3.一緒に暮らすための約束ごと
「しかしそなたも、おかしな奴よな。あれほど怯えておったのに、我が倒れた隙に逃げようとは思わなんだのか」
ようやっと背赤が泣き止んだ後、ドラゴンは怪訝に問いかけた。背赤のほうもきょとんとして、あれ、とばかり首を傾げる。
「そう言われたら……なぜでしょうね? でも、ヌシ様が倒れたら大変じゃないですか。ヌシ様が死んでしまったりしたら、それって一大事で、ええっと……とにかく大変なので、怖いとか逃げるとか、そんなどころじゃなくって」
まったく説明になっていないが、どうやら、岩屋の主が倒れたら大変だ、ということだけは理解できているようである。
ひとつの場所を占めている強大な上位種が突然失われたら、危険な空白が生じる。そこを埋めようとする生物の争いや力の変動によって荒れ、背赤のように非力な生き物は潰されてしまうだろう。
(理屈はわからぬながら、本能でわきまえておるのだな)
興味深いことだ、と彼は背赤を見つめた。黒く丸い瞳がじっとまなざしを返し、次いで嬉しそうに細められた。
「ヌシ様は、わたしを気にかけてくださいました。あ、それはその、ご機嫌を損ねたら恐ろしいのは確かですが。でも、近くで暮らさせていただくのなら、ちっとも気にかけられないより、見ていてくださるヌシ様のほうがいいです」
そこまで言い、背赤は好奇心を丸出しにして、同族に見えなくもない不思議な主のまわりをぐるりと回った。
「しかもまさか、こんな風に姿を変えてまでそばに来てくださるなんて……びっくりです。すごいですね! ヌシ様に直接触れた背赤なんて、きっとわたしが世界で初めてですよね! 自慢にします!」
「そなたら背赤に触れたドラゴンも、我が初めてであろうよ」
来い来い、と手招きし、おとなしく寄ってきた背赤の頭や背をくしゃくしゃと撫で回す。本来の身体のままでは味わえなかった感触だ。なかなか心地よい。
背赤は嬉しそうに目を細めていたが、突然はっと我に返るなり、喉元を掻いていた手をがっしと掴んだ。そして、おのれが噛みついた辺りを今さら慌てて大丈夫かと確認する。
「案ずるな。痕も残っておるまいが」
「……ですね。ああ、良かったぁ……わたしたちの牙に毒があるのは知っていましたが、まさかヌシ様が倒れてしまわれるなんて」
「今の我は、あれの切れ端にすぎぬからな」
言って彼は、眠るドラゴンの身体を視線で示す。
「本来の状態であるなら、そなたに噛まれたぐらいで斃れはせぬ。仮にこの身体が毒で崩れても、我の存在に支障はあらぬゆえ、もしまたうっかり噛みつくことがあっても、慌てるでないぞ」
「そそそそそんな! 一度でも非礼きわまりないのに、もう一度など!! 絶対にもう二度といたしません、ヌシ様に噛みつくぐらいなら牙を抜いてしまいます!」
「馬鹿を申すでない。そなたの身を守る大切な牙であろう」
「大丈夫です! ここには、わたしを食べようとか殺そうとかするひとは来ませんから!」
つまり危険なのは目の前の主ひとりだと言っているわけだが、背赤は自覚がない。今にも口に手を突っ込みかねない決意の表情である。
ドラゴンは呆れつつたしなめた。
「そのままにしておけ。……我がそなたを怯えさせなければ良い話だ」
最強の上位者から内省的な言葉が出たもので、背赤は声を失ってぽかんとした。次いで、いやいやいや、と慌てて首を振る。
「わたしがいけないんです、恐れのあまり我を忘れてしまって! この岩屋に住まわせていただくだけでももったいないのに、ヌシ様に気を遣わせてしまうなんて罰が当たります! わたしが怖がらないように頑張ります!」
度胸をつけます、と言いたいのか、背赤はドンとおのれの胸を叩く。はずみでころんと後ろにひっくり返った。
一回転して起きあがり、面目なさげに言い足す。
「ですから、あの、……どうか嫌わないでください」
「嫌うなど。好ましいと思えばこそ、そなたが住まうのを許しておるのだ。何度も言うておろう、そなたを傷付けはせぬ、と。『暗がり歩き』一匹を始末しただけではないか」
「も、申し訳ありません!」
背赤は慌てて土下座し、額を地面に擦りつけて詫びる。しばしそうしてから、しょんぼり身を起こして悲しげに言った。
「わたしは臆病なのです。弱くてちっぽけで、なんにもできなくて……ヌシ様がお怒りになったら、それだけでもう、消し飛んでしまいそうになるのです」
「怒ってなどおらぬ」
ドラゴンは困惑してしまった。彼が『怒り』を抱いたなら、その時はまさに、一帯の生き物すべてが震え上がって逃げ出すだろう。その間もなく絶命するものもあろう。
今こうして生きて言葉を交わしていること自体が、怒ってはいない証拠だ。
しかし背赤は得心がいかない様子である。彼は丁寧に答えてやった。
「奴らはいけ好かぬだけだ。もし我が怒っておれば、今頃、山の形が変わっておる」
「あ、あの……それなら、見逃してやってはいただけませんか。わたしも『暗がり歩き』は好きではありません。でも、ヌシ様がお怒り……いえ、あんな風にお力をふるわれるほどのことではないのでは」
提案する背赤の声がかすれた。せいいっぱい勇気を振り絞っているのだろう。ドラゴンはなんとも複雑な顔でそれを見やり、眉間にしわを寄せた。
「否。我が知覚する範囲に奴らが一匹でもおれば、不快でたまらぬわ。ましてや、そなたが苦心してかけた網を破き獲物を奪ってゆくとあらば、断じて見逃せぬ」
背赤は黒いつぶらな目を限界まで見開いた。動揺に視線をうろつかせ、緩みそうな口元をぎりぎりで引き締め――たものの、結局満面の笑みになってしまう。
「ヌシ様がわたしのごはんを守ってくださるなんて、とんでもない光栄です!! 幸せです、嬉しいですー!」
「う、うむ」
まぶしいほどの幸せオーラを浴びせられ、ドラゴンは若干ひるんだ。照れくさい、という慣れない感情をおぼえ、落ち着きなく身じろぎする。
背赤はそんな彼の反応に気付かず、まじめな面もちになって続けた。
「確かにヌシ様が案じられるのも、ごもっともですね。このまま岩屋のそばまで近寄って来るようになったら、わたしも、見逃して、なんて言っていられなくなるかも……そうだ! これからは、骨とか殻とか、できるだけ遠くまで捨てに行きます。『暗がり歩き』が寄りつかないように」
「ああ、それが良かろうな」
思い当たってドラゴンもうなずいた。『暗がり歩き』は、およそ生き物のいるところならどこにでも生息しているが、この岩屋の近くにはめったに現れない。
だが今になって彼に知覚されるところに出てきたのは、餌となるものがまとまって捨てられるようになったからだろう。背赤は毎日、食べ残しの骨や殻を掃除するが、うんと遠くまでゴミ捨てに行くわけではないからだ。罠に気付かれなければ充分なのである。
「しかし、あまり岩屋から離れては、また風に飛ばされるのではないか」
「大丈夫です、命綱をつけて行きます!」
背赤は一瞬うっと詰まったが、得意の糸紡ぎを手つきで示した。今度また飛ばされたら、それこそ天界にまで昇っていきかねない。上空で凍死して昇天、ということだが。
ドラゴンは苦笑をこぼし、背後で眠るおのれの本体を振り返ってから言った。
「そう遠出せずとも、ほどほどで良かろう。しばらくは、我もこの姿のままで過ごすとしよう。されば多少の力をふるったところで、そなたを震え上がらせることにはなるまい。……どうした?」
「あ、いえ。今さらですが、ヌシ様のそのお姿って、なんなのでしょうか」
「……」
至極不思議そうに、なんなの、と言われてしまい、ドラゴンも返答に詰まる。ややあって彼は、いささか気まずそうにつぶやいた。
「そなたら背赤に似せようとしたのだがな」
「ふぇッ!?」
思わず背赤が奇声を上げ、ばっ、と両手で口を覆う。薄紫の毛並みに覆われた、人とも狼とも何ともつかない姿のまま、岩屋の主はため息をついたのだった。
「見たままの姿形を取るというのも、存外難しいものだな……」