夏のお客様(後)
小さな客は三日ばかり滞在し、その間、背赤はつきっきりで相手をしてやった。
仔竜は言葉を理解してはいるようだが、自分から話すのはいつも、ぷーとかむーとか、にゃーとかいった鳴き声ばかり。
「ヌシ様、この子、おしゃべりできないみたいですけど、元々言葉をつかわない種族だったんでしょうか」
「わからんな。赤子の魂かも知れぬし、我らとは異なる言葉を使っていたのかも知れぬ。そのような姿になってしまったせいで、うまく言葉を発せられぬということもあろう」
そうですかぁ、と背赤はこだわりなく納得して、仔竜を遊ばせる。風の糸を紡いで見せると特に喜んだので、罠の必要ない場所にまで、さまざまな編み模様の糸が掛けられて、岩屋の中は銀の糸だらけになっていた。
無邪気な仔竜は背赤にすっかり懐き、現れた翌日には、明らかに彼女に対して呼びかけるようになっていた。
「にぇーちゃ!」
「はーい」
背赤もにこにこそれに答え、抱き上げたり食事を分け与えたり、背中や尻尾を掻いてやったりする。
だがそんな触れ合いも、三日目の夜が来て終わった。
日が沈み、岩屋の中が暗くなると、仔竜の体もすうっと薄くなって透けてきたのだ。
膝に抱いていた重みがなくなり、背赤は目を潤ませたが、涙をこぼさず笑みを保ち続けた。最後まで小さな客はにこにこ機嫌が良かったから、悲しい顔は見せたくなかったのだ。
仔竜の輪郭を失ってぼんやりした影だけになった後も、幸せそうな気配は変わらず……
――おねーちゃん!
……嬉しそうな呼びかけだけを残して、消えた。
張り巡らされた銀糸がちらちらと微かな光を反射し、星のように岩屋を飾る。その下で、背赤は長いこと動かなかった。座り込んだまま、声も立てず、ぽろぽろと涙をこぼす。
ドラゴンは別れの邪魔をせず、岩屋の外でじっと佇んで星空を眺めていた。
しばらくして軽い足音が近づき、隣に並んだ。
さらに長い沈黙があり、それからやっと、湿った声がつぶやいた。
「ありがとうございました」
「我は何もしておらぬぞ」
ドラゴンの返事に、背赤はぷっと失笑した。どう慰めて良いかわからない、と正直に声音に現れている。
背赤はうんと伸びをして、本物の星を仰いだ。
「ヌシ様はすごいですねぇ。最初からわかってたんでしょう?」
「……うむ」
「あっ、でもね、わたしも二日目には気がついたんですよ! だって、ねーちゃ、って呼ぼうとしてたから。それに、いろんな……」
無理に明るくしゃべろうとして失敗し、途中で声を飲み込む。またこみ上げてきた悲しさを押し戻そうと苦労していると、驚いたことに、肩に手が回された。そしてそのまま、ぎこちなく抱きしめられる。いつぞや、ニンゲンどもがやってきて取り乱し、泣いていたのをなだめられた時とは違い、両腕でしっかり包み込んで。
あの時はそういえば眠らされたのだった、と思い出した背赤は身じろぎし、恐る恐る声をかけた。
「ヌシ様? あの……」
「間違っていたらすまぬ」
よくわからぬが、とドラゴンはつぶやきながら、丸い頭を、炎色の毛筋が走る背を、繰り返し撫でさする。眠りの息吹を送り込むのでなく、ただひたすらに優しく。この三日間、背赤が仔竜にしていたように。
背赤はたまらなくなって、ぎゅっと相手にしがみついた。悲しいよりも嬉しくて涙が出るのを、どうにか堪えて、伝えたい言葉をゆっくり押し出す。
「ヌシ様、わたし、一生懸命考えたんです」
「うむ?」
「地脈から浮き上がってきた影、っておっしゃいましたよね。っていうことは、わたしも、死んだら地脈のなかに溶けちゃうってことですよね」
「……まあ、そのようなものだな」
目を背けていた未来を突きつけられ、ドラゴンは怯んだが、態度には表さなかった。全身で背赤を抱きとめ、黒い毛並みを撫でていると、不思議とおのれのほうが落ち着いてきたのだ。
短い時を生きる彼女は腕の力を緩め、おのれの死後も遙かに永らえるであろう者の肩に頭を預けたままささやいた。
「そうしたら、ヌシ様、わたしが溶けてなくなっちゃう前に、食べてくださいね」
「――!」
さすがにぎょっとなり、ドラゴンが竦む。背赤はそっと身を離し、黄金色のまなざしに笑みを返して続けた。
「ヌシ様はごはんを食べないかわりに、地脈から力を得ている、っておっしゃってましたよね。だから、わたしの命が地脈に還るのならヌシ様に食べてもらえるってことで、そうしたらわたしはずっとずっと、ヌシ様と一緒にいられますよね!」
「そなた……」
「前にヌシ様が、わたしに『食べろ』って言ってくださったのがどういうことか、やっとわかりました」
しみじみと納得している背赤に、ドラゴンはもう何を言うこともできない。肩に置かれた手も止まったままだ。
そんな彼に、無垢と純真を凝縮したとどめの一撃が、美しい笑顔と共に放たれた。
「えへへ。わたしたち、本当に両想いですねぇ!」
ぐらり、と青年の体が傾ぐ。えっ、あれっ、と慌てる背赤を巻き添えにせぬよう手を離し、彼はよろめき倒れるようにして岩壁にもたれ、座り込んでしまった。
「ヌシ様ー!? だ、大丈夫ですかっ、しっかりしてください!」
「……つくづくそなたには、殺される……」
「うわー!? 待って待って、だめですよヌシ様が先に死んじゃったら一緒にいられないじゃないですか! 死なないでー!」
ひとしきり騒いだ末に、ようやく命に別状がないとわかると、どうにか背赤は落ち着いた。ほっとしてから、岩屋のあるじの横に並んで座り、肩にもたれて一緒に星を見上げる。
「きれいですねぇ」
「……うむ」
遙かな未来を夢見るようなささやきと、ただそれに同意し受諾するつぶやき。それきり言葉はなく、穏やかな静寂と共に優しい眠りがふたりを包みこんだのだった。
(終)




