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狼領主のお嬢様  作者: 守野伊音
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 今日は少し風が強い。背後から流れてきた風に乱された髪を抑え、立ち止まる。庭師がさっき掃除を終えたばかりの庭が葉っぱまみれだ。


「お嬢様」


 呼ばれて振り向けば、そこにはイザドルが立っていた。城でも、ライウスに帰ってからも忙しくしていたのでなかなかゆっくりする機会がなかった。傍に指示待ちの誰かを伴っているわけでも、書類を抱えているわけでもないので、どうやら今は少しのんびり出来るようだ。

 ライウスの屋敷は、いつも通りだったりいつもより騒がしかったり、相対的に見れば結局それもまたいつも通りだと結論づけられる日常を送っている。

 コルキアから出てきてしまったアルテムにカイドが振り回されたり、私とウィルフレッドが少し話すとカロンがどこからともなく現れたり、そんな新しい時間でさえ、やはりいつも通りなのだ。




「イザドル、大丈夫? あまり休んでいないのではないの? あなたも怪我をしているのだから、無理をしては駄目よ」

「平気ですよ、足を少々やったくらい。足でなければ身を隠す必要もなかった程度です。とはいえ、俺も少々気が緩んでいたようですね。あの程度の追っ手に手傷を負わされたのは確かに恥です。ライウスが荒れていた時代、頻繁にギミーと往復していた昔の自分の方が腕が立ったかもしれません。ちょっと鍛え直します」


 女性に人気がある甘い顔で照れくさそうに笑っているが、言っている内容は甘さとは程遠い。簡単に言ってのける彼が酷く狼狽していたのは、彼が立っている姿を見て、膝をついてたくさん泣いてしまった私を見た時だった。

 あの程度で死ぬはずがないと皆思っているだろうから大丈夫だと思っていたと、それはもう、それこそ死んでしまいそうなほど狼狽して私を必死に慰めてくれた。怪我をした当人に怪我をしていない私が慰められるとは情けない限りである。


 しかし、死んだと見せかけて場を繋ぐことは今までも常套手段であり、初めてだったお嬢様を驚かせて申し訳ないと至極真面目な顔で謝った上で、今度は驚かないで大丈夫ですとけろりと言ってのけたイザドルには、思わず真顔になってしまったものだ。

 私が言えたことではないかもしれない。そうと分かっていて言わせてもらったが、私は初めてであろうが二度目であろうがたくさん泣いてしまうし、死んだと聞かされる度に絶望する。だから、お願いだから無茶だけはしないでほしい。ご家族もカイドも、皆あなたを心配しないわけがないのだから。

 そう伝えればきょとんとした後、困った顔と照れをない交ぜにした表情をしていた。彼もカイドも、本当にどんな十五年を過ごしてきたのだろう。


 そう思い、じーっと見つめていると、イザドルはその時のことを思い出したわけではないだろうがばつが悪そうな顔をした。


「お嬢様こそ……怪我、大丈夫ですか?」

「怪我なんて呼ぶほどのことではないわ」


 私の怪我なんて、精々顔の腫れと首周りが赤く擦れているくらいだ。顔の腫れはカイドと会う前に収まっていたし、首の傷も血は止まっている。私の死因を知っている人達が悲しい顔をしてしまうから包帯をしているけれど、激しく首を動かしたりしない限り痛みもあまりないくらいだ。

 カロンが毎日首元を覆うドレスを選んでくれるし、美しい色のストールも沢山用意してくれた。そんなに買わなくても平気よと言ったけれど、カロンもカイドも頑として譲らなかったので、私の衣装部屋には、全て縫い合わせればきっとドレスが作れてしまうほどのストールがある。


「あなたも心配性ね、イザドル。私、あなたに本を読むことだって出来るわ」


 少しすまして見せれば、イザドルは肩を竦めた。


「大変魅力的なお誘いですが、今のカイドを前にしてお嬢様を独り占めにする勇気は、流石の俺にもありません」


 カイドは、ライウスに戻ってきてから、あまり屋敷を離れていない。仕事の量を、少し減らしていた。だから、メイドをしていた時ほどとは言わないが、一緒に過ごす時間はとても増えている。

 城へ戻ってくるまでの間に、かなり強引な手も使ったからしばらくの間は大人しくしていますと笑っていた。それはそんな簡単な話ではないと私にだって分かっているけれど、本人は少しだけ、肩の荷が下りたような顔をしていた。

 上が強攻策を使った時、ちゃんと怒れる民でいてほしい。そう言って笑ったあの人の優しさを、理解してくれる民がどれほどいるのか、私には分からなかった。


 正しい情報を正しく怒れる人が、この世にはどれほどいるのだろうか。人の言に惑わされず、文字に踊らされず、感情ではなく道理で、真偽を正しく選別した上で声を上げることが出来る人ばかりではないと、私などより余程知っている人は、いつだって裁かれる側に立っている。

 裁定する側に立つ人は、傲慢に酔うことが多々ある。酔った正義に果てなどないと知っているというのに、カイドは笑うのだ。ただ弾圧されて死んでいく彼らを見るより余程いいと、笑うのだ。


 正義や民意の皮を被った害意によって断罪されたとしても、あの人はきっと、笑って逝くのだろう。


 カイドは己を守る為の盾も剣も持たない。持とうとしない。彼を断罪する側は、正義を理由に道理を破り、残虐すらも正当化するだろう。けれどカイドは、彼らに剣を向けられない。

 だからこそ、彼を守るのは周囲にいる私達だ。それを務めとは思わない。なぜならそれは、私達の願いであり、祈りなのだから。



 そのうちの一人であるイザドルは、カイドの後ろ盾となったギミーの次期領主だ。まだ継ぎたくないからと事あるごとにライウスに滞在してはいるが、領主の勉強を怠ることはしなかった。


「俺もそろそろギミーに戻ります。また大きく動く時代がやってきますから、基盤はしっかり整えておかないと。いざというときの武器は多ければ多い方がいい。…………お嬢様は、先代の王やマーシュ様を、無能だと思いますか?」


 そっと声を潜めて紡がれた問いに、緩く首を振る。


「いいえ、ちっとも」

「俺もです」


 イザドルが王都がある方向へ向けた瞳には、僅かな憐憫が覗いていた。



 王のおじ様もマーシュ様も、今まで大きな功績を残した方ではなかった。しかしそれは能力がないからではない。彼らは、維持させる能力に長けていたのだ。その代わり、上昇させることは不得手だった。だから一度沈んでしまえば浮上できなかった。あるいはアジェーレア様がその役を担えたのかもしれないと、考えても意味のない思考が過る。

 時代が停滞期であれば、彼らほど重宝される王はいなかっただろう。現状を維持し、緩やかに進みながら体力を蓄えていく時代であったのなら、彼らはただ優しく穏やかな王族であれたのだ。

 逆にカイドは、革命期である今だからこそ望まれた人だった。今が停滞期であれば、彼の強さは苛烈に過ぎると疎まれたであろう。


 暴君も無能な王も、時代にそぐわぬが故に生まれるのだ。カイドは時代に愛された。だが、時代に愛されることが幸福とは限らない。己を望む時代に応えられる能力を有する。それは一体誰の為の幸福なのか。その能力を持った本人なのか、それとも英雄を望む数え切れない誰かなのか。



「俺もきっと、何も背負わず庇護を享受するだけの奴らから、無能と判じられて終わるんだろうと思うんです」

「そんなこと」

「それでいいんです。俺は、俺に能力があると判じた人の為に俺を使うと決めているので。自分達には知る由もない事柄があるなどと考えず、人伝に並べられた情報で賢くなったつもりの人間からどれだけ無能扱いされても、侮辱だとすら思えませんよ。ですが、カイドは違う。自分の身内こそを抱えられなかった。民は、自分の上に立つ人間が自分達以外に大切な者を持つことを殊の外嫌う生き物ですから、何も持たなかったカイドはさぞや気前のいい英雄だったことでしょう」


 そこで一度言葉を切ったイザドルは、小さく目を細めた。


「ですがこれからは、貴女がいる。……お嬢様、これは俺が口出しすべき事ではないと重々承知しています。ですが、あいつの友として言わせてください。もし、もしもあいつが貴女を選ぶことを許されない日が来ても……どうか、あいつを責めないでやってください。人は、そう簡単には変われない。それ以外の生き方を、あいつは知らないんです。それが許されることすらも」

「そうね。カイドは、革命を成し遂げる能力に長けている人にしては、優しすぎるもの」


 強者であるが故に失い、失ったが故に強者で居続ける人に、今更私欲を貫けと言うのは酷な話だ。それを、誰かは無能と呼ぶのかもしれない。薄情と、弱虫と、傲慢と、蔑むのかもしれない。その人の背景も言葉の意味も考えず、ただ貶めるが為だけに言葉を吐く人もいるだろう。

 だけど私は、あの人の際限のない優しさも、自分で奪うと宣言しながらも躊躇いを捨てられず、きっと何を選んでも傷ついてしまうであろう不器用さも、愛している。だから。


「その時は、私がカイドを奪うから、いいの」


 あの人が捨てなければならなかった物を私が拾おう。あの人が捨てられない物を私が奪おう。そうすることが悪であるというのなら、私は稀代の悪女になる強さがほしい。

 かつてこの地で生きた私と同じ名を持つ人が当時の王と交わした約束は、その名をなくした私と、少し変わった遍歴を持つきっと最後となるであろう王の間で、終わりを告げた。だから私はカイドより少しだけ、勝手をすることに躊躇いがなくなった。

 目を丸くしたイザドルは、ぱちりと瞬きし、くしゃりと笑った。



「シャーリー!」


 大きな声が私を呼ぶ。その声が聞こえると同時に子どものようなその笑顔は消える。瞬き一つの間に、いつもの飄々とした笑みがそこにはあった。

 声より少し遅れ、ばたばたと忙しない足音も聞こえてくる。振り向けば、ジャスミンとサムアが大慌てで走ってきた。


「シャーリー!」

「大変なの!」

「すぐに来てくれ!」

「だ、旦那様が!」


 二人から交互に叫びながら詰め寄られ、思わず仰け反りそうになった身体をぐっと押しとどめる。


「カイドに何かあったの?」


 イザドルの顔にも僅かに緊張の色が走った。ジャスミンとサムアは酷く慌て、真っ青な顔で声を重ねて叫んだ。


「俺達にはよく分からないんだけど!」

「あのね!」


 二人の声が揃う。


「ウィルと殴り合いしてる!」


 イザドルの顔に浮かんだ緊張の色が霧散した。








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