ありふれた日常
朝、カーテンの隙間からこぼれる日差しで目を覚ました。
ゆっくりとベッドから身体を起こして、私は足の指先を床につけた。ひんやりとした空気が肌を触れたそばから伝わって、血と一緒に体を巡る。
霞が掛かったような頭のまま、時計を見る。五時五十二分。目覚ましが鳴る、八分前だった。時計を見た視線をそのまま下げて、カレンダーを見る。
「きょうはー、きんようびー」
休日の前日。華の金曜日。
――休んでしまおうか。
ふと突然、まるでポトンと桜が散るようにそんな考えが浮かんだ。
仕事がいやとかではなく、何とかなく心の中が空っぽで、その隙間を埋めるための手段だ。
時たまある、起きた時の虚しさ。たぶん、夢の中で何かあったのだ。よく思い出すことができないけれど、フラッシュのように断片的な景色が残っていた。自分がビルから飛び降りるような、そんな理想的な、ゆめ。
「なーんてね」
口先で自分で自分を誤魔化して、着替えを始める。お湯を沸かして、食パンをトースターに入れている間に目玉焼きを焼き、お皿に野菜を添える。ドリップのコーヒー、こんがり焼けた食パンにはマーガリンをたっぷりと。お皿の上の一昨日買ったプチトマトはすでに皮がしぼみ見始めていた。蒸し焼きにした目玉焼きは表面が滑らかで、輝いている。これには塩と胡椒でシンプルに。
部屋に自分の咀嚼音しかないのが寂しくて、テレビのスイッチを入れた。今日の天気でも確認しようと思ったのだ。しかし、ようやく見つけたお天気お姉さんは運悪く、すぐに司会のお兄さんに代わってしまった。
『昨夜、××県○○市のコンビニに強盗が押し入りました。幸い怪我人はいなかったものの、犯人は未だ逃走中です。犯人は刃物を店員に突き付け、レジの中の金を要求し――』
「世の中、暗いことばっかだね」
一人暮らしをすると、独り言が多くなるというのは真実らしい。無意識に腹の右側を服の上からなぞる。丁度よく、窓の外からけたたましいサイレンの音が響き渡った。
「世の中、物騒だ」
皿をシンクの中に入れ、水をかける。ストッキングをはいて、カバンを持ち、黒のパンプスに足を納める。
「いってきます」
返ってくる言葉はもちろんなかった。
電車に揺られて二十分。それなりに名前が知られた大企業――の子会社の営業部署。それが私の勤め先だった。
少し速足になって廊下を歩いていると部長が前から歩いてくる。相変わらずの出っ張った腹を揺らして、眉間に皺を寄せていた。
「お早うございます」
部長は口を真一文字に噤んだまま、去っていった。
――無視かよ。
後姿を鼻に皺を寄せてにらみつける。
仕事場にはちらほら人が来ていた。私はキャスター付きの椅子をキーっと転がし、腰を落ち着けた。息つく暇もなく、隣から声が飛んできた。
「おはようございます」
「おはよう」
「どうしたんスか、山原先輩。機嫌が悪い顔してますよ」
一つ後輩の大山くんだった。実際のところ、一年浪人生だったらしいので同い年なのだが、律儀に敬語を使ってくる、やけに独り言が多い青年だ。営業として外回りすることがあまり多くなく、事務処理ばかりやっている彼はパソコンのキーボードをカタカタと鳴らし、ちらりとこちらに目をやった。
「まあね、機嫌が悪いから」
「そうっスっか、じゃあ、そっとしときますね。あ、ここ間違えてる。一桁間違えるなよ、山本」
飄々とした様子で大山くんは仕事に戻った。ちなみに山本というのは使えないことで有名な係長だった。
「おはよう」
「おはようございます」
「おはようございます」
次いでやってきたは木下先輩だった。私の目の前の席に腰かけ、そうそうにパソコンを開く。
「何か急ぎの仕事ってありましたっけ?」
私が尋ねると木下先輩は微笑んで首を振った。
「取引先からメールが来ているはずだから確認しているだけ。それよりも講習会の回覧が回ってきているはずだから、そっちに目を通しておいて。ああ、大山もね」
「講習会?」
記憶を探っていると、木下先輩が補足してくれる。
「月初めの朝礼で通達があったでしょ。確か……メンタルヘルスについてと、ハラスメントについてのだっけ。去年受けてない人は原則出席することになるからね」
「めんどくさっ」
呟いた大山くんの椅子を蹴った。
二十分もすれば、部屋の席は大体埋まり、朝礼が始まった。部長――あんなやつデブチョーで十分だ――が今週の成績をみて長々とした評価を下し、今日も気を引き締めるようにということと来週の成績向上へと発破をかける。その他の連絡は例の回覧についてくらいだった。
「おい、山原」
席に戻ろうとする私にデブチョーが声を掛けてきた。
「この前の証券会社との取引の件、どうなっているんだ」
「……順調です。こちらの提示した条件にも肯定的で、来週中にはお返事が頂けることになっています」
「来週中っていつだ」
零れそうになるため息を押しとどめて、スケジュール帳を探る。
「木曜日です。十時に向こうの会社の方へ伺うことになっています」
「よし、ならその日は谷口も連れてっとけ。面識は向こうとあるだろう。最後くらい男がいないと舐められるかもしれないからな」
はあ……!? 思わず口から出そうになった言葉を喉の奥にしまい、代わりに「了解しました」と頭を下げて、席に戻る。
「先輩、このデータ……また顔、やばいですよ」
「どこが、どう、やばいの」
乱暴にキーを叩く私の横で大山くんが「あー、パソコンが」とかなんとか言っている。腸が煮えくり返るとはまさにこのことだ。やっぱ休んでしまえば良かったと思った。
また、デブチョーの声が響く。
「おい、山本。報告書は今日の昼までにあげとけよ。できてるんだろうな」
「あ、はい! できてません!」
「はあ!? なんでできていないんだ」
「はい、すいません!」
元気な山本さんの声に少し元気をもらった。ちなみに彼は係長であり、四十過ぎのおじさんだ。打たれ強さとポジティブさには定評があり、年功序列の社会を駆け上がってきてしまった人でもある。彼の持論は上の人間ができてしまうと、何でもやってしまうので、駄目なくらいがちょうどいい、ということらしい。傍目から見ているのは楽しいが、部下にはなりたくなかった。
「あれー、何がどうなってんだよ。誰か間違えてんのかよ」
計算が合わないらしく、ぶつぶつとまた大山くんがまたしゃべっている。もう慣れたものだ。
私は一通り昨日までの報告書をまとめると、ジャケットとカバンを持って、席を立つ。
「外回り、行ってきます」
ホワイトボードの山原の爛を外出に変え、私は冬空の下、ヒールを鳴らしながら歩いていく。
「知子?」
声を掛けられたのは外回りの帰り、定食屋でのことだった。二人掛けの席を占領してうどんを啜っていた私に笑いかけてきたのは北山仁という男だった。柔和な笑みを浮かべようとしているが、その表情はどこかぎこちない。それもそうだ。私たちは二か月前に分かれた元恋人同士なのだ。
同棲までしていた私たちが分かれたきっかけは仁からの「ちがうよな」の一言だった。
――なんかさ、ちがうよな。そんな感じしないか? 期待してたのというか、俺たちって恋人って関係は合わないのかもしれないな、なんて。
一言一句覚えている私は執念深い女のだろうか。キスして、お互いを触れ合って、恋人らしいことをして、恋人という関係が合う合わないなんてどんな基準を持ってして計るのだろうか。
――それってさ、別れたいってこと?
彼が欲していた決定的な言葉を発したのは私の意思だ。その結果あっさり彼が頷くことも容易に想像できていた。
そんな元カレは私の向かいの席に相席すると、メニューをめくり、かつ丼定食を注文する。
「ここ、たまに来てたもんな」
「で、なに? 私、あと十分でこの店を出るんだけど」
わざとらしく腕時計を覗き込んでそう言った。
仁はしばらく視線をあらぬところに彷徨わせた後、私を見た。
「やっぱり、知子のこと、忘れられなくて」
――こういう男だっけ。そうそう、こんな感じだった。
定食屋とはムードの欠片もない。私はうどんを啜っている。
「ふーん、そう」
箸をおいて、口元をペーパーナプキンで拭った。
「ダメかな?」
「何が?」
カバンと上着を手に立ち上がる。
「じゃあね」
何も言わない仁を一人にして、私はレジに向かった。
外の空気は肌を突き刺すような寒さだ。うどんの温かさなどほんの少しの抵抗にしかならない。
――より戻したいって言ったら、すぐに頷くような女に見えたのか私は。
今日はついていない日だ。
会社に戻ると机の上にいくつかファイルが置いてあった。
確認するためにパラパラとめくっていく。一番下にあるものは礼の回覧だった。ほかの人はほとんど記入してあるようで、チェック欄が埋まっていた。どちらの講習も一昨年受けていたため、欠席の爛にレ点を入れる。ちなみにデブチョーも欠席だった。
私はファイルを手に、デブチョーの席に向かう。書類の判子押しに勤しんでいた彼は足音に気が付いたのかこちらを見上げる。
「部長、こちらのメンタルヘルスとハラスメント対策の講習会についての回覧はいかがいたしましょう」
一部分を強調し、答えの知っている問いかけを行う。
「……? ああ、いつも通り担当の人が取りに来るからそこのボックスに入れて置いてくれたまえ」
「はい」
踵を返し、所定のボックスに放り込む。
席に戻ると、大山くんと木下先輩が笑いを堪えていた。
「ナイスだね、山原」
「先輩、超さいこーですよ」
私は椅子に腰かけ、ファイルをめくりながら言う。
「なにがですか?」
パソコンを立ち上がるのを待ちながら、窓の外を何とはなしに見つめる。きれいな飛行機雲が冬空の綺麗な青に浮かんでいた。