6.ドラゴン、死にかける(再)
ニンゲンたちの闖入からしばらく、背赤はやや茫然とした様子で日を送っていた。ドラゴンもあえて尋ねはせず、いつものように黙って見守り続けた。
そうするうち、背赤も思い切りをつけたらしい。以前のように、精力的に岩屋を動き回って網を点検し、繕い、掃除して、食事に毛づくろいにと忙しい毎日を送るようになった。
外は夏の盛りで、高山の頂とはいえそれなりに生き物も活発になる。背赤も毎日、ごちそうにありつけた。
嬉しそうに食事する背赤を眺め、岩屋の主も目を細める。
「地脈の恩恵があるとはいえ、腹が満ちるのはまた別格の幸せのようだな」
「はいっ! ここに辿りついたばかりの頃は、少しごはんが足りないかなぁ、って感じだったんですけど。夏になったのと、ヌシ様がお姿を変えられたおかげかもしれませんね。小さい生き物たちが岩屋に近付きやすくなったんじゃないでしょうか」
「かもしれぬな」
ドラゴンは軽くうなずいた。今の姿は、だいぶ背赤に近くなっている。毛並みの色は相変わらず薄紫だが、一度ニンゲンを真似た成果で顔立ちがそれらしい。
彼が以前より親近感を抱かせる外見になったからだろう。背赤は手に持ったままのトカゲの半身に目を落とし、うーん、と思案したのち……そっ、と差し出した。
「あの、ヌシ様もいかがですか?」
さすがにドラゴンは変な顔をした。背赤は慌てて言い繕う。
「し、失礼でしたら申し訳ありません! もちろん、ヌシ様がわたしと同じものなど召し上がらないのは承知しております。でも、その、……ヌシ様と一緒にごはんを食べられたら、もっと幸せなんじゃないかって……」
言う間に声が小さくなり、耳が垂れて尻尾がきゅっと巻き込まれる。後悔と共に手が引っ込められる前に、ドラゴンはさりげなくも素早く、ささやかな食事をつまみ取った。
「分かち合う幸福、というものか。我には無縁のものと思うておったが、さて、試してみるとしよう」
途端に背赤は黒いつぶらな目を潤ませて歓喜の表情になり、尻尾をばさばさ振った。こうまで期待されては、もう逃げられない。ドラゴンは微苦笑して、手にしたものを眺めた。
食事、というものを、過去まったくしなかったわけではない。
地脈の具合が良い自分だけの場所を見付けられるまでは、ドラゴンといえども世界をさまようことになる。彼の場合は幸いそう歳月もかからず、先住者がちょうどいなくなった岩屋を手に入れられたが、それでも彷徨の途中で飢えを満たすために、上位種を幾度か食らった。
それは食事というよりは単に“吸収”という方が近い行為なのだが、なにぶん他の生き物のような食事をしたことがない彼にとって、違いのわかる由もなかった。
(まさか死にはせぬだろう)
このトカゲに毒はない。背赤と同じように、歯で肉を食いちぎり、数回咀嚼し、飲みこむ。それだけのこと。同じようにする、その行為が大事なのだ。
期待と不安が相半ばする背赤のまなざしに促され、彼は不慣れな動作でトカゲを口に運び、牙を立てた。ぷつり、と皮を破く感触と共に、液体が滴る。反射的にこぼさぬよう飲みこみ、急いで肉を食いちぎった。思いのほか固い。
なんとも複雑な顔で顎を動かし、飲みこむ。初めて知る“味”という感覚が、彼の精神に予想外の変化をもたらした。
「……背赤よ」
「は、はい」
厳粛な声で重々しく呼びかけられ、背赤は思わず居住まいを正す。その膝に、ドラゴンは食べさしのトカゲを慎重に返した。
「すまぬ。姿形は似せられても、そなたと同じようには食事を楽しめぬようだ」
詫びた表情はあまりに弱々しく、まるで――そう、まるで今にも泣き出しそうに見えた。背赤は目と口を丸く開いて、とっさに何の言葉も出て来ず固まってしまう。
その前で、ドラゴンは深く息をついて両手で顔を覆った。
「これほどの痛撃を受けようとは……なんということだ……」
小さく呻いてよろよろと立ち上がり、本体のそばまで行ってくずおれる。
知らなかったし、想像したこともなかったのだ。
他の生き物らがみな、低位の生き物を食らって命の糧としていることは承知でも、それが実際どういう感覚かなど、最上位のドラゴンが体感する必要はなかったから。
不味い――それだけのことが、どれほど精神を抉るかとは。
ようやっと我に返った背赤が大慌てで駆け寄って来ると、うずくまった彼の背中を小さな手で懸命にさすった。
「わあぁ! ヌシ様、しっかりしてくださいー! ごめんなさいごめんなさいわたしのせいで! うわあぁぁん!!」
いつもならば心動かされる叫びも、今だけは、どう反応するのも億劫だ。背赤にしてみればせっかくのごちそうを分け与えたというのに、これではさぞ失望するだろう。とは思っても、取り繕う気力が出ない。彼はもそもそと獣のように丸くなってしまった。
「生きているのも嫌になった……」
「うわ――!! ヌシ様ぁー!!!」
※ ※ ※
ひと眠りして生きる気力を取り戻したドラゴンが目を開けると、岩屋の中は茜色に染まっていた。黄昏だ。雲に遮られぬ夕陽の光がまっすぐに奥まで射し込んでいる。
うっそり身を起こして見回すと、背赤の姿はなかった。一瞬不安に駆られ、すぐに気配を探って居所を調べる。と同時に、外から黒い毛玉がひょこっと覗いた。
「あっ……!」
それだけ叫んで、背赤はぱたぱた駆け寄って来る。両手に何やらあれこれ抱えて。
ドラゴンがばつの悪さから何とも言えずにいる間に、背赤は彼の前にざっと膝をつき、抱えていたものを下ろしてから額を地面につけた。
「申し訳ありませんでした! 浅はかな考えで、ヌシ様にわたしごときと同じものを差し上げるなど」
「良い。我がおのれのことを承知しておらなんだのだ。せっかくの、そなたの馳走を無駄にしてしまったな」
「ヌシ様が謝らないでください、わたしが悪かったんですから!」
「良いと言うておろうに。這いつくばるでない」
ドラゴンはおのれの不甲斐なさに苛立ちながら、やや強引に背赤の肩を掴み、起き上がらせた。そして、すっかり潤んだ黒い双眸がまた決壊しないうちに話をそらせる。
「外で何をしておったのだ? これは……ツルコケモモではないか」
「はいっ!」
背赤はしゃんと姿勢を正し、涙を拭って笑顔をつくった。持ち帰ってきたものをより分け、順に示してゆく。
「どれかはヌシ様のお口直しになるのじゃないかと思いまして! お肉がだめなのでしたら、草の実や果物なら良いかと!」
「…………」
性懲りもない、と言うべきか、不屈の前向き楽観力、と言うか。どちらでも良いが、試されるのはドラゴンの味覚と精神力である。
彼は何とも言えない気分で背赤の収穫物を眺めた。もしもこれらすべてがトカゲ同様、根こそぎ気力を奪われる味であったなら、いつまで耐えられるか。
視界の端で、大好きなヌシ様の反応を待つ黒い尻尾が静かに揺れる。
(それほど、我と食事を共にしたいのか)
無言の圧力に逆らえず、彼は苦笑しながらコケモモの実をつまんだ。大袈裟なほどの気構えをもって、慎重に口に含む。意を決して嚙み潰すと、甘酸っぱい果汁が広がった。
酸味の刺激に思わず顔をしかめたが、それも一瞬のこと。甘さが驚嘆と幸福を運んできた。
彼の表情の変化を、背赤は固唾を飲んで見守っていた。そして、どうやら自分の選択が正解だったらしいとわかると、ほおっと深く安堵の息をついて肩の力を抜く。
「ああ良かった! ヌシ様、美味しいですか?」
「……うむ。どうやら、これは食べられるようだな」
無防備に甘味に心奪われたのが気恥ずかしくて、ドラゴンはわざとしかつめらしく応じる。だが背赤はそんなことに構わなかった。
収穫物のなかから自分も食べられるものを少し取り、改めてドラゴンに向かい合うと、照れながらも心底嬉しそうに礼を言った。
「ヌシ様と一緒にごはんが食べられるなんて、本当に光栄です幸せです! ありがとうございます!」
「礼を言うのはこちらだ。そなたには、実に驚くべきことばかり教わっておる」
皮肉めかした答えを返してから、ドラゴンもまた、嬉しそうにほほえむ。
そうして一頭と一匹は、幸せな一時をともに堪能したのだった。
※現実のツルコケモモの果実が食べられるのは9-10月ですが、異世界です&地脈の都合です、ということで悪しからず。