巻尺を取り出した。首周りと手首を測ってから、服を脱ぐように促してきたので、店主のほうを見ると、すでにアーサーと一緒に姿を消していた。
横あいからパーテーションがさっと出てくる。試着室のようなものはないらしい。
入り口のほうを気にしながら、ワンピースを脱ぐ。店員は慣れた様子で、手早く採寸をすませた。
採寸して服を買ったことなどないので、勝手がわからなかったが、随分あちこちを測るのだなと、ルナは少し不思議に思った。
「魔獣狩りに着ていかれるのでしょう? 少しでも動きやすいよう、全身の寸法を合わせるのですよ」
店員は笑って言った。
「……布鎧とはどういうものなのですか?」
急いで服を着ながら、訊いてみる。
「そこに、沢山並んでいるでしょう」
そう言われて、見るが、鎧というよりただの地味なつなぎのようなものにしか見えない。
「まあ、ただの服と、そうは変わりゃしません。ただ、少しでも身を守れるように厚く作ってあるのと、要所には固く絞った綿布を裏打ちして、刃物や牙が通りにくくしてあります。
鍛えてらっしゃる方ですと、一部に硬質の革を縫いあわせたものをお使いになりますが、重くなりますし、動きも制限されますので──」
店員は、いつのまにか戻ってきていたアーサーに目を向けた。アーサーはかるく頷いた。
「あなたの場合、ごく普通の布鎧だけになさるのが良いと思います。……巫女様なのでしょう? 前線は、男性がたが守ってくださいますからね」
「女戦士もいるぞ」
まぜっかえすように店主が言った。女店員は愉快そうに笑った。
ふと心配になって、ルナはアーサーに耳打ちした。
「私、あまりお金を持ってきていないんですが」
「……フォスターから貰ってきてるから、心配しなくていいよ」
意外な答えであった。
「いいんですか?」
「手兵の装備品は、かしらがもつもんだよ。」
「てべい?」
「まだ見習いということさ。……僕も、君もね」
そんなものか、とルナは首をかしげた。
*
「なぜ、巫女が退魔師になろうと?」
特にきっかけがあって訊いたわけではない。
もう一度、はっきり聞いておくべきだと思っただけだ。
「夢を見たから、と申し上げました」
火打ち石がいくつも並んでいる棚から目をあげもせず、ルナは答える。
「……退魔師になる夢を見たわけじゃないんでしょうに。」
「もちろんです、」
頷きながら、ひとつ手にとってみる。
「あなたの未来を。この国の王に──」
「下手なことを言わないでくれ。」
思わず、アーサーはルナの手をつかんで止めていた。
ルナは、振り払うでもなく、くるりと横をむいてアーサーの顔を見つめた。
抗議するでもなく、
何か問うでもなく、
ただ、表情を動かすことなくしばらく見つめてから、
また、向きなおって棚のものを触りはじめる。
それから、こともなげに、
「心配しなくとも、大丈夫ですよ。……誰かに知られたからといって、未来が変わってしまったりはしません」
「そういうことを言ってるんじゃ……」
「あなたは、なぜ退魔師になろうとしているのです?」
こんどは目をあわせぬまま、とつぜん尋ねてくる。
アーサーは一瞬言葉に詰まってから、
「死んだ父が、…」
「勇者ランガは、職業的退魔師ではなかったと聞いています」
「同じことだよ。魔王を滅ぼすのが勇者なのだから、」
「……ならば、それがあなたの未来なのでしょう。」
言いながら、かるく目を伏せた少女の横顔は、
なぜか、すこし失望しているように見えた。
*
ふと街できいた話を思いだした。
夢見の巫女は、死者を鬼に喰わせたといわれている。
それは、実はこういうわけだという。
クラナ通りにある長屋に、若い夫婦が住んでいた。
ある日、夫が起きると、妻が布団のなかで冷たくなっていたのだという。
理由は、わからない。急な病とも、悪いものに憑かれたためだとも。
とにかく、夫は、妻の死を悼んだ。
そして、悲しみのあまり、人であることをやめ、鬼になったのだ。
夢見の巫女が、その長屋を訪れたとき、すでに、男は身も心も鬼と化していた。
「鬼よ、鎮まり給え、」と、巫女は鬼に言った。
「何を以て、」と、鬼は問い返す。
いくぶんかのためらいと、焦りをおもてに浮かべて、巫女はついに言った。
「供物として、死せる女の躰を捧げん」
そして、鬼はそれを受け入れた。
鬼が、どのように死んだ女の体を貪ったのかは、よくわからない。
それが、文字通りの意味なのか、あるいは鬼のように狂った男が、死んだ妻の体で欲を満たしたという話であるのか。それも、アーサーにはわからない。
とにかく、夢見の巫女は、女の体が喰われるあいだ、誰も邪魔をせぬよう戸口に立ち、三日三晩見張りをしたという。
*
「なぜ、あなたたち2人が、街に残ったのですか?」
あらかた、必要なものを買い込んだあと、最後に寄った狩猟用具店で、ルナはあらためてそう訊ねた。
「……ぼくら二人は、カルナー=メンサの派閥に属しているんだ。だから、ルパード=ケナルス率いる討伐隊には参加しなかった。」
「どういう意味です?」
「カルナーはフォスターの師匠だ。そもそも、今回、狩りに参加したやつらの半分くらいは、本来カルナーの弟子筋にあたるはずだ。だけど、やつらはルパードについた。」
「カルナーという人も、討伐隊に参加したのでしょう?」
ルナは首をかしげた。アーサーはいまいましげに続けた。
「カルナーは、この作戦には反対だったんだ。別の策があったんだと思うけど、詳しくはわからない。とにかく、決戦を急ぐのは危険だといっていた。それで、ルパードとは意見が対立したんだ。ルパードだって、カルナーの弟子の一人なのに。」
「偉大なかただったのですね?」
「もちろん。……いや、君にはわからないよ。」
思わず、いら立ちをぶつけていた。
「結局、カルナーはルパードと決闘することになった。……そして、負けたんだ。ルパードが意見を通すことになり、カルナーもやむなく討伐隊に参加した。でも、他の退魔師が参加するかどうかは自由意志に任されていたから、ぼくとフォスターは、カルナーの意をくんで残ることにした。」
思わず、漏れ出てしまったという様子で──
アーサーは、ルナの目をにらみつけて、訊いていた。
「ぼくたちを卑怯者だと思うか?」
「いいえ。」
あっさりと──まるで、あたりまえのことのように、ルナは答えた。
「己の信ずるところをなすのが、当然です。天もそう言っておられます。」
「天だって?」
「私は、天教の巫女ですから。……たとえ死しても、己の信ずるところに従うのが、天の教えです。あなたがたは、あなたがたが正しいと信じることをした。それでいいではありませんか。」
「それなら……」
もう、やつあたりだ。わかっていたが、止められなかった。
「決闘に負けたために、ルパードの部下になって狩りに出たカルナーは? 正しくないと?」
「そうですね……」
たまたま、手を触れたとでもいうように。
棚の上にあった短剣を、ルナは無造作に抜き放って、刀身をかざした。
「……私なら、自分が正しいと思うことができなくなるような決闘は、いたしません。あるいは──」
「あるいは?」
「──どうしてもするのなら、死ぬまで、負けを認めずに戦うでしょう。」
曇りひとつない、鉄の刃。海のむこうからの輸入品らしい。
巫女が短剣など使い慣れているはずもないが、なぜか、やけに似つかわしく見えた。
刀身に銘文が刻んである。
『刃にて鬼神悪鬼を祓う可し』
アーサーが黙っていると、ルナはすとんと短剣を鞘におさめて、
「これ、買います。自費で。」
「……必要な装備だろ。フォスターにもらった金で買えばいい。」
「いえ、──これは、自分で買いたいんです。」
本当に──、何を考えているのか。
アーサーはもう、理解するのをあきらめて、
「これを。」
入り口近くにあった、長い木の棒をルナに放った。
「刃物もいいが、こっちのほうが必要だと思う。持っておきなよ」
「……まじない用ですか?」
魔法を使うのに、道具など必要ない。アーサーも魔法使いである以上、そんなことは知っているはずだが。
「山歩き用の杖だよ。……きみは、狩りを甘くみてる。」
そう言って、アーサーはわざとらしくため息をついてみせたが、すこしも溜飲は下がらなかった。
*
翌日──、
アーサーは、ふたたびエル=サラナの家の近くにやってきていた。
エルの住まいは、ミナの店があるサン・ドラクマ通りから一本脇道にそれたところにある、商店街に面したアパートの二階である。
二階へのぼる外階段を、何度もためらいながら上る。
ルパード隊が敗北した、あの日。
エルは、ひとりで帰ってきた。
ドアのまえに立つ。
表札に、ちいさなかたちのいい字で、エル=サラナと書いてある。
サラナ通りで生まれたエル、というほどの意味である。
血まみれでミナ=ブルガナンの薬草店に入ってきたエルの、力のない目と、
あわてて抱きとめた体の重みを思いだした。
うめくように、小さくふるわせていた唇も。
ことん、と、ドアのところで音がした。アーサーはあわてて居ずまいをただした。きぃと蝶番がきしんで、扉がひらいた。
黒髪の、小柄な女。アーサーより2歳ばかり年上のはずだが、背は頭ひとつ小さい。
いや、こんなに小さかっただろうか?
寝間着用の寛衣にゆるく細帯をしめて、厚手の綿着をはおっている。今おきたばかりというような格好だが、ぼんやりとこちらを見上げてくる目つきは、寝起きというよりまだ夢の中にいるようだ。
「アーサー?」
かすれた声で。
何かいわなければ、と口を開いたが、言葉が出なかった。
「…入って」
くるりと、少しふらついたような足どりで、エルは身をひるがえしてアーサーを促した。
あとについて部屋に入った瞬間、つんと汗のにおいが鼻についた。
*
エルが、ルパード隊に参加した理由は、兄が参加していたからだという。
*
部屋の中は、思ったよりも散らかっていた。
しきっぱなしなのか、それとも今まで使っていたのか、部屋の半分は夜具がしめている。枕元には、膳がそのまま。
エルは、ぱたんぱたんと布団をたたみ、膳を小箪笥のうえに載せた。長持からクッションをふたつ出して、敷物のうえに並べる。
「飲み物は用意がなくて。」
申し訳なさそうに言う。アーサーはあわてて首をふった。クッションの上に向かいあって座る。ししばらく沈黙してから、
「……なにかあったの?」
「いや、別に、…」
また、短い沈黙。
「体調、良くないの?」と、ようやく言葉をしぼりだす。
エルは、うん、と小さく頷いて、
「少しね。風邪かな、……」言葉を濁す。
そう、とアーサーは頷いて、また少し間をおいた。
そして、ようやく、話そうと思っていたことを話す決心をして、口を開く。
「……夢見の巫女が、うちの店に来たよ」
「ルナ=サリナイが? どうして?」エルは目を大きくして聞き返した。ルナは有名人である。
「夢を見たんだってさ。……僕が、アルセア王になる夢を」
それをきいた瞬間、エルは顔色をかえた。
はっと息を飲む音がきこえた。アーサーが口を開く前に、エルは立ち上がって、くるりと戸棚のほうをむいた。
「やっぱり、お茶入れる。ちょっと待って」
かちゃかちゃと茶器をさがす音。
「朝から火を入れてないから、冷たいのしかないけど…」
そういえば、この部屋はひどく寒かった。部屋の隅に火鉢があるが、熱気はまるでない。
炭を切らしているのか。まさか、そこまで困窮しているはずもないが。
ことん、とアーサーの前に湯のみが置かれた。
「あなたのお父さんのことは、どのくらい知っているの?」
ふと、思いもかけないことを聞かれて、アーサーは戸惑った。
「少しは……物語歌にある程度には。あとは、祖父や知り合いから少し。」
アーサーは、父親の顔を知らない。
ランガ=ブルガナン──当時はブルガナン姓ではなかったが、かれは、ミナがアーサーを身ごもった直後にマヌルガへと旅立ち、戻らなかった。
出国したのちの彼の足跡は、『勇者ランガの物語歌』として語られている。ブルガナン大陸全土をまわって精霊王と会い、パンドル王の軍勢を従えて闇王国へと攻め入り、魔王を弑したと。
このことは、アルセア人なら誰もが知っている。
「私も同じくらい。けれども、この街で退魔師をやるものには、勇者ランガの名はなによりも重い。ミナの店に退魔師たちが集まってくるのも、それが理由なんだよ」
アーサーは頷いたが、どこか現実味のない話にしか思えなかった。
アーサーにとって、父は他人であり、母はただ母でしかなかった。
「エル、僕は、…」
「ブルガナンを名乗るのが怖い?」
エルの声はとても優しくおだやかだったが、アーサーは刃をつきつけられたように感じた。
「そうじゃない、でも……」
「でも?」
「僕は、……勇者とよばれるようないわれは何もない」
それは、アーサーの真情であった。
「父が、ブルガナンと呼ばれるようになったのは死後のことだし……魔王とさしちがえて死んだというのも、誰も見たものはいないんだ。……いや、そうだとしても、それは父で、僕じゃない」
「魔王を倒したものが、勇者の姓で呼ばれるのは昔からのならいよ。親の姓を子が継ぐのも、何もおかしなことはない」
エルはかすかに笑った。
「あなたの気持ちはわかるわ。あなたは、ただの退魔師見習い。勇者ではない。今は、まだ」
「今は、だって?」
「夢見の巫女が、あなたはアルセア王になると言ったのでしょう」
エルは、すっと居ずまいをただした。
アーサーの目をまっすぐにみつめて、しんのある声で、
「それは、アーサー、あなた自身の運命なんでしょう。巫女は、あなたの姓や血筋ではなく、あなた自身を見て霊感を得たのだから」
「でも……、」
「あなたが啓示を受けたと聞いても、誰も驚きはしないでしょう。勇者の子がやはり、と思うだけ。それを受け入れるかどうかはあなた次第だけれど」
エルは、そこまで言って、緊張をときほぐすようにふんわりと笑った。
「なんて、厳しいことを言いすぎたかな」
「……いや、」
アーサーの顔つきも、いつのまにか少し変わっていた。
「ありがとう。なんだか……」
「今日は少しゆっくりしていけるの? なにか、作ろうか」
たちあがろうとする気配を察したかのように、エルはそういった。アーサーは首をふった。
「役所へいくところなんだ。……こんどの狩りには、連れていってもらえるらしい。だから、免状をもらいに」
ただ、人手が足りずに呼ばれただけだが、それでも初めての狩りには違いなかった。
「よかったじゃない」
エルは手をうって喜んだが、なぜか声は沈んでいるように聞こえた。
「ありがとう。……エルも来るんだろう」
「そうね。体調がよくなれば。」
二人はどちらからともなく立ち上がった。かるく目配せをするように視線をあわせて、黙ってにっこりと笑う。相変わらずエルの顔色はよくなかったが、それでも笑っていた。
「それじゃ、」
アーサーが笑顔のままドアをしめて、いなくなってから、
エルは、ひそかにそこにうずくまって、嗚咽した。
*
とかげ鳥は、鳥と竜のあいのこだと言う者もいる。
実際には、むろんそんなことはない。アルセア王国に多く生息する魔獣の一種にすぎず、伝説上の竜とは何のかかわりもない。
ただ、その姿は、一般人が思い描く竜の姿に似ていなくもない。
二足歩行だが、鳥のように前傾姿勢をとって行動するため、頭の高さは人間とあまり変わりない。体そのものはかなり大きく、頭から尾の先までの長さは、成人の身長の倍くらいはある。
全身に羽毛が生えており、前肢には翼のように広がった羽があるが、飛行能力はない。そのかわり、走る速度は人間よりずっと速い。
武器は、鉤爪と牙。最も大きく強いのは後足の鉤爪だが、前肢の爪も十分に強力であり、革鎧くらいなら切り裂いてしまう。
素早く、攻撃力もあり、大型獣の例にもれずタフでもある。武装した戦士であっても、一人で殺すのは難しい。
さて──
ルパード隊に参加した103名は、およそ半日かけて、とかげ鳥の巣にたどり着いた。
事前の偵察で、だいたいの位置はわかっている。
アルセア市から、西のテベーへ向かう街道の南側に広がる草原地帯である。
とかげ鳥の巣は、ふつう、枝や枯れ草を固めた円形のマットであり、ひとつの巣に1~3頭のとかげ鳥が住んでいる。
この営巣地には、それが、何十個と並んでいるはずであった。
営巣地の南は、海へと続く平地である。東側には、少しだけ岩場があり、その奥は森林地帯。西側も、同じく林が広がっている。
今回は、北側から攻める。
街道と営巣地の間に、短い斜面があるからだ。崖というほど急ではなく、たいして高さもないが、身を隠すには十分であり、弓で射るにも有利になる。
風向きは、南から北へ微風。
先頭にたつルパード隊長と、数人の退魔師が、まず、崖の上から営巣地を見渡した。
事前に偵察をしたと言っても、近くから見たわけではない。東の岩場ちかくから、とかげ鳥の姿を確認し、営巣地らしきものをかすかに見ただけである。
とかげ鳥の数については、前回の生存者の証言から、およそ40から50匹であろうと推定されていた。
しかし──
いま、崖の下にいるとかげ鳥は、どうみても、その倍はいた。
ルパード隊長は、しばらく迷っていたらしい。
仮に、とかげ鳥の数が100頭だとするなら、こちらの退魔師の数とほぼ同じである。
しかし、ここで一度退却したとしても、もっと多くの戦士を集めるあてはどこにもなかった。
*
カルナーとエルは、隊列のかなり後方にいたが、退魔師たちのささやく声で、だいたいの状況は伝わってきていた。
「……まずいな、」と、カルナーはつぶやいた。
エルの耳もとに、さっと口を寄せて、ささやく。
「合図したら、全力で逃げよ。誰にも構うな」
エルは驚いてカルナーを見上げた。カルナーは厳しい顔をして、前方をじっと見据えていた。
白い魔法球が、すっと降りてきて、エルの首筋に触れた。
全身を、白いぼんやりした霧のようなものが包みこむ。対象を災いから守る『保護』の魔法である。
「なぜ、…?」
エルは声をひそめてきいた。カルナーは、やはり小さな声で、そっけなく答えた。
「誰かが生き延びねばならん、ということだ」
*
熟考のすえ、ルパードは仲間たちのほうをむいて、言った。
「作戦に変更はない。合図とともに攻撃を開始せよ」
そして、戦闘が始まった。
*
強弓が、やっと届くかどうかの距離であった。
当初の打ち合わせでは、数人がまず鏑矢を射ち、注意をひくことになっていた。
しかし、その段取りは守られなかった。ルパードの合図とともに、大勢の射手がいっせいに弓をひいた。前列のものは、流れ矢を避けてあわてて伏せなければならなかった。
第一射は、ほとんど命中しなかったようだ。それでも、とかげ鳥たちの注意をひくことはできた。
こちらへ向かってくる群れに対し、第二の矢がつがえられた。
魔法使いたちの出番は、魔法球が届く距離までひきつけてからのはずだった。しかし、幾人かの魔法使いと僧兵が、先走って攻撃魔法を放った。
その中に、はじけて閃光と轟音を放つ、白い魔法球があった。
*
何が起こったのか、すぐにはわからなかった。
閃光弾の魔法だ、と気づいたのは、全身の感覚を失った後だった。
轟音と強い光で感覚を麻痺させ、転倒させる、僧兵の魔法である。
昼間の屋外では、それほど強烈な効果はない。しかし、味方が密集しているところで、合図もなしに使うような魔法ではない。
経験の浅い者が先走ったか──。
詮索している場合ではなかった。
エルが正気をとりもどして立ち上がるまで、それほど時間はかからなかったはずだ。
しかし、そのわずかの間に、とかげ鳥は退魔師たちのなかに飛び込んできていた。
剣を構える。
目の前に、一頭のとかげ鳥がいた。
きぃぃ、とかん高い声をあげて、前足の鉤爪を振り上げる。
剣で受ける。
体重をかけてくる。雪ねずみほどではないが、とかげ鳥の体も人間よりはるかに重い。
押しあっている間に、とかげ鳥の口が、すぐ目の前にきていた。
喰われる──。
するどい牙をそなえた嘴状の口から、とがった舌がちろちろと出入りするのが見える。
おしまいだ、と思った瞬間、横あいから出てきた槍の穂先が、とかげ鳥の首を刺し貫いていた。
カルナーの槍であった。
「逃げよ、」と、カルナーは言った。
「嫌です」と、即座に返す。
その間にも、あらてが向かってくる。別のとかげ鳥の鉤爪を、鉄製の柄で受けながら、カルナーは再度言った。
「逃げよ。逃げて、この戦いの仔細を伝えよ。でなくば、また同じ過ちを繰り返すことになる」
「ここで負ければ、後はありませぬ」
いいながら、エルは、カルナーと戦っているとかげ鳥の懐にとびこんだ。鉤爪が脇をかすめるが、気に留めない。保護の魔法があっても当たるようなら、それまでだ。
腹に突きを撃ち込む。同時に、カルナーが鉤爪を押し返している。
倒した。
いける、と思った。いつのまにか、まわりに他の退魔師の姿は見えなくなっていたが、カルナーと二人でいくらでも戦えるような気がした。
目の前に、3頭のとかげ鳥が立っていた。
そのなかの、ひときわ大きい1頭が、なにかをくわえていた。
がり、と硬いものを砕く音がして、口許から血がしたたり落ちた。
口のなかにあったのは、ちぎれた退魔師の死体。
ぽろりと、首のところで咬み切られて、頭が落ちてくる。
それは、ジャスの生首であった。
膝がくだけるような気がした。
「逃げて、フォスターに伝えよ」
かさねて、カルナーは言った。
頭上にあったもう一つの魔法球が、はじけてカルナーの体に溶け込んだ。目が赤く光り、腕の筋肉が大きくふくれあがった。
恐怖心をなくして戦闘能力を高める、狂戦士の魔法であった。
その意味するところを悟って、エルはついに戦意を喪った。
きびすをかえし、一目散に駆け出した。しばらくして一度だけ振り返ったが、すぐにそのことを後悔した。
カルナーは、5頭のとかげ鳥に八つ裂きにされ、内臓を喰われていた。
*
2頭のとかげ鳥が追ってきていた。
無我夢中で森の中に駆け込み、戦った。1頭を斬り伏せ、もう1頭に手傷を負わせて追い払った。
鉤爪を腹に受け、重傷を負ったが、なんとか街まで辿り着いた。
保護の魔法がなければ、何度も致命傷を受けていたはずだ。
*
その日以来、エルはずっと体調を崩して、アパートにこもっている。
*
さて──
エルの家を訪れたあと、アーサーはシルマ通りをとおりかかった。
表通りから少し奥へ入った道で、単身者や生活に余裕のない家族者が住む長屋があるところである。
ふと、視界のすみに知った顔が映ったような気がした。
足を止めて、ちらりと見る。
ルナ=サリナイだ。
長屋の一室、玄関の前に、昨日と同じワンピース姿で立っている。
その前に、若い男がいた。
なんとなく気弱そうな、二十代前半くらいの黒髪の男である。両手に、なにか籠のようなものを抱えている。
なにか問答をしているようだ。男が、手に持っているものを、ルナに渡そうとしているようにも見える。
ルナは、それを受け取らぬまま、かすかに笑みを浮かべて戸を開けた。
そのまま、二人で部屋に入っていく。
(関係のないことだ)
アーサーは、そう自分に言い聞かせて、また歩きだした。
なぜか、疼くような苛立ちが胸に生まれていた。
*
10日後──
*
明け方。
ルナは、山歩き用のブーツを履き、靴紐をきつくしめた。
杖をかるく振ってみる。
布鎧、と称するものは、要は全身を覆うつなぎのような服である。全体に厚手で、関節部は緩めにつくってあるが、それ以外の部分はきゅっと締めてある。首筋と胸、腹部、脛は、きつく絞った綿でさらに厚手にしてある。
夏はつらそうだな、と思う。
玄関を出てドアを閉め、鍵をしてから体のむきをかえ、一度立ち止まって息をつく。
腰にさした短剣をたしかめる。
背負い袋の紐を直す。
足踏みを一度して、ブーツの感触を確かめてから、ルナは歩き出した。
*
ミナの薬草店の裏には、退魔師たちが鍛錬に使う空き地がある。
以前は、早朝でも退魔師やその見習いたちで賑わっていたが、今はエルしかいない。
昨日研ぎ師から受け取ったばかりの長剣を、かるく振ってみる。
20日ちかくも預けっぱなしにしていたせいか、前よりも重く感じる。
構える。
攻めの型と、守りの型。
2度ずつおさらいして、鞘におさめる。
汗がにじんでいる。
手足はちゃんと動く。だが、体幹が微妙にずれているような気がする。
弓をとる。
こちらも、ずいぶんと久しぶりだ。
張ったばかりの弦をぴぃんとはじき、矢をつがえる。
構える。
狙う──
カルナーに教わったとおり、親指と人差指でつくる輪を、最小の的としてイメージする。
本当に射つわけではない。ただ、狙うだけだ。
的が、ぶれた。
たっぷりふた呼吸の間、そのままこらえて、そっと弓をさげる。
狙えない。いや、集中できないだけだ。
矢を筒にしまう。
呼吸がずれている。
手がひどく汗ばんでいた。
「エル!」
アーサーが呼びにきたようだ。
「そろそろ出発するよ、……、」
目があった瞬間、アーサーはぎょっとしたような顔をした。
初陣で、緊張しているだけではないような──
「うん、……わかった」
笑って、返事をする。
笑って。いた、はずだ。
*
同じく退魔師を生業としてはいたが、兄とは疎遠であった。
だから、今にして思い出すのは、幼いころのことばかりだ。
*
早朝から歩き続けて、そろそろ正午になる。
ここらの木々には、退魔師たちがつけた目印がびっしりと刻まれている。フォスターも、あちこちに符牒を刻みながら歩いている。
かなりゆっくりしたペースだが、ルナ=サリナイは息を乱していた。もっとも、山歩きとは無縁の巫女であることを思えば、十分よくやっていた。
フォスターは、たびたび立ち止まって、地面を調べていた。足跡や、獣の糞を探しているのだ。
もっとも、こんな街の近くに魔獣はいない。普通は、もっと森の奥へ入ってから、待ち伏せするポイントを探すものだ。
あんなに時間をかけて、フォスターは何を調べているのか?
*
ルパードのことはあまり好きではなかった。口数が多く、うさんくさい男だと思っていた。
兄はひどく称揚していたが。
*
退魔師たちに踏み固められてできた空き地で車座になり、昼食をとった。
携帯食料は、ミナの薬草店で調達している。焼き固められた味付け餅、芋と、干した果物、少しの燻製肉。
あまり味はしなかった。もっとも、ここしばらく、食べ物をうまいと思ったことはない。
*
日が暮れるまで歩いて、野営にした。
結局、今日1日で、通常の3分の1ほどしか歩いていない。
それでも、ここまで来れば十分、魔獣の生息地域に入っている。
木々のあいだの、ほんの少し広くなった窪地のようなところを、野営地とした。
アーサーが、火打ち石で種火をおこす。枝のあいだに防水布をはり、風よけにする。天幕を持ってきていないので、火のまわりで毛布にくるまって寝ることになる。
今回は、二人ずつ、交代で見張りにたつ。睡眠時間を確保するため、食事は見張りのときに交代でとることにした。
順番は、フォスターが決めた。
*
「フォスター、」
思いきって、アーサーは口をひらいた。
「エルのことだけど、──」
「言うな。」
フォスターはぴしゃりと遮った。
「自分で解決するしかない。そういうものだろう」
*
兄が死ぬ夢を見た。
幾頭ものとかげ鳥に、爪で切り裂かれ、ついばまれる夢だ。
実際には、そんな場面は見ていない。
エルは、カルナーにずっとついていたし、兄はルパード隊長のそばにいたはずだ。
だが、同じようなことはきっと起こったのだろう。
*
アーサーに起こされ、見張りを交代した。
見張り番といっても、火を絶やさぬようにしながら、起きて座っているだけだ。
近くに獣の気配はない。
枯れ枝のぱちぱちいう音と、かすかな風で枝葉がゆれる音が響く。
「……ちょっと考えていたんだけど、」
アーサーが、ためらいがちに口を開いた。
「このまま、とかげ鳥の群れを退治できなかったら、どうなるのかな」
「…そうだね、」
考えたくないことだが、アーサーの不安もわかる。
「テベーとの連絡が絶たれたら…」
「陸路では、あの街道を使わないとどこへも行けないからね。テベーどころか、その先のカボタへも、フルールへも」
「……それじゃ、」
「海路があるから、すぐ日干しになるわけじゃないけど、相当苦しいことにはなるね。それ以上は、なんとも言えないな」
微笑んで、アーサーの肩を抱いてやる。
今度は、うまくいったと思った。
「心配しないで。……カルリア侯爵が、騎士団の出動を要請してみると言っていたよ。いつまでもこのままってことはない。」
普通の声音で、そう言ったつもりだ。
いや、少し、ほんの少しだけ震えていたかもしれない。
アーサーは、なぜか悲しそうな目でこちらを見返してきた。
「エル。……きみは、」
「シッ!」
黙らせる。
獣の気配だ。
「…二人を起こしてきて。いいね?」
アーサーは無言で肯く。
エルは、剣の柄に手をかけて、すこし離れた斜面の上に目を向けた。
大きな白い影。
雪ねずみだ。
*
雪ねずみが、こちらを狙っている。
本来なら、すぐに散らなければならない。雪ねずみの注意をそらして、少しでも有利な位置取りをするべきだ。
だが、フォスターは、その場を動かなかった。
「アーサー、エル、弓を用意しろ。ルナは下がれ」
短く、命じる。
アーサーはまだしも、雪ねずみ相手にたちまわるのはルナには無理だ。
フォスターは、ルナから5歩ほど離れて守るように立ち、がさごそと音がする斜面の上にむかって槍をむけた。
エルは弓に手をかけ、斜面のうえに神経を集中する。
ぞわりと、ざらついた舌のような気配が背筋を這う。
枝をかきわける音と、白い影が見えるだけだが、雪ねずみの動きははっきりとわかった。
こちらをちらちらと見ながら、木を登ろうとしている。
雪ねずみは器用に木に登る。大きな体をやわらかく伸ばして、体重を分散させるのだ。
たぶん、今、幹に前足をかけたあたりだ。
「まだだ、」フォスターの声。
狙い、即座に射る、その手順をイメージする。そのやり方も、カルナーから習った。
「構えろ、」
弓を向ける。
とたんに、視界がぶれる。
そんなに調子を崩しているのか? 私は。
「射れ!」
フォスターの声と同時に、アーサーがさっと弓をひくのが見えた。
出遅れた、と思う前に、手が勝手に動いている。雪ねずみの額を見すえ、狙い、弓を引き絞る。
そこまでは、すぐにできた。
また、的がぶれる。
ひと呼吸おく。
焦点があわない。視界がゆれる。
いや、
ゆれているのは、私の体だ。
胸の奥──心の臓。
覚悟が決まっていないだけのことだ。
舌をかむ。
ひゅん、とアーサーの矢が宙をかけてゆく。
少年らしい、迷いのない矢だ。
当たった様子はない。
狙いをつけ直そう。
そう思った瞬間、指がゆるんでいた。
矢が逃げてゆく。
尾羽根をはためかせて、闇のなか、一直線に──
かぁん、と鏃が幹につきささる音がした。
「来るぞ、」
かすかに緊張のにじむ声で、フォスターが言った。
ルナは、アーサーにかばわれて雪ねずみの射線からはずれている。
エルは、剣の柄に手をかけた。そのまま抜こうとしたが、なぜか手が動かなかった。
雪ねずみは、幹から前足をはなして、空中でくるんと丸くなった。
ずぅん、と地響きの音がして、大きな白い影が着地するのが見える。
一瞬だけ、両脚を動かして地面を蹴っている。
そのまま、勢いにまかせてゆるい坂を転がり落ちる。
フォスターは、石突を地面にかるく突き立て、斜めに槍を立てた。
脇をしめ、両手で槍を保持し、正面から魔獣を睨みつける。
衝突まで、あと、一呼吸ほど。
エルはまだ動けなかった。
まっすぐ、すさまじい勢いで、白い巨体が転がってくる。
きっかり三度。雪ねずみの赤い目がこちらを見たのを、フォスターははっきりと感じた。
激突!
槍の穂先が、雪ねずみの厚い毛皮を切り裂いて突き刺さる。同時に、すさまじい重圧がフォスターの腕にかかる。
コケラエダの柄がたわむ。
ぴしりぴしりと、柄に細かいひびが入り、かすかな振動が腕をたたく。
血管がはじけそうになる。
*
割ってはいるなら今だ。
エルは、そう自分に言い聞かせたが、足は動かなかった。
*
フォスターは腰を落とした。
ぐっと、足に力をこめて、腕を伸ばす。
地面を蹴る!
てこのように突っ張った槍をそのままにして、横っ飛びに体を逃がす。
大きな音がして、槍の柄が折れる。
地響き。
雪ねずみは、そのまま転がって、窪地の反対側にある木にぶつかった。
幹にひびがはいる。雪ねずみは動きをとめる。
間髪入れず、フォスターは小剣を抜き、雪ねずみのうなじに突き刺した。
血がしぶく。
かん高い鳴き声をあげながら、雪ねずみはゆっくりと向きをかえた。
右肩のあたりに、槍の穂先が刺さったままだ。
フォスターの手には、もう武器はない。
ちらりと、ルナとアーサーのほうを見てから、フォスターは腰を落として構えた。
組み打ちするつもりか。
全身が総毛立った。
考える前に、体が勝手に動いていた。
地面をける。
ひととびで、フォスターの前にとびこむ。
目の前に、雪ねずみの顔があった。
獣臭い息が、じかに鼻の奥に入りこんでくる。呼吸をこらえて、剣の柄に手をかける。
*
あのとき残っていれば、カルナーは生き延びていただろうか?
もちろん、そんなわけはない。
それでも、もしかしたらと思う。
*
ひどい頭痛がした。
剣が抜けない。焦っているせいか。
足がもつれる。
にぶい衝撃。
とつぜん、目の前が暗くなったような気がした。
「エル!」
誰かが叫んでいる。アーサーだろうか。それとも、兄?
気がつくと、うつぶせに倒れていた。
どろりと、血の塊が顔にかかる。雪ねずみの血かと思ったが、そうではないようだった。
必死に首を動かして、見上げる。
雪ねずみが、大きく口を開けて、こちらを見下ろしてきていた。
ふしぎと、嫌悪感はなかった。
*
魔獣という言葉は、市井ではさまざまに使われるが、退魔師が使う場合には、ただ単に「人を食い殺す獣」というほどの意味である。
*
「エル!」
アーサーは思わず叫んだ。
雪ねずみが大きく上半身をおこして、前肢を動かした。
と、見えた次の瞬間、エルの額から大きく血がしぶいて倒れ込む。
雪ねずみは、エルの体のうえに覆いかぶさるように身を沈めた。
エルを喰おうとしているのだ。
アーサーは無我夢中で飛びだした。雪ねずみの腰のあたりに、思いきり剣を突きたてる。
思いのほか硬かった。
全体重をかけて押し込むが、殺せる気がしない。
大きすぎる。
ずぶりと、生々しい音がして、雪ねずみの背中から刃が飛び出してきた。
エルの剣のようだ。
魔獣はついに息の根が止まったらしく、くずおれるように横に転がった。
エルは、その足元に倒れていた。
とどめをさしたのは、フォスターであった。エルの剣を抜き取り、雪ねずみの胸を突いたのだ。
フォスターは、息を荒くして、ルナに命じた。
「治癒の魔法を。すぐにだ」
*
魔獣を狩ったあとは、すぐに血抜きをする。地面の傾斜に沿って仰向けに寝かせ、首の動脈を切断するのだ。
毛皮は、すでにかなり汚れてしまっているが、それでも、できるだけ血をかぶらないように気をつかう。
幸い、死ぬまでにずいぶん出血していたので、あまり血は出なかった。
それから、喉元から股間まで、ナイフで一直線に刃を入れる。
白い肉が、一気に露出する。
その線にそって、二人がかりで皮をはいでいく。
アーサーにとっては、はじめての作業である。フォスターの指示をうけながら、ていねいに刃を入れる。
うまくいかない。
刃の向きが悪いのか、皮と肉の間にうまく入らず、何度もひっかかってしまう。
「角度をつけろ」
言われて、刃を斜めにする。
入らない。
フォスターのほうを見る。さして力を入れているようでもないが、なめらかに刃が動いている。
しばらく、悪戦苦闘する。
手がかじかんで動かなくなるころ、ようやく、腹の皮が剥げた。
「よし、」
フォスターが、こちらを見て頷く。
ほっと安心して、顔をあげる。
そこに、エルの姿はなかった。
*
焚き火から少し離れると、もう足元も見えない。
さきほどまで月が出ていたはずだが。
エルは、よろよろと足を進めた。
気分が悪い。
つきあたった木の根本にうずくまって、嗚咽する。
解体作業など、珍しくもない。自分でやったことだって、何度もある。
血のにおいには慣れている。
だが……、
急に、胃の中のものが暴れだした。
こらえるいとまもなく、勝手に喉から逆流してくる。
地面に落ちる。
すえた匂い。
体の自由がきかない。
くそ。
じんわりと痺れたような嫌な感覚が、全身を這い回っている。
脂汗がひどい。
「大丈夫。治癒魔法の後遺症が出ているだけですよ」
ふいに、背後から女の声。
血の気がひく。
いくら暗闇だって、普通なら、足音か気配に気づいたはずだ。
私は、そんなに鈍っているのか?
「ルナ、……」
何も、言葉が出てこない。
ぐっと、手の先に布のようなものが押しつけられた。
「使って下さい。」
手巾であった。
*
「……なぜ、退魔師に?」
くらやみのなか、ぼんやりと座り込んだまま、エルは、巫女に問いかけた。
べつに、知りたいわけではない。
ただ、何か喋ろうと思っただけだ。
「夢を見たからです」
端的に返ってくる。
闇が深すぎて、距離がつかめない。すぐ隣にいるような気もするし、十歩ほども離れているような気もする。
「夢って、」
「かれが、──アーサー=ブルガナンが、アルセア王となる夢を。」
「そう、……」
それで、終わるはずだった。
だが、
次の言葉が、口をついて出てしまった。
「……それで、なぜ退魔師に?」
「それは、」
「アーサーを王にしたいのなら、それなりの方法があるでしょう。」
考えがあっての言葉ではなかった。
が、巫女は、
「そうですね、」
と、つぶやくように言って、
「それでも、この街で退魔師をすることには、意味があると思います」
「なぜ?」
「……でなければ、誰がとかげ鳥を倒すのです?」
いつのまにか、ルナの声は冷え冷えとして、するどい刃で刺すように触れてきていた。
闇のなか、姿は見えない。だが、嗤っているようだった。いや、エルには、そのように思われた。
「そんなこと、……」
あんたの知ったことか、と言ったつもりだったが、途中で消えていた。
ぞわり、と闇が動いた。
すっくと、立ち上がるような気配がして、まっすぐにこちらに向けた視線が刺さる。
顔はまだ見えない。
いや、
ぼんやりと、にじむように浮かびあがってくる、その姿は。
血に、まみれて。
(まさか──、)
眼窩から、こぼれ落ちんとする眼球が、こちらを見ていた。
「やめろッ!」
「……どうか、しましたか?」
巫女の声がする。
いいしれぬ悪寒が首筋を這う。
死霊術。
ききかじった単語が頭をかすめる。
呼吸を整えようとする、が、肺がいうことをきかない。
立ち上がる。
「エル=サラナ、あなたは、」
ろうろうと、呪文を唱えるように、巫女の声が響く。
死者の幻は、いつのまにか消えていた。
「とかげ鳥を倒すのは、誰であるべきだと?」
誰、だと。
「どういう意味、」
問い返したのは、理解できなかったからではない。
理解したくなかったから。いや、
理解するのが怖かったからだ。
「この街で、退魔師を名乗るならば、──」
「勝手なことを!」
振り払うように大声で叫ぶ。
思わず、剣に手をかける。
「何も知らぬくせに……!」
声がかすれる。
「思い出して下さい、エル=サラナ。あの日のことを。」
なぜ、そんなことをいうのか。
私は、
いや、我々アルセアの退魔師たちは、あの日、とかげ鳥に負けた。
それだけのことではないか!
「幾人の退魔師が犠牲になったか。あなたの腹に傷を負わせ、息も絶え絶えにしたのは誰か」
なぜ、そんなことを知っている?
アーサーか、フォスターに聞いたのか。
どうでもいいことだが、無性に腹がたった。
「……あなたの師を殺したのは?」
そして、その決定的な一言を聞いたとき、
エルは、全身の血が逆流するのを感じた。
悪寒は消えていた。
すっと、自然な動きでかまえ、右手で剣を抜き放った。ほとんど無意識のうちに。
「それ以上言ったら、殺してやる。」
我ながら驚くほど、落ち着いていた。
死者の幻はもう見えなかったが、別の確信があった。
目の前にいるこの女は、人ではない。
鬼だ。
「殺しなさい。…それが、あなたが信じる道であるならば。」
女は、ぴくりとも動いた気配をみせなかった。
ジャスの生首が。
「あなたに、退魔師の誇りがあるならば、」
ついばまれるカルナーの屍体が、
「死した同胞を、魔獣にふさがれた街道を、そのままにできましょうか。」
そして、肉を切り裂く、とかげ鳥の牙と鉤爪が、夜に浮かんで、消えた。
「あかしだてをなさい。サラナ通りのエル。あなたが、まだ戦士であるのだと。」
エルは小さく呻いた。涙は出なかった。
気配だけを頼りに、二歩、踏み出す。
巫女はまだ動かない。
やはり、本当に鬼か、気狂いか。
剣を構える。
ぽん、と、胸を叩くような音がした。合図のように。
「いやあぁぁぁッ!」
無我夢中で、エルは体ごと剣を突きだした。何かに当たる。硬いものに刺さったようだ。
さあっと、風が吹いた。
月を隠していた雲が大きく動き、強い光がさしこんだ。エルは呪いが解けたように全身が軽くなるのを感じた。
剣のきっさきは木の幹に刺さっていた。
そして、その刃は、巫女の脇腹を裂き、地面に血溜まりをつくっていた。
鬼などいなかった。
「ルナ、……」
どうしていいかわからずに、エルはそうつぶやいた。
巫女は、うすい笑みを浮かべたまま、柄を握るエルの手にそっと自分の手をそえた。
「よくぞ、臆さず剣を振るわれました」
騎士の武勲を褒め称える貴婦人のように、
しずかに、力強く。
「退魔師とは、魔を祓うもの。あなたが、これからも退魔師を名乗るのなら──」
「……わかってる。」
かるく目を伏せて、エルは答えた。
本当は、ずっと分かっていたのだ。
*
解体をおおむね終えたころ、ようやく、エルが戻ってきた。
アーサーは声をかけようとしたが、できなかった。なんともいえない違和感があった。
「フォスター」
すこし高ぶった、硬い声で、エルはいった。
「話がある、」
フォスターは、かわらず落ち着いた表情で、肉を包んだ袋をアーサーに渡し、手を拭いた。
「聞こう」
エルは、しばらく目線をさまよわせて、
やがて、すっと息をはいて、言った。
「とかげ鳥を、狩るべきだ。」
そして、口からでた言葉を追いかけるように、もう一度、今度は早口で、
「退魔師の、私たちアルセアの退魔師たちの誇りを、取り戻すんだ。フォスター」
そう、まっすぐにフォスターの目をみて、言った。
復讐を、とは言わなかった。それは、彼女の矜持だった。
「わかった、」
フォスターは、にやりと──本当に、似合わぬほどのはっきりした笑みを浮かべて、応えた。
「ならば、そうしよう」
待ちかねていた、とでもいうように。
*
ずいぶん遅いな、とアーサーが思いはじめたころ、木のかげでがさごそと音がした。
「……ルナ?」
声をかけると、もごもごと小さな返事が返ってきた。
目をこらして見る。白い肌が目に入り、あわてて目をそらす。
「何してるんだ!」
「……少し、汚れてしまったので」
アーサーは眉をひそめた。汚れてしまった、だって? こっちは血まみれで獣を解体したっていうのに!
しばらくして、着替えおわったルナがこちらへやって来た。ひどく、疲れた顔をしていた。
ひとこと言ってやろうと思っていたが、なんとなく口を開けなかった。
「……治癒魔法を受けた奴は、寝ちまえ。見張りは俺たちがやる」
フォスターがそう言うと、エルと、なぜかルナも頷いて、はい、と返事をした。
いつのまにか、ルナの頭上の魔法球は、2つに減っていた。
*
しらじらと、夜が明けはじめていた。
フォスターは、ちらりと横を見た。見張りをしていたはずのアーサーは、座ったまま寝息をたてている。
懐から一枚の布紙を取り出して、かるく息をつく。
それは、とかげ鳥の営巣地の地図。
かれが、カルナーから受け継いだ、たったひとつの遺産であった。




