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狼領主のお嬢様  作者: 守野伊音
三章
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58.あなたと私の約束Ⅵ







 髪を振り乱して長い廊下を走る。途中ですれ違った使用人達が慌てた様子で声をかけてきたが何も耳に入らない。

 男が追ってきているかどうかも判断がつかなかった。途中で靴が脱げてしまったが痛みはない。だが、たとえこの場が荒れた石畳だって躊躇はしなかっただろう。

 良くも悪くも、城にはある程度の馴染みがある。案内などなくても目的の場所には辿り着くことは容易だった。




 最初に見えたのは、薄く開いた扉だった。足は止まらない。けれどぞっとした。見張りが、いないのだ。倒れているわけでもないのなら、最初からいなかったのだろう。

 手を伸ばしたけれど、最早体当たりに近かった。礼儀作法もあったものではないし、そんなものは端から頭にはない。


「ジャスミン、サムアっ!」


 扉が跳ね返らんばかりの勢いで叩き開けた先には、誰もいなかった。

 だが、あれだけ重たかった椅子が倒れている。花瓶も割れ、花と水が破片の中に飛び散っていた。左右の扉両方が、薄く開いている。まるで、今の私がしたように、叩き開けた後にゆるりと元の位置に戻っていったかのような、そんな開き方だ。

 ジャスミンもサムアもここが仕事場ではないといえこんな無作法をする子ではない。それに、どうして二人は出てこないのだ。いつもなら疲れて休んでいたとしても、眠そうに目を擦りながら迎えに出てきてくれるのに。


 いない見張り。開いたままの扉。あの男の、言葉。嫌な予感ばかりがぐるぐる頭を回る。

 立ち止まっていても何にもならない。一瞬だけ迷い、寝室に駆け込もうと身体の向きを変えた時、背後から水音が聞こえた。反射的に身体の向きを変え、寝室とは逆の扉に飛び込んだ。




 小さな滴の音は、扉を開けた更に奥の風呂場から聞こえた。半分開いた扉の奥に三人の男の姿を認め、息が止まった。壁際にいる二つの影と、湯船に沈み込んでいる影を見て、自分のものとは思えないほど引き攣った声が喉から漏れた。


「サムア!」

「引き上げろ!」


 この場にいるはずのない男の声にぎょっとする余裕はない。

 ぐったりと身動き一つせず湯船に上半身を沈めているサムアの身体を全力で引き上げる。

 見知らぬ男を壁に叩きつけ、下からその首に腕を押しつけていたウィルフレッドは、サムアの身体が完全に湯船から出されたのを見た瞬間ほっと息を吐き、吸った。

 それと同時に男に膝を叩き込み、首を持ったまま身体をねじる。サムアに覆い被さった私の上を男の身体が吹き飛んでいき、脱衣所に叩きつけられる音がした。




「サムア!」


 首筋に手を当て、唇に耳元を寄せる。呼吸が聞こえない。指先を押し返す振動も、なかった。


「俺がやる! お前はジャスミンを見てこい! 寝室だ、早くしろっ!」


 私が駆け出すと同時に私がいた場所に身を滑り込ませたウィルフレッドが、上着をサムアの首下に入れた。名を呼び胸を押す鈍い音が聞きながら、一直線に寝室に駆け込む。

 開け放った扉は随分早い段階で何かに当たって跳ね返ってきた。それを腕で受け止め、障害物を確認する。大きな寝台の傍に二人の男が倒れていた。そのうちの一人の足に扉が当たったのだろう。

 寝台の上には誰もいない。ざっと部屋の中を見回してジャスミンの姿がないのを確認しながら男を跨ぐ。壁際に回って、膝をつく。寝台と壁の間にジャスミンが倒れていた。



「ジャスミンっ、ジャスミン起きて、ジャスミン!」


 首に手を当て、怪我の具合を確かめる。首元が赤く染まっていて背筋が凍った。だが、首に触れた指先からは温かく確かな脈が伝わっている。ならばと髪を掻き上げながら確認すれば、どうやら傷口は頭のようだ。

 胸元がよじれるように乱れているところを見ると、胸倉を掴まれたのだろう。その状態から何かがあって、頭を打って気を失った。

 その判断で正しいだろうか。恐らくティムはこっちから先に片付けたのだ。ジャスミンの頭の出血はもう止まっている。だが、頭は怖い。あまり動かさないほうがいいはずだ。それでも、意識が戻らないのも怖い。



「ジャスミンっ!」

「う、ん……」


 呻いたジャスミンの瞳がうっすらと開かれる。何度か淡い瞬きを繰り返し、はっと目を見開いた。震える手が私の腕を握りしめる。


「へ、変な人が、いき、なり、押し入って、きて、誰か……ティムが、いたような気が、する」

「ええ、いたわ。今もいるわ。ごめんなさい、支えるから、少しだけ歩けるかしら。この部屋にあなたを一人置いておきたくないの。私があなたを背負えたらいいのだけれど、落としてしまう可能性があるから……」

「ティム……そうだ、サムア! サムアが!」


 私が支える前に、ジャスミンは勢いよく立ち上がってしまった。案の定ふらりとよろめいた身体を慌てて支える。

 気が急いているジャスミンは、痛むだろうに頭を押さえたままふらふらと進む。倒れている男達を踏んで進んでいく。男達が目覚めては困るから踏まずに跨ぐ。男達は、どうやら生きているようだ。恐らく、ウィルフレッドは殺す時間を惜しんだのだろうと察する。







 寝室を出たジャスミンは、二枚の扉が開かれままの先を見て、ただでさえ悪かった顔色を更に青ざめさせた。


「サムアっ!」


 ウィルフレッドはジャスミンの声に一瞬だけ視線をこちらに向け、すぐに戻す。

 何度もサムアの胸を押し、一定の回数後口元を覆って空気を押し込む。サムアの胸は大きく膨れるが、それだけだ。いくら空気を押し込んでも、自発的に胸に空気が送り込まれることはない。


「サムア、サムアっ!」


 泣き叫ぶジャスミンの声の間に、ウィルフレッドの声が絡まる。


「サムア、起きろ、サムア!」


 へたりと座り込んだジャスミンは震える手で掴んでいた私の腕を放さなかった。彼女の体重を支えきれず一緒にしゃがみ込む。

 ウィルフレッドに手を貸したいが、あの場では逆に邪魔になる。心肺蘇生は一定の間隔で行わなければならない。慣れていない者が混ざれば、一人でするよりも蘇生の可能性を低めることになる。



 風呂場の水なのか汗なのか、それとも別の何かなのか。伝い落ちる滴はそのままに、ウィルフレッドは決して動きを止めない。蘇生法が有効な時間はどれほどだったのか。考えたくない。


「駄目だ、死ぬな、駄目だ。お前じゃない! お前達が死んでどうするんだ! お前達はこんなものから最も遠い場所にいないと駄目だろうが! サムア、駄目だ、やめろ、サムアっ!」


 口が塞がっていない間、ウィルフレッドはずっと叫んでいる。





「ワイファー使者団の中に見た顔だな。どうやってここに潜り込んだ」


 走らずゆっくりと追いかけてきたらしいダニラスが扉の前に立っていた。

 ジャスミンを背に庇い、割れて砕け散った花瓶の破片を手に取る。武器とも呼べないが、無いよりましだ。私の力では時間稼ぎにもなりはしない。だから、そう侮ってくれればいい。

 狙うは命ではない。時間だ。首か目を捉えられれば、傷は浅くとも上出来だ。


 部屋の様子を見て飛びかかってこられるような人間はいないと判断したのか、ダニラスが一歩踏み入れた途端、サムアに空気を送り込んでいたウィルフレッドが吠えた。


「誰も部屋に入るな! 俺はライウスの亡霊ウィルフレッド・オルコットだ! この部屋に一歩でも入った人間は末代まで呪われるものと思え!」

「何、を……また、古い名を出してきたものだ」


 ライウス内に轟くその名は、王城勤めのダニラスにも一定の効果を齎した。面白がったのか気味悪がったのかは知らないが、部屋に踏み入ろうとした足は一応止まった。





 張り詰めた緊張はほんの僅かに緩んだ。規則的に聞こえる蘇生音だけが響く。その静寂に、違う音が突如紛れ込んだ。


「サムア!」


 胸元を痙攣させ水を吐き出したサムアを、ウィルフレッドはまるで反射のように抱き起こした。激しく咳き込んだサムアの上半身を抱きかかえ、水を吐きやすいよう体勢を整える。奇しくも以前私が、コルキアでカイドに助けてもらったときと同じ体勢だ。

 幾度か激しく咳き込み、身体を震わせたサムアを、ウィルフレッドはじっと見つめている。やがて、吐くものがなくなったのか、呼吸が落ち着いてきてようやく瞳を揺らし、その身体を下ろした。


 何度か背を撫で、痙攣が治まると、無言のまま私の前に歩いてくる。私は握っていた破片を下ろして顔を上げ、目を閉じた。

 目を閉じる直前に見えた光景は予想通りで、すぐに熱い衝撃が頬に走った。平手以外は初めてで、平手と拳では音が大分違うなと、衝撃で揺れる思考の中考える。

 ウィルフレッドの手が濡れていることも原因の一つだろう。目の前で行われた行為にひゅっと息を呑んだのはジャスミンだった。


「巻き込んだのなら、ちゃんと守れ!」

「……本当ね」


 ジャスミンはふらつきながらも、慌てた様子で私達の間に身体を滑り込ませた。



「ティ、ウィ、ティ、ウィっ…………どっちで呼べばいいか分かんないよぉ! でもどっちでもシャーリーを殴っちゃ駄目でしょ!? 何やってるの!? シャーリーも受け入れちゃ駄目だよ!? 何やってんの!? 何やってんの!?」


 酷く混乱しているようだ。おろおろしながら私の顔に自分の袖を押しつけている。どうやら口端が切れたらしい。それにしては量が多いと思ったが、拳だった為に鼻からも出ているようだ。

 自分の袖でも押さえる。サムアを引きずり出したときに濡れているから拭きやすい。





「……聞いたのか」

「聞いたよっ……やっとね、教えてくれたんだよ。私達、ずっと聞きたかったから、嬉しかった」


 ジャスミンは、俯いたウィルフレッドを下からそぉっと覗き込む。


「ねえ、私達、貴方のこと何て呼んだらいいの?」

「……俺は、ウィルフレッドだ。この名は捨てられない。だが、お前達は好きに呼べばいい。敬称でもないこんなこと、誰かが強要すべき問題じゃない。ティムでも何でも呼べばいいだろ」

「……呼ばないよ。そう呼ばれたくないのなら、呼ばない。友達が嫌な呼び方は、しないよ」


 ぐしゃりと、ジャスミンの顔が歪む。ふらつきながら立ち上がり、びしょ濡れのウィルフレッドに抱きつく。


「ティムでもウィルでもいいよ。貴方がいてくれるなら、そんなのどっちでもいいよぉっ……!」


 ジャスミンに抱きしめられたウィルフレッドは、酷く困った顔をした。迷子の子どものような顔で私を見る。

 私は首を振り、サムアを指した。のろのろと、けれど素直にそっちに視線を向けたウィルフレッドを見ながら、どうにか身を起こしたサムアが壁に凭れながら一つ咳き込む。


「俺はライウスの悪魔だ。お前達の親類縁者の誰かを、俺は必ず殺してる」

「……そうかもな」

「俺は……お前達を裏切ったぞ」

「いいよ。淋しかったんだろ。そんなに淋しいなら、俺達がずっと一緒にいてやる。だからウィル、もうそれで満足しとけ。俺達で、満足しとけよ。その代わり、ずっと一緒にいるからさ」


 立とうしたサムアは、もう一度座り込む。壁に沿ってずるずると座り込みながら、それでもへにゃりと笑った。


「お前が生きててよかった」


 自分こそが死にかけた子どもから幼い笑みを向けられたウィルフレッドは、ジャスミンの肩に顔を埋めた。抱き返すことはしていない。けれど決して突き放さず、その髪の中に顔を隠す。








「さて、これはどういう状況だ?」


 呆れた声を出したダニラスに反応したのは、まだ顔を埋めたままのウィルフレッドだった。


「ダニラス・クアッサか。幼少の砌に小枝に引っかけた額の傷は消えたのか? 俺の前で転んで怪我をし、火がついたように泣き出したな。些か面倒だったぞ、あれは」


 ダニラスの顔色が見る見る間に変わっていく。最初は怪訝な顔をした。次いで青ざめた。最後にかっと頬を染めたダニラスの額は前髪が下りているのでその傷は分からない。だが、どうも本人からすれば恥らしい。

 鼻で笑ったウィルフレッドが私に視線を寄越す。その目の状態には気づかないふりをすることにした。


「お前も何かないのか」

「思い出ということ? ……あの、馬はもう怖くない? 髪を食べられて、マーシュ様と泣きながら抱きついていらっしゃってからずっと馬が怖いと仰っていたけれど、平気になったかしら」

「……お前、俺よりえげつない餌持ってるな」


 何故か酷い衝撃を受けたらしいダニラスはよろめき、半開きの扉にぶつかる。

 その音にも誰も寄ってこないから、本格的にこの場には人払いがされているようだ。ダニラスは帯剣しているので、それなりに腕に自信があるのだろう。そうでなければ護衛もなくこの場に一人で止まってはいないだろう。だがその顔色は酷く悪い。



「ここは地獄か……」

「何だ、知らなかったのか」


 唸るように呻いたダニラスに、顔を上げたウィルフレッドがにやりと笑った。が、すぐに氷のような目つきになった。


「この俺が俺達を殺したあの男と組んでまでここにいるんだ。その原因を作ったお前がまさか、この地獄から逃れられるなんて思っていないだろうな」


 それはさぞかし業腹だろう。どっちにとっても。

 ダニラスの言を信じるならば、ウィルフレッドがワイファーの使者団に混ざっていたことでカイドの手が入っていることは分かった。


 ワイファーは現在ライウスに、領としては小さなものでも負い目があるのだ。しかもその負い目の理由であるジャスミンとサムアのことだ。カイドからの要請を断ることは難しかっただろう。対してダリヒはワイファーと大して親しくはない。この二つの領は少々距離があるし、特に争う理由もないのだ。となると、この事態の中わざわざ危険な王城へワイファーが向けた使者団にウィルフレッドが混ざっている理由など、大分絞られる。



 ウィルフレッドの視線と殺気を一身に受けるダニラスの混乱しきった顔に、少々憐憫の情が湧きかけたが同情はしない。同情するには、この男は少々誰の逆鱗にも触れすぎている。私だって充分腹に据えかねているのだ。

 とりあえずサムアを支えに風呂場へと向かいながら、硬く握りすぎて破片で切れてしまった手を軽く振り、痺れと痛みを散らした。そして殴られた理由は納得しているが、どうしてウィルフレッドはいちいち顔を殴るのだろうと首を傾げる。

 洗面台の前を通るついでに、どうやらこっちも切れていたらしい口の中に溜まった血を流していると、私より余程真っ青になったサムアが自力で立ち上がって私の背を撫でていた。


「ともかくウィルお前シャーリー殴んなよ!? それは怒るぞ俺達も! 何やってんだよ!?」


 そこでようやく、男に拳で殴られるのはわりと仰天される事態だったのだと思い出した。


「いいのよ。あなた達を預かったのに死なせかけたのだもの。当たり前よ。それよりも、ダニラス・クアッサ、あなたには聞きたいことが沢山あるわ。それと、医者の手配をお願いできるかしら。ジャスミンとサムアを早く医者に診せて。この部屋でよ」


 必要なことだけを伝えれば、ダニラスは小さく呻いた。









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― 新着の感想 ―
何度も何度も読み返しているお話ですが最初だけでなくこのあたりまで、DV気質のあるこのティムという男の歪んでひんまがってシャーリーをどこかで自分のものだから踏みつけて良いと判断していそうな面だけが受け入…
[気になる点] ワイファーって名前だけちょろっと出ることが多々あったけど、直接関わることって何かあったっけ。ジャスサムに負い目?はて。読み直すか。
[気になる点] そもそも自分の気に入らない言動をするたびシャーリーを殴ってなかった?いまさらです。「自分の片割れのくせに気に食わない」だから殴った彼にとって、自分の大切な人たちも守れないもう一人の自分…
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