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7.移ろいゆく季節に

 ごはんがたっぷり食べられる夏の間に、背赤はぐんと成長した。

 岩屋に現れた頃は、ころころした黒い毛玉という感じでいかにも幼かったのが、いつの間にかふわふわした毛は抜けてすべすべと艶やかな夏毛にかわり、すらりとした体つきになっていた。

 ニンゲンのように胸や尻が出っ張ったりはしないが、もう明らかに背赤は、おとなの女になりつつあったのだ。


 相変わらず気性もふるまいも無邪気なままではあるが、ドラゴンは日々変化してゆく育ち盛りの彼女を見て、つくづくと考え込まずにはいられなかった。

 そうして短い夏が駆け足で去る頃、彼はとうとう、ずっと胸に抱えていた思いを口に出した。


「背赤よ。思うのだがな、やはりそなたは下界に帰るべきではないか」

「ええっ!?」


 途端に背赤は全身の毛を逆立てんばかりに驚き、ぴょーんと一跳びで岩屋の主に詰め寄った。


「ど、どうしてですか! わたしはお邪魔ですか!? 大きくなったらもう駄目なんですか!?」

「そうではない。そなたを遠ざけたいだけなら、いちいち話すまでもなく外へ吹き飛ばすか、首根っこを咥えて麓まで運んでおる」

「そんなぁ!」

「違うと言うておろう、泣くな」


 大きな黒い瞳が早くもゆるゆる涙に溶けそうになる。ドラゴンは手を伸ばし、背赤の頬や首筋、肩をさすってやった。かつての和毛とは違う、長く丈夫でしなやかな毛の手触り。


 背赤はどうにか涙を堪え、頬を包む彼の手におのれの両手を添えて訴えた。


「ヌシ様、お願いです。出ていけなんて言わないでください」

「出ていけなどとは言わぬ。だがこのままではそなた、本来の生き方が叶わぬだろう。つがいの相手や子と一群れを成し、共に同じものを食べ、同じところで眠る幸いを得られぬまま、むなしく独り朽ち果てることになるぞ」


 諭すために語っている言葉が、ドラゴン自身の心に突き刺さった。

 背赤の命は儚い。一年でどうにか一度だけ子をなして死んでしまうものも少なくないし、順当に暮らせても三年から五年がせいぜいだ。


 この広い岩屋をせわしく働き回る、小さな生き物がいなくなる。ふと見やればいつも、黒い背に走る鮮やかな炎の色がすぐ目に入ったのが、見回しても目を凝らしても、がらんとした空虚だけになる日が来る。


 未来を予想しただけで、かつてない痛みに襲われた。痛くて痛くて、苦しくて、うずくまりたくなるほど。

 彼は黄金の目を瞬かせ、違う光景を見ようとした。


「冬になれば、ここでは満足な食事も得られまい。飢えて倒れる前にそなたが下界に戻り、仲間たちと幸せに暮らし、そしていずれ子らの誰かがここを訪ねてくれたなら、そのほうが良い」

「……ヌシ様は、わたしでなくとも“背赤”がいれば満足なのですか」


 ぐすん、と背赤が鼻を鳴らした。問う声にはなじる響きなど当然ない。そんな不遜は微塵も抱かず、彼女はただ、この岩屋の主の心をおしはかろうとしていた。


 最上位のドラゴンから見れば、低位の生き物など、ひとつひとつを個として判別するほどの存在でもない。そのぐらい背赤も承知しているし、ドラゴン自身もかつてならその通りと応じただろう。小さな生き物の暮らしぶりをただ、珍しいものとして観察していただけだったなら。

 だが、今では。


「たとえ別の背赤がこの岩屋に住み着いたとて、そなたの代わりにはならぬ」


 彼は寂しげな吐息をもらし、未練を断ち切るように、そっと背赤から手を離した。


「だが、そなたの面影を宿すものが訪ねてくれたなら、そなたがいなくなった後のむなしさも慰められよう。……我とて好んでそなたに帰れと言うのではない」


 このままの日が続けばと、どれほど願っていることか。

 しかし正直におのれの愛着を吐露したなら、背赤は決して去ろうとすまい。そう思って、ドラゴンはぐっと堪えた。


 背赤はしばし無言で、耳と尻尾を力なく垂れてしょんぼりしたが、ややあってぽつりと言葉を漏らした。


「ヌシ様。……わたしの仲間は、みんな、ニンゲンに殺されました」


 語尾が今なお残る恐怖に震えた。ドラゴンはわずかにうなずく。そうだろうとは予想していた。


 いくら幼くて鈍くさくても、こんな高山のてっぺんまで風に吹き流されてくるなど、尋常ではあり得ない。子が未熟なうちは親が必ず庇護しているものだし、たとえ事故で昇り風にさらわれたとしても、元の場所に帰りたい思いがあれば、途中でどうにか降りているはずだ。

 遠くへ、遠くへ。ひたすら遠くへ飛び、殺戮の手を逃れたい一心だったのだろう。 


 背赤はぎゅっと拳を握ってから、濡れた目を上げて彼を見つめて続けた。


「もう、誰も生き残っていないかもしれません。生きていても……散り散りになったから、行方がわかりません。だから、山から下りても、お望みのように仲間といっしょの暮らしには戻れないでしょう。……ここに置いてはいただけませんか? ヌシ様のおそばにいたいです」


 まっすぐに、ひたむきに、けれどあくまでも謙虚に告げられる純粋な望み。まさしく神に祈るかのような。


 ドラゴンは即答できなかった。小さな背赤の望みは彼にとって嬉しいものだったが、同時に痛みを強いるものでもあった。死を見届け喪失に耐える痛みを。

 瞑目し、じっと考えふける。長い沈黙の末に彼は口を開いた。


「ひとつだけ念を押しておくぞ。下界に戻って仲間を探すのが困難であるから、ここに留まりたい、というわけではないのだな? 叶うならば本来の、つがいをなし子を産み育てる暮らしを送りたいが、やむを得ぬから、というのでは」

「違います!」


 思わずのように、背赤は激しい声で否定した。次いですぐさま無礼に気づき、慌てて平伏する。


「申し訳ありません! お言葉を遮るなんて、あるまじき無礼をいたしました!」

「かまわぬ。そなたの気持ちはよくわかった」


 ようやっとドラゴンは微笑を見せた。途端に背赤もぱあっと輝くばかりの笑顔になる。地面に膝をついたまま、大仰に何度も何度も、彼を伏し拝んだ。


「ありがとうございます、ありがとうございますー!!」

「よさぬか。そのようにばたばたしては、また転がるぞ」

「もうそんな子供じゃありませんから大丈夫です!」


 鼻の頭に砂をつけて笑い、背赤はひときわ丁寧に頭を下げた。

 確かに、ころころした幼い体型ではなくなったので、以前よりは転がる回数も減った。減っただけで、なくなってはいないのだが。


(子供ではない、か)


 ドラゴンはほろ苦さと共に、改めて背赤が成熟しつつあることを認識した。今はこう言っていても、いずれ、子孫を残し種族を世界に拡げるという本能が優るかもしれない。つがいの相手を捜しに山を下りるかもしれない。

 むろんそれが自然であり、望ましいことなのだが。


(そうなればと望む一方で、ずっとこのままと願いもする……勝手なものだな)


 いつぞやと同じ思いを抱いて、彼は諦めまじりに、なんとなく尾を一振りした。

 ――と、その時。


 おのれのなわばりに張り巡らせた感覚の糸が、気配を捉えた。

 ぴくりと身じろぎし、頭をもたげる。本来の身体で長い首を伸ばす癖のままに。知らず眉間にしわが寄る。

 背赤もまた急いで立ち上がり、身構えた。


「な、何ですかヌシ様、また『暗がり歩き』ですかっ」

「ああ……うむ。だがまぁ、遠いゆえ放っておくとしよう」


 ドラゴンは曖昧な口調で答え、ごまかすように耳の後ろを掻く。妙な態度に背赤がひっかかりをおぼえてじっと見ていると、彼は気恥ずかしそうに補足した。


「最初にそなたをずいぶん怯えさせてしまったからな。本体で炎を吐けばここからでも消し飛ばせるが、この身体で始末するにはわざわざ下りてゆかねばならん。そこまでするほどのこともなかろう」


 いささか言い訳がましいのは、かつて小さな生き物に無頓着だったおのれを恥じているからか。背赤はドラゴンの変化を目にして頬をゆるめた。


「見逃してやっていただけませんか、とわたしがお願いしたのを、覚えていてくださったんですね。ありがとうございます」

「いや、まぁ……我ながらちと大仰であると気付いただけだ」


 ドラゴンはごにょごにょごまかして、それきりこの件には触れなかった。



 ――そうして彼は背赤に黙ったまま、その夜、密かに岩屋を抜け出したのだった。


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