賢くなりたい(1)
なんとなく思い付きで書き始めた番外。
オチは決まってますが、まとめられるかは不明。
予めご了承のほどお願いいたします。
どうにも妙なことになった。
岩屋のあるじ、生物の頂点に君臨する偉大なドラゴンであるところの彼は、目下なんとも困惑していた。
住処のすぐ外、涼しい風が吹き緑の草がそよぐ晩夏の高山の爽快さも、気分を変えてくれない。
ニンゲンに近い仮の姿を取ったドラゴンは、ため息をついて腕組みした。目の前にいるのは、ひざまずいて頭を垂れるニンゲンの若い男女、その後ろで泣きはらした頬をぷっと膨らませて突っ立っている少女。
(どうしてこうなった……)
思わず天を仰いだ彼の横で、小さな背赤もまた、途方に暮れて首を傾げたのだった。
※
その日の朝のこと。
いつものように小さな背赤がせっせと罠を点検し、かかった獲物を回収して嬉しそうに食べ、ドラゴンは飽きもせずそれを見守る。そんな平和な一日のはじまりに、何者かがドラゴンの意識に呼びかけてきたのだ。
『薄明のあわいを翔ける君、雷光をまといし尊き御方にご挨拶を奉る』
声なきことばの呼びかけは、絶えて久しくなかったことだ。ドラゴンは驚き、嫌な予感を抱いた。
この挨拶を送ってくるということは、相手は“わきまえた”高位の生き物だ。無視しても拒否しても、いささか面倒になる。自分ひとりのことならばどうでも良いが、小さな背赤がいるのに厄介事は避けたい。
仕方なく、相手が望んだ訪問を受諾し、岩屋の外で会うことにしたのだ――が。
空間がよじれてどこかとつながり、現れたのは、ニンゲンの三人組だったのである。
※
「二度と来るなと言うたはずだが、そなたはつくづく性懲りもないな」
苦々しく唸ったドラゴンの前で、同じ顔をしたニンゲンの青年が一段と深く頭を下げた。
「ご迷惑は重々承知。誠に申し訳ない」
ひとまず謝罪し、その割には悪びれない態度で立ち上がる。恐れげもなくドラゴンを見る目は、相手が話を当然聞いてくれるもの信じきっていた。
「尊き慈悲の君よ、貴殿が庇護するものに関わることなのだ。どうか頼みを聞いてもらえまいか。実は我が妹姫のことなのだが……」
前置きして王子が語ったのは、たわいなさに反して命に関わる事柄だった。
いわく、姫は人外に対する好き嫌いが極端に激しいのだそうだ。話に聞くだけで見たこともないのに、そんなおぞましい生き物は滅ぼしてしまえ、と言うのである。ベッドに虫がわいたから丸ごと焼き払え、と言うかのように。それもかなり本気で、しつこく繰り返し求めるとか。
そして、彼女の最新の“天敵”は、なんと背赤であるという。
「私もかつては、狭い考えでいた。我々にとって害か益か、それのみを判断の基準とし、猛毒の背赤などは……滅ぼせとは言わぬが、見つけ次第殺すべきだと、それが当然と信じきっていた」
そこで彼が視線をくれたもので、当の背赤はびくりと竦んでドラゴンの背後に隠れた。王子は優しい苦笑を浮かべると、歩み寄って身を屈めながら語りかけた。
「だがあの邂逅以来、見方が変わったのだ。そなたら背赤にも、命をかけて守ろうとするものがある。追い詰められたら牙を剥くのは獣も人も同じだ、と。……それで、少しは学んだつもりだ」
背赤は怯えと警戒に毛を膨らませたまま、ドラゴンの背後から顔だけ半分そろっと出して様子を窺う。大好きなヌシ様と同じ顔をした(と言ってもドラゴンのほうが似せたのであるが)若者がにっこり笑いかけてきたもので、背赤はこのニンゲンが怖いのか怖くないのかよくわからなくなり、困り果ててしまった。助けを求めてヌシ様を見上げるばかり。
背赤の視線を追うように、王子は背筋を伸ばしてドラゴンに向かい合った。改めて頭を下げ、連れてきた者たちを手で示す。
「妹はまだ十二歳。今は子供の癇癪で済まされるが、あと二、三年もすれば婚約や結婚も現実になる。そうして嫁いだ先で同じわがままを言えば、それが実行されてしまうかもしれない。世界中とは言わぬまでも、領内の特定の生き物を全滅させたり、住処を焼き払ったりといった……殺戮が。それを防ぐため、どうか教えてやってはいただけまいか。貴殿のその、小さきものを愛する心、弱く疎ましきものにさえかける慈悲を」
「疎まれている自覚はあるようだな。そこだけは安心した」
ドラゴンは苦い顔で唸り、やれやれとため息をついた。ほんの気まぐれで見逃してやり、ごくわずかな力と知識を持たせてやった、それだけのことでなにやら慈悲の権化のごとく崇められてしまうとは。面倒なことになったものだ。
「教えろと申すが、説き聞かせてどうにかなるならわざわざ連れて来るまいに。言っておくが、我はニンゲンの世話などせぬぞ」
「その点はご心配なく」
なめらかに応じて立ち上がったのは、ずっとひざまずいていた黒髪の若い女だった。魔術師らしい謎めかしたローブをまとい、先端に宝石の飾られた杖を持っている。
愛想の良い笑みを湛えた顔は、ニンゲンたちの間で美女と賞される類だ。
「尊き御方をわずらわせることはございません。わたくしが姫様の身の回りのお世話いっさいを致します。食事も寝床も、お召し替えも。ええ、城にいるのと変わりないぐらいに。ただ、こちらの岩屋で背赤の娘さんの暮らしぶり、生きざまを、見学させていただきたいのですわ」
「……見るだけで良いのなら、水鏡にでも映せば済むものを」
「まあ、まあ。同じ場所で同じ空気を呼吸することで、得られる実感というのもございます。ほんの数日、お邪魔させてくださいませ」
にこにこと魔女は言って、声に出さずドラゴンだけに聞こえるよう付け足す。
《ヌシ様を虜にしたほどの可愛い子ですもの、じきに我が姫も「いやーんかわいい~」とかめろめろになりますわよ。可愛いは正義!》
《そう上手く行くとも思えぬがな》
胡乱げな気配を返し、ドラゴンはおのれに寄り添う背赤を見下ろした。これを愛しいと感じるようになったのは、その命の儚さを知った上で、せわしなく健気な暮らしぶりを眺めていたからだ。
はなから嫌悪感しか持たない、さほど背赤と格も変わらぬニンゲンが、小さくいじらしいと感じるものかどうか。『暗がり歩き』を好きになれというようなものではないのか。
自分で思いついた例えで不愉快になり、彼は顔をしかめた。帰れ帰らぬと押し問答するのも面倒で、渋々ながら滞在を許可する。
「わずかでも背赤に害をなせば、すぐさま追い払うぞ。その時は容赦も手加減もせぬと心得よ。その小さいニンゲンを死なせたくないのであれば、そなたが守れ」
「お許しありがとうございます」
脅しに怖じる様子もなく、魔女は恭しく一礼する。姫のほうは蒼白になり、血がにじみそうなほどきつく唇を噛んだ。
王子は手を胸に当てて感謝すると、妹姫の真珠色の髪をちょっと撫でて、穏やかに諭した。
「ではな、パール。外の世界の生き物たちがどのように暮らしているのか、その目でしっかり見て学ぶのだぞ」
「いやっ! お兄さまなんか大っ嫌い!」
姫はとたんに金切り声を上げ、兄王子の手を振り払う。王子は困ったように苦笑したが、それ以上は言わず、魔女に目配せした。
魔女がうなずき、杖を掲げる。
「あっ……」
姫が声を漏らすと同時に、王子の体は柔らかい光に包まれて、その場からふわっと消えてしまった。
姫は駆け寄りかけた姿勢のまま、しばし石のように固まり……じきに丸い両目を潤ませて、大粒の涙をぼろぼろこぼしだした。
「……っ、ああぁぁーん! やだぁぁお兄さまぁぁ置いてかないでぇー! わたしも帰るぅぅー!」
顔の半分ぐらいを口にしてわんわん泣くさまは、まるっきりただの子供である。やかましさにドラゴンがうんざり顔をし、背赤はおろおろするばかり。魔女ひとりが慣れた様子で、はいはい、と姫を抱き寄せてあやした。
「ほんの二、三日の辛抱ですよ、姫様。わたくしもおそばにおりますし、姫様がりっぱにおつとめを果たせば、兄上様もたくさん褒めてくださいますから」
「つとめなんて知らない、どうしてわたしがセアカなんか見なきゃいけないの!? 絶対いやよ! 気持ち悪い!!」
気持ち悪い、と言われた背赤はさすがにショックを受け、耳と尻尾をへにゃりと垂れてしまった。ニンゲンなんかにどう思われても構わないはずだし、そもそもニンゲンは背赤たちを殺す生き物だ。なのに、まともに嫌悪をぶつけられると心がしくりと痛んだ。
背赤が悲しい顔でうつむくと、魔女は詫びるような目を向けてから、あらあら、と姫君に苦笑を見せた。
「そんなことおっしゃって、もう姫様は背赤をごらんになっているじゃありませんか」
「うそっ! ど、どこ!?」
姫はぎょっとなって青ざめ、きょろきょろする。その反応に、背赤のほうがきょとんとした。
黒い目をぱちぱち瞬き、耳をピンと立てて首を傾げる。ヌシ様の陰に隠れているから見えないのだろうか。見えてないなら見えないままのほうがいいのかな、どうなのかな、と迷っているうちに、顔だけでなく体の半分ぐらい陰から出てしまった。
ばちっ、と視線がかち合ったのはその瞬間だった。
(しまった!)
殺される、と背赤は恐怖に竦む。だが予想に反してニンゲンの少女は眉を寄せて不審な顔をしただけで、すぐにまた辺りを見回しだした。
「……あれ?」
思わず背赤は疑問を声に出す。魔女が愉快げにくすくす笑った。
「ほら姫様、その子ですよ。今、目が合ったでしょう」
「えっ? ……え、うそ。だってあれ、『慈悲の君』とおんなじ姿じゃないの。背赤って真っ黒で目がぎらぎらしてて、牙がすごくて噛みつくんでしょ。近寄ったら殺されるって。わたしが知らないと思って馬鹿にしないでよ」
ぷんすか怒る姫に、魔女は相変わらず優雅な笑みを湛えたまま、ひんやりした声音で言った。
「誰からお聞きになったんです? 姫様をそんなに怖がらせるなんて悪い人ですね、帰ったらお仕置きしなきゃ」
なにやらえも言われぬ迫力に押され、姫がたじろぐ。それから少女は、用心深くもう一度、そろそろと背赤のほうを見た。
「……背赤ですって?」
「えっと……はい」
こく、と背赤はうなずいて、ほら、と背中を向けて真っ赤な毛並みを見せる。彼女が正面に向き直ると、姫は翡翠の瞳をまん丸に見開いていた。
ざっ、と一歩下がって身構え、裏返った声で叫ぶ。
「噛まないで!」
「え、あの」
「やめて! ちょっとアンバー、笑ってないで助けなさい!!」
「あの……噛みません、けど」
すっかり困惑し、背赤はどんな顔をしていいのやらわからないまま、おずおずと呼びかける。まさか自分のほうがこんなに怖がられるなんて。
どうしよう、と困った時のヌシ様頼みで見上げると、庇うように軽く抱き寄せられた。
「ニンゲンよ、いちいち騒ぐな。背赤は命を脅かされぬ限り、むやみと噛みつきはせぬ」
「そうですわ、姫様」魔女も援護する。「背赤は恐がりですから、こちらから手出ししなければ、ささっと逃げてしまうものなんですのよ。住処に踏み込んだりしないよう気をつけてさえいれば、人間にとってはちっとも害にならない生き物なんです」
大人ふたりから説教されて、姫は不満げではあったが、喚くのをやめて唇を引き結んだ。あきらかにふてくされているのだが、魔女は構わず姫の頭をなでなでして、良い子ですねーなどと褒めている。
ドラゴンは馬鹿馬鹿しくなって、ふいと背を向けて斜面を登りだした。
「背赤よ、帰るぞ」
「は、はいっ」
いいのかな、とちらちら振り返りつつ、背赤も後から岩屋に戻る。あまり何度も振り返っていたもので、案の定、石につまずいてひっくり返った。
「きゃあぁぁー!」
「ヒッッ!?」
すてーん、と後ろ向きに倒れた勢いでさらに転がり、悲鳴と共に飛びのいた姫の横をぽーんと通り過ぎて、さらに下へ。あっという間に黒い毛玉が遠ざかる。
微妙な空気の沈黙がしばし。ドラゴンがやれやれとため息をつき、頭を振りつつ回収に向かった。魔女が笑いを含む声音で茶化す。
「お手伝いしましょうか」
「要らぬ」
ぶっきらぼうにそれだけ言って、ドラゴンは身軽く斜面を下りていく。口元に手を当てて堪える魔女の横で、姫はただただ、呆気に取られていたのだった。




