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「ウィルがシャーリー殴ったこと、旦那様にばれて」
「そしたら旦那様、ウィルのとこ行って無言で殴り飛ばして」
「ウィルも無言で殴り返して」
「大喧嘩になっちゃった」
慌てふためきながら、あっちあっちと私を引っ張る二人に連れられた。つんのめりながら歩を進め、聞いた説明は溜息が出るものだった。
私達が到着したとき、二人は兵士と屋敷の人間に囲まれ、無言で殴り合っていた。
事情を知っている人間は勿論、知らない人間もウィルがカイドに毒を盛った事実は知っている。因縁だらけの二人が無言で殴り合っているのだ。止めていいかの判断をつけられないでいる彼らを責めるわけにはいかないだろう。出来るだけ周囲を人払いしてくれた事実に、礼を言わなければならない。
「お嬢様!」
ジャスミンとサムアに連れられた私を見て、執事の男がほっとした顔をした。
「ありがとう。後は私が話すから、みんな下がってちょうだい」
イザドルは肩を竦めて頷いてくれたが、他の面子が難色を示す。
「しかしっ」
「いいの、騒がせてごめんなさい。ジャスミンとサムアも、皆と少し待っていて」
そう告げれば、おろおろしていた二人は不安げに不満を浮かべた。何とも器用な表情だ。感情豊かな子ども達がとても可愛い。
だからこそ、背後で鳴り響く殴打音が似つかわしくない。
「あなた達の元へ必ずウィルを行かせるから、少しだけ待っていて。お願い」
頼むと、二人は渋々頷いてくれた。心配そうにこちらを振り返りながらも人払いをした辺りまで下がり、姿を消した背を見送って、くるりと振り向く。
「あなた達、何をしているの」
周囲の気配が動いたことには気付いていたのだろう。二人はちらりと私へ視線を向けた。だが、殴打音は続く。カイドは一瞬ばつが悪そうな顔をしたが、ウィルフレッドは平然としている。むしろ、動きが鈍ったカイドの隙を逃さず一撃入れたほどだ。本当に、困った人である。
「カイド、お終いにしなさい」
「はっ」
はっきりとした返事の後、カイドは殴りかかったウィルフレッドの腕を捻り上げた。地面に押さえつけられたウィルフレッドが大きく舌打ちをする。
「カイド、やんちゃなあなたも可愛らしいわ。本当よ。けれど、あまりやんちゃが過ぎては駄目よ、いけないわ。だって、皆がびっくりしてしまうもの」
「申し訳ありません……」
ウィルフレッドの腕を放し、カイドは頭を下げた。落ち込んでいるようにも見える。
「ウィルフレッドと私のことは、もう済んだことよ。それに、私は怒っていないわ。あれは、あの子達を守れなかった私がいけないの。だから、それでお終いなの。ね?」
「……………………………………はい」
随分間があったが、一応了承してくれたことにほっとする。
ついで、膝を立ててふてくされているウィルフレッドへ視線を向ける。
「ウィル。あなたもそうよ」
「喧嘩を売ってきたのはそいつだ」
「領主の婚約者を殴った事実は変わらないでしょう。だからこそ、買っては駄目よ」
「俺は俺に喧嘩を売ってきた身の程知らずを必ず殺してきたからな。生かしてやっているだけありがたいと思え」
悪びれもせず口角を吊り上げる様子に、私は眦を吊り上げた。
「あの子達を怖がらせるなんて、いけない人ね」
ウィルフレッドの瞳がぴくりと揺れる。どうしてだか、カイドも同じ反応を示した。
「二人とも、とても困っていたわ。ジャスミンだけじゃなくてサムアまで泣き出してしまいそうだったもの。荒事なんて遠い世界で生きてきた子ども達の前で、喧嘩なんてしては駄目よ。二人とも、カイドにどうやって謝ればと弱り切っていたわ」
ウィルフレッドを養子にすると言って憚らない二人は、彼の罪をそのまま背負うつもりだ。ウィルフレッドもそれを分かっているから大人しくしていたのだが、少し箍が外れてしまったらしい。
「あの子達に、罪も無いことで謝らせてはいけないわ。あなたは大切にするのがとても下手ね。でも、大丈夫よ。それはきっと、あの子達が教えてくれるわ。ほら、行って。あの子達に謝っていらっしゃい。そして、手当てをしてもらうの。二人にいけない人と叱られても、泣いては駄目よ?」
促せば、じろりと私を睨みつつものろのろと立ち上がる。腫れた頬が痛むのか、忌々しそうに舌打ちし、小走りで去っていった。身体も痛いだろうに、どうにも気が急くのだろう。
その背を見送り、未だ俯いたままのカイドの前に膝を下ろす。ぎょっとした視線が上がってきた。その目元が腫れていて、痛々しい。
「お嬢様! 服が汚れます!」
「汚れたなら洗えばいいもの。私、今ならちゃんと自分で洗えるのよ」
ふふっと小さく笑い、傷ついた顔にそっと触れる。さっきまで動いていたからか少し汗ばんだ肌は温かいを通り越し、熱いくらいだ。更に、傷ついた部分が熱を持っている。身体を大事にしてと言うのに、この人はちっとも聞いてくれない。
「私の為に怒ってくれたのに、叱ってしまってごめんなさい」
「いえ……止めてくださって助かりました。お手数をおかけして、申し訳ございません」
「あなた達、カロンもアルテムもいないときに喧嘩をするのだもの。二人が帰ってきたら、きっともっと叱られてしまうわね」
「うっ……」
痛みとは違うもので引き攣らせた頬に唇を寄せる。カイドが何か言う前に、さっと立ち上がり、手を取った。
「さあ、手当てをしましょう」
私が引いた力より余程強い勢いで立ち上がったカイドが、慌てた様子で私を呼ぶ。だから、その唇に人差し指を当てた。
「あなたから触れては駄目。だって、あなたに触れられたら、私は恥ずかしくて手当どころではなくなってしまうもの。だから、駄目なの」
「お嬢様……」
恨みがましげに睨まれても、ぼろぼろになった顔では拗ねたようにしか見えない。事実、拗ねているのだろう。だって、私は勝手に触れているのに、彼には触れてはいけないだなんて、ひどいわがままだ。けれど、知らんぷりをする。
「きちんと手当てを受けられたら、お菓子をあげるわ。だから、いい子にしてね」
やんちゃをした彼をあえて子ども扱いすれば、むっとした顔をされた。そのままぐわっと顎が開く。あっと思った時には、既に唇に噛みつかれていた。
さっきは服が汚れると言っていたのに、今は土がついた彼に腰を抱かれて引き寄せられている。最近、カイドは少し、言うことを聞いてくれない。
唇が離れてから、赤くなった顔を隠すと同時に、もう一度噛みつかれないよう唇も隠す。私は一所懸命怒った顔をしているのだが、頬が熱を持っているのが自分でも分かっているので、あまり効果はなさそうだ。
「カイド」
睨み上げれば、カイドは悪びれもせず睨み返してきた。
「あの男はいけない人で、俺がいい子なのは、納得がいきません」
「悪い子と言われたいの?」
首を傾げる。いい子は褒め言葉だと思うのだが、いけないのだろうか。どちらにしても、触れては駄目よと言っているのに、触れてくるカイドはとても悪い子だ。
叱るより褒めたいのに、カイドは最近、叱られるような行動が少し多いから余計にである。勿論、領主としては何も問題はない。けれど、私の言うことは、少しだけ聞いてくれないのだから困ってしまう。
でも、そんな小さな我儘も可愛いと思うので、あまり強くは叱れない。
「あなた、最近少し悪い子ね」
「俺はもうずっと、この方どうしてくれようかと思っていますよ」
にこやかな笑みと共に返ってきた言葉は、少し怖い。彼のことだから、拳を振りかざすことはないと思うのだが、それにしては気迫が強い。
「いたずらでもするの?」
そぉっと窺っても浮かんでいる笑みが変化することはなかった。こうなると、私が打てる手は一つだけだ。
全て、受け入れるだけである。
「お手柔らかにお願いね」
「……宜しいのですか?」
「ええ。だって、あなただもの。あなたは私に何をしたっていいの。だけど、そうね。痛くても我慢できるけれど、怖いのは悲しいわ。だからどうか、優しくいたずらしてね」
さあ、手当てをしましょう。
今度こそ、手を引いて歩き出す。先を歩く私の後を、カイドは手を引かれながら素直についてくる。こういうところは変わらず可愛らしいのにと、苦笑する。
さて、医務室はウィルフレッドと鉢合わせるだろうか。ジャスミンとサムアは、怪我をしたら医務室だと素直に向かいそうだ。だったら、カイドの部屋か、私の部屋で手当てするほうがいいだろう。
これからの予定を頭の中で組み立てていると、やけにカイドが静かだ。くるりと振り向くと、私が引いていない方の手で自分の顔を覆っていた。最近のカイドは少し悪い子だが、それと同時によく落ち込むので、やはり疲れているのだろう。もう少し自分の身体と心を労ってほしいと、私はいつも思っている。
ライウス領主の館には、秘密の小部屋がある。地下にあるその部屋は、外への音が漏れにくい。部屋の使用用途は決まっていた。
密談、ではなく、カロンによる特大のお説教である。
その後案の定、帰ってきたカロンによって特大の雷を落とされた二人は、仲良く揃ってその部屋でお説教を受けている。反論を許さぬ矢継ぎ早なお説教が、腹の底から出ているかのような脳を揺らす音量で紡がれては、流石のウィルフレッドも口を出せないらしい。カイドは言わずもがな、神妙に受けているようだ。
その間、ジャスミンとサムア、そして私は三人でお茶をしている。
『うちの息子が申し訳ありません』
カイドへ向けて必死に頭を下げていた二人は、『私の息子よ!』『俺の息子だ!』と喧嘩を始め、二人の謝罪を必死に止めようとしていたウィルフレッドを更に焦らせた。
二人は、ついには胸倉を掴んで喧嘩を始めてしまい、『お前達の前で暴力行為を奮った俺が悪かったから、俺の行動の一切を見習うな!』とウィルフレッドに叫ばせたくらいだ。教育に悪いことをしてすまなかったとカイドからも謝られてしまい、あまりに恐縮した二人は互いを抱きしめて支え合い、喧嘩を忘れたようだ。
柔らかい味の温かなお茶と、甘い焼き菓子をゆっくり味わっていた二人は、ようやく落ちついたようだ。戻ってきた平穏に、私もこっそり安堵する。
ぽつぽつ何気ない話を続け、ほっと肩の力を抜いた頃、ジャスミンが「あのね……」と言いづらそうに私を見た。
「あのね、私、告白されちゃったんだ」
「俺も……」
持っていた茶器が、がちゃんと鳴る。
困った顔で眉根を下げたジャスミンとサムアの言葉に、私は、先程帰ってきた平穏が遙か彼方へと置き去りになった事実を知った。
しばし呆然としていたが、弱り切った顔を向けてくる二人を放っておく訳にもいかない。私は慌てて思考を回した。
「え、っと……ウィルは知っているの?」
「うん」
「そう……何か、言っていた?」
「えっと、呼び出されたのお屋敷の裏だったんだけど、何でかウィルもいてね。最初気付かなくてびっくりしたんだけど、それでね、ウィルが断っちゃった」
「…………え?」
言葉もない私には気付かず、ジャスミンはその時のことを思い出したのか、両手をぎゅっと握って一所懸命教えてくれる。感情が大きく映し出され、光を放つ瞳は美しいが、内容が内容で頭を抱えかける。
「もともと断るつもりだったからそれはいいんだけど、ウィルいきなり出てくるから、ほんとびっくりした!」
「俺も! 俺の時は物置部屋だったんだけど、ほら、長椅子とか片付けてあるあそこ。偶然通りかかったウィルが入ってきてさ。断ってたなぁ。俺も断るつもりだったからいいけど、あいつ面白いよな。それでさ、あの部屋隅っこに埃が溜まってたんだよ。一度荷物全部出さないと掃除出来なさそうだから、今度力ある奴総出でやったほうがいいんじゃないかな」
「そう、ね……」
今度こそ頭を抱えた。
あの人は、何をしているのだろう。
「ええと……ウィルは、お断りした理由を、何か言っていた?」
頭を抱えている場合ではない。私がしっかりしないといけないことだ。気を引き締め、聞いてみる。二人は、記憶を探るように考え込んだ後、怒濤の如く話し始めた。目眩がした。
お前達はもうただの領主の屋敷で働く使用人じゃない。領主、またはその婚約者の側近扱いになる。それを自覚しろ。下っ端でいられたこれまでとは違い、お前達を通してシャーリーに近づこうとする奴も増えていく。それを把握し、自分の身辺に気を配れ。何かあったら必ず俺を通せ。裏路地は通るな。一人で歩くな。迂闊に是と答えるな。知らない人間から渡された食べ物は口にするな。何かあったらすぐに報告しろ。何かあったら必ず俺を通せ。夜は早く寝ろ。金が足りなくなったらすぐに言え。理不尽な目に遭ったら誰より早く報告しろ。何かあったら必ず俺を通せ。怪我をしたらすぐに知らせろ。させられたのならすぐに呼べ。何もなくても必ず俺を通せ。
私は、先程上げた頭を再度抱えた。
二人からつらつらつらつら、出るわ出るわ。
必要な注意事項から、何だか少し違うのではないかと思われる事柄まで、山ほど。
「ウィル……あなたって人は……」
私もあまり人のことは言えないが、無くすわけにはいかない存在ではなく、失いたくない人を持ったことがない人間は、どうやら加減が分からないらしい。
サムアとジャスミンは、これから人生の分岐点に必ずウィルフレッドが挟まることになりそうだ。寧ろ、それを選ぶ前にウィルフレッドを通さなければ二人に辿り着けない可能性も出てきている。
こんな人だったのかと少し驚くけれど、もしかしたら違うのかもしれないと思い至った。こんな、過保護と激しい執着の区別がつかない行動を取る人ではなかったはずだ。
けれど、変わったのだ。そういう人に、いま、なったのだ。
生きている以上変化がある。既に死した身である私達だが、何故だかいま生きていて。生きている以上、出会いがある。そして、別れがある。誰かとの別れが、自身との別れが、ある。
それを、私達はこの世界に生きる誰より知っていた。
自分が死んだ後も続いていく世界を見た。思い知らされた。自分が生きていればと望むことは、なかったけれど、事実としてここにある現実だ。
自身と別れた後も世界は確かに生きていて。大切な人達の人生は続いていく。
だからこそ、恐ろしいのだ。手の届かない場所で、失われることが恐ろしい。伸ばす己の手を無くした後で、損なわれることが、許せない。
ウィルフレッドは恐らく初めて、己の身が損なわれる怒りより、他者の存在が削られる恐怖を知ったのだ。
誰だって、初めては加減が分からない。私が、初めての恋に溺れきっているように。
小さく息を吐き、不思議そうに私を見つめる二人に微笑む。
無邪気な子ども。私が知っている時代の同年代より、幼い心を持った二人。
急いで大人にならずとも生きていける時代に生まれた、宝物。
成人とされる年齢は、その年齢までに大人になる支度を終えろと言われているのだ。その年からは、誰かの庇護下にいるのではなく、そこから出て社会を支える一つになれと。成人年齢が下がれば、その領は困窮している証だ。子を養う余裕がないと大々的に公表しているのと同義である。
私の前にいるのは、ゆっくり大人になることが許される時代に生まれた、柔らかな心を持った子ども達。そんな子ども達に、私達のような過去の亡霊はさぞかし重いだろうに。
「ウィルフレッドは厄介で仕様のない人だから、困ることもきっとあると思うの。だけどどうか、教えてあげて。大切にする方法が、分からないの。どうすれば喜んでくれるかも、何をしたら悲しませてしまうのかも。あの人は、あなた達に嫌われても曲がらないかもしれない。そこにあなた達を守るという理由があるなら、あなた達が泣いても止まらないかもしれない。とても、意固地な人だから。けれど、嫌われたくないの。泣かせたくは、ないの。決して。それだけは、どうか分かってあげて」
勿論、出来る限り手を貸すつもりだし、出すつもりだ。手助けなんてえらそうなことを言うつもりはない。彼らに担わせるには重すぎる。彼らには、何の責もないことだ。
けれど彼らはウィルフレッドを抱きしめた。そしてウィルフレッドは彼らを選んだ。彼らを、望んだのだ。
所有という概念しか持たない男が、負うことを選んだ。
その意味を、違えることなく理解している人間は少ないだろう。ウィルフレッド自身、二人には決して知られたくないと思っていることも、知っている。
サムアとジャスミンは、私の言葉にきょとんと瞬きをした。幼い子達。柔らかな心を持った、優しい子達。私達の死によって生を繋いだライウスで生まれた、愛子達。
この子達の生を守った己の死を、いつかあの人も柔らかな諦念として受け入れる日が来るのだろうか。
「ウィルフレッドってよく分かんないけど楽しいよね!」
「よく分かんないけど、あいつは面白い奴だと思うぞ」
首を傾げた彼らが出した結論に、私は声を上げて笑った。ウィルフレッドが聞いたらどう思うやら。きっと、苦々しい顔をして、けれど抱かれる腕を決して振りほどかないのだろう。
何やら廊下が騒がしい。耳を澄ませば、いつも通り早い足音と、同じくらい早く刺々しい足音、そして素早い注意を飛ばす声。
サムアとジャスミンがそわそわしながら姿勢を正す。ジャスミンの口端に焼き菓子の破片がついていることを告げる前に、部屋の扉がノックと同時に開かれた。
「シャーリー、さっさとこいつと式を挙げろ。その式を、絶対に俺がたたき壊してやる」
飛び込んでくるや否や不穏なことを言い放つウィルフレッドに、サムアとジャスミンが飛び上がって驚いた。
「そ、そんなことするなら、お式の間中ずっとお手々繋いでるからね!?」
「つ、繋ぐぞ!? タイを繋ぐからな!? 動くと締まるぞ! 俺の首がな!」
一体何があったのやら。カイドはやってみろと牙を剥いているし、カロンはまだ何か言い足りなさそうな顔をしていた。
いつの時代においても、予想だにしていなかった未来の形がここにある。
新しいライウスの形は、歪で醜悪で悲しい過去から生まれたとは思えないほど、不思議で、油断のならない緊張感を孕んだ、夢のような色をしていた。




