1.竜の岩屋に間借り人現る
どんな生き物にも、好き嫌いはあるものだ。
食して美味か否か。
なわばりや食料を奪い合う相手かどうか。
おのれの生存に有益か、はたまた害をおよぼすか。
そうした問題とはまったく別に、ただただ、理由もなく好悪を抱く相手がある。
気配がしただけで烈火のごとく殺意を燃やしたり。
あるいはその逆、有害とわかっていても殺せなかったり。
あらゆる生き物を凌駕するドラゴンとて、それは例外ではない。というわけで、今、彼は少々困っていた。
(なぜ、こんなところにおるのだ)
雲を見下ろす高山の頂、自然の岩屋をねぐらにし、あらゆる干渉を極力断って、悠々自適な引きこもり生活を送っていたというのに。
黄金の目が向けられた先、岩屋の隅に、こそこそ動くものがいた。
一見、ふわふわと黒い毛玉である。ドラゴンの爪一枚ほどの大きさしかない。岩と岩の隙間、風の通り道にぴったり身を寄せて、せっせと何やらいそしんでいる。
骨格的にはヒトに近いが、顔や手のひら以外の全身は黒い毛で覆われ、狐のような耳と尾がある。こちらに向けられた背には、炎のように赤い毛がひとすじ走っていた。
(背赤ではないか)
岩屋の主は困惑を深めて首を傾げたが、相手は仕事に熱中していて気付かない。両手で風をつかみ、おのれの息と混ぜあわせて網を織っているのだ。ほとんど目に見えない銀糸を、ふわりふわりと隙間にくっつけていく。野ネズミやトカゲのような獲物を捕らえる罠である。
(……こんなところに、充分な獲物はおらんぞ)
本来なら草一本生えない高さだが、この岩屋の真下に地脈が走っているので、多少は生き物がいる。彼がここをねぐらにしているのも、岩盤浴してさえいれば腹が満たされるからだ。
とは言っても、下界の森林に比べたら非常に生物資源は乏しい。背赤がふつう暮らしているのは、もっと暑くて木や草が生い茂っているところだ。
(どうしたものかな……放っておけば飢え死にするだろうが)
ふう、とため息をつく。それを受けた背赤は、いきなり吹きつけた突風に身を竦め、次いで頓狂な悲鳴を上げた。
「ああっ!?」
労作の罠がちぎれ飛んだのだ。手を伸ばしたが、繊細な風の糸はちりぢりになって外へ吹き流されてゆく。
ああぁ、としょんぼり萎れて座り込んだ姿に、彼はつい哀れをもよおし、呼びかけた。小さな生き物にも聞き取れるように、声は使わず、思念をうんと絞って。
《小さいの。なぜこんなところにいる》
「ヒッ!」
途端に背赤は全身を硬直させた。びくつきながらそろそろと振り返り、間違いなく自分に対して放たれた言葉だと確かめると、
――ころん、とひっくり返った。
死んだふりかと思ったが、それきりぱったり何も反応がない。気絶したようである。
ドラゴンは黒一色の腹を見下ろし、知らんふりしてやったほうが親切だったか、と瞬きしたのだった。
※ ※ ※
ころん、とまた黒いのが転がり、背中の赤い筋が見えるようになった。意識が戻ったようである。
さて、今さらだが無視すべきだろうか、とドラゴンが迷っていると、背赤は怪訝そうにきょろきょろした。次いで状況を思い出したらしく、尻尾をぶわっと膨らませ、跳ねるような勢いで向き直るや土下座する。
「すみませんでしたー!!! ヌシ様がいらっしゃるのはもちろん承知しておりましたが、まさかわたしのようなちっぽけなものを気にかけられるとは夢にも思わず! まことにまことに申し訳ございませんこの通り!!!」
ひとしきり謝り倒し、雷撃やら火炎やらが降ってこないとわかると、背赤はおずおず顔を上げ、座り込んだままほけっと岩屋の主を見上げた。
翼を畳んで寝そべっているといっても、巨大である。ほえー、とゆっくり下から上へ眺めていった続きで、背赤はのけぞってころんとひっくり返った。
身が軽いゆえなのか、単にこの個体が間抜けなのか。判じかねているドラゴンに、一回転して起きあがった背赤は無邪気な笑みを見せた。
「まさかヌシ様にお声をかけていただけるなんて、光栄です~。いやぁ本当に、ヌシ様はきれいですねぇ!」
てらいのない称賛を浴びて、ドラゴンはちょっとくすぐったそうに身じろぎした。その全身を覆うのは、真珠の光沢を帯びて青みがかった薄紫の鱗。首から尾にかけて清冽な背びれが並び、翼は折りたたまれてなお優雅な存在感がある。爪や牙の鋭さを忘れさせるほどの美しさ。
もっとも、当竜は別段、おのれの美醜については気にとめていない。容姿でつがいの相手を競う生き物ではないし、そもそも巨大な全身を映せるものがまずめったにないから、おのれの姿を眺めて評価することもない。
《……で、どうしてここにおる。そなたが生きるに適した場所ではないぞ》
改めて問いかける。途端に背赤はしゅんと萎れた。
「風に、飛ばされまして」
《ふむ?》
「ご存じのように、わたしども背赤の一族は、風と共に生きております。風を紡いで網を張り、風に乗って旅し、狩り場を探します。良い風を見極めて捉え、うまく乗らなければなりません。しかし皆が皆、生まれながらに風の匠というのでもなく……」
そこまで言って、背赤は悲しげに笑った。つまり、風を読み損ね、捉えるべきでない風に乗り、降り損ねて流された……というのだろう。
あげくに雲の上のこんなところまで来てしまうのだから、ある意味、離れ業ではある。
《我が息吹で外へ飛ばしてやれば、下界へ降りられるのではないか》
彼は親切に提案してやったが、背赤は答えなかった。縮こまってうつむき、ややあっておずおずと言う。
「あの……わたしがここにいては、ご迷惑でしょうか。この隅っこ、ヌシ様の長い尾の端もかすらぬところに引っ込んでおりますし、うるさくもいたしませんから」
《おるのは構わぬが》
飢え死にするぞ、と警告しかけて、やめた。どうせ儚い命だ。何気なく息を吐いただけで飛ばされていくかもしれないし、寝返りを打ったはずみにプチンと潰してしまうかもしれない。
(いや……いかんな。それは避けねば)
危険に思い当たり、彼は一言付け足した。
《うっかり潰されぬよう、安全な場所におれよ》
「はいっ、ありがとうございます!」
喜びと感謝をあらわそうと、背赤は大仰に平伏する。どうやらあちらは、単に身命を案じてもらえただけと思っているらしい。ドラゴンは密かに苦笑いした。
警告するかのように真っ赤に燃える背中のひとすじ。
それはほかでもない、彼らが猛毒を持つしるしだ。
背赤は臆病で、自ら攻撃してくることはなく、獲物を狩るのでさえ罠を張ってひたすらじっと待つだけ。だがもし彼らを怯えさせ、噛みつかれたら、ほとんどの生物は即死する。
ドラゴンでさえ、下位の幼生であったり弱っていたりすれば瀕死の苦しみを味わうというのだ。
こんな小さな、爪ほどの生き物だというのに、うっかりプチンと潰すわけにもいかない。あの牙が彼の鱗を通すことはないが、もし当たりどころが悪くて、万が一にも、柔らかい部分に刺さりでもしたら。
(焼いてしまえば問題はないのだがな)
ほんのひとすじ熱を放てば、塵ひとつ残さず消し飛ぶ。だがなんとなく、なぜか、そうしたくなかったのだ。
好き嫌い、というやつである。
そんな彼の都合などつゆ知らず、背赤は嬉しそうに声を弾ませた。
「ああ良かった! この山のまわりは昇りの風が強くて、とても降りられそうにないんです。ここまで飛ばされて、凍えてしまうかと思ったのですが、どうにか岩に糸をかけて降りまして……あとはひたすら、暖かいところを探して這ってきました。この岩屋は素敵ですねぇ!」
《地脈が通っておるからな。そなたも少しは恩恵を受けられよう。我のように、大地の力だけで腹を満たすというわけにはゆくまいが》
ドラゴンが言うと、背赤は黒いつぶらな目を大きくみはった。
「すごい! すごいです、ヌシ様は狩りをしなくてもいいのですね!! わぁ……やっぱり位の高いひとたちは、違いますねぇ。いいなぁ、すごいなぁ」
目をきらきらさせて感嘆され、岩屋の主は背中をもぞもぞさせた。元来、竜属に限らず上位種はおだてに弱い。まずもって「純粋に称賛される」機会が滅多にないものだから、まれに直球をくらうとまともに受け止めてしまうのだ。
下位のものには畏怖され、顔色を窺われ、警戒され逃げられる。位が近いもの同士は、出くわすとだいたい天地を引き裂く死闘になる。時候の挨拶だとかお世辞を交わす余地もない。つまり素直な称賛に応対するすべを身に着ける機会がないので、弱点のままなのである。
そんなわけで、ドラゴンはこの小さな生き物をすっかり気に入ってしまった。
彼自身はその語彙をほとんど忘れかけているが、端的にあらわすならただ一言、「かわいい」という理由で。
※「この『背赤』ってもしかして元ネタは…」と気付かれた方は9/24の活動報告をご覧ください。
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