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賢くなりたい(4)


 夜の帳が山の頂をすっぽりと包んだ後も、岩屋の中は、ドラゴンの鱗が放つ清涼な青紫の薄明かりにほんのりと照らされていた。

 背赤はドラゴンの動きを妨げないよう岩壁の窪みに身を潜めて丸くなり、姫君は隅っこに出現したふかふかのマットレスで軽い羽毛布団にくるまって、それぞれすやすや眠っている。どちらも安らかな寝顔だ。


《そなたが提案したのだろう。ここに連れて来て見せてやれば良い、と》


 岩屋の主がひっそりと思念を送る。姫の傍らで眠りを守っている魔女が小さく笑った。


《いかにも、畏れながら。竜の生き血などを求めて山に登った者どものもたらした顛末と、王子殿下の興味深いお話から、伝手を使ってあれこれと情報を集めまして。あ、直接こちらを覗くなんて不作法はいたしておりませんよ、ご承知でしょうけれども念のため。まさかすべてのものの頂点に君臨される御方が、うっかり背赤に噛まれて死にかけるだとか、トカゲをごちそうされて生きているのも嫌になるだとか面白いことをなさってるなんて露ほども存じませず》


 ぷぷぷ、と笑いを堪えて魔女は口に手を当てる。ドラゴンは忌々しげにちょっとばかり牙を剥いたが、それ以上の反応は抑えた。うっかり苛立ちをあらわにすれば、威圧を放ち、眠る少女ふたりを悪夢に突き落してしまう。


《ふん。そなたこそ随分面白いではないか。上位魔族でありながらニンゲンの子供にかしずくとはな》


 じろりと睨みつけてやった視線の先で、魔女は艶やかに微笑んだ。額にその名の由来たる、琥珀のような第三の“目”が露出する。

《我ら悠久の時を生きるものも、たまさか儚い生き物を愛でたくなるものです。そうでしょう? つまり、可愛いは正義、ってことですけど!》

 ふふっとおどけた魔女に、ドラゴンは胡散臭い、という感情だけを送り、言葉は控えた。


《それにしても、随分と知能の高い背赤もいたものですね? まるで知恵の果実を食べたかのように……》


 魔女の赤い唇が深い弧を描く。ドラゴンの背びれに小さな稲妻が走る。

 寸刻の緊張は、魔女が額の“目”を閉ざしたことで解けた。


《よしましょう。ここで争っては可愛い子らが泣いちゃいます。山がえぐれて、具合のいい場所がなくなるのももったいないですしね。本当、ここは地脈が近くて居心地最高ですわ~》

《……まったく、地脈から力を得られるからと節操なく魔術を使いおって。そんないい加減さで、よく怪しまれもせずニンゲンどもに紛れ込んでいられるな》

《うふふ、美人は色々ごまかせるんですよ》


 魔女はおどけて首を竦める。ごそごそ動く音がして振り向くと、姫が寝返りを打ったはずみに掛け布団を蹴飛ばしていた。

 静かにそばに寄って布団を直してやり、少女の真珠色の髪を撫でて、魔女はふと遠い目をする。


《お互い、大切にしたいものですわね》


 何を、と言う必要はなかった。ドラゴンは黙って、岩陰に切り取られた星空をじっと見ていた。


   ※


「それじゃあ姫様、もう目的は達したわけですし、兄上様にお知らせしてお城に帰りましょうね」


 ジャムつきパンケーキとミルクの朝食をすませた後で、もう魔女が帰り支度を始めたので、姫は不満の声を上げた。


「もう? どうせなら一月ぐらいここにいてもいいのに。お兄さまも少しは心配して、わたしを放り出したことを後悔するといいんだわ」

「そうですわねぇ、一月も離れていらしたら姫様も随分しっかりなさるでしょうし、兄上様に甘える方法なんて忘れておしまいになるかもしれませんね。姫様は兄上様の前だとわがままの甘えっ子になられますから」


 わざとらしく魔女が言い、姫は赤くなってむくれる。ぷくっと膨らんだその頬を人差し指でつついて、魔女は「ちょっとお待ちくださいね」と笑いながら姿を消した。


 独りになった姫君はひとつ深呼吸して、ドラゴンの巨体にまっすぐ向き合った。そして、胸に手を当てて膝を軽く折り、頭を下げる。正式な礼だ。


「尊き慈悲の君、岩屋のあるじ様。このたびはわたしのわがままでお膝元を騒がせましたこと、お詫び申し上げます」

《たわいもない。そなたごときが何の痛痒になろうか》


 ドラゴンはそっけなく応じた。姫はいったん臆したように縮こまったが、ちらりと背赤を見て、もう一度顔を上げて話しかける。


「また、こちらを訪ねてもよろしゅうございますか。わたしはまだ、背赤のことをよく知りません」

《……下界の背赤を観察する方が、自然なありようを学べるぞ。ここは地脈が通っておるゆえ、この背赤の暮らしぶりはいささか他と異なっておる》

「だとしても、背赤の住処にわたしが近付くことは、まわりが許さないでしょう。ここで学び、暮らしぶりや姿を写生して帰ったなら、皆にも背赤のことをよく知ってもらえると思うのです」

《ふむ。……と言うておるが、背赤よ、そなたはどうだ》


 いきなり質問され、小さな姫の変貌ぶりにぽかんとしていた背赤はびっくりして飛び上がった。文字通りに。例によってころんと一回転して、あたふたと立ち上がる。


「えっと、ヒメサマがわたしの絵を描いてくださるのなら、嬉しいです! ヌシ様も一緒だと、もっと嬉しいですけど」

「あなたって本当に、なんでもヌシ様、ヌシ様なのね」

 姫は呆れて言ってから、はたと気付いて眉を寄せた。

「待って。ヌシ様、ってお呼びしているのは、この岩屋のあるじ様だからよね。そのヌシ様も、あなたのことは背赤としか呼んでいなけれど……お互い、名前を呼ばない決まりでもあるの?」


 思いがけない指摘に、背赤はきょとんとした。何を言われたのか今ひとつ理解できず、困ってドラゴンをふり仰ぐ。

 視線で託されたドラゴンが代わって答えた。


《ニンゲンの子供よ。我に名はない。我ら上位種のなかでも最上位にあるものは、名によって定められる存在ではないゆえにな。そして……背赤たちはまた別の理由で名を持たぬ》

「えっ」


 姫は目を丸くし、背赤を見つめた。上位の存在が名を持たないというのは不思議だが、下々のものが気安く呼べる存在ではない、と言われたら納得できる。だが背赤にも名前がないとは。


「背赤は群れで暮らすんでしょう。だったら、あなたとか君とか呼ぶだけでは、誰のことだか区別がつかないじゃないの」

「よくわからないんですけど……特にそういうの、要らないので」


 群れで暮らすと言っても、ほぼ家族だけだ。父母や兄弟姉妹、といった関係の呼び方で足りるし、その外の者についても大体なんとなく通じる。固有の名前などあったら、それを覚えて関係と一致させるだけで大変ではないか。

 ……といったことを、背赤はつたない言葉で説明した。いちいち名前がなくとも、それぞれの存在を認識していたし、そこにいない誰かのことを話題にするような場面もなかったのだ。


 背赤の一生というものがほんの数年、ごくごく限られた範囲の小さな集団のなかで完結し、一族の歴史を語り継ぐような文化的素地もなく、ただ生きることのみに終始する――その端的なあらわれが、無名。


 聞いた姫君はしばらく声を失っていた。魔女が戻ってきたのにも気付かないぐらいに愕然とし、次いで真剣に考え込む。


「……だったら、わたしがあなたに名前をつけるわ。ええ、名前が必要よ。だってあなたのことは、わたしが絵に残して、皆にも教えるんだもの」


 低く唸るような声には、どこか挑戦の響きがある。

 魔女は、なんだか面白いことになってますわね、と言うような目をドラゴンにくれたが、黙って成り行きを見守った。

 一方で当の背赤は、期待していいのか何なのか実感が湧かず、曖昧な顔で小首を傾げてゆっくり尻尾を揺らしながら、じっと姫の言葉を待っていた。


 そして。


「決めたわ! あなたの名前はね、『こつぶ』よ!!」


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