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単発短編

振られ男のバラード

作者: 茅野 遼

月に一回、短編投稿をチャレンジ中です。 またも中篇ほどの長さに成ってしまいました。 宜しくお付き合いの程を……。

      ※     ※     ※


 太陽が、人間の雑多な生活を生き生きと映し出す時間が、月の支配する静けさに包まれる時間よりも、三時間近く長い季節だ。 学生の長期休みにはまだ届かず、社会人の夏休みまでは、まだ一ヶ月もある七月。 漸く最近、梅雨も明けたばかりだった。


 そんな季節の、ある休日、午前八時を回る頃。


 男は女の部屋で、家庭的な献立の並んだテーブル上を嬉しげに眺めていた。

 すっきりと整えられた、賃貸マンションの一部屋。 1LDKの明るい部屋だ。 都心とは言えないまでも、それなりに生活しやすい町にあるこの部屋は、月々、九万八千円という家賃に見合った安心感と安定感を住人に与えてくれる。 良い物件と言える部屋だろう。 彼女が、この部屋へ越してきてから、まだ半年ほどだ。

 このマンションを管理する不動産会社で賃貸契約書を交わすまで、男は彼女のために、いったい幾つの不動産会社を回ったのか。 両手の指の数では間に合わない。 両足の指の数まで足したほどの数は回っただろうか。


「朝飯は、女に作ってもらってこそ、美味そうに見えるもんだ」

 そう言って頬を綻ばせた男は、まだ鬚もあたっておらず、昨夜ベッドへ入った時のまま、女が用意してくれた、若者が身に着けるようなデザインの、スウェットの上下を着ている。

「なぁに? 美味そうに見えるって。 美味い、で止めておいてよね」

 ざっと後ろに纏めただけの、少しウェーブのかかった髪。 男と色違いのスウェットの上下を身に着けている女が、小さく笑いながら言った。 切れ長の涼しげな両目を可笑しそうに細め、下唇の方が上唇よりも少し厚い色気ある口元が、幸せそうな曲線を作る。

「家庭の味が、恋しいんでしょ? ……ね、毎日、作ってあげようか? あなたの家で」

「そりゃ、嬉しい事だ。 いいのか? 本当に」

「良いよ。 随分、年上の旦那になっちゃうけど。 奥さんは居ないんだものね、問題ないじゃない?」

そう言い出した女の言葉に、ニヤリとしてしまう。

 それならば、言って置かなければならない事情を、男は持っていた。 遅かれ早かれ、分かる事だ。 決心をして、それでも成るべく重い言葉にならないように、言ってみる事にした。

「奥さんは居ないが、デカいガキがいる」

「……え?」

「稔といって、高校二年の息子だ」

「冗談でしょ? 独身だって、言っていたじゃない」

「奥さんは、稔の小さな頃に死んじまった。 だから、独身だ。 嘘は言っていない」


 彼と付き合い始めて、まだ一年は経っていない。 それでも二人の間には、確かに信頼関係が生まれていた。 一緒に居る時の安心感を、この住み心地のよいマンションの一室と、同じ程度には感じていた。 いいや、彼が足繁く通ってきてくれる事で、二つの異なる安心は、相乗効果をなしていた。 そう感じられるほどの関係が、二人の間には出来上がっていた。


 男からの告白を聞き、女の思考はピタリと止まってしまった。 立ち仕事をしている時、突然、貧血に襲われた時に感じる様な、妙に足元が危うい様な、奇妙な浮遊感。

 今、男に対して言うべき言葉が、直ぐには見付からない。 それでも何とか気を落ち着けようと努力をし、言葉を繋ぐ。


「……ちょっと、それって、どういう事?」

 もっと分かるように、説明をして欲しい。

「俺は、二度目の結婚になる。 俺の奥さんに成って貰う女には、同時に高校二年のクソガキの母親になって貰わなきゃ成らない、そう言うことだ」

 女は、男の告白の意味を、漸く理解した。 言葉として何とか纏まってくれた疑問が、女の口から出始める。 

「騙していたの? 結婚しようって、そう言うことだったの?」

「騙していたつもりは無いが、言っていなかった」


 言ってしまえば、こう言う関係の女を作ることさえ難しいのは、過去の経験上で分かっていた。 今までにも何人かの女性に、プロポーズをして来ている。 その度に壁となるのが、十四年前に帰らぬ人となった妻の、忘れ形見の存在だった。

 今、目の前にいる、今年で二十八歳になる女性と所帯を持とうと決めたのは、歳の割に度胸のある性格に、亡き妻の面影を重ね見て、その部分に惚れ込んだからだ。 丁度、今の彼女の年齢は、妻の亡くなった時の年と同じだった。 


「……サイテー」

 暫らくの沈黙の後、漸く聞こえてきた女の呟きに、男の表情が変わってしまう。

「薫……、」 言いかけた言葉を、薫の声が打ち消した。

「出て行って……! そんな酷い事、よくも簡単に言えたものよね。 早く、出て行って!」

言葉と一緒に早足でバスルームへと向かい、男の私服を、脱水の終った洗濯機の中から引っ張り出した。


 彼の言葉に答えるかどうか、何日も真剣に考えていた。 歳は干支の一回り以上も違うけれど、その歳の差を乗り越える事も出来るだろうと思えた。 それ位愛していた筈なのに……。 

「こんな物……」 さっきまで、自分の下着と一緒になって、洗濯機の中で渦を巻いていた。 その事実が許せない。


「薫!」

 追い掛けて来た男に、濡れたままの衣服を押し付けて、玄関へと押し出していく。

「何にも聞きたくない! 人のこと馬鹿にして、からかって! 何よ! もう二度と、家に来ないで!」

「ちょっと待て、薫、俺が結婚しようと言ったのは……」

 何も騙そうと思った訳でも、からかった訳でもなく、本心からなんだ……、と、続け様としたのだが……。

 男の目の前で、女の部屋への扉は、高い音を立てて閉じられてしまった。

 濡れた衣類が、男の周りに散らばっていた。



 暫らく男は立ち尽くしていた。 一瞬、扉が開いた。

「薫!」 呼びかけに答える代わりに、薫は男の財布と免許証、百円ライターの押し込まれた、軽くひしゃげた煙草の箱を、いっぺんに投げつけた。

 再び、男の目の前の扉は、硬く閉じられてしまった。



      ※     ※     ※



 同じ休日、昼下がりの街中。 人通りは多く、自分の居場所さえ良く判らなくなってしまいそうな、そんな様相の中で。


 ある十代のカップルは、それまで仲良く手を繋いで歩いていた。 彼女の趣味に合った店先のウインドーを眺め、次の彼女の誕生日には、何を買ってあげたら飛び切りの笑顔を見せてくれるのか? 考えながら、彼女のはしゃぐ様子に笑顔を見せていた。

 ……けれど、ほんの一瞬、彼の気が逸れてしまった。

 夏らしく暑くなってきた気候に合わせて、街中を歩く少女達の服装は、刺激的な様子だ。 ある程度、歳を重ねた女性からは、『はしたない』と表現されるに相応しいだけの露出度と、綺麗に焼けた小麦色の肌。 それは、まだ十七歳という、若い彼の視線を逸らさせるだけの魅力を、充分に持っていた。


 その時の、彼の気持ちを言葉に表すのならば。

『って、またかよ? ……何時ものパターンだ』 諦めと、これから起こると思われる出来事に、瞬間的に覚悟が決まってしまった。 慣れ、と言うヤツである。

 彼女の右手が、大きく上へと振り上げられた。 チラリと、その腕の先を視界に入れて、(みのる)は思う。

『なにぃ? グーかよ!』 思うよりも早く、その腕は唸りを上げて振り下ろされた。

 彼女のグーに握られた拳は、彼の左頬に見事なクリーンヒット!

「あんたって、サイテー!」

そう叫んで、彼女はくるりと踵を返して立ち去って行く。

「何だよ、ちょっと別の女、見ただけじゃネーか!」

 彼の小さな叫びは虚しく、街角の雑踏の中に吸い込まれてしまった。



      ※     ※     ※



 河野 稔は、親子二人きりで、2DKの安アパートに暮らしている。 稔は彼女に振られた後、街中で憂さ晴らしをして、夕方になってから帰宅した。

 玄関から直ぐのダイニングキッチンは四畳半。 六畳の和室と洋室が、隣り合わせで部屋へと続くドアを並べている。 ダイニングの奥には浴室とトイレが据えられ、親子二人が暮らすには丁度の間取りだ。 ただし、大の男が、ゆったりと湯に浸かるには狭すぎる浴槽が、一つの悩みどころと言えるかもしれない。

 年頃の息子に合わせて、稔が十五歳の高校受験勉強に忙しかった時期に越してきて、そろそろ二年を数える。


 夜というにはまだ早過ぎるこんな時間から、ダイニングキッチンで酒を飲んでいる不機嫌な父親が、玄関を入った途端、稔の目に入る。

「何だよ、親父。 ンな時間から酒、飲んでんなよな」

言いながら、靴を蹴飛ばすように脱ぎ捨て、キッチンへと進む。 稔も少し不機嫌なのは変わらない。

「うるさい。 俺の稼いだ金で飲んでいるんだ。 お前に言われる事はねぇ」

「そーかよ……」

 鼻から息を吐き出すような短い溜息が、稔と父親、二人から同時に漏れる。

「なんだ。 お前も、面白くない事でもあったのか?」

「何時もの事だ。 ……くそ、まだズキズキするぜ」

 目の前を通って冷蔵庫へ向かう稔の左頬が、父親の目にも見えた。

「また、随分と顔の造作が変わったもんだ」

父親のからかう様な口調に、稔は無事な右頬を膨らませて、仏頂面を見せた。

「うるせー。 親父はどうしたんだよ? また振られて来たのか?」

「親子ってのは、トコトン似てきちまうモンらしいな」

 父親の言葉に「け、」と短く返して、稔は冷蔵庫を開ける。 中から父親の缶ビールを勝手に取り出して、悪びれもしないでプルトップを引き上げた。 

 ゴクリと喉を鳴らして、一気に半分を喉へと流し込む。

「お前は未成年の分際で、当然な顔をして何を飲んでいるんだ?」

「今更。 親父が俺にビール飲ませたんじゃネーか。 高校入って直ぐ」

「そんな事もあったな。 ありゃ、六人目のお前の母親候補に振られた時だ」

「今日は、何人目の候補に振られて来たんだよ?」

稔は言いながら、父親とテーブルを挟んで向かい合わせの椅子を、ガタリと音を立てて乱暴に引いた。 腰をドカリと下ろして、テーブルに片頬杖を着く。

「今日は、七人目の候補に振られて来た」

「今回の相手は、随分と長持ちだったじゃねーか」

 嫌味のつもりで言い捨てた。 稔が酒を教えられてから、一年以上は過ぎている。 どうせこの父親は、あの後、直ぐに次の女を見つけていたに違いない。

「おお、今までで一番長く、大事にしてきていた。 やっぱり、お前が邪魔だったな」

「勝手にこの世に生み出しといて、邪魔とは、良くも言えるもんだよな」

返ってきた父親の言葉に、益々、不機嫌な顔を見せて、稔は缶ビールの続きに口を付けた。

「お前がいなけりゃ、二十八歳のイイ女が、俺と結婚する気になってくれていたんだ」

「初めから言っておけよな。 ワタクシには十七歳の息子が居る、コブ付き中年でゴザイマス、って」

「そんなことを言えば、女が相手にしてくれないだろうが」

「勝手な親父だぜ」

「ここまで男手一つでお前を育てた親父に向かって、勝手とは良く言うモンだ」

また稔の口から、「け」 と言う短い声が漏れた。


 大体が、昨夜もこの親父は帰宅しなかった。 高校二年の一人息子を置いて、自分は女の部屋で宜しくやっていたのだろう。 成人と変わらない身体を持ち、心は少年の部分をまだまだ残している微妙なお年頃の一人息子が、ここら辺で生きて行く筋を曲げていたって可笑しくは無いのだ。 その割には、清く正しく生きて来られているかも知れない。


 けれど、河野親子にとっては、これが何時も通りの光景だ。 一人息子の稔は、男手一つで育て上げられた故になのか、放蕩親父の血を濃く引き継いだからなのか、余り上品な育ち方はして来なかった

 父親はトラックを運転して、親子二人の生活費と息子の教育費を稼ぎ出してきている。 そしてその父親も、若い頃から上品な育ち方はして来ていない。


「全く、上手く行かねぇ世の中だな」

「親父が振られるのは、何時もの事じゃネーか」

「お前が振られるのも、何時もの事じゃねぇか」

 二人で同じ憎まれ口を叩きあう。 父親は鼻で笑ってしまった。

「お前は、かぁちゃんが欲しいとは、思わないのか?」

「親父は、俺に母親を宛がいたいのか? それとも、自分の相手が欲しいのか?」

「建て前と本音、と言うやつだ。 まだ、お前には分からねぇだろーが」

「意味は分かる」

「一応、学校で勉強しては来てるって事だ。 学費が全く無駄になっていた訳じゃねぇなら、それでいいって事にしといてやらぁ」

 俺が汗水流して腰痛に耐えながらトラックを運転して来た事も、少しは報われる、と、何時も通りの言葉を吐いて、父親は酒を飲む。


 稔は思う。 やはりこのクソ親父と、確かに血は繋がっているらしい。 自分が女にだらしが無いのは、きっとこの親父の血を引いたからだ。

 似ているからこそ、やり様の無い感じで益々、気分が腐ってくる。


「もうチョイ、マシな親父の元に産まれてくりゃ、良かったぜ」

「振られる数が多いというのは、女が出来る数も多いという事だ。 悪い事じゃねぇ」

 自分の失恋はさて置き、父親らしい思いやりから、少しは優しい事を言ってやった気でいる。

 稔にとっては、ふてぶてしい事この上ない言い方だ。 益々、仏頂面に磨きがかかって、鼻筋に皺が寄ってしまう。 ビールの残りを飲みきって立ち上がり、再び冷蔵庫へ向かう。

「お前、二本目からは金取るぞ」

「俺が金払ったって、元は親父の金だろーが。 意味無いね」

「分かってるなら、大人しく水でも飲んでろ」

 稔が父親の言葉は無視をして、冷蔵庫のビールに再び手を伸ばした時、父親が言う。

「俺に寄越せ」

「ケチケチしねーで、一ダースくらい買って来いよな」

益々、剥れた顔をして、稔は最後の一本を父親に投げた。

「三本で我慢するつもりだった。 お前に一本、恵んでやったんだ。 感謝しろ」

「そーかよ、仕方ねー、こっちで我慢するか」

変わりにペットボトルの水を出して蓋を開け、その場でゴクゴクやってみた。

「ちぇ、物足りねー……」 口をペットボトルから離して、不味そうな顔をして、舌の先を軽く噛んだ。 刺激が足りない。

「コーラかサイダーでも、置いておきゃよかった」

「そっちなら金、出してやる。 ついでに俺のビールも、お前が空けた分を買って来い」

「わかったよ、行って来てやるよ」

 冷蔵庫の前から離れ、父親から財布ごと渡された金をポケットに突っ込んで、玄関へ向かった。



      ※     ※     ※



 アパートを出た稔は、コンビニへ行こうと思っていた。 だが、暫らく歩いてから思い直した。 コンビニでは未成年者に、酒を売ってはくれないだろう。 頼まれたと言っても、つい先ほどビールを一本、空けてきたばかりだ。 顔も少し赤いが、口臭に酒の匂いも混ざっていた。 店員に見咎められるに決まっている。 方向転換をして、近所の酒屋の店先にある、自動販売機を目指した。


 目指す酒屋の前に到着するまでに、工務店の店先に掲げられた電光掲示板に示された、デジタル時計の表示が目に入る。 工務店の宣伝と、電話番号、現在の時刻が、順繰りに表示を変えていく縦長の掲示板だ。 その表示によると、現在の時刻は七時にもならない。 夏は盛りだ。 まだまだ、辺りは明るい。 工務店の先にある、小さな交差点の脇で商いをしているタバコ屋も、まだ店を開けていた。

 宝くじを併売しているその店には、看板娘としての名も高い、稔よりも二歳年上のお姉さんがいる。

 最近は、彼女の可愛らしい外見と笑顔に惹かれた若い男性が、常連客として増えて来たらしい。 この店の看板娘・明恵には、近所の悪ガキとして有名な稔も、小さな頃、良く遊んでもらっていた。


 稔は何気なく、タバコ屋の窓へ視線を向ける。 今は誰も居なかった。

『明恵さん、結構、タイプなんだよな』 と思う。 チラリとでも彼女の顔を拝めれば、少しはクサクサした気分も変わるだろうと思っていたところだ。 小さく肩を竦めて、そのままタバコ屋の先の小さな交差点を右へ曲がった。

 曲がった先で、見たくないものを見てしまった。

 明恵が男と仲良く腕を組んで、こちらへ向かってくる。 タバコ屋一家の居住空間となっている家の玄関は、この道に沿ってあるのだ。 日曜のデート帰り、彼氏に送られて帰宅する女性の構図、と言うヤツを、憧れのお姉さんが見せ付けてくれたという事だと、直ぐに理解してしまった。

『今日は、散々だ……』視線を軽く前方から逸らして、小さな溜息が漏れる。


「あら、稔君! こんばんは」

 と、明恵はニコリと笑顔を見せる。 彼氏と並んで歩いている光景を、小さな頃から良く知っているご近所さんに目撃されて、少しだけ照れ臭そうな顔だ。

「どーも」

稔は短くそう答えて、軽く皮肉な笑顔を作った。 明恵と腕を組んでいる男も、彼女の知り合いに対して、お愛想笑いを返してきた。

「近所の男の子なの。 小学校低学年くらいまで、良く来てくれていたんだよね。 うちお店、昔は駄菓子も売っていたから」

「そう」

明恵の説明に返事をして、後は自分には関係ない事だという様子で、ただ口元に軽い笑いを称えている。

「じゃ、おやすみね」

 辺りの風景よりも時刻に合わせた挨拶を残して、明恵は男と二人、玄関へと向かう。 明るい、何時もよりも弾んだ声で、「ただいま」 と、家の奥へと声を掛けている。


 その声を後ろに聞きながら、稔は軽いショックを感じてしまった。

「男の子、かよ」 と、少々落ち込んだ呟きが、稔の口から小さく漏れた。

 稔は本日、たった数時間の間に、二人の女に振られてしまったのだった。



      ※     ※     ※



 父親は、稔から投げ渡された買い置き最後のビールを、のんびりと飲んでいた。 口をへの字に曲げて、つまらなそうな顔をしている。 面白くない気持ちが、そのまま口の端へ上る。

「稔のヤツ、何時までかかっていやがるんだ? ビールはチビチビ飲んだって、美味くも何ともねぇ」


 そろそろ稔が家を出てから、三、四十分は過ぎたはずだ。 ビール一缶を飲み干すのなら、十分間あれば充分だ。 炭酸も薄くなり、冷たかった中身も温くなってしまった。

 ダイニングチェアの背凭れに踏ん反り返る様な姿勢で、温くなったビールを飲み干した。 冷えていないビールなど、旨味も半減だ。

 空き缶をグシャリと潰して、折り曲げる。 尖った角で爪の垢を穿り出す。今更、水など飲む気にもならない。 爪垢を穿るのも飽きて、潰れた空き缶を投げる。 ガランと音を立てて、空き缶はシンクの中へ転がった。

 テーブルの上からタバコを取る。 一本、振るい出して見ると、紙製の拉げたパッケージと同じ跡をつけて、真ん中が皺になっている。 その一本を真っ直ぐに整える事もせずに口へ銜えて、赤いボディの百円ライターで着火する。

 そのタバコを灰にしながら、遅い稔を待っている内に、今朝、振られたばかりの、薫の顔を思い出した。

 半分、泣いている様な、ヒステリックな表情。

『アイツの事は、真面目に思っていたんだがな……』

 小さい、けれど深い溜息が、鼻から煙を吐き出した。



 薫と知り合った一年近く前。 河野氏は四人目の稔の母親候補に振られ、それから数ヶ月と経たない内に、五、六人目の候補にも振られたばかりだった。 自分なりに少しは気落ちしていた。 その所為か、何時もはしないようなミスをしかけた。

 トラックの運転席は、言うまでもなく位置が高く、目前の小さな影など、最も見落としやすい所だ。 それなので運転中は、兎に角、前方には良く注意をしている。 左折時の巻き込みだって、慎重さに慎重さを重ねる程に良く気をつけながらハンドルを切っている。

 長年、トラック運転手をやり続けていれば、慣れに任せておざなりになっていてもおかしくない部分を、彼は自身の事情から、神経質すぎるのでは無いかと思われるほどに大事にして来ていた。 その事情を語るには、また更に長い年月を遡る事に成る。


 十四年前。 当時、特に健康上に不安も無かった妻・美智子が、二十八歳という若い身空で亡くなった直接の原因は、自分と同業者・トラック運転手の前方不注意による、過失事故だった。

 突然、道の向こうに何かを発見して、トコトコと走り出した、三歳の稔。 美知子は慌てて稔を追いかけた。 そのタイミングで、トラックが道を曲がって来た。

 そして、その巨体は、稔を腕の中に抱き抱えたままの美智子を、一メートルほども上へと跳ね飛ばした。

 落下した時、美智子の目には何が見えていたのかは分からない。 ただ、気を失う直前に、稔に言った言葉があった。

「みのる、よかっ……」

 稔は訳が分からないまま、母の腕に抱かれたまま、大きな声で泣き出した。

『稔、無事でよかった』 そう、言いたかったのだろう。


 この事故は目撃者がいた為、トラックの運転手も大して警察の手を煩わせる事もなく、直ぐに捕らえられた。 事故の模様は、その目撃者、近所の世話好きで有名な年配の主婦が、美智子の葬儀の席で教えてくれた。

 そんな事情があり、河野氏は恐らく他の同業者と比べてみても、随分と安全運転な部類にいる人物なのだ。


 その河野氏が、あの時、薫を始めて見かけた日。 危うく事故を起こしてしまいそうに成るほどの心理状態にいたのは、珍しい事だった。 彼の気持ちをそこまでにした理由は、その数日前に言われた言葉にある。


 それまで彼は、自分の妻に、と言うよりも、稔の新しい母親を探している様な思いで、何人かの女性にアプローチをして来ていた。 けれど、そういった事情を持って近付いて、上手く行った例は無かった。 最後に言われる事は、何時も同じだ。

「稔君が嫌いでは無いけれど、自分の子供も居ないのに、行き成り子どもを持つ母親になれる自信はない」

 大体、そんな事だ。 稔がまだ幼かった頃には、当の稔が中々、女性に懐く事が出来ずに駄目だった事も、一度や二度ではない。 

 そして、薫の前に振られた女性から言われた事は。

「私は、貴方と結婚したいと思ったの。 貴方は、女としての私を愛してくれているの? それとも、ただ単に稔君の母親になってくれる人として、私を選んだの? どっちなの? 母親を探しているのなら、それは私の気持ちとは違うわ。 貴方が私を愛してくれているのが先で、そこに貴方の事情が着いてくるのなら頑張れるけれど……。 その反対なら、無理よ……」

 この言葉は、河野氏の気持ちの真ん中を突いていた。 言われれば、そうなのかも知れない。 けれど、自分には稔が大事なのだ。 愛し合って結婚した妻の、忘れ形見だ。

 それ程に息子の事を可愛がっているようには見えないと、人に言われた事もある。

 そう他人から見えようが見えまいが、稔は確かに河野氏の心の真ん中に、何時も、亡き妻の面影と共にあるのだ。 ただ、思い遣りや優しさを素直に表現するという行為は、彼の性格上、とてつもなく大変な作業なのだった。



 河野氏は、一人息子・稔の前で、酷く酔っ払うほど酒を飲む事は無かった。 それは彼にとって、父親としての、一つの愛情の表現でもある。 

 若い頃の彼の性質を一言で現すのならば、『血の気の多い、鼻っ柱の強い若造』。

 酒の勢いに任せて、些細な事を原因とした大喧嘩から、相手と共に病院での治療が必要となったことも、何度もある。 酒癖が良い、とは、お世辞にも言えなかった。

 相手が男ならば、取っ組み合いの大喧嘩。 相手が女ならば、翌朝、目覚めた時に見た天井の模様が、普段、良く見慣れていた模様と違う、と言うような事も頻繁にあった。

 稔が幼い頃、まだ妻も健在だった当時は、その若かりし頃の癖も抜けきれず、美智子とも何度、口論になったか知らない程だ。 酒で正態を無くす事など、彼にとっては日常茶飯事だった。

 妻を失った時、ショックから酒に逃れてしまう前に、幼い稔の存在がストップをかけてくれた。


 薫の前では、酒も良く飲んだ。 薫との縁を繋ぐ為に利用したのも、酒だった。

 河野氏は薫の中に、若かりし頃のまま止まってしまった、妻の面影を見ていた。 外見が似ていた訳では無い。 ただ、初めて会った時の出来事が、それを見せていた。

 薫は、幼い子供を相手の事故を、未然に防いでくれた女性だった。

 そして、漸く出会った、自分のために、自分の傍に沿っていて貰いたいと思える、生涯二人目の女性だった。


『アイツは、どうしているんだろう?』

 今朝、自分が追い出された部屋の中で、今頃、彼女は一人で何をしているのだろう?

 気になり始めて、携帯電話に手を伸ばした。 何の飾り気も無いシンプルな、日付と曜日、時間を表示している、緑色の小さな画面を開いた。



      ※     ※     ※



 稔は、本日二度目の失恋の後、少し遠回りをして歩き出した。 こんな気分の悪い時に、親父の使いを素直に、短時間で遂行する様な殊勝な気分になどなりはしない。

 アパートから徒歩十五分ほども歩いた先にある国道を渡って、暫らく行った住宅地の真ん中にある、緑多い公園を通過する。

 昼間の子供達の楽園から、夜の大人達の休憩場所へと変化する直前の景色を目の中に映しながら、その先にあるコンビニへと進路を変えることにした。 三十分も歩けば、酒の匂いも薄れるだろう。 遊歩道脇に、ペロペロキャンディーのような形をして立っている時計の針は、今、七時十分を指していた。 蝉時雨もまだ止んではいない。 賑やかなものだった。

「ったく、ウルセーな。 振られちまえ!」

 たった一週間の短い命を全うし、子孫を残すべく必死にラブコールを送っている小さな生物に、自分勝手な悪態をついてみる。 ビチ、という、蝉が木を飛び立つ時に聞こえる微かな音がして数秒後、稔の頭の上に、何かが落ちて来た。

 手を上げ、頭の上の違和感に触れてみて、それが何かは直ぐに判った。 蝉の落し物だ。 樹液が命の糧となる、小さな存在だ。 カラスに糞を落とされるよりは、まだ綺麗な感じもするが、面白くない気分には拍車がかかる。 どうやら今日は、トコトン、ツキに見放された日のようだ。

 公園の水道で、蝉に汚された部分を軽く洗った。 途中で面倒臭くなって、頭から水をかぶってみた。 初めは日中の、水道管の熱を残していた生温い水が、暫らくすると、それなりに冷たさを感じさせる温度へと、変化してきた。

 少しの間、その冷たさを堪能してから蛇口を捻り、水を止めて腰を伸ばし、濡れた犬がするように、ブルブルと頭を振って、水分を払い飛ばした。 暫らく歩けば、直ぐに乾いてしまう筈だ。 今夜も寝苦しい夜になりそうな暑さだった。

 公園を出て五分も歩けば、新たに設定し直した目的地のコンビニへ到着する。 買い物を済ませて真っ直ぐに帰ったとしても、七時四十五分ごろだろう。 明日には学校で、今日、振られたばかりの彼女と顔を合わせる事に成る。 彼女は二年に進級してからの、新しいクラスメートだった。 付き合い始めて、まだやっと二ヵ月が過ぎたばかりだった。

 そう言えば、今日、親父が振られてきた女とは、本当に一年以上も交際してきた相手なのだろうか? ふと、そんな疑問が頭を掠めた。



 稔が高校へ入学して、まだ一ヶ月も経たなかった頃、あの父親が、酷く落ち込んだように見えた時期があった。 未成年の息子に、酒の味を覚えさせた日だ。

 あの時、恐らく、かなりショッキングな出来事があったのだろう。 ついさっき始めて聞いた事情によれば、それは六人目の母親候補に振られた時だと言っていた。 今まで、父親の口から直接に聞いた事は無かったが、あの時の稔にも、薄々、感じる処はあった。

 その振られ方が、余程キツかった、と言う事だろうか。

 父親の恋愛事情など、稔の知った事ではないが、それに寄り、多少は迷惑を被る立場に自分が居るのも確かだ。 今日の親父は、ご機嫌の向きが随分と傾いていたらしい。 顔を見れば分かる事だ。

『俺だって、クソ親父に負けねーくらい、気分が悪いんだけどな』 と、思う。

 それでも、今年で四十三歳になるコブ付き中年に比べれば、自分の今後の恋愛事情には、まだまだ希望も持てるだろう。

 考えながら、のんびりと歩を進めていた。 それでも少しだけ殊勝な気分になって、稔は気分を変えた。

『仕方ねー。 少しくらい、労わってやっとくか』 そう、思い直して、コンビニへ向かう足を早めた。

 色々とクセのある父親ではあるが、自分を見捨てずに育ててきてくれた事には、それなりに感謝も出来る。


 ほんの短い間ではあったが、母親を失ったショックから、幼い稔が口を利けなく成った事があった。 その時、幾つもの病院に連れて行かれた。 その頃、父親は、勤めていた配送会社を辞めて、半年ほどは家に居てくれた。 失業保険を受ける為の手続きをし、その保険料を受け取っていられる期間だけの事だった。

 それでも、あの何時も何処か飄々としている父親にしてみれば、あの頃のあの行動には、幼かった稔には知ることの出来ない、深い事情があっての事だったのだろう。


 コンビニへ到着した稔は、自分のための炭酸飲料の他に、缶ビールを六本と、父親の好きな酒の摘みを幾つか選んで籠へ入れた。

 店員に余分な事を突っ込まれる前に、さっさとレジを済ませて、来た時よりも早足で、親父が待ちくたびれている筈のアパートへと向かった。



      ※     ※     ※



 四畳半のダイニングキッチンで、河野氏は携帯電話の画面を開いたまま、止まっている。 今、彼女へ連絡を入れて、いったい何を言おうと言うのか? 気持ちを言葉に直す事も出来ずに、思いは別の所へと向かう。


 薫が、自分が起こしかけた事故を未然に防いでくれた時。 彼女に救われた命は、妻・美智子を失った当時の息子の年齢よりも、一つか二つは上だった。 それでも、薫の子供だったとしても可笑しくは無い年の子だ。 それで、すっかり勘違いをしてしまった。


 急ブレーキをかけて止めたトラックから飛び降りて、薫に向かって言った。

「お母さん、怪我はなかったか?」 子供の母親を指す言葉だ。 薫はビックリしたままの子供を優しく放して、河野氏を睨み付けた。

「私の子供じゃありません。 そんな事より、あなた! いったい、どこを見て運転しているんですか!」

 薫はその時、腰を抜かしていた。 立ち上がれないまま、キッと顔を上げ、トラックから慌てて降りて走り寄って来た中年男へ非難の目を向けていた。 自分の状態は知られまい、と思っている様子が、河野氏には見て取れた。 

「良かった、元気そうだ。 それでも一応、病院へ行ってくれ。 俺が送っていくから」

河野氏はいくらかほっとして、薫が立つのに手を貸した。

 薫は素直に差し出された手に縋りつく様にして、ヨロヨロと立ち上がった。 それでも、その口から出て来た言葉の厳しさは変わらなかった。

「結構です。 どこか打った所もないし、病院くらい、自分で行けますから」

「そう言わないでくれ。 心配だ」

 まだ確りと、一人で立っていられない薫を支えながら河野氏が掛けた言葉に、薫の表情が少しだけ和らいだ。

「それなら、貴方の住所と連絡先だけ、伺っておきます。 病院で検査をして何事もなければよし。 何か見付かれば、ご連絡いたしますので」

そう言った薫へ、言われた通りに住所と連絡先、名前を書いたメモを渡して、彼女の腰が座り直した事を見て取り、河野氏は礼を言ってトラックへ戻った。


 それが、薫に出会ったときの思い出だ。 数日後、左足を少し捻った程度で他は何事も無かったと連絡を受け、その時に掛かった治療費だけは河野氏が持つ事で、話しは納まった。 その後、その先への縁を繋ぐのに使ったのが、前述の通り、酒だった。



 手の中の携帯電話は、画面が暗くなっている。 開いたきり、いつまでも次の指示が出されないので、省電力モードが働いてしまった。 河野氏は、携帯電話を再びテーブルの上へと置いた。


 それから程なく、使いに出ていた稔が帰宅した。



      ※     ※     ※



「遅いじゃねぇか、待ちくたびれたぞ」

 ただいまも無ければ、お帰りも無い。 行き成り飛んできた父親のふて腐れた言葉に、稔は少しだけムッとした。 それでも一言、「悪かったな」 と、詫びてやった。 流石に待たせ過ぎてしまった様だ。 父親のご機嫌の向きは、また更に角度を増してしまった。

 稔は小さく詫びながら椅子に掛ける。 振られ親子が再び、狭いダイニングキッチンで、テーブルを挟んで向かい合った。


 稔が無造作にテーブルへ置いたコンビニの袋に、父親が手を入る。 ガサリと音を立てて中身を取り出した。

「何だ、お前は言葉が理解できないのか? 俺が言ったのは、お前が空けた分のビールを買って来い、だったよな?」

「折角、気ぃ利かせてやったってのに。 親父の口からは、文句しか出て来ネーのかよ?」

「お前が気を利かせただと? まだ台風の時期には早いな」

「俺が気を利かせたら、台風が来るのか? どーゆー理屈だ」

 剥れた息子の顔を見て、鼻で笑ってしまう。

「雨が降る、ってんじゃ足りないくらいの珍しさだ」

「け、言ってろ」

稔は言い捨て、自分もビールを一本、袋の中から失敬した。

「金、取るって言わなかったか?」

「使いの駄賃だ。 摘みまで用意してやったんだ、それくらい負けろよな」

 稔の様子に、また何か、使いの途中にあったのかと思った。 父親は眉を軽く互い違いに上げて、少々おどけた表情を作った。

「仕方ない、次の小遣いから引いておくか」

「それで文句がねーなら、譲渡してやる」

「親に向かって、譲渡してやる、ってのは、どう言う言い草だ?」

「親父に口の利き方、教わったんだ」

 その言葉を切掛けにして、昔の話が始まった。

「半年くらいか」

「何がだよ?」

「お前が口、利けなくなった事があったな」

稔も、つい先ほど思い出した事だ。 その頃の稔は幼過ぎて、実際の所、鮮明な記憶が残っているとは言えなかった。

「そうだったみたいだよな。 お袋が死んじまったのが、ショックだったらしいな」

「まるで他人事みてぇだな」

「殆ど覚えてないからな。 親父はあの時、何で仕事、辞めたんだ?」

 言いながら、缶ビールのプルトップを引き上げる。 父親も稔と同時に、新しい缶ビールを開ける。 早速、口をつけ、一気に半分近くを喉へと流し込んだ。

「やっぱりビールは冷えてなきゃ駄目だな」

 満足そうなニヤケ顔をして、父親が言う。

「悪かったな、遅くなって。 で? 何であの時、親父は仕事を辞めちまったんだ?」

 父親はもう一口、美味そうにビールを味わう。 それから軽い口調で質問に答えた。

「配達の仕事に飽きたんだ」

「マジかよ? で、結局また配達してんのは、どう言う理由だ」

「隣の芝生が青く見えただけだ。 結局、俺は他に、手に職就けていた訳でもねぇからな。 気付いたら、同じ様な仕事に就いていたってだけだ」

 その言葉に真意は見えなかったが、稔は突っ込むのを辞めた。 話したくないのだろう。

「意味のねー転職だな」

「そうだな」

軽く言い捨て、父親は開けたばかりの一缶を空けた。


 稔に話したとしても、無意味だと思っていた。 今の生活が守れるのならば、それで良いと感じていた。

 妻の命を奪った物は、自分が仕事道具として活用していた物と、同型のトラックだった。 自分達家族の生活を守るべき道具は、別人の手によって、巨大な凶器と化してしまった。

 その事実に当時の自分は、ハンドルを握る気力を失ってしまった。 


 あの時、会社を辞めた理由はそんな事だ。 それでも、他に特技も資格も無い自分が、親子の生活を守りながら、息子の養育費を稼ぎ出し、多少でも何かの為の蓄えをする事が出来るだけの収入を期待したのなら、長年、実直に勤めてきていたトラック運転手という生業の他に、適当な職業が見付からなかった。

 幼かった稔が、再び言葉を取り戻した時に、河野氏は自分の気持ちに句切りをつけた。そして、今の自分がある。


 呑気に稔の買ってきた摘みへ手を伸ばした。 裂きイカの袋を開け、二、三本をまとめて口へ銜える。 片側を歯で挟み、引き千切って、口を動かす。

「俺には、お前がいるからな。 何とかなるもんだ。 いや、良くも何とかなって来たもんだ。 ……でかくなりやがって」

 父親の小さな呟きに、同じ様に裂きイカへ伸ばしかけていた稔の手が、一瞬だけ止まってしまった。 直ぐに一掴み手にし、自分の近くへ持って来た。

 親父が裂きイカを、憎らしそうに噛締めている。 味が無くなって来たイカを飲み下して、新しいビールを開けた。

「今度の女は、本当にイイ女だったんだ。 俺の夢をかえしやがれ」

父親の、何時も通りの軽くふざけた様な口調に、稔が反応する。

「何だよ、そりゃ。 悪酔いしたか?」

「バカ野郎、缶ビール三本で酔っ払うか!」

「丸っきり絡み酒じゃねーかよ、クソ親父」

「俺がクソなら、お前はションベンだ」

「汚ねー親子だな」

「全くだ」

 二人揃って、小さく笑ってしまった。 

「全く、くだらねぇ」 と、親父が小さく毒づいた。


 稔も本日、二本目のビールを飲み干した。 次は大人しく、買って来たばかりのコーラへ手を伸ばした。

「親父、角のタバコ屋、俺が小さい頃、よく駄菓子を買いに行ったよな?」

「おお、そうだったな。 あそこの娘は優しい子でな、口が利けなくなったお前に、何時も行く度に声を掛けてくれていたぞ。 あの時、まだ五歳か六歳くらいか?」

 それくらい小さな子供が、自分よりも小さな子供の不幸を可哀想だと思い、一生懸命、声をかけてくれていた。 それには俺も感動したもんだと、河野氏は言う。

「お前、あの子が好きだったんだな。 色々、病院にも行ったが、やっと声を出したのは、あの子に言った、『あいがと』 だったな」

 ありがとう、と、正しく発音できない子供が言う、お礼の言葉だ。 その時のことなど、稔はすっかり忘れていた。

「そうだったのか?」

「覚えていないのか? 記憶力の無い奴だな。 俺は、本当に泣いたぞ? あの時」

 嬉しくてなぁ……、と、呟く。


『そんなガキの頃から、俺は明恵さんに憧れていたのか』 と、稔は自分に驚いた。

「……あーあ、マジ、振られちまった」

 呟いて、肩を落とす。 こちらの失恋は、クラスメートから振られた事よりも堪えたかも知れないと、実感してしまった。


「面白くねー夜だ!」

「明日になりゃ、腫れも引くだろ。 今夜はアイスノン、頬っぺたに当てとけ」

 父親の言葉に、稔は「そうするよ」 と、短く答えた。



      ※     ※     ※



 翌朝。 河野氏は、薫の事はまだ吹っ切れない。 だが、父子家庭の父親として、親子の生活を守る義務がある。 淡々と一日の業務をこなすべく、何時もと同じように、まだ夜が明け切らない時刻にアパートを出た。



 就寝前、父親に言われた通りに応急処置を施した稔の頬の腫れは、朝起きた時には引いていた。 それでもまだ赤い痣が残っている。

 何時も通り、父親が朝早くに出掛けた後の我が家で、稔は食パンで朝食を済ませて、玄関に鍵をかけてアパートを出る。

 昨日の失恋ダブルショックは、稔の気分をまだ少し害していた。



 学校に向かう途中、昨日、稔の頬を見事に腫らすほどのクリティカル・ヒットを飛ばした彼女が、彼を待っていた。

 彼女は、稔を見つけて一瞬、俯いた。 直ぐに小さく深呼吸をして顔を上げ、ツカツカと、稔へ向かって歩き出す。

「よぅ」

稔は仏頂面のまま、彼女に小さく挨拶をする。

「おはよ」

歩き出した稔の後を追うようにして、彼女も歩き出す。


「頬っぺた、まだ痛い?」

 やがて小さな声で、彼女が聞いた。

「痛くない。 痕、残ってるけどな」

「本当だ、赤くなってる……」

改めて稔の頬の痣を見て、彼女は呟いた。

「ごめんね」

「いいよ、もう」

稔の言葉は、良いよ、と言っている割には、怒りを含んでいる様に彼女は感じた。

「……他のコ、デレッとした顔で見てたから、ムッとしちゃって」

「デレッとしてたか?」

「うん」

 稔は真っ直ぐに前を向いて、言葉を交わしていた。 彼女は稔の横顔を、一生懸命、目で追っている。

「でもね、それでムッとするって事は、やっぱり、稔君の事が、凄く好きだから……。 だから、……謝っても、許して貰えないかも知れないけど……」

 昨日、隣に居る彼女に殴られた事よりも、明恵のことの方がショックだった。 稔は、クラスメートの彼女の事は、今はそれほど怒っているつもりも無い。 けれど、必死になってよりを戻そうという程の好意も、感じてはいなかった。

「イイって言ってんだろ? 直ぐ、痣も消えるだろうから」

 チラリと、彼女を横目で見た。 彼女は俯いてしまっていた。 泣いているのだろうか? 稔は少し慌てた。 泣かせるつもりも無かったのだから。

「おい、まさか、泣いてンのか?」

 心配そうに、自分の顔を覗き込んでくれた。 漸く正面から稔の顔を見ることが出来て、彼女は顔を上げる。


 彼女は稔の唇に、自分の唇をそっと押し当てた。

 一瞬の出来事で、稔は驚いて止まってしまった。


 彼女は稔に背を向けて、早足で数歩、歩き出す。

「また、一緒に遊びに行こうね?」

背を向けたまま、そう言って、チラリと稔を振り向いた。

 驚いて立ち止まっている、稔の腕を引き寄せた。 確りと腕を絡めた。

「……ファーストキス、だったんだから」

 積極的に振舞いながら、照れている様子が見て取れた。 稔は小さく首を竦めた。

「……分かった。 また、どっか遊びに行くか」

「うん!」

 頬を赤くしながら、嬉しそうな笑顔を見せてくれた彼女に、稔の頬からも漸く力が抜けた。


『まだ、俺の恋愛事情は救いがあるみたいだ』 稔はそう感じて、親父の事を考えた。



      ※     ※     ※



 河野・父の恋愛事情は、これはまた別物だ。 薫の事は、そう簡単に忘れられる物では無さそうだ。 それでも忙しい毎日に流される内に、薫の事を思い出す時間も、減って行ってくれるのだろうか……?


 今、暫らくは、それを信じているしか無さそうだ。 親子の生活は、留まる事なく繰り広げられて行くのだから……。



                 《 終 わ り 》


 予告に二週間以上遅れての投稿です。 申し訳ございません。 今後の参考に、何かございましたら、感想にお残し下さいませ……。

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