5.ドラゴン、情けを知る
岩屋に戻り、安全な奥の方に下ろされると、背赤はすぐさまくるりと向き直った。
「ヌシ様、あのニンゲンはなんなのでしょう」
「我らが居を定めた場所には、時々あの手合いが来おるのだ。我らを斃して名を上げようという愚かな蛮勇に駆られた者。あるいは我らが稀有な宝を隠し持っていると信ずる強欲な者……今回の連中は少し違うようだが。仲間どもは引き返さず登ってくるつもりのようだ」
すらりとした首をもたげて遠くを見るような仕草をした後、岩屋の主はおもむろに姿を変えはじめた。光が全身を覆い、竜の輪郭がゆるんで再び二つ足の形をとってゆく。だが今回は尻尾がないようだ。
最終的に背赤の前に現れたのは、かなりニンゲンに近い生き物だった。長い髪とゆったりした衣服は、鱗と同じ薄青紫。青年の顔をしているが、黄金の双眸のせいで冷厳な印象を与える。
「ふむ……こんなところか」
「すごいですヌシ様! 本物のニンゲンみたいですよ!」
背赤が驚嘆の拍手を送ると、ドラゴンの化身は大したことではないとばかりに肩を竦めた。背赤は若干引き気味になる。
「わぁ……仕草までニンゲンぽいです……」
「死んだ男の霊魂から、必要な情報を得たのでな。この姿も恐らく、奴らの崇める何者かのなりと似通っておろう。追い返すだけのために本体を目覚めさせたら、そなたの身に危険が及ぶやも知れぬゆえ」
巨大すぎるおのれの身体を仰ぎ見てから、彼は背赤に思いやりのこもったまなざしを向けた。
「本体は動かさぬゆえ、そなたは我の陰にでも隠れておれ。ニンゲンどもに見付かると面倒だ」
「あっはい、そうですね! でも、良いのでしょうか」
「そなたの援護は必要ないと思うが、まぁ、こっそり見守っておれば良い」
ドラゴンは面白そうな声音になった。こんなに小さく非力な生き物だと言うのに、ただ隠れてやり過ごすのでなく、自らも立ち向かおうと言うのだろうか。
彼が愉快がったのを感じて、背赤は慌てて弁解した。
「いえあのっ、わたしごときがヌシ様をお助けできるなどとは露ほども思っておりませんけどもっ! ただ、わたしがここにいてはお邪魔になるのではありませんか。本来のお姿でなら、ニンゲンの一人二人、すぐにも消し飛ばせるでしょうに。さきほども、わたしのせいで炎を吐けなかったのでしょう?」
その声の妙な硬さに、おや、とドラゴンは目をしばたたいた。いつも無邪気で楽しげな背赤が、今だけはぎゅっと口を引き結んで泣きそうな顔をしている。
「ニンゲンを消し飛ばすのが、そなたの望みか」
「……望み、とは……違います。でも」
背赤はふるふると頭を振ってうつむいた。黒い耳がぺたんと伏せ、尻尾が垂れ下がって足にぺったりはりつく。ドラゴンはゆっくり歩み寄り、小刻みに震える肩を抱き寄せてやった。
「恐ろしいのだな。さもありなん、奴らはそなたら背赤を見つけるなり殺しにかかりおるからな。手出しせねば噛まれはせぬというのに、猛毒を持つからと。案ずるな、そなたには決して害を加えさせぬ。隠れておれ、なんならぐっすり眠らせてやっても良いぞ」
「ヌシ様は、いけ好かなくは、ないのですか。『暗がり歩き』よりもニンゲンのほうがましなんですか」
「ふむ。いけ好かぬ度合で言えば似たり寄ったりだがな。ニンゲンどもは言葉だけで我が領域から追い払うことも可能であるし、何より……あまり大勢を殺すと、後がしつこくて面倒なのだ。今、下から来ておる数人を消し飛ばすことはたやすい。だがそうすれば恐らく、誰一人帰らなんだとて怪しんだニンゲンがまたやってくるだろう。そうなれば、そなたも安心して外を歩けまい」
なるべく平易に説明し、諭しつつ、彼は朱色の背を撫で続けた。ほんの少しずつ、気付かれないように、眠りの息吹を送りこみながら。
こわばっていた背赤の身体が徐々に緩み、呼吸が深くなる。とろんと瞼が下りてきたのを見計らい、彼は小さな黒い毛玉を抱き上げた。ドラゴンの巨大な尾がとぐろを巻いているところへ運んで横たえ、外から見えないように隠す。
すやすやと眠る背赤を眺めて彼はほほえみ、次いで刺すような痛みをおぼえた。
(こうまでしたところで、そう長くはもたぬ命だというのに)
今、心を砕き守り世話をしてやったとて、所詮、あっと言う間に散る儚い生き物だ。いったいなんの意味があるというのだろうか。
小さな生き物の暮らしぶりをただ眺めているだけであったなら、突然の外敵によって殺されたとしても、ああ、と息をつくだけで終わっていただろうに。
むろんその外敵に対して、なんらの感情を抱くこともなかったろうに――
そんなことを考えながら、彼は岩屋の入り口に向き直った。荒い息遣いと足音、金具のこすれる音がもうそこまで近付いている。
彼は傲然と仁王立ちして、招かざる客を迎えた。
「さっさと出てこい、ニンゲンども。我に何用だ」
厳しく呼びかけると、外で驚きたじろぐ気配がした。不意打ちでも狙っていたようだが、愚かなことである。
ややあって、三人の男と一人の少年がそろそろと姿を現した。そして、一様にぎょっとした顔をする。ドラゴンは腕組みし、鼻を鳴らした。
「どうした。うぬらが話しやすい姿をわざわざ用意してやったのだ、早う申せ」
「あ……」
先頭にいた一人が、抜き身で構えていた剣を地面に置き、恭しくひざまずいた。身に馴染んだ礼儀作法からして、騎士だろう。残りの面々も、戸惑いながらそれにならう。
実のところドラゴンは、彼らの立場も目的も既に知っていたが、あえて彼ら自身に語らせた。
「偉大なる竜の一族、岩屋のあるじたる君の平穏を騒がせたる無礼、何卒お赦しください。我らはあなた様の慈悲を乞いに参りました。どうか、あなた様の霊力の宿る鱗をほんの一枚、お恵みください」
騎士が述べると、その後ろで小汚いなりの男が口を開いて乱杭歯を覗かせた。
「わしらの国では重い病が流行っております。薬も祈祷も効きやしません。頼みの王様も王子様も、寝込んじまいました。あとはもう、言い伝えにあるドラゴンの生き……っ、ごほん! 鱗にすがるしかないというわけで」
うっかり失言しかけた途端に横から小突かれ、男は顔をしかめる。卑屈に言い終えてから、彼は横を睨んで舌打ちした。
粗忽な仲間を止めたのは、ローブに身を包んだ男だった。魔術師か呪い師か祭司か、その辺りだろう。ドラゴンは興味がなかった。
「なるほど、うぬらは我の不意を突いて生き血なり肝なりを獲ろうともくろんだか。無知の一語に尽きるな。我が姿を目にしてなお、それが叶うと思うてか」
蔑みもあらわに彼は言い、眠る本体を一瞥する。騎士が唇を噛んだ。鱗を所望したのは、剥がした時に血の一滴も落ちぬかと期待したのだろう。武力で戦利品を得られる相手ではないと悟ったがゆえの計略だろうが、浅はかにすぎる。
ドラゴンは冷ややかに言い放った。
「すみやかに去れ。我はうぬらが期待する生き血など持たぬ。我らドラゴンは世界をなす力の一部、うぬら中位の生き物の手で扱えるものではない。うぬらが狩り、皮を剥ぎ肉を食ろうて利用する獣と同じに考えるでないわ」
「この通り、無礼は幾重にもお詫び申し上げる。どうか我らの無知に免じて、お慈悲を」
騎士が額を地に擦りつけた。彼の身分からして、それはニンゲン社会であれば相当な意味をもつ行為だろうが、ドラゴンの心を動かすにはまったく無力だった。
「くだらぬ。うぬらニンゲンにだけ慈悲をかける理由などない。うぬらが増えれば他の種族が侵される。うぬが同族を助けたいと願うは自然の情であるように、我がニンゲンどもを死ぬに任せるのも自然というものだ。慈悲をと申すならば、命があるうちに帰れ」
「……っ」
騎士が拳を握りしめる。と、その後ろから、ローブの男が顔を上げて叫んだ。
「ならば! ならばどうか、せめて一人! あなた様が奪われた我らの仲間の命、一人分だけでも救っていただきたい!」
「ほう」
予期せぬ駆け引きを持ちかけられ、ドラゴンは興味を引かれた。思わず失笑がこぼれる。
「うぬらを出し抜き、手柄を独り占めしようとした輩の命を贖えと申すか」
尾で叩き飛ばした瞬間には、あの男の首は折れ、あばらは砕けて絶命していた。その霊魂が騒がしく恨みつらみに未練執念を巻き散らすので、彼にもたやすく、ニンゲンたちの考えが知れたのだ。
この一団が決して協調しているわけではないこと、しかしながら主君に対する忠誠が結束させていることも。
ずばりと言い当てられ、ローブの男もまた言葉に詰まる。だが彼はうつむかず、ひたむきにこちらを見つめ続けた。彼らのあるじとよく似た姿をした、岩屋の主を。
ふっ、とドラゴンは苦笑を漏らした。彼らの必死さが、不意に憐れに思われたのだ。
「健気よな。その小賢しさに免じて……よかろう、一人だけ助けてやろう」
やれやれと譲歩し、彼はおのれの本体とその下を走る地脈を意識した。知識と精気をほんのわずか手繰り寄せ、氷の息吹で冷やして雫に凝らせ、結晶に変える。
じきに彼の掌に、ころん、と薄紫色の透明な石が転がった。
「そら、取るが良い」
ふっと息を吹きかけて飛ばすと、羽毛のようにふわりと舞い、騎士の目の前にゆっくり漂ってゆく。騎士は驚嘆に目を見開いたまま、急いで両手を差し出して恭しく結晶を受け止めた。
「助けたい者の口に含ませてやるが良い。たった一人だぞ、心して選べ」
「あぁ……、ああ、かたじけない……! この御恩はいずれ必ず!」
平伏した騎士に、ドラゴンはもう興味を失ったとばかり素っ気なく応じた。
「良いから帰れ。そして二度とこの山に登るな。他のニンゲンどもにもよく言い聞かせよ。我らの住まう地においそれと近寄るな、うぬらに都合の良い宝など何ひとつ得られはせぬ、とな。それともうひとつ――」
言いさして彼は、黒い毛玉の眠る辺りを見やり、口をつぐんだ。
むやみに他種族を殺すな、と命じかけて、『暗がり歩き』を消し飛ばしたおのれが言う矛盾に気付いたのだ。
(勝手なものだな。……そういうものか)
おのれが背赤を守りたいのも、このニンゲンたちが主君を助けたい一心であるのも、それぞれの勝手だ。そしてそれが、情というものなのだろう。
彼はちょっと瞑目し、続きを待っているニンゲンたちを手振りで追い払った。
「良い。もう帰れ」
困惑しながらも、ニンゲンの一団は急いで岩屋を出ていく。一刻も早く、貴重な霊薬を彼らのあるじに届けたいのだろう。
静かになった岩屋で、ドラゴンはそっと本体の尻尾に腰を下ろし、眠る背赤の柔らかい毛を指で梳く。このまま、ずっとこのまま変わらずに過ごせたら――と、埒もない願いを胸の内で繰り返しながら。