2.ドラゴン、死にかける
快適な岩屋はドラゴンが占拠しているとはいっても、彼が気にかけない程度の小さな生き物たちは、岩と岩の隙間や陰を走りまわっている。
だからして、背赤の設えた網にも何かしら獲物がかかった。背赤よりもまだずっと小さな虫、トカゲ。
腹を満たすには少々足りないが、そこは地脈の恩恵で、衰弱せずにいられる。たまに野ネズミのような大物がかかると、力作の網はずたずたになってしまうので、いちから作り直しだ。
毎日あちこち走り回ってせっせと網をかけ、獲物をとらえて食べ、破れたところを繕う。食べられない殻や骨は外へ捨てに行って、獲物が罠に気付きにくいように掃除する。それが背赤の生活のすべてだった。
そしてドラゴンは、そんな健気でせわしない暮らしぶりを、ただ眺めている。
ある日ふと背赤は振り返り、相変わらず黄金のまなざしがおのれに据えられていることにちょっと怯んだ。もしかして、ずっと見られていたのだろうか。ほかにする事ないのかな、などと失敬な感想がちらっと胸をよぎり、ごまかすように問いかける。
「ヌシ様は、ここで何をしていらっしゃるのですか?」
《そなたを見ておる》
そのまんまだった。
背赤はどう理解すべきかわからず、つぶらな目をぱちぱちさせた。質問しなおすべきだろうか、それは失礼だろうか。
小さな生き物の困惑を、ドラゴンは内心楽しんでいたが、声音はまじめくさったまま問い返した。
《そなたは何をしておるのだ》
「えっ、わたしですか? ええーっと、網をかけて獲物をとって、食べて、掃除して、繕って、寝ます」
ドラゴンの返事があれだったので、背赤もできるだけ具体的に、今まさに何をしているかを指折り数える。黄金の双眸が細められた。
《そうか。忙しいのだな》
「はいっ! 毎日やることいっぱいです!」
《楽しそうで結構なことだ。では、邪魔はすまい》
ふっ、と思念が笑いの気配を帯びる。背赤は複雑な面持ちで首を傾げ、ややあって結局、さっきしまいこんだ言葉を口にした。
「ヌシ様は、ほかにする事ないんですか? 退屈しませんか」
《そなたを見ているだけで退屈はせんな。そもそも、我が何をすると思うのだ》
「何って……」
反問され、背赤は素直に考える。
やるべきこと。生きるために必要なこと。
「つまり、食べたり、獲物を狩ったりです」
《大地の力で腹は満ちると言うたろう。我がそなたのように生き物を食らうなら、こんなところにおってはとても足りぬわ》
「そ、そうでしたね! 失礼を申しました!」
慌てて平謝りした背赤に、岩屋の主は愉快げな思念をくれた。うっかり本当に笑ったら、鼻息で吹き飛ばしてしまうから大変だ。
《知らぬのだから失礼もあるまい。我らドラゴンは最高位の生物ゆえ、ただ『在る』だけで充足するのだ。まぁ、地脈の具合が良い場所を探すために、一時は世界を飛び回ったがな》
ドラゴンは中低位の生物と異なり、ただ忽然と『在る』生き物だ。生存競争だの繁殖だのにわずらわされることもない。何かを見たりおこなったりして楽しむことはあるが、何もせずとも退屈などしない。そういう生き物だから。
……というようなことを、彼は噛み砕いて説明してやった。小さな背赤は、おのれの生とかけ離れた、想像したこともない命のありように、すっかりぽかんとしてしまった。
「ふわー……なんというか、気の遠くなるお話ですねぇ。やっぱり高位のひとは世界が違います。わたしなんて、毎日ごはんのことしか考えていないようなものですよ」
《しか、と言うなら、我とてここしばらくは、そなたのことしか考えておらんな》
しれっと何やら意味深長な言葉を投げられる。背赤はうろたえ、意味もなくそこいらを見回してそわそわした。
「わ、わわ、わたしなど召し上がってもおなかの足しにはなりませんよ? それにきっと不味いですよ!」
《知っておる》
「ひッ!?」
背赤はぴょんと跳んで逃げかけ、はずみでひっくり返って後ろにころころ転がる。岩にぶつかって止まった時には上下逆さまになっていた。その姿勢に、とうとうドラゴンが失笑した。
《我が食ろうたわけではない。そなたらが食えたものではないと知っておるのだ》
不味いどころではない、猛毒の持ち主だ。よほど無知か、飢えでおかしくなったのでもない限り、背赤を捕食するものはいない。毒を避ければ食べられるが、即死の危険を冒してまで狩るよりは、もっと楽な獲物を狙うものだ。
「あ、さようで……」
背赤はほっとしたような、少々がっかりしたような、複雑な声音で言って立ち直った。
と同時に、突然ドラゴンが身にまとう気配を変えた。
びりっ、と大気に稲妻が走ったようだった。
竦んだ背赤の目の前で、ドラゴンが岩屋の外を睨み、鼻面に皺を寄せて牙を剥き出す。鱗の一枚一枚に細かい光の粒が流れ、背びれが静かに揺らめきだした。
殺意。紛れもなく明白な、辺りを払うほどの。
それだけで既に、背赤は魂が消し飛ぶ心地だった。何もできず、ただ畏れおののき、瞬きも呼吸も忘れて、目の前の強大な存在に圧倒される。
のそり、とドラゴンが動いた。ほんのわずか身を浮かせ、首を伸ばしただけだが、まるで山ぜんたいが揺れたような錯覚を起こさせる。
ズシャリ。巨体の一歩にしては軽い、しかし気配は腹の底に響く音を立てて、ドラゴンが歩む。そうして彼は岩屋の端に近づき、いきなり口を開いて火炎を放った。
めらめらと燃える炎ではない。熱くまばゆい輝きの一条が奔る。
灼かれた岩が消し飛んだ。その陰にいた生物もろともに。
背赤の身体がガタガタ震えだした。おのれの意志では止められない。
ふん、とドラゴンが不機嫌な鼻息を吹き、標的を確実に消し去ったことを確かめてから、のそりと元の位置に戻ってきた。殺気は消え、全身にまとっていた光も失せているが、背赤の恐怖はまったく薄らがなかった。
岩にへばりついて腰を抜かしている背赤に、ドラゴンは複雑なまなざしをくれた。
《『暗がり歩き』だ。奴らはいけ好かぬ》
声音は少々ばつが悪そうだったが、背赤にはそれを認識するだけの余裕もない。
いけ好かない。
それだけの理由で、消し飛ばされる。一瞬の猶予も慈悲もなく、圧倒的な力でもって。
背赤も『暗がり歩き』は知っているし、好きではない。他の生き物の食べ残しや死骸ばかり漁る連中で、こそこそした振る舞いがだいたい嫌われているのだ。網にかかった獲物をうっかり回収し忘れたら、横取りされることもある。
だが、際立って害や脅威となる生き物ではない。とりわけドラゴンほどの上位種が、わざわざ火炎を吐いてまで消し飛ばす必要など皆無だ。唯一、いけ好かない、という理由さえなければ。
ならばもし、おのれがほんのわずかでも、この岩屋の主を怒らせたら。不愉快だと嫌悪を抱かせたら。その時は――
一方でドラゴンも、滅多にないことだが、困っていた。
こんなに極端な反応を示されるとは思っていなかった。背赤に対して何をしたわけでもないのに。
《怯えるな。そなたは安心しておれば良いのだぞ》
目の前で他者に暴力をふるっておいて、おまえは傷つけないから安心しろ、と言ったところで無意味である。そうした当然の防衛心理を、しかし、ドラゴンは解さなかった。
完全に恐怖に支配されている小さな生き物に対し、どう接するべきかわからず途方に暮れる。
あんまり怖がらせて、噛みつかれでもしたら危ない。単に逃げ出されるだけなら害はないが、それで良しと去らせたくもなかった。ほんの数日で、彼はこの小さな生き物に愛着を抱いていたのだ。
飽かず倦まずせっせと風を紡ぎ、かかった獲物に一喜一憂する。それはドラゴンの目には大層せわしなく、かつ愛しい暮らしぶりであった。
(どうしたものか……たかが『暗がり歩き』一匹を始末しただけで、こうも怯えられるとは)
なだめてやりたいが、もはや背赤は失神寸前で、何を言っても聞こえていない様子である。
(大きすぎるのがいかんのか)
はた、と彼は思い当った。これほど巨大でなければ、きっと恐ろしさも半減するだろう。それに彼自身、もうちょっと近くで背赤を観察したい気持ちもあった。繊細な網も、ここから眺めるのではただの白いもやもやだ。拡大して見てみたい。
よし、と決めると、彼はすぐにおのれを縮めにかかった。
存在の一部を切り離し、残る大部分を眠りにつかせる。鱗が見る間に輝きを失って、石のように硬く冷たくなってゆく一方、前肢の間に精気が凝縮し、確たる輪郭を取りはじめる。
なるべく背赤に近い大きさ、姿形に――強くそう念じる。
理屈上、ドラゴンはおのれよりも低位の生き物の姿を自由にとることができるが、やはり極端に開きがある生き物は難しい。
苦心しつつ、彼はどうにかおのれを圧し縮め、固め、不慣れな身体に押し込んだ。
現れたのは、なんとも不思議な姿だった。背赤のように二本足で立ち、尾を持つが、全身を覆う毛並みは黒ではなく、鱗と同じ薄青紫。顔はどうしても背赤のようなのっぺりした造作にならず、竜の面影が残った。突き出た口吻は獰猛な狼の類を思わせる。
安心させるため、という目的には少々努力不足の感が否めない。
彼がそろりと用心深く足を動かして背赤の方へ進むと、憐れな黒い毛玉は腰を抜かしてへたり込んだ。当然の結果であるが、ドラゴンはなおもまだ、おのれがそこまで恐れられるのが釈然としない。そばまで寄って、片膝をついて語りかける。
「背赤よ。なにゆえそれほど我を恐れる。我はそなたを傷付けぬと言うておるに」
できるだけ穏やかな声を心がけたが、背赤はヒュッと喉を鳴らして息を飲み、這いずって逃げようというのか、手で虚しく辺りを探り回るばかり。
その態度に、ドラゴンはつい苛立ちをおぼえた。
これほど言うてもまだ怯えるか。
我の言葉を信じぬのか。
わざわざ身を縮めまでしてなだめてやろうというのに、無下にするか。
チリッ、と空気が焦げた。自分でも意識しない間に、彼は背赤に手を伸ばしていた。縊るか、潰すか、それとも。
ほんのつかのま高まった殺意に対し、小さな背赤は生命をかけて爆ぜた。
「わあぁぁぁ――!!」
絶叫するなり、凍りついていたのが嘘のような激しさで、身に迫る手に噛み付いたのだ。
小さくも鋭い牙が、鱗のない皮膚に突き刺さる。
まさか攻撃されるとは夢にも思わなかったドラゴンは、反応が遅れた。振り払おうとした時には既に、背赤は跳ぶようにして逃げている。待て、との思念は声にならなかった。
一瞬で全身が燃えるように熱くなる。同時に、凄まじい勢いで命が削られていくのがわかった。本来の全存在であってさえ脅かされる猛毒である。切り離された一部分に過ぎない今、彼はなすすべもなく倒れ伏した。
(これが死か)
おのれが消えなんとしているのをまざまざと感じ、喘ぐ。力が、存在が、世界の基盤から剥がれ落ちてゆく。蒸発しそうなほどに熱く、凍りつきそうに冷たい。
「……ヌシ、さ、ま?」
微かな声が届いた。彼はなんとか身じろぎし、声のほうへ顔を向けようとしたが、既に感覚は鈍く力は失われ、思うに任せない。
岩肌をそろそろと踏む足音が近付く。やがて、背赤の爪先が視界に入った。
「ど、どうして、まさか」
震え声と共に背赤が両膝をつく。黒く丸い目は涙に潤み、溶けてしまいそうだ。おのれがしでかしたことの結果におろおろし、薄紫の毛並みに触れて、そっと肩を揺する。
「ヌシ様、しっかりしてください! ああ、ど、どうしたら……わたしの、せいで」
「……くな」
泣くな、と言おうとしたのに声が出ず、ドラゴンは木枯らしのような息を漏らした。なんと脆弱で無力なことか。
(しかしまぁ、悪くはない)
肩に触れる小さなふたつの手のひらの温もり。彼を惜しみ、悼んでこぼされる涙の美しさ。呼びかけ、励ます声の心地よさ。
どれも本来の姿では知ることのなかったものだ。
とは言え、いつまでも滝のように泣くがままにさせていたら、本当に目の玉が流れてしまうかもしれない。
(このまま消えるに任せるつもりであったが、そうもゆかぬか)
分身にすぎないのだから、おのれが消えたら本体が目覚めるだけのこと。しかしそうしたらこの背赤は、悲しみで絶命しかねない。
ドラゴンは仕方なく、眠っている本来の自身を意識し、そこから力をひとすじ引き出した。少しずつ少しずつ、背赤が糸を紡ぐのを真似て手繰り寄せ、身を蝕む毒を打ち消してゆく。
ややあって呼吸が楽になった。熱が引き、身体の感覚が戻ってくる。
彼がゆっくり慎重に起き上がると、背赤が感激のあまり抱きついてきた。
「うわぁぁん! ヌシ様―!!」
「こら、そう泣くな、干からびてしまうぞ。……やれやれ。そなた、おのれの毒を知らなんだか」
「良かったですぅぅぅー!! うわーん!!!」
こちらの言うことも耳に入らない様子で、背赤はぎゅうぎゅうしがみついて泣き続ける。温かくふかふかした感触を全身で受け止め、岩屋の主は苦笑した。
つい先ほどまで、魂も消し飛びそうな怯えようだったというのに、今や安堵と喜びのまま無防備に身を任せてくる小さな生命。
(ああ、これは参った)
毒などなくとも、この純真な愛情だけで殺されるに違いない。
彼は天を仰ぎ、それから観念して、背赤を抱き返してやった。炎のように赤いひとすじを、大切な宝物のように撫でさすりながら。