62.あなたと私の約束Ⅹ
シャーリー。シャーリー。ねえ、シャーリー。
ころころと転がるような、嬉しくて堪らない少女のような声が部屋一杯に広がっている。
目を覚ませば、まだ寝間着のアジェーレア様が嬉しそうな顔で私を呼んでいた。欠伸を噛み殺し、上体を起こす。髪が頬、肩、腕を順に滑り落ちていく。最後に落ちた指先が髪以外の物に触れ、視線を落とす。
寝台の上には沢山の本が散らばっていた。本を読んで。歌を歌って。髪を編んで。服を選んで。一緒にいて。アジェーレア様が私に望んだことはそんなことだけで。
私を拘束する物は首だけについていて。逃走を防ぎたければ手足につけるべきではと一度だけ問うてみた。すると彼女はとても不思議そうな顔になった。
『だって、手につけてしまったら抱きしめてもらえないし、足につけてしまったら一緒にお出かけ出来ないじゃない』
そうして、困った顔で笑うのだ。
「朝食の支度が調いましてございます」
いつもと変わらぬ顔が、いつもと変わらぬ声で、いつもと同じ言葉を告げる。
その頃には既に私達の身支度は調っていた。アジェーレア様は、まず私に服を選ばせ、次いで似た意匠の服を自身も選ぶ。意匠だけではなく髪型も似せた。そうして「お揃い」と嬉しそうに笑うこの方が何を為さっているのか、私は段々分かってきた。
それを彼女も気づいたのだろうか。私が気づいたことに気づいたのか、彼女が彼女の望みに気づいたのかは分からないが、ウィルフレッドが二人を連れてワイファー使者団が城から下がると同時にそっと姿を消してから一度も、あれだけ頻繁に告げられていた質問をされていなかった。
ジャスミンとサムアはきっと怒っているだろう。そんなことをぼんやり思いながら窓の外を眺めても、首輪は引かれない。鎖の先は相変わらず握られているが、アジェーレア様はもう無理にそれを引こうとはしていなかった。
窓の外には王都が広がっている。王都には美しいものが敷き詰められていた。
国中から集まった芸術、音楽、物語。手を尽くした料理、物珍しい動物。地方から集められ研磨することで高められた技術で生み出された物。美しいものから物珍しいものまで何でも揃う。手に入らぬものなど何もない、自身の特産品は一つもない国の都。
美の都は静まりかえっていた。あれだけ溢れていた人が全くいない。城の窓から広範囲を見下ろしているのに、大通りにも裏通りにも人っ子一人見当たらないのだ。店も民家も硬く戸板を閉め、息を殺している。
まるで十五年前のライウスのようだと思ってしまう。だが、楽園が溢れ出したようにも見えるその光景は、その実全くの逆で、楽園の終焉を示していると私はもう知っていた。
旗が見える。沢山の旗だ。色もとりどりで、共通している物は国旗のみ。どんなに遠くても、自国の旗を見間違えたりしない。それと同じく、自領の旗も。
どんなに沢山の領旗が並ぼうと、ライウスの旗を間違えたりするはずがない。どうやら今日、楽園は終わるらしい。けれど、城は今日もとても静かに恙なく、穏やかに始まった。
朝食を取り、静かにカップを置いたアジェーレア様は、いつものように政務室へ向かおうとはしなかった。壁際に並ぶ人々に向けてにこりと微笑む。
「貴方達、今日までご苦労様。どうもありがとう。おかげで何一つ不便なく過ごすことが出来たわ。本当にありがとう。心からお礼を言うわ」
深々と頭を下げられて、人々はぎょっと飛び上がった。ここにいるのはもう、状況が分かって残っている者だけだ。
「今日限りでその任を解きます。お兄様に保護してもらいなさい。いいこと? 決してついてきては駄目よ?」
「いえ、我々は最後までお供致します」
「いいえ、駄目よ。ダニラス、他の者にも同じように伝えなさい。それと、政務は普段通りに。彼らはいつも通り仕事をしていただけだから、乱暴なことはされないよう守ってあげてね。お兄様はそんなこと為さらないでしょうけれど、不慣れな兵は先走るものだから、お願いね」
アジェーレア様はいつも通り、いや、最近では見ないほど落ち着いた、まるでこの城に来たばかりの頃に見たような愛らしい顔で片目を瞑って見せた。まだ何か言いたそうな使用人達に向け穏やかな笑顔を浮かべ、それ以上何も言わなかった。
昼過ぎになれば、一気に人の気配が溢れた。旗の位置が動いたのだ。同時に静まりかえっていた王都も息を吹き返す。
兵士達が通り過ぎた後は、様子を窺うように戸板が外れ、恐る恐る城を見上げ始めている。率いているのがマーシュ様な事もあり、酷い闘争が起こるとは思っていないのだろう。王都はライウスよりも大きな荒事の経験がないので、住民達はいつでも好奇心に溢れ、少し楽観的だ。
そうして楽園が砕ければ、一気に音が押し寄せた。鎧の音、鉄の音、木の音、足音、声に気配。溢れかえった音を階下に聞きながら、アジェーレア様は私の手を取った。
「ここから先は、王族しか立ち入っては駄目だものね」
「……ダニラスからお聞きになりましたか」
「ええ。けれどその前に何となくは。だってシャーリー、貴女って」
お母様によく似ているのだもの。
そう穏やかに笑ったアジェーレア様は、ほんの小さな子どものようだった。
弾けるように溢れかえった音を聞きながら、アジェーレア様は城の奥深くへと歩いて行く。辿り着いた先は、先日訪れたばかりの絵画の部屋だった。降嫁した姫も含めた全ての王族の絵が収められた部屋は、ある意味死者の部屋だった。
死んだ人間ばかりが描かれている。微笑む多数の人々の中で、生きているのはたった二人だけ。アジェーレア様とマーシュ様だけだ。
「ねぇ、シャーリー。わたくしのこと誰よりも愛している?」
「――いいえ、アジェーレア様」
初めて否定した私に、アジェーレア様はとても嬉しそうに笑った。
王族として立たねばならぬ人の前では出来ていた会話が成り立たない。アジェーレア様の世界は、もう閉じてしまったのだ。
首輪をつけるという人としての尊厳は平気で踏みにじったが、手足の自由をどう判断すべきか計りかねていた。だが、全ては簡単なことだった。
だって私は始まりを知っていたのだ。
アジェーレア様の歪の始まりを誰もが知っていて、誰もが勝手に既に克服されたのだと思い込んでいた。王族殺しへの恐怖心ばかりに目が向けられていたが、始まりはもっと簡単で、誰もが抱いて不思議ないものだったはずなのに。
「お母様に、会いたい。お母様、どうして死んでしまったの……」
はたはたと涙を零すアジェーレア様はまさしく、幼子そのものだった。
首を繋いだのは絶対に断られないよう命じたから。ならば断られたくないのは何か。先に歩いて欲しがったのは後を歩きたいから。先に服を選んでほしかったのは自分がお揃いにしたかったから。手足を自由にしていたのは振り向いてほしかったから、抱きしめてほしかったから。
愛をねだったのは、愛してほしかったから。
「愛されている王族なら何をしても大丈夫なの。けれど王族でなければ愛されていても意味がないの。だからわたくしは立派な王族になるため必死に勉強したわ。だけどお母様はいないの。どんなに愛されてもどんなに許されてもどんなに王族として生きてもどこにもいないの。おかしいわね。だってわたくしお母様に愛されているはずなのにお母様どこにもいないの」
全て、母親に会いたい、ただそれだけの感情だったのに、一体いつからどこから間違って、ここまで来てしまったのだろう。
母親の死を乗り越えられなかった。紐解けばそれだけのことだ。けれど誰もが時が癒やすと思ってしまった傷が癒えず、膿み、酷く悪化した。その結果がこんな事になるだなんて、誰も、本人すら思わぬまま。
「お父様はご病気なの。だから死んでしまったの。だってそうでなければわたくし立派な王族ではなくなってお母様に会えなくなって、だからわたくしお父様の代わりを立派に務めなくては。だってそうしないと、王族が愚かだと民が困るでしょう? 民が飢えないよう采配を振るうのが王族の務めだもの。だけどお兄様はご病気なの。だからわたくしお兄様が困らないよう膿を出して少しでも綺麗にしてからお渡ししなければ。お兄様はわたくしなどより余程皆から慕われているから、王に相応しいわ。けれどお身体が悪いのならご負担を少しでも軽くしなければ。お爺様の代より居座っている貴族達は口うるさくお兄様の出自を責めてくるから、少しずつ追い出してしまわないとね。わたくしお父様とお兄様をお助けしたいの。だってもうたった三人の家族ですもの。少しは風通しが良くなったからお兄様はご政務がやりやすくなったかしらお父様褒めてくださるかしらお父様びっくりなさるかしら、だって、びっくりなさっていたの。階段が、あのね、シャーリー、階段がね? ダニラスったらわたくしに酷く怒鳴ったの、びっくりしたわ。でもね、すぐに分かってくれたわ。だって階段だったのだもの。そうしたら、ダニラス泣いてしまったの。わたくし、ダニラスをいじめてしまったのかしら……お母様に相談したいのに、お母様ったらどこにもいないの」
くるくる変わる表情と、ぱたぱた動く手はとても幼い。まるで小さな子どもが今日あったことを一所懸命両親に報告しているようだ。沢山話して、そこでようやく私の反応を待とうと思ったのだろう。ぴたりと口を閉ざし、にこにこ私を見ている。けれどすぐに話し始めた。わたくし貴女とお話ししたいの。そう言ってくださった姿を、思い出す。
「ねえ、シャーリー。わたくしこれからどこに行くのかしら。お父様とお母様のところかしら。それとも遠く離れた場所かしら。お兄様はわたくしにどこへ行ってほしいのかしら。出来れば、お兄様にご都合が宜しくて、民が喜ぶ場所がいいわ。だってわたくし王族だもの。わたくし、優しい王女になると、お母様と約束したのよ」
どうしようもなく穏やかに柔らかく、壊れていくものがあった。正気の狭間に夢が紛れるのか、夢の中に正気が混ざるのか。最早判断がつかない。
「わたくしはもう大人だから一人でだって大丈夫だけれど、でももし一つだけ我儘が許されるなら、貴女を連れていきたいわ。ねえ、いいでしょう? お母様にとてもよく似た、ライウスの貴女。だってライウス領主の家は、王族の物なのだから」
「アジェーレア様。私はライウスの物です。かつてライウスに嫁いだ姫は、約束を為さいました。我々は王の忠実なる僕。王に禍が降りかかるのならばこの身を盾に致しましょう。けれど我らはライウスの民。ライウスで生き、ライウスに死ぬ。それだけはどうかお忘れなきようお願い申し上げます」
一歩下がり膝をつく。両手も地面へとつけ、頭を下げた。
「かつての王と交わされたその約定も、どうか私で最後としてください。元より血を理由に交わされた約定にございます。現在、ライウスに王族の血を継ぐ者は存在しません。ですからどうか、その約定を、これより先のライウス領主に負わせないでください。お願い致します、アジェーレア様、お願い致します」
ライウスを王家を脅かす存在と定めないでほしい。もうこれ以上、ライウスを他の領と違うものとして扱わないでほしい。
死んだのだ。あの地に生きていた王家の血はもうとっくに途絶えた。魂にその重きを置いたとしても、私で最後だ。
だからどうか、どうか私だけで満足してほしい。
「その願い、聞き届けましょう」
応えたのはアジェーレア様ではなかった。
床を見つめて呆然としている私の上を、アジェーレア様のはしゃいだ声が通り過ぎていく。柔らかな花の香りを纏った姫がふわりと立ち上がり駆けだしたのだ。
それと入れ替わるように現れた気配に腕を引かれて、よろめきながら立ち上がる。
「まあ、嬉しいわ! 皆が揃うなんて! わたくし、お兄様にも会いたかったの!」
「ああ、私もだ。お前と、ダニラスと、とにかく色々な連中に話があるんでね、とても、それはもうとても会いたかったよ。お前に関しては私も反省すべき点が大いにあるが……それにしてもお前達は本当に勝手が過ぎる!」
「あら、まあ、お兄様、急にそんなに大きな声を出されると驚いてしまうわ」
「ああ、ああそうだろうね。私ももうずっと驚きっぱなしな上に怒りっぱなしだよ。お前達とは話し合わなければならないことが沢山ある。何せ、私自身のことでさえ知らされていないのだから、根掘り葉掘り聞かせてもらうよ。一段落ついたら覚悟しておけ。特にダニラス、お前には聞かねばならんことが大量にあるんだ」
「は」
やけに陽気なマーシュ様の声が、最後だけ酷く低くなった。
親しげな会話が繰り広げられている光景を視界に収めることは出来ない。彼らに背を向け続けているのは不敬だ。
だけど、動けない。顔も上げられないのだ。
私を立たせた温度は、未だ私の肘を掴んでいる。それを見ることも叶わない。見なくとも分かる。声を聞かずとも分かる。もしかしたら触れずとも分かったのかもしれない。片手で私の肘を覆ってしまえる長い指が、痛いほどだ。
「それでは、マーシュ様。俺は一旦下がります。戻るまで用事はイザドル・ギミーへ」
「――え?」
思わず顔を上げた。その先で、予想通り金色の瞳が見える。その瞳を見てこみ上げてきた感情を、慌てて散らす。
「イザ、ドル?」
「イザドルなら生きています。襲われた際、狩った獣の血を身代わりに逃走したそうです。少しの間民家へ潜り込み、追っ手の目を掻い潜ってライウスへ戻りました」
淡々とした声で紡がれる内容に、身体中の力が抜けた。イザドル。生きていた? よかった。本当によかった。
また座り込みそうになった身体は、けれど床までは届かない。掴まれたままの肘を引っ張り上げられ、腰を抱かれる。そのまま無言で歩き出した身体に抱かれた私も当然動く。
「ま、待って。カ」
「黙ってください」
名を呼ぼうとして遮られたのは初めてだ。
呆然と私を抱える人、カイドを見上げる。見つめて、視線が合わないことも、あまりなかった。いつだってこの人は、私が呼ぶ前から私の視線に気づき、目を合わせ、微笑んでくれた。視線が合わなかったのはあの日、燃え落ちる屋敷を前にしていたときくらいだ。
「あら、シャーリー、どこに行くの? 駄目よ、ねえ、お兄様。シャーリーは私の物よ。だってライウスのシャーリーなんだもの。あのね、わたくしシャーリーにお母様になってほしいの」
不思議そうな声と共に伸ばされた手を、静かにマーシュ様が握る。
「うん、そうか。それについても話をしよう。けれどこれは、王家……いや、家族が話し合うべきことだからね。それと同じで、ライウスの彼らの話を私達が邪魔してはいけないよ。それに恋人同士の諍いに他人が首を突っ込めばろくなことにならない。勿論首を突っ込んだ方がね」
「あら、だったらわたくしがいてもいいでしょう? わたくしずっとカイドが怖くて逃げていたけれど、だからこそ今までの人生で一番気にしていた男性だもの。いつだって動向を気にしていたわ。他の、誰よりも実際に会えばちっとも恐ろしくなくてとっても素敵だったの。シャーリーとあんな素敵な恋が出来るのですもの。わたくしも、カイドとそんな恋がしたいわ!」
カイドを見ている瞳には確かな熱がある。ああ、そうかと、腑に落ちた。現実と夢と病と、様々な狭間の中で、その思いは確かに恋だったのかもしれない。
悲しいほどに、一人で堕ちる恋だった。
好きだと公言している人皆が揃ってにこにこご機嫌なアジェーレア様の手をしっかり掴み、マーシュ様もにこにこ笑っている。いつの間にかお二人の周りには人が集まっていた。ダニラスは最初の位置からほとんど動いていないが、何かあれば二人をすぐに引き剥がせる位置取りだ。
「その話は後でしよう。二人は行って。後のことは私が務める……いつの時代も、ライウスを王家の事情に巻き込んで済まない。といっても、ここから後もしばらくは付き合ってもらわなくてはならないようだ。議会制度、凄くいいと私も思うよ。色々、教えを請わないといけないね」
私を含めた何人もの人の頬が引き攣った。マーシュ様の選択でフィリアラ国の歴史は大きく変わっていくのだろう。
呆然とした私の掌に何かが触れた。視線を落とせば、首から繋がっていた細い鎖をカイドが私に持たせているところだった。
「俺は持ちたくありませんので持っていてください。後で外します」
「ありがとう……待って、どこに行くの? カイド!」
確かに下がる許可は下りていた。けれど私はまだ下がる挨拶もしていない。なのにカイドは一切振り返らず部屋を出ると、一歩も止まらず歩き続けた。
かろうじて走らなくてもついて行ける速度だが、いつも並んで歩いていた速度と比べるとうんと早い。それに、一度も視線が合わない。どこに行くのか問うても返事はなく、言葉自体が発せられなかった。それなのに腕を掴んでいる力は痛いほどだ。
怒って、いるのだろう。当然だ。勝手をした。
私だけが持つ事情のために勝手をして、酷い迷惑をかけた。イザドルが生きていたことはとても嬉しいけれど、死ぬような目に遭わせたことに変わりはない。
こうなっては、婚約もどうなるかは分からないだろう。王のおじ様がくださった書面があれど、カイドが破談にしようと思えば出来る話だ。
慌ただしく廊下を進む兵士が混ざった人間の中を、私が走らなくて済むぎりぎりの速度で進むカイドには、ちらちら視線が寄越されてくる。きっと用事があるのだろう。けれどカイドの顔を見るや否や青ざめ、さっと頭を下げて散っていく。
私からは背中と揺れる髪しか見えない。カイドは今どんな顔をしているのだろう。さっきは黙るよう言われたが、話は、出来るだろうか。いつだってどんなときだって、私の言葉を塞ごうとしなかったカイドに会話を遮られたことに、自分でも驚くほど衝撃を受けた。
自分でも気づかぬうちに、言葉を交わせる幸運に甘えていたのだろう。私は本当にどうしようもない。自分を戒め続けないと、少し幸運が続くだけですぐに己の愚かさを忘れてしまうのだ。本当なら十五年前から、誰とも言葉を交わすことを許されないのに。




