4.お花見とお邪魔虫
急峻な山の頂を、今日も風が駆け上がる。空に飛び立つ不可視の天馬が助走をつけるように。
身体の軽い背赤は、飛ばされまいと岩にしがみついた。ひときわ強い風をやりすごし、ふう、と息をついて作業に戻る。ゆうべの食事で残った骨を、斜面の下方まで埋めに来たのだ。
小さな手で掘った穴にごみを埋めて、石を載せる。
一仕事終えて岩屋に帰ろうと振り向いたところで、思いがけない姿を目にして驚いた。
「ヌシ様! ど、どうされたんですか!?」
岩屋の主がゆっくり斜面を下りてくる。むろん本来の姿ではなく、存在を縮めた謎生物の身体で。
一歩ごと、興味深げにいちいちじっくり足元を見回しながら、彼は背赤のそばまでやって来た。
「別にどうもせぬ。気が向いたから出てきたまでだ。こうして見ると、小さきものの世界は随分とせわしく面白いものだな」
黄金のまなざしが、草の一本、虫の一匹を捉えてゆく。これまで大きな視点で把握していた世界の微細な構造に分け入ることで、新たな発見に興味をそそられているのだ。
背赤は照れくさそうに笑った。
「そう言って頂けると、なんだか嬉しいです! もしかして、今みたいにお姿を変えられたのは初めてなんですか?」
「うむ。そんな必要もなかったのでな。これほど見るべきものが豊富と知っておれば、折々に楽しんだものを」
「わたしたちにとっては当たり前の景色と暮らしですけど、ヌシ様には面白いのですね。あっ、それじゃあ、わたしがこの辺りを案内しますよ! 最近あちこち歩き回って、いろいろ発見したんです。野ネズミの巣穴とか、ツルコケモモの生えてるところとか!」
背赤は意気込んで、ぴょんと跳ねるように前へ出る。同時にまた風が吹き上げ、危うく飛ばされそうになったのを、ドラゴンの手がはっしと捕えた。
「そら、気を付けぬか」
「も、ももも申し訳ありません! 命綱を忘れておりました!」
慌てて背赤は謝り、遅まきながら太めの糸を編もうとする。が、手を掴まれているので糸が紡げない。あのー、と訴えるように上目遣いをした背赤に、ドラゴンはまじめくさって言った。
「手をつないでおれば飛ばされまい。そもそも、そなたは跳ねまわりすぎだ。飛ばされずとも、斜面を転げ落ちるぞ。案内するのは良いが落ち着いて歩け」
「……すみません」
しゅん、と背赤は耳と尻尾を垂れる。それもつかのま、すぐに気を取り直して、嬉しそうに主の手を引いて歩きだした。
「そうだ、最初にお花を見に行きましょう! 昨日は蕾が多かったんですけど、今日はいっぱい咲いてるかも」
こっちこっち、と案内する足取りは浮かれ弾んでいる。ドラゴンは苦笑を隠して、楽しげに揺れる尻尾の後をついて行った。
つないだ手を通じて、背赤の無邪気な喜びが伝わってくるようだ。儚い命の限り、今ある世界をせいいっぱい楽しんでいる魂のきらめき。そのいじらしさに、彼は目を細めた。
愛しい――と、初めて感じた。そんなおのれに、新鮮な驚きを味わう。
思えば彼にとって、この世界に在ることはすべて当然であった。世界に力が満ち、おのれが在り、種々の命に溢れていること。世界の一部たる感覚をもつ最上位のドラゴンにとって、すべては自然であり、なんら驚きや感動に値しないはずだった。
だが、どうだ。小さな生き物をよくよく見つめ、その視点と同じ高さに下りてゆけば、あらゆることが奇蹟にも思えてくる。
(かほど小さきものに教わることがあろうとはな)
前を行く、漆黒の毛並みに走る炎の色が、闇からの出口を示すかのように眩しい。
「あっ! ほらほら、見て下さい! これ!」
背赤が足を止め、手を引っ張った。岩に膝をついて屈み、示されたところを見ると、なるほど清楚な薄青紫の花が風を避けてひっそりと咲いている。
「昨日見付けて、ヌシ様みたいだなーって思ったんです。ヌシ様にもお見せしたかったんですけど、摘んでもいいのかわからなかったから……一緒に見られて嬉しいです」
えへへ、と背赤が幸せ満面に笑う。ドラゴンはむず痒くなって、ごまかすように花を見つめた。小さいながらもどこか清雅な花弁の色形は、岩屋で眠っている本体の姿を連想させなくもない。
「リンドウの類だな」
「わぁ、さすがヌシ様ですね! こんな小さな花の名前もご存じなんて、すごいです!」
「……まぁ、この世界にあるものについては、おおよそ知っておるからな。だが、こうして実物をこのような形で目にしたのは初めてだ」
背赤に毒があることも、この花がどんな場所に咲きどんな動物の餌になるかも、みな知っている。だがこれほど間近に見たことも、むろん手を触れたこともなかった。
彼はいくぶん恐る恐るといった仕草で指を伸ばし、柔らかい花弁にごく軽く触れた。自然と口元が笑みにほころぶ。
「良いものを教えてくれたな、背赤よ」
「……!!」
途端に背赤はぱあっと輝くばかりの笑顔になって、大きく万歳した。勢いで後ろに引っくり返り、ころころ斜面を転がり落ちる。
きゃー、と尾を引く悲鳴と共に小さくなる黒い毛玉。ドラゴンは唖然として見送り、やれやれとひとつため息をついてから、急ぐでもなく追っていった。
※ ※ ※
「あいたっ!」
大きな岩棚にぶつかってようやく止まった背赤は、ぎゅっと瞑っていた目を開けた。涙でにじんだ景色は天地逆さまである。やるせない気分でそれを眺め、よいせ、と半回転して足を下ろした。
「はぁ……なんでわたし、こんなに鈍くさいんでしょうね……仲間でこんな鈍くさいの、誰もいなかったのに。しょっちゅう飛ばされるし転がるし。ごはんが足りないのかな」
ぶつぶつ独り言をつぶやきながら、ともあれ帰らねば、と斜面を見上げる。昇りの風は相変わらず吹き続けているから、上手く乗ればすぐに岩屋まで戻れるだろうが、試してみる勇気はなかった。
せめて命綱をどこかに結んでおけば良かった、と後悔しつつ、登りの一歩を踏み出そうとした時だった。
「――!」
気配を捉えた両耳が、パッと後ろを向く。と同時に背赤はしゃがんで身を低くしていた。足音だ。聞きなれた、野の獣たちのものではない。同族のように二足で歩く、しかしずっと重く大きな音。
(こっちに来る)
まずい、隠れないと。だがどこに?
焦って陰を探している間に、もうその足音は岩棚の上に辿り着いてしまった。一旦止まり、はぁ、と深い息がこぼされる。背赤はその真下にへばりつき、見つかりませんようにと一心に祈る。
「くそ……まだか。遠いな」
荒い息の合間に毒づき、二足歩きの生き物は呼吸を整えている。やがて、岩棚から足が下ろされた。大きな一歩が背赤の頭を悠々とまたぎ越していく。ザリッ、と小石が鳴った。
(振り返るな、こっちを見るな、そのまま行ってしまえ……!)
口から心臓が飛び出しそうだ。背赤はかろうじて身体の震えを抑え込み、息を殺して縮こまる。薄目を開けると、背赤も知っている生き物の後ろ姿があった。
ニンゲンだ。身体を覆う毛皮は、恐らく狐のもの。足には革や樹皮を使った靴を履き、腰や背に回した革帯には小さな袋がいくつもぶら下がっている。そして、三本目の足のように左腿の傍らで宙ぶらりんになっているもの――。
ヒュッ、と喉が音を立てた。
刹那、ニンゲンの男が振り向く。そして、ぎょっと目を丸くした。
「子供!? ……いや違う、おまえは」
男は舌打ちするなり、さっと手を剣の柄にかけた。驚き一色だった顔が瞬時に殺意に彩られる。
「こんな所で!」
抜き放たれた刃が陽射しを反射してきらめく。背赤がとっさに横っ飛びに逃げたと同時に、なぜか男が反対側に吹っ飛んだ。
あれっ、と背赤は目をぱちくりさせた。光る鞭のようなものが、風を切ってしなる。その戻っていく先を見て、今度は口がぱかんと開いた。
「ヌシ様ー!? どうされちゃったんですか!!」
謎生物の姿だったのが、大きさはそのままで竜のなりに戻っている。男を吹っ飛ばしたのは長い尾だったのだ。
ばさりと翼を畳んで降り立つと、縮小サイズのドラゴンは問答無用で背赤の首根っこをくわえた。
《帰るぞ》
「わわわっ! あああの、でも、アレはどうするんですか!?」
《捨て置け。下から仲間が登ってきておる、見付けて始末するだろう》
「えっ、えっ、でもでも」
《そなたが気にかけてやる必要はない》
冷ややかな思念には一切の情がこもっていない。背赤が黙ってしまうと、ドラゴンは優雅な翼を広げて風に乗り、ねぐらへと戻っていった。