9.そうして一頭と一匹は
まどろみから覚めた時、背赤は薄青紫の優しい光に包まれていた。
微細なきらめきがちらちらと瞬き、網目模様を描いて流れている。ぼんやりとそれに手を伸ばしたところで、指の先に巨大な黄金の弧が薄く開いた。
ぱち、ぱち、とゆっくり二度の開閉。
それがドラゴンの眼だと理解した瞬間、背赤はぴょーんと跳び上がっていた。
「ほぅあ――!!!!」
とんでもない奇声を上げ、大きく後ろにごろごろ三回転。止まったところで這いつくばったまま、
「申し訳ありません申し訳ありません平にお詫びをこの通りー!!」
びったんびったん両手と顔を地面に打ちつけるようにして土下座を始めた。
泣きながら無我夢中で岩屋まで戻って、ヌシ様ヌシ様と呼びかけながら本体が目覚めるのを待っていたのだが、いつの間にか寝てしまったらしい。
ドラゴンの巨体が静かに動き、首をもたげる。久しぶりに見ると、山が動いたようなその迫力に圧倒される。
岩屋の主は、爪一枚ほどの小さな背赤に慈しむまなざしを注いで苦笑した。
《そなたはちっとも変わらぬな》
「変わらずお馬鹿で申し訳ございません!!」
絶叫のごとく謝罪し、背赤は額を地面に擦りつける。ごりごり自分をいじめてから、彼女は大きなため息をついて身を起こした。顔を上げられずうつむいたまま、涙まじりに訥々と語る。
「よりによって、わたしごときが、ヌシ様を……た、食べて、しまったなんて。なのに、なのにちっとも賢くなれなくて、なんにもわからなくって……!」
《ほう。そなた、我を食らえば知識が身につくと誰から教わった?》
「身についてないです! って、あれ?」
ようやく背赤は何を言ったか自覚し、黒い目をぱちくりさせた。そこに答えがあるとでもいうように、両手を広げてじっと見る。
「えっと……でも、本当ならそうなんですよね? ヌシ様を食べたんだから、わたし、賢くなってるはずなんですよね。なってませんけど」
《なっておるではないか。上位種は存在そのものが力であり知識である、ゆえに食らわばそれを己がものとなせる。ただし、受け入れられるだけの範囲に限って……だがな》
ドラゴンは愉快げに答えた。その説明を背赤はすんなりと理解しながらも、あまりに当たり前にわかってしまうので、おのれの知力が増したことに気付いていないのだった。
背赤は不可解げに瞬きし、首を傾げて難しい顔をする。
「わたしはきっと、ほんのちょっぴりしか受け入れられなかったんですね。ヌシ様に頼むとまで言われたのに、たくさん無駄にしてしまって……ごめんなさい。ヌシ様、教えてください。あのニンゲンは、何をしに来たんですか? ヌシ様が身代わりになるほど、あのニンゲンは特別だったんですか」
問いかける声は相変わらず、謙虚で誠実だ。ニンゲンなんかが大事なのか、となじるのでなく、おのれが何を誤解して失敗したのか教えてほしい、と乞うている。
《あれは酔狂にも、春にくれてやった薬の礼を言いに来ただけだ。なにも特別なわけではない。ただ、あの者は、ニンゲンのなかでの上位種だ。背赤の毒で死んだとなれば、下界では背赤が徹底的に殺戮されるだろう。そうさせぬためにそなたを止めたのだ》
「……」
ぱかん、と背赤は口を開けた。のけぞって黄金の眼を見上げ、こてんと後ろに引っくり返る。一回転すると、彼女は座り込んだままとろけそうな笑顔を見せた。
「くうぅっ嬉しいですー!! ヌシ様がそこまでわたしたちのことを、気にかけてくださるなんて……!! 光栄です幸せですありがとうございます!! うわーん!」
尻尾がちぎれんばかりにぶんぶん回る。大仰だが嘘偽りのない喜びの表現を見て、ドラゴンはくすぐったそうに目を細めた。
《そなたが機嫌良くしているのを見るのが、我の歓びでもある》
「そうなんですか!?」
今初めて知った、とばかりに背赤は目を丸くし、耳と尻尾をぴんと立てた。素晴らしい宝物を発見したように、ぱあっと顔を輝かせて身を乗り出す。
「じゃあ、わたしとヌシ様は両想いなんですね! すごいです!!」
《まぁ……そうとも言うが》
意味わかっとるのか、と訊くまでもないだろう。背赤はぴょんと弾むように立ち上がるなり、くるくる走り回って喜んでいる。
ひとしきりはしゃいで歓喜の爆発を鎮めると、さすがに少々恥ずかしくなったか、背赤は珍しく照れ笑いを浮かべて耳の後ろを掻いた。
「えへへ……嬉しいなぁ。あっ、そうだ! ヌシ様、わたし、ほんのちょっぴりですけどヌシ様のお力をいただいたんですよね。そうしたら、このまま冬が来てごはんが少なくなっても、眠ってしまわなくて済むでしょうか?」
思いがけずまじめな質問だったので、ドラゴンも気を取り直して、ふむ、と思案した。
背赤という種族は基本的に暑い土地を好む。だがなわばりや諸々の事情で、本来適した気候よりも冷涼な土地に移り住むこともあり、その場合、多くはまともに冬を越せないので、暖かく乾いた隠れ家で冬眠するのだ。
《そもそもこの岩屋には地脈が通っておるからな、食糧が足りずとも冬眠するまでには至るまい。以前ならばそれで弱ってしまったかもしれぬが……そうだな、いくらか活動性は鈍るであろうが、支障なく過ごせるであろうよ》
答えながら、ああそうか、と彼は独り得心した。
食らえ、と背赤に言ったのは、本能に衝き動かされてのことだった。虚しく消えてなくなる前に、わずかでも己が力を世界の血肉となすべきだ、という使命感。
だが傍らにいたのが“この”背赤でなければ、食らえと頼んだかどうかは怪しい。
(この者に、我自身を与えたかったのだ)
こんなちっぽけで取るに足らなくて、三口もドラゴンを食らったところで大して変化もしないのはわかりきっているのに。
それでも、彼はおのれを小さな背赤に与えたかったのだ。
(両想い、か。どうであろうな)
内心そっと苦笑する。想い合っているには違いあるまいが、その内容ときたら随分と開きがありそうだ。そもそも最上位のドラゴンと、中低位の背赤なのだから、今さら何をかいわんやだが。
そんな彼の内心を推しはかれようはずもない背赤は、無邪気に笑って言った。
「それじゃあ、冬の間、ずっとヌシ様とお話しできますね! 冬は罠にもあんまり獲物がかからないから、繕ったり掃除したりするのも暇になりますし。寒いから外にも出られませんし。いろんなお話を聞かせていただけたら嬉しいです! あっ、ヌシ様がお嫌でなければですけど!」
一応最後に断りを入れたものの、つぶらな両目は期待にきらきら輝いている。ドラゴンはゆっくりうなずいた。
《良かろう。そなたの知りたい事をなんでも聞かせてやろう》
以前ならさっぱり見当もつかない概念であったろう事々も、今なら多少は理解できるだろう。それなら、話の種も尽きるまい。
背赤は大きく万歳し、例によって「ありがとうございます!」と大喜びした。そして、弾むようにドラゴンのそばに寄り、鋭い鉤爪を恐れもせず、巨大な指に全身でぺたっと抱きつく。
《こら。そんなところにくっついては、うっかり潰してしまうぞ》
「ちょっとだけです、ちょっとだけ!」
ぎゅうぅ、と背赤は両腕に力をこめる。むろんその程度、ドラゴンにはほとんど違いが感じられない。はず、なのだが。
妙にそこだけ熱いようなくすぐったいような、むずむずとした感覚に、彼は指を動かすのをぐっと我慢しなければならなかった。
その冬、雲より高い山の頂はいつものように氷に覆われた。
けれども岩屋に住む一頭と一匹は、暖かく幸せに毎日を過ごしたのだった。
(終)