63.あなたと私の約束Ⅺ
黙ったまま歩き続け、辿り着いた部屋には見覚えがあった。最初に王城に来た際に通された部屋だ。ただ結婚の許可を頂きに来たはずだったのに、何だか随分時が経ったように思う。
「座ってください」
扉を閉め、初めて言葉を発したカイドを見上げる。カイドは何一つ表情を動かさず、長椅子を視線で示していた。私も無言のまま長椅子に座る。一応左端に座ったけれど、カイドは座る気配を見せない。
「動かないでください」
淡々と、事務的な指示に従う。カイドの手には小さな剣があった。ゆっくりと抜いた鞘を片手で差し直し、刃先を私に向ける。
冷え切った指が首輪に触れた拍子に、繋がった鎖が軽い音を立てた。指よりももっと硬質な冷たさを持った刃物がひたりと首に触れる。あまりの冷たさに思わず震えた肩が押さえられ、力がこもった。
刃はあまり前後することはなかった。それなのに呆気なく、首輪の皮がぶつっと音を立てて床へと落ちていく。
私の手には力が入っていなかったから、首輪を追い、鎖も床へ落ちていった。軽く軽快な音を立て、蛇のとぐろのように固まった鎖を見ていた視線を上げられない。
何か、話さなければと思う。思うのに、言葉が出ない。謝らなければ。迷惑をかけた。酷いことを言った。謝らなければ。
だけど、思えば思うほど思考が空回る。言わなければならない言葉は謝罪なのに、言いたい言葉が違うからだろうか。
会いたかったの。本当に、本当に会いたかったの。そう言う資格は、ないのかもしれない。だけどその気持ちは本当で。
俯いている私の首に、刃物をしまったカイドの手が再び伸びてくる。指が、ゆっくりと首をなぞっていく。一周していく感触に、赤く傷になった部分を撫でているのだろうと気づいた。
ふと、私が死んだとき切れた部分はどこだろうと思った。首の範囲には変わりないのだろうからどこだろうと大した違いはないはずなのに、やけに気になる。
「痛みますか?」
「いいえ」
ずるいと承知の上だが、先に声をかけてもらえて、ほっとした。
顔を上げながら答える。嘘ではない。首輪があったときはちりちりとした痛みがあったように思うけれど、今はカイドの指の感触しか感じられない。だというのに、恐ろしいほど無表情だったカイドの目が吊り上がった。
「貴女は、いつもそうだ!」
急に張り上げられた声に、反射的に身を竦める。それを逃げたと判断したのか、首に触れているものとは反対の手が私の肩を押さえ込んだ。
「貴女は本当に自覚が足りないっ」
唸るような声で言われた言葉に胸が抉られる。
分かっている。分かっていたのに、ついにこの優しい人にそう言わせてしまった。私はいつだって足りない。頭も力も義務や責任への心構えも、何も足りないのだ。足りない頭で必死に義務を果たそうとしても、足りないと、言わせてしまったのだ。
泣き出しそうな自分を叱咤し、唇を噛みしめる。泣く資格なんてとうに失っているのだ。
ぐっと堪えた私の前で、カイドまで同じような顔になった。けれど、もっとずっと怒りを混ぜ込んだ、牙を剥き出しに威嚇する獣のような顔で怒鳴る。
「貴女はいい加減、愛されていることを思い知るべきだ!」
彼の言葉を一つも逃さぬよう全意識を向けていたのに、何を言われているのか分からなかった。
「――え?」
「貴女には、ライウスにカロリーナ達、そして俺に愛されている自覚がない。分かっています。貴女から自分を肯定する力を奪い取ったのは俺です。貴女の全てを否定して未来を築いた俺は、貴女からこれ以上何も奪ってはならないと分かっています。その上で言います。お嬢様。そしてシャーリー・ヒンス」
「な、なに?」
重ねて『名』を呼ばれても、一度しか返事が出来なかった。
「貴女がお嬢様の義務と責任を捨てられないのであれば、俺はそれらから貴女を奪います」
「な、にを言って……あなただって、領主の義務と責任を捨てられやしないでしょう」
「はい。ですから、貴女は俺を奪ってください」
私はきっと、間が抜けた顔をしているだろう。ぽかんと見上げている先で、カイドは苦笑を零した。一気に柔らかくなった表情に、この期に及んで見惚れてしまう。
ああ、好きだと、私はこの人が好きなのだと心の底から湧き上がる。いつだって、どんな時だって、そう思ってしまう。
「俺達は互いに頑固で融通が利かない。だったら、自分では手放せないなら奪い合えばいいのだと、今回の事で思い知りました。躊躇し尊重した結果貴女を失うくらいなら、欲に正直に自分で噛み殺した方がましだと思いました。この首は、俺のものです」
まだ、指が首を撫でている。かつて切り離されたそこを、痛みではなくまるで慈しむように。
「俺は領主で、貴女はお嬢様です。ですが、俺はカイド・ファルアで、貴女はシャーリー・ヒンスです。俺がそれを忘れれば、貴女が俺を奪ってください。貴女がそれを忘れるならば、俺が貴女を奪います。貴女がお嬢様で在り続ける未来を俺が否定したんです。だったら、最後まで俺はお嬢様を奪い続けます。だから貴女も、俺から奪い続けてください」
奪い合い、許し合う。ああ、それはなんて醜悪で凶悪な、甘美な夢だろう。与え合う優しい明日は、十五年前に途絶えた。あの日、カイドが選んでくれた道を私は破棄した。けれど今回は違う。カイドは選び続けている。捨てられない物を奪うことで私から罪悪感まで奪おうと。捨ててくれとすら言わず、私が手放す責任さえ負ってしまう。
私にだけ優しい選択を突きつけている割には、私を見下ろす金色は酷く凶悪な色を発している。腹を空かせた獣のような、手負いの獣のような、およそ人とは思えない飢えた瞳が光っていた。
王家の血や領主の娘による責務も権利も、私には過ぎたる物だった。けれどそれらは私という人間を構成する上で欠かせない範囲を占めている。それらを無くして私は私であり得なかった。それを奪うとカイドは言う。私にも奪えと、言うのか。そんなことは許されない。許されてはならない。それは何て罪深く傲慢で、満たされる選択だろう。
覆い被さってきたカイドの重みが肩に乗る。温かな重さと慣れた匂いに胸が締めつけられる。泣きたくなるほど、この人が恋しくてならなかった。無意識に回した手で、カイドの背を握りしめる。
「……出会うべきではなかった。貴女は、俺なんかと出会うべきではなかったんです」
「おかしなことを、言うのね。あなたと出会えたことが、私の人生で最も誇らしいことなのに。……私はね、カイド。あの日、屋敷が燃えてしまったあの日、真っ先に何を考えたと思う?」
これはずっと内緒の話。世界で一番親不孝で薄情な娘の話。
「あなたは無事に逃げられたかしらと、思ったのよ」
首筋に触れる震える吐息がくすぐったい。けれど逃げようとは思えず、その頭を抱え込む。
「薄情な娘よね。お父様達の無事より、あなたが何より心配だったの。私はもうずっと、あなたが一等大切なの。大事にしたいの。だけど、どうすればいいのか分からないの。何をすればあなたが幸せになってくれるかしらと考えるのに、どうすればあなたに害を為さないかと恐ろしくなるばかり。……大切な人と生きるって、とても恐ろしいことなのね」
あなたに害を齎す存在になりたくない。あなたに損を与える存在になりたくない。足を引っ張るくらいなら死にたい。傷を負わせるくらいなら消えたい。あなたを失うくらいなら、あなたの敵を伴って地獄の底へと堕ちていきたい。
出会うべきではなかった。それはきっと私があなたへ向ける言葉だ。
「時代も状況も違うのに、私はいつかまた魔性と呼ばれてしまう。そんな気がするの。それならば、私はきっと悪魔なのでしょう。カイド、あなた、どうしてそんなものに誑かされてしまったの…………どうしてあなたみたいな人が、私の傍にいてくれるのかしらね」
今日のお城は少し騒がしい。あちこちに人の気配が溢れている。最初から散るために咲いた楽園は、赤を伴わず砕けた。
人の声が遠くに聞こえる。いつかはそれをただ見ていた。沢山の人の中にいるカイドの声を聞いていた。
だけど今は、不思議なことにこの人はここにいる。私と一緒に、人々から一歩外れた場所で私を抱いていた。それがとても、不思議な気持ちだ。
「あのねカイド。私、死ぬことは怖くないの。本当よ。強がっているのではないわ。本当に、ちっとも怖くないの。けれど、あなたと会えなくなるのは恐ろしくて、泣いてしまいそう。でも、私、次の生は欲しくないの。私は弱くてずるいから、次があると思ってしまうと、今を一所懸命生きられないかもしれない」
いつの間にか、私が抱えていたはずの身体に抱えられていた。痛いほどに抱きしめられ、身動ぎも出来ない。息も少し苦しいくらいだ。死ぬのならいま死にたいと、思った。
「だから私は、この生であなたを愛し抜きたいの。だからこそ、奪っていいなどと言っては駄目よ。私は欲深く醜悪な女なのだから。そんなことを言えば、全て根こそぎ奪い取ってしまうわ」
私は私を、世界中の誰より信じていない。その能力や力は勿論、己の人間性を欠片も信じられない。
私は、カイド達のように美しく優しい人間ではない。そんな生き方を出来る性根をしてはいないのだ。不幸を撒き散らすのに、自分ではそれを解消する術すら持たない。彼らと共に生きられるほど、優しい人間であれば良かった。そう、ずっと思っている。それなのに。
「貴女がそうしてくださるのならば……俺は本望です」
この人が私の人生に存在していることを、何と名付ければいいのか、私はこの先一生悩み続けるのだろう。
どうしようもないほどの奇跡で、きっと運命で、けれどそのどれでも呼びたくないほど尊んでいる、この美しい人を。
いつか、今の私と同じ選択をカイドがするときが来るのかもしれない。その時私は、この人をライウスから奪うのだろうか。
それはとても罪深く、優しい夢に思えた。同時に、あの優しい人達とライウスで生きる未来もまた同様に。
楽園跡地は美しい。それがどこであったとしても。
彼さえいるのなら、世界は美しい。だけど欲張りな私達にはそれだけでは足りなくて。二人だけで世界を閉ざすことをどこかで望んでいながら、奪い合うことを許容しながら、それでも負っていなければ生きていけない。
ああ、本当に、私達は本当に難儀な生き方しか選べないようだ。
「手始めに、貴女をライウスに奪い返しますのでそのつもりでお願いします。誰が何と言おうが連れ帰ります。たとえ貴女が拒んでも。カロリーナが鬼気迫る気迫で恐ろしいほど完璧に整えた一糸乱れぬメイド達と屋敷で待っていますし、サムアとジャスミンも猛烈に怒って待っています。だから、帰りましょう。今度こそ、一緒に帰りましょう。シャーリー……様」
私を抱えている肌が一気に粟だったのが見て取れて、思わず笑ってしまう。
「あなた、そこでそう言ってしまっては台無しではないかしら? シャーリーでいいのよ」
「それだけは無理だといま心の底から思い知りましたお嬢さ、………………シャーリー様」
「なぁに、旦那様」
くすくす笑いながら耳元で応えれば、心底、もう心の底から弱り切った顔をするから、もう堪えきれなかった。本当に、なんて可愛らしい人なのだろう。
「時々でいいわ。だって私、あなたにお嬢様と呼ばれることも、本当は好きなの」
私達はこの先、何度も彷徨い、そのたびに手探りで進むのだろう。選んで選んで選んで、そうして進むのか堕ちていくのか、私には分からない。ただ、この清廉な人を皆の英雄から引き摺り落とすのは私なのだろう。
そして、私に奪い尽くされる未来を本望だと無邪気に笑ったこの人を、私はこの首が落ちるまで、否、堕ちたとしても、愛し続けるのだろう。
「カイド、私、あなたの果てになりたい」
「……俺も、貴女の終わりでありたいです」
悲しくはないのに、涙が滑り落ちていく。それを見られたくなくて、抱きしめる腕に力を篭める。私を抱く力も強くなった。カイドはいまどんな顔をしているのだろう。
終焉を互いに置くことが、私達にとって最大の愛の約束だった。




