61.あなたと私の約束Ⅸ
「これは嫌よ。これとこれも、駄目。あらまあ、これもだわ。お父様とお兄様に追い出された方々が戻ってこようとしているのね、困ってしまうわ。この案も既に却下されたはずでしょう? それを修正もなしに出してくるなんていけないわ。駄目なものは駄目と言っておいてね、ダニラス。それよりも、何の問題もなかったのに城に上がらなくなってしまった方々を呼び戻してちょうだい。お父様もお兄様もいないのだもの。人手が足りなくて困ってしまうわ。お父様は仕様がないけれどお兄様ったら、避暑は夏に行くものなのに困った方だわ。ねぇ、シャーリー」
「そうですね」
先日弾かれた書類が、差出人名を変えただけで戻ってきている。それらを再び弾く。人手が足りないのは本当だ。私まで駆り出されるくらいなのだから相当である。
書類の中には私の目が触れていいとは思えない内容の物も多々あったが、アジェーレア様は気にしていない。仕事が出来る方なのに無防備で、心配になる。
全領代表の使者として立ったワイファー使者団が到着して三日、城に大きな混乱は見られない。市井にも目立った混乱は見られないと聞く。だが、マーシュ様が姿を現わさなくなり、いつまで経っても王の葬儀が執り行われないことに対し、困惑は広がり続けている。騒ぎになっていない今が奇跡のようなものだ。何か一つが弾ければ、大きな混乱は免れないだろう。
ウィルフレッドは私が部屋に戻った時に、ふらりといなくなる。恐らくはワイファー使者団の元に戻り、情報のやりとりを行っているのだろう。
アジェーレア様は今までが嘘のように、もうずっと精力的に仕事に取り組まれている。以前と違うのは、その周りにあまり人の姿がいないことだ。お慕いしていると頬を染めていた人々は徐々にその数を減らしている。いなくなってしまった人もいれば、未だ城に留まる人もいる。
だが、その全てをアジェーレア様が寄せ付けなくなってしまったのだ。手酷い仕打ちをしたわけではない。心を切り裂くような言葉で突き放したわけでもない。にこにこと穏やかに、柔らかな声と笑顔でやんわりと置いていくのだ。
「ねぇ、シャーリー。わたくしのこと誰よりも愛している?」
「――ええ、アジェーレア様」
そう答えた私の振動を拾った首から、鉄の音が鳴った。
昨日、返事が一拍遅れた。少し喉が掠れるなと思ったが故に、いつもより呼吸の時間を長く取った。ただそれだけの遅れが、アジェーレア様には致命的だった。遅れは激昂を呼び、恐慌を巻き起こした。机の上にあった全てをなぎ倒し、泣き叫んだアジェーレア様が、そんなことなどなかったかのように現れた一時間後、その手には鎖が繋がった首輪が握られていた。
首で擦れる革の首輪が少し痛くて、指で位置を調整した瞬間、鎖が引かれた。がくんっと体勢を崩して机に倒れ込む。衝撃を受けた痛みと締まった首を、反射的に押さえようとした手が取られる。整えられた爪が食い込み、血が滲む。吐息が触れるほど近くで見開かれたアジェーレア様の瞳は、全てを飲みこんでしまいそうなほど大きい。
「シャーリー、外しては駄目よ? とっても似合っているのだもの。シャーリーは赤もとても似合うわ。わたくしとても素敵だと思うの。だから、ねぇ、シャーリー、嬉しい?」
「――ええ、アジェーレア様」
「本当? 嬉しいわ! だから、ねぇ、シャーリー。笑ってちょうだいな」
これほどの歪みが、誰にも気づかれず、ささやかな違和感を齎すだけで、よくこの細くしなやかな身体に収まっていたものだと感心するしかない。
鎖を引かれ、ご機嫌なアジェーレア様の前を歩く。廊下の窓に映っている私は全てアジェーレア様と揃いの衣装が誂えられている。ドレスも、髪型も、装飾も、紅の色さえ揃えられている。その中で唯一つ、真っ赤な首輪だけが異質だ。
後ろからは鼻歌が聞こえてくる。最近、アジェーレア様は私が前を歩くことを好む。鎖を引かれているのに前を歩いているのは少し違和感を覚えるが、首輪は後ろから引いた方が効果が出るからその為かもしれない。まるで家畜だなと思う。通りすがる政治家や使用人達がぎょっとした視線を向けてくるのは仕様がないにしても、ジャスミンとサムアが泣いてしまったのでどうにかしたいと考えてはいるが、難しいだろう。せめてアジェーレア様の目がないところでは外しておきたいが、鍵がかかっていて外しようがないのだ。
首にだけ赤い色がある。まるで断ち切られた線のようだなと思った。
あまり隙間のない首輪によって肌が傷ついているのか、痛みがあるのも少し困るが、何より困るのは、これにより更にアジェーレア様が不安定になっているように思えることである。
望んだことを、望んだように実行しているはずなのに、飢えている。飢えて飢えて、何を補充しても満たされない。足りないのだ。それも些細な物ではない。彼女を構成し、支えるはずの何かが揺らぐほど、飢えていた。
生き物とは不思議な物で、本当に必要な物には意識をせずとも反応するようになっている。ならば、私とカイドにその何かが当てはまったのかもしれない。けれど、望むだけでは救われない。望むだけでは満たされない。当人ですら何が必要なのか分かっていないのなら尚更だ。
「アジェーレア様は……夢はございますか?」
「あら、なあに、シャーリー。わたくしはもう大人だもの。夢は子どもが見るものでしょう?」
この方は、どうすれば救われるのだろう。ただただ壊れ落ちていく様など見たくはない。けれど、国の為にこの方に残された選択は、本人が望む望まざる関わりなく癒やしも救いも遙か遠い。せめて安らかであればいいと願うが、その安らぎが救いになるかどうかは本人にしか決められないのだ。
静かな廊下に鉄の音が響いた瞬間、はっとなったがもう遅い。反応するより早く鎖が引かれた。後ろに傾いた重心を支えようと、身体は反射で足に力を入れるが、そうすると首が絞まってしまう。咽せた分大きく息を吸い、なんとか呼吸を整える。
「呼、んで、頂ければ、振り向きます」
「だってシャーリー、時々ぼんやりしているのだもの。遠くを見ていると、わたくし淋しいわ」
「失礼致しました……ですが、出来ましたら後ろを歩かせて頂けないでしょうか」
アジェーレア様は、何故か酷く驚いた顔をした。その手の動きに合わせて首が絞まり、少し苦しい。大きく引かれると衝撃があるが、小さく小刻みに揺れるとその分肌が擦れて痛む。
「まあ、そんなの駄目よ! だって」
驚いた声でそう言って、アジェーレア様は首を傾げた。自分でもよく分からないらしい。けれど不満なのだろう。可愛らしく頬を膨らませてしまった。そのまま私に抱きつく。
「だって……よく分からないけれど、駄目よ。貴女は前を歩いてちょうだい。そうして、わたくしが呼べば振り向いてちょうだい。そうしたら、わたくしとっても嬉しいの!」
「そう、ですか」
そのまま歩き始めた私の後ろで、アジェーレア様は鼻歌を再開させた。動きに合わせて鎖が揺れる。
「そうだ、シャーリーにはまだ言っていなかったかしら」
何をだろう。振り向けば、アジェーレア様は機嫌良く手を合わせた。必ず混ざり込む鎖の音には、まだ慣れない。
「あのね、領主達がお父様の葬儀に出席する気になったのよ! それでね、沢山の兵を連れて王都に向かっているのですって!」
楽園は終焉に向け、もう走り出しているようだ。もうすぐ砕け散る彼女の楽園に付き従う人の数も、そろそろ定まった頃合いだった。
「シャーリー、まだ寝ないの?」
「せめてこっちにいてくれよ」
寝室から心配そうに覗いているジャスミンと、困った顔をしているサムアに苦笑を返す。
「ごめんなさい。ウィルフレッドとダニラスが戻ってきたら、少し話があるの」
「手伝えることある?」
「その時はお願いするわ。だから、それまで身体を休めてほしいの」
そう頼めば、二人はいつも食い下がったりしない。聞いてはいけないと判断した話は耳を塞ぐなり退室するなりしているくらいだ。それなのに、今晩はどうも勝手が違うらしい。
「……シャーリー、変なこと考えてないよね?」
「変なこと? ……私、何かおかしな事をしてしまったかしら」
首輪をつけていることがおかしな事に換算されるのは分かる。分かるが、私が望んだことではないのでそこは数に入れないでもらえるとありがたい。
流石に部屋にいる間は鎖は外されているから軽くなっているが、緩やかな締め付けが消えない首にそっと触れると二人は泣き出しそうな顔になってしまった
「変なことは、してないけどな……お前、分かってるんだろうな。ちゃんと、ライウス帰るんだからな? お前は俺達と一緒にライウスに帰るんだ。それ忘れてないなら、何でも、いいけど」
そこでちょうどウィルフレッドとダニラスが部屋に入ってきた。どうもこの二人、ノックを知らないらしい。いきなり開かれる扉に慣れてしまった。ジャスミンとサムアは突然押し入ってきた男達に襲われて以来警戒を覚えたようだが、その際はノックがあったと言っていたので、今入ってきた二人は侵入者より質が悪いようだ。
「ウィルおかえりー」
「おかえりウィル、夕食とったか?」
「いいから、子どもはさっさと寝ろ。寝不足で使い物にならないなんて話にならないだろ」
「同じ年のくせにぃー!」
「俺より年下のくせにぃー!」
「黙って寝ろ。おやすみ」
ウィルフレッドは無理やり扉を閉めて二人を追いやった。遮断された扉の向こうからは「おやすみー!」と悔しげな声が響いてきたが、やがて静かになった。いい子達である。察しも。
王が崩御し、葬儀が始まらず、王都に集まるはずだった領主達が領を動かない。
ここまで来ても王都に大きな混乱が見られなかったのは、政に大きな混乱が見られなかったからだ。だが領主達が口が裂けても護衛とは言えぬ数の兵を引きつれ、マーシュ様を先頭に王都へ向かえば話は変わる。この時点で、皆が薄らと感じていたであろう国が割れたという現実がはっきりと知れ渡った。
国が割れれば、国民は国を捨てない以上どちらにつくかを選択しなければならない。貴族なら尚更だ。貴族の方が先に情報を知り得ることが出来る。だが教えられるまで知る機会を得られない平民より余程はっきりと立場を示さなければならない。どちらがつらいかなど選べないが、どちらにしろもう後戻りは出来なかった。
国は割れた。王の急逝にも疑惑の目が向かうだろう。
アジェーレア様擁立派は、声高に王の死はマーシュ様によるものだと叫んでいる。正当な王位継承権を持ったアジェーレア様を妬み、彼女へ王位を授けようとした王から玉座を簒奪しようとしたのだと。対するマーシュ様擁立派は王の死には触れず、アジェーレア様はご病気であるが故に政務は務まらないと主張している。こちらは説得力にはやや弱い。実際その様子を目にしている私達ならばともかく、国民はアジェーレア様の病状を直接目にしていないのだ。
だが、領主達がマーシュ様についたとなると、話は別だ。マーシュ様の主張は一気に現実味を帯びる。
「どの領もかなり大がかりに兵を出してきたな」
ダニラスが眉間を揉みながら書類を見ている。あまり寝ていないのだろう。最近の城は、以前にも増して静かだ。沈みかけの船から鼠が逃げ出すように、人が減っている。
「元々フィリアラは領あっての国だろうが。王都が崩れてもこれだけの兵力を揃えられることを強みとしてやってきたんだ。そろそろ一度他国に見せておかないと、嘗めた奴らが出かねない……王城側にもな。若い貴族連中は領の力を見くびっている馬鹿共が出始めた頃合いだろうからちょうどいい。領主達の判断もこれについては一致した」
これについてはということは、何かは一致しなかったということだ。私の視線に気づくまでもなく、最初から私を見ていたウィルフレッドは人の悪い笑みを浮かべた。
「マーシュ様につくかどうかは、割れに割れた」
視線を向けた先でダニラスは拳を握りしめている。彼にとっては唯一無二の主だ。けれど、領主達にとってはそうではない。王族に対しては、領主は領民のように選ぶ立場に立てるのだ。
危うい均衡があれど王城の政に口を挟みやすくなるとの打算が働けば、アジェーレア様を擁立する領も出てくるだろう。マーシュ様が病であると知られれば、身体だけでも健康なアジェーレア様をとの声はもっと大きくなるかもしれない。
だが、そうなればアジェーレア様はもたないだろう。心の均衡が崩れれば身体にも限界が訪れる可能性がある。
時間も、ここで領同士が争う余裕もないのだ。
「ダニラス・クアッサ。ライウスに感謝するんだな。ライウスがマーシュ様の後ろ盾となり、取りなして回った。王城はその事実に感謝し、それ相応の見返りを用意しろ」
「……貴殿はこのままライウスに止まるのか?」
「さあな。だが、ライウスは俺の故郷だ。居着いて何が悪い」
「つまりこれからライウスには、カイド・ファルアとウィルフレッド・オルコットが揃うのか? ……最悪だ」
ダニラスが呻くのも頷ける。いくら仕事が出来るといっても、マーシュ様が一人で相手取るには少々相手が悪い。ウィルフレッドに至っては人も悪い。それは頭も抱えたくなるだろう。しかし、彼を励ましている時間もあまりないのが現状だ。
「ダニラスはマーシュ様と話し合ったほうがいいわ。これからのことを考えれば考えるほど、マーシュ様にはあなたが必要よ。兵はいつ頃王都を囲うの?」
「は。恐らくは二日後かと」
ウィルフレッドは忌々しげに肘をついた。
「もうさっさと王女を殺せばいいだろう。だがその責をライウスにかぶらせるなよ。殺すならお前達が殺せ、ダニラス」
「……アジェーレア様が収まりがつかないほどの暴政を行うならば、それも考えた。だからこそ、俺が残ったんだ。しかし今は、ライウスの手を借りたにせよ、領主達を一丸にした事実が出来た今ならばマーシュ様の部下であった我々が殺す方が禍根になる。一連の騒動をマーシュ様が仕込んだと言われれば面倒だ。マーシュ様には、民にとって絶対の正義となって頂く」
「ライウスに大きな借りを作った以外は、何だかんだとお前の筋書き通りか。面白くはないな。お前も少しは失えばいいものを」
「あの方が不治の病である以上の絶望など、この世にあるものか」
だからこその捨て身の献身なのだろう。
マーシュ様より離反したダニラス達は、この先マーシュ様の障害になる全てを抱えて沈んでいくつもりなのだ。なんとはた迷惑で自分勝手で傲慢な、少しだけ羨ましい死に方なのだろう。
ここが王城でなければ、彼らが王族でなければ、ただの悲しい一家という悲劇で済んだものが、沢山の者を巻き込んで大事にならなければ収拾しない。ただでさえ耐えがたい悲劇が、王族であるが故により多くの不幸を撒き散らかさなければ終わらないだなんて、本当に世界の常識とはなんて馬鹿馬鹿しく無情なのか。
こんな事態になってもワイファー使者団は王城を出ていない。普通ならば領から兵が出された時点で城を出るのが定石だ。人質にされたり報復の手段に使われる可能性が高いからだ。だが、荒事に慣れていないであろうワイファー使者団は未だ王城に留まっている。ウィルフレッドが留めているのか、それとも危険はないと判断しているのか。
「ウィルはいつ王城を出るの」
「早朝だ」
ほんの些細な動きだったが、ウィルフレッドの視線が寝室の扉を見たことに気づいた。二人がいなければウィルフレッドは城に残り動き続けていたのかもしれない。けれど二人がいなければカイドと組んでまで王城にやっては来なかっただろう。人は尖ったまま丸くなれるのだなと不思議なものを見た気分だ。
マーシュ様を連れた、マーシュ様が連れた、どちらで銘打っているかは分からないが、領主達の兵が王都を囲む。全ての領から兵が出されている以上、民意はマーシュ様にある。領主は王族を支える存在だが、同時に選ぶ存在でもあるのだ。
その領主達が自領の兵を王都へ向ける意味など一つしかない。現在城にいる王を認めない。なんと分かりやすく簡単なことだろう。
王が死に、王子が城から落ち、王女が残り、王子が兵を連れて城に戻ってくる。国民にとっても、他国にとっても、これ以上に分かりやすい構図はない。
「シャーリー様……貴女は、貴女を利用している俺をお恨みではないのか」
ぽつりと呟いたダニラスは叱られたいのだろう。そして、恨まれたい。その願いを叶えてあげるほど、私は優しくないし、何も許してはいないのだ。
「罪名を間違えてはいけないわ、ダニラス。あなたが罰されなければならないのは、イザドルを殺したこと、ジャスミンとサムアを殺そうとしたこと、アジェーレア様を救うつもりがないことよ。マーシュ様に関しては彼だけがあなたを詰る権利がある。私には関係のない話よ」
アジェーレア様はいつも通りだ。
彼女の頭の中で現状がどう整理されているのかは分からない。彼女が激昂するのは主に私に関してのことだけで、それ以外は穏やかに仕事をしていた。城から逃げ出したい人々はとっくに逃げ出した。アジェーレア様はそれを咎めはしない。気づいているかも定かではない。
城の中は静かで、それさえもいつも通りと言えばそうなのだろう。今の状況は、恐らく後世には歴史に残るほどの事件となるだろう。けれど、一番渦中であるはずの城はこんなにも静かだ。
きっと、マーシュ様側から見れば全く違っているのだろう。私達家族が過ごした時間とカイド達が過ごした時間が、同じ時代でありながら全く違ったように。
そして私はいつだってこちら側にいる。これからの歴史を形作り、動かしていく人々ではなく、もう終わる、終わらなければならない楽園の終焉の中に。
「シャーリー」
不機嫌でもいけ好かないものでもない、ともすれば穏やかにさえ聞こえる声で呼ばれた。
「最期までは付き合うな。それなら、見逃してやる」
「――二人をお願い」
立ち上がり、裾を払う。私は今夜からこの部屋で寝ることは許されていない。一緒に眠りたいとアジェーレア様が言ったからだ。
ウィルフレッドが二人を連れて城を出るのなら、もう何も怖くはない。二人がいてくれたから、背を伸ばしていられた。壊れた病と静寂で過去に引き摺り戻されず立っていられた。それ故についた唯一つの嘘も、もうつく必要はなくなった。
「お前も難儀な女だな。王家の血を持っていながら政から離れることを許され、血の権限だけを譲り渡されたが故に、王族より必要とされたのならば国で最も真摯に仕えるべし、だったか?」
覚えていたのか。そうだろうなと思う気持ちが半分、少し意外に思う気持ちが半分。そんな思いが顔に出たのか、ウィルフレッドは肩を竦めた。
「この俺が婿入り先の家訓を把握していないと思っているのか? 俺はそこまで馬鹿じゃない」
「馬鹿になんてしていないわ。必要がなくなった後も覚えているだなんて思わなかったの」
「お前は、血が終わっても家訓を捨てられないのか」
「血が終わったからこそ、果たされなかった責務を投げ出してはならないわ。それを果たさなければ、シャーリー・ヒンスですらいられないもの。……約束を、したの。沢山したのよ。約束を果たす権利を私は得たい。目の前に私が顧みなかった義務があるのに、それを放り出して私が嬉しいだけの約束を叶えることなど出来ないわ。そうでないと、この名を名乗る際、責任を放棄する手段としての理由が混ざり込んでしまう。そうなったら、私はこの名を名乗る権利を失うわ」
ウィルフレッドは笑う。それは初めて見るほどに穏やかなものだった。
「忌々しいほどにあの男が言っていた通りだな」
意味が分からず、少し眉を寄せる。謎かけといった様子でもないので私が理解できないだけなのだろう。くすくす笑い始めたそこには、僅かながらの憐憫が混ざっているように見えた。
「お前は本当に、この世に生きる誰より自分の価値を信じない」
彼は散々勿体ぶった挙げ句、至極今更で、当たり前なことを言った。




