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どんな些細な話でも表情をくるくる変え、笑い、驚き、感心してくださる院長先生との会話はあっという間に時間が過ぎる。
悲しむときは共に、否、当人以上に胸を痛め、こちらが高めすぎた怒りは穏やかに均し、嬉しい心は倍以上にして返してくれる。そんな方との会話が弾まないわけがない。
それなのに、私がそれを体験したのは今回が初めてだった。
院長先生は、私がろくに話もできなかった頃からずっとこうしてくれていたのに、その優しさを、私はずっと受け取れなかった。その資格を見つけられず、見つけようともせず。許されない、ただそれだけを言い訳に世界を遮断したつもりで、この優しい人達の心を弾いていただけだったのだ。
何も返さず笑いもしなかった私は、さぞや厄介な幼子だっただろう。ただでさえ気苦労の多い、大変な院長という立場にあったこの優しい人の手をどれだけ煩わせたか。
私は何も報いることができなかったというのに、この方は今もこうして私を受け入れている。今更、自分の用意が整ったからとのこのこ現れ、柔らかく迎えられ楽しい時間を過ごさせてもらうだなんて都合がよすぎるというのに。
院長先生はいつだって変わらない。変わらない大人という存在が、子どもにとってどれほど有り難いのか。きっと養護院で過ごした子どもは他の子どもより早く知るだろう。
変わらない存在がどれだけ得がたいものか。本当の意味で理解するのは大人になってからかもしれないけれど。
そんな存在は誰もに必要だというのに、誰もが得られるものではないということは私にだって分かる。大人に辿り着けず、されど子どもには最早戻れず。そんな私でさえ、分かるのだ。
院長先生は、サムアの話に驚き、ジャスミンの話に笑い声を上げ、ウィルフレッドの話に苦笑し、カロンの話に喜び。
カイドの話に、微笑んだ。
子ども達から恋愛の相談をされれば、決して茶化すことなく真摯に、されどめでたいことだと嬉しそうにはしゃいでくれる方が、ただ静かに微笑む。
それだけで、院長先生がどれだけ私のことを気にかけてくださっていたのか分かるようだった。
ご心配をおかけしましたと頭を下げることは簡単だ。お手数をおかけして申し訳ありませんでしたと告げることも容易だ。上辺だけの言動ではなく、心の底からの思いを込めて伝えたい。
けれどそれを院長先生が受け取ってくれるとは思えなかった。
既に幾度か試みた謝罪とお礼の言葉はするりと交わされ、いつの間にか軽やかな笑い声が響くお喋りに変わっている。まるで息をするように淀みなくそうしてしまえるのは、ひとえに院長先生の実力だった。
沢山の子ども達を相手にしてきた方だ。決して蔑ろにせず、されど一つの会話に全てを集中させるわけでもなく。受け入れ、流し、方向を変える術に長けている。
これが足元に絡みつく子ども達十人の言葉を一身に受け止める院長先生の力だ。
相手に不信や不満を抱かせることなく、それどころか気付かせることなく会話の流れを調整する。院長先生が元から得意としていた技能なのか。それとも長い間大勢の子ども達と過ごした過程で会得した技能なのかは分からない。
その技能を会得した院長先生を尊敬すると同時に、私の背は改めて伸びる。
私は貴族の娘として教育を受けている。だが、会話を受け流すことはできても望む流れへ穏やかに淀みなく変化させる術に長けているとは到底言えない。
一人の人間としても至らない私だが、それでもカイドと共に歩み、ライウスの未来を紡ぐ一役を担わせてもらえるというのなら、それは必ず必要になる技能だった。
私が貴族だった頃、友人と言えばカロリーナだけだった。師となるべき貴族の女性はお母様とお婆様だけだったが、その二人は上位となる同性の貴族をあまり持たない人だった。
私達は高い位置に飾られた貴族だった。お人形と、そう呼ばれる置物だったほうがどれだけよかったか分からない、飾り物でありながら災厄を振りまく悪魔だった。
私達は飾られていた。高みに置かれていたといえば聞こえはいいだろうが、誰の声も手も届かない場所で、壊れるまで踊り続けたのだ。
誰の声も手も届かない、私達の声も手も誰にも届かない場所で、私達家族だけがくるくる回っていた。まるでオルゴールの飾りのように。回る土台の上で、歌い、踊り、災厄を降らせ。
民の悲願によって破壊された、愚かな一族だった。
私は会話が上手くない。私が会話を出来ているというのなら、それは相手が上手に合わせてくれているに過ぎないとよく分かっている。
カイドも、カロンも、ジャスミンとサムアもそうだろう。以前の私は、私に怯え、様子を窺ってくる人ばかりに囲まれていた。そして今は、心優しく気遣ってくれる人とばかり過ごしている。
会話が上手くなかろうと、上手くならなければならないのだ。苦手であろうと、得意ではなかろうと、出来るようにならなければならない。
出来ないことを出来ないままに、知らないことを知らないことすら知らないままに。
そんな人間は、カイドの隣に立つ資格などない。それが私であるなら尚のことだ。
至らない自分が努力するのは当たり前だが、目指したい人がいるならここでも私は恵まれていた。
院長先生のような方になりたい。そう思う理由がまた一つ積み重なる。
きちんとした人間になりたい。優しい人間になりたい。毅然とした人間になりたい。
カイドの隣に立つことを許容される人間になりたい。
そんな気持ちはいつだって私の背を伸ばす。
私の特技は災厄を振りまくことだけだなんて事実が重くのし掛かる度、せめて得意とは言えないまでも出来ることを増やしていかなければならないと。素敵な人間にも立派な人間にもなれる素質はなくとも、せめて優しい人達に恥じない行いが出来る人間を目指す努力は怠ってはならないと。
せめて、せめて俯かず、世界を見つめ続けられる人間ではあらねばならないと。
「シャーリー」
「はい」
柔らかな院長先生の声は、いつの間にか強張っていた私の思考を解いた。
院長先生の笑顔はいつだって美しい。この世の善とされる概念を、温もりと定義される優しさを詰め込んだかのような笑顔は、いつだって子ども達の帰る場所だった。
親を失った子ども達が、何の躊躇いもなく飛び込める家だった。
「いま、幸せ?」
小さく息が詰まったのは、同じ質問をしてくれた方を思い出したからだ。
私達を見捨てた方。
私の幸いを問うてくれた方。
私の幸いを、言葉なく祝福してくれた方。
今はもう、いない方。
あの方の声をまだ思い出せる自分に、安堵した。
部屋の中に沈黙が落ちると、途端に外の音が大きく聞こえてくる。甲高い子どもの金切り声、身体中の空気を全て吐き出しているのではと思ってしまうほどの叫び声に似た呼び声、走り回るような笑い声。
ボールが壁に当たる音。棒が打ち合わされる音。何かが壊れた音の後、響き渡った大声の重なりに、院長先生は失笑した。
世界には音が満ちている。命を紡ぎ、これから自身の生を定める子ども達が生きる音。
院長先生は、すぐに口を開けなかった私に微笑み続けている。
この方はいつもそうだ。急かすことも催促もしない。言葉に詰まった子どもを相手に、嫌な顔どころか困った顔一つ待ち続ける。
そういう方だ。
あの方も、王としてではないあの方も、そういう方だった。
優しい、方だった。ただそうあるだけでは許されなかったあの方は、あの場所に生まれていなければどういう生を歩まれたのか。どういう生を歩まれたかったのか。どういうご自身で在りたいと願われたのか。どういう終わりを、迎えたのか。
もう知る術はない。否、あの方の生が今尚続いていたとしても、知る術はなかったことだ。
考えても、詮無きことだ。哀れむために考えるのは尚のこと。
悼むのは今ではない。一生悼み続けるからこそ、今ではないのだ。
「はい」
そこに至るまでにあった過去も、積み重なった重さも変わらない。だが、この答えに惑いは必要ない。
私には許されない幸いがここにはある。目眩がするほどの幸福は、時に私の呼吸すら塞ぐけれど、これは確かなる幸いだ。幸いを紡ぐ表情は、いつだって一つだけだった。
「生が途切れるその時まで、私は幸せで在り続けるでしょう」
カイドを愛した。
そして、ライウスに愛され、ライウスを愛するカイドの愛を授けてもらった。
私には許されないその事実がこの世に存在した以上、私は生涯幸福で在り続ける。
私にとって生涯の幸福をもたらすその事実は、ライウスにとっての福音とは成り得ないだろう。
私達の出会いは、ライウスにとっては不幸でしか有り得ない。ライウスが愛する領主にとっても、カイドにとっても、これは禍だ。
そうと分かっていてカイドの人生に存在し続けると決めた私は、人々がその事実に気づいたその時、ライウスの悪魔と呼ばれるだろう。
嘗てはウィルフレッドを指したその名を私が冠して尚、私はきっと同じ答えを返す。
だからこそ、私は優しい人間には成り得ないのだ。
「……シャーリー」
院長先生は苦笑して見せた。初めて見る顔だ。
ずっと、院長先生として在り続けた方だった。けれどいま浮かべているのは、私を養護院の子どもとして扱い続けた方が初めて見せる表情だった。
私はいま初めて、院長先生としてではないこの方の表情を見たのかもしれない。
「貴女の愛を受ける領主様は幸せね。だって、決まった覚悟の上にある女の愛は強いもの」
「……あの方の幸いになれるのであれば、こんなに嬉しいことはありません」
この罪深き愚かな女の生涯は、潰えるその瞬間まで幸福で在り続ける未来が確定している。
強欲な私には、この幸いを手放すことなど終ぞ出来なかった。だからこそ、私が得た幸福以上の幸いでカイドの生を彩りたい。
私もカイドも、互いの為だけには生きられない。私達の生にはいつだってライウスがある。その生を嘆くつもりは互いにない。
だが、だからこそ、カイドには幸福で彩られた生を歩んでほしい。
コルキアの為に生まれ、ライウスの為に生きてきた人。誰かの幸いの為に身を削り、誰かの願いの為に心を砕き。己が身を慈しむことを己に許せず生きてきた人。
そんな人が幸せになれない道理などあっていいはずがない。
あの人が私を望んでくれた。私という女にたった一つの愛を授け、生涯を歩くと決めてくれた。
その心に報える存在だと思えずとも、そう在らねばと願う心を否定するつもりも、そうあるべきとする努力も怠るつもりは欠片もなかった。
「……ええ、ええ、そうね。頑張ってね、シャーリー」
すぐに院長先生としての顔に戻った方に、私はどんな笑顔を返せたのか。自分では分からないけれど。
「はい、院長先生」
頑張れ。
その言葉が時に子どもを追い詰めると深く理解しているこの方が、あえて選んでくれた言葉をゆっくりと受け止める。
院長先生が贈ってくださった言葉は、強要でも糾弾の理由でもない。
祈りだ。
自身が決して代わることの出来ない道で、子ども達が望んだ生を歩めるよう、願った未来へ辿り着けるよう。立ち止まった背を押す応援であり、座り込んだ身体に差し出される手であり、涙に溺れる夜に包み込んでくれる温もりだ。
この養護院を離れる子ども達は皆、この言葉に見送られる。だからこそ、いつだって帰ってきていいのだという安堵と共に、先への不安より期待を多く詰めた胸で歩き出せるのだ。
「院長先生、私はあなたという方に出会えた生に感謝します」
「……私、も、嬉しいわ……もう、シャーリーったら。私を幾つだと思っているの。涙もろくなった年寄りを泣かせるものじゃありませんよ」
そう言って、鼻を啜りながら片目を閉じて見せた院長先生に、私は心からの笑みを浮かべた。
決して比べたわけではない。重ねることすら許されてないと分かっているけれど。
私の恋を喜び。
私の愛を見つめ。
私が望む未来に、共に願いを懸けてくださったこの方の姿が。その感情と共に私へ向けてくれたこの方の微笑みが。
少しだけ。本当に少しだけ。
お母様に似ていると思ってしまった事実は、地獄の果てまで持っていくつもりだ。




