57.あなたと私の約束Ⅴ
「ねぇ、シャーリー。わたくしのこと誰よりも愛している?」
「――ええ、アジェーレア様」
静かで少し埃っぽい部屋の中を、アジェーレア様がゆっくりと歩む。広く巨大な部屋は勿論手入れが行き届いているが、部屋の性質上どうしても籠もった布の臭いが消えない。
「困ったわ。お兄様の行方も知れず、領主達も参列しないとなると、いつまで経ってもお父様の葬儀ができないわ。もういっそお父様の遺言ということにして、先に他国の客人を招いてしまおうかしら。ねえ、シャーリー。どう思う?」
「……私には判断致しかねます。ですが、それを強行してしまいますと、ますます領主達からの反感は免れないものかと思われます」
「カイド以外の領主を全員殺すわけにはいかないものね。だって跡取りが育っていない領は可哀想だわ。皆我儘で困ってしまうわね」
悩ましげな息を吐いたアジェーレア様は、通りすがりの絵を見上げた。三代昔の国王陛下と王妃様の肖像画だ。その隣には家族絵がある。
ここはフィリアラ国の王家の系譜が飾られた部屋だ。白い覆いが掛けられている画も多い。それらは五代より以前の王族の絵画であることが多い。ある程度時が経てば、絵は修復が入り、額縁も新調される。それらは時期を見て徐々に行われるものだ。古くなった物から順番に外され、修復を経て元の位置に戻される。
「お父様は反発を抑えるために領主に権限を与えすぎているわ。少し権限を縮小させ、領地も取り上げてしまいたいところね。王族直轄地を増やし、領主の力を削がなければ、そのうち王族は一領主と同じほどの権限しか持たなくなるでしょう。でも、それでは駄目だものね。だって、他国がつけいる隙が出来すぎるもの。王家の威信が残っている内になんとかしたいところだわ。税を上げて弱らせたいところだけれど、領主を弱らせるより先に国民が怒ってしまうわよね、きっと。彼らは酷く弱く、狡猾で、欲張りだもの。だから、彼らには直接関係のないところから削いでいかなくては駄目ね。彼らが頼る場所から少しずつ、ね」
部屋の隅にはまだ真新しい額縁の絵が外され、床に立てかけられていた。白い覆いがあったが、ちらりと覗く額縁がそれらがまだ新しい物だと告げている。あまり、見たくないと思ったけれど、残念ながらアジェーレア様の目的はその絵のようだ。
「見て、シャーリー。貴女の前にライウスにいた、ライウスのお姫様よ」
白い布が取り払われたそこには、何の感慨も湧かない笑みを浮かべたつまらない女がいた。
この絵が描かれたのは確かカイドと出会う少し前だったはずだ。ああ、こんな顔だったなと思う。鏡で今の顔と見比べても、どっちも大して変わらないと思うくらいには愛着も感慨もない。
「とても美しい方でしょう? 彼女もわたくし達と同じ愛されるべき方だったわ。けれど、愛される力がきっと足りなかったの。だから殺されてしまったのよ」
「いいえ、愛ならば溢れんばかりに与えてもらいました。その貴さも知らず、当たり前のように」
きょとんと首を傾げたアジェーレア様の横で、愚かな女が笑みを浮かべている。
「その女に足りなかったのは現状を理解する頭であり、自身を客観的に見る能力であり、領主の娘としての自覚です。……アジェーレア様、王はどうして亡くなったのですか。あなたは何を望まれるのですか。あなたが目指す先には何があるのですか。何故、私なのですか」
この方はさらりと恐ろしいことを言ってのけるが王としての才がないようには見えない。しかし今まで全く表には出てこなかった。それが今になって精力的に動き出している。残酷なほどに。
「あら、言っていなかったかしら。お父様は死んでくださったの。だって、貴女とカイドの結婚許可を覆してくださらないのなら死んで頂かないと困るでしょう? だからわたくしの為に死んでくださったのよ」
拗ねたように少し尖らされた唇は、こんな事態でも愛らしい。だからこそ、恐ろしい。
「だって、あの方が欲しいのだもの。だから欲しいと言ったの。それはおかしなことかしら。好きなものを好きと言って、何がいけないの? 好きなものに囲まれて生きられるなら、それはきっと、とても幸せなことだわ。そしてわたくしには、その資格があるのだもの。かつて王都に次ぐ力と地位を持っていたライウス領主の一家には許されなかった資格を、直系であるわたくしは持っているの。そう、お父様とお母様が仰ったの。十五年前の話を聞いて、いつかわたくし達も同じように殺されるのかと脅えたわたくしに、お二人はそう言ってくださったわ。わたくしは愛されているから大丈夫だと。だから、大丈夫なの。わたくしは、幸せになっていいの。だって愛された王族なら大丈夫なのよ。愛されるためには王族でいなければならないからわたくしお仕事を頑張るの。だから、かつてライウスに嫁いだ王家の姫と同じ名を持っていたライウスの宝花様は、わたくしの大切な先輩なのよ。だから是非貴女にも知って欲しかったの! ね? 嬉しいでしょう、シャーリー」
確かに私へ向けて話しているのに、私の言葉も気持ちも何一つとして必要としていない。人形を相手にすればいいと言ったカイドの言葉がよく分かる。アジェーレア様は、ここに立っているのが人形でも問題なく『会話』を続けられるだろう。
今ので、よく、分かった。この方の時は幼い子どものまま止まっているのだ。自分を中心とした世界しか持たない幼い子ども。転んで泣いている友達に友達の母親ではなく自分の母親を連れてきてしまうような、自分が必要なことを相手も喜ぶと当たり前に思い込む、そんな幼い自己中心性を持ったまま、王族として育ってしまった、美しい人。
「何故貴女なのかとの問いに答えていなかったわね。だって、貴女愛されているもの。とってもとっても素敵だったの。貴女の周囲は、傷つけてはならないから守るのではなく傷つけさせたくないから気を張っているように見えたわ。それが、とても羨ましかったの。わたくしも、そんな風に愛されたいの。そうしたら、わたくしも皆を同じように愛せるのでしょう?」
「……どうしてイザドルを殺したのですか」
「まあ、シャーリー! 勘違いをしていたのね!」
質問には答えず私が問うた内容に、目を丸くしたアジェーレア様は合わせた両手を自分の唇前につけ、柔らかく微笑んだ。
「あれはわたくしではないわ。だってライウスが安定してくれないとカイドが帰りたがってしまうでしょう? だからカイドの名代に手を出したりしないわ。あらまあ、だからシャーリーは元気がなかったのね。解決してよかったわ。イザドルのことは残念だったわね。お友達だったのでしょう?」
「それならば、イザドルを襲ったのは、誰ですか」
きょとんとした瞳が、部屋の出入り口へと流れていく。その大きな瞳に映った人物を捉え、ふわりと微笑む。
「ダニラス」
「アジェーレア様、またワイファーの使者が参っておりますが、どうされますか」
「そろそろ一度会いましょう。用意してちょうだい。ああそれと、シャーリーはきちんと部屋まで送ってね」
「畏まりました」
ダニラスは傍にいる部下へ手短に指示を出した。それを見ていた私の腕が引かれ、身体が傾く。私の頬へ唇を預けたアジェーレア様は、まるでいたずらな少女のように可愛らしく片目を閉じてみせた。花が綻ぶようなその笑顔を見て、カロンに会いたいと、思った。
裾と柔らかな髪をふわふわと靡かせながら、意外と早く歩き去る背を見送る。部屋には、私とダニラスだけが残った。今日の見張りはこの人のようだ。
「ワイファーから、使者が来ているのですか」
アジェーレア様に連れられていると、二人が会話をしている場面はよく見る。だが、私自身が会話をするのは初めてだ。ダニラスはアジェーレア様を見送ったまま体勢を崩さない。既にいない人の背を見つめるように視線も逸らしてはいなかった。
「全領の代表として、王の死、ギミー領主息子の死、ライウス領主婚約者の返還、及び拘留、領地への過剰な介入の説明を要求している」
「拘留、ですか。私は何の理由でここに拘留されていることに?」
予想がつくような、まさかそこまでではないだろうとこの期に及んで思いたいような。そんな私の甘さに気づいたのか、ようやくダニラスの視線が私を向いた。
「ライウス領主元婚約者シャーリー・ヒンス。貴殿には王の死に関与した疑いがかかっている」
そこまで行き着いたかと思わず声を上げて笑い出したくなった。
どういう経緯でワイファーが代表となったかは分からないが、そちらからの要求はライウス領主婚約者の返還。そしてこの男の口から出た私の呼び名は元婚約者。扱いが透けて見えるというものだ。
私を手元に置くというアジェーレア様の望みを、国民の反発を最小限に叶えるならば私に問題をつくり拘留している体を取るのが一番いいだろう。
「私には王を害す理由が一つもないというのに、おかしな話でございますね」
「ライウス領主と結婚したくないが故の凶行だと聞いている」
「どなたにでしょうか?」
「アジェーレア様だ」
今度こそ笑いを抑えられなかった。最後の礼儀として口元を押さえたが、笑みに吊り上がる口元も、こぼれ落ちる声も隠しようがない。
「あなたは、それをお許しになったのでしょうか。私のような小娘が王の技量を推し量ることなど出来ませんが、あなたはあの方が王に相応しいと思われたから、マーシュ様より離反されたのですか」
「――俺の主は今も昔もマーシュ様のみだ」
笑いを消し、ダニラスを見上げる。そこには忌ま忌ましさも苛烈さも見つけられない。淡々とした、仮面のような顔が貼り付けられているのみだ。
「こんなことが長く続けられるとお思いなのですか」
虚偽と感情と歪と戯れと。そんなもので構成された王女の楽園が長続きするはずはない。私でさえ分かることをマーシュ様に長らくついていた人が分からないはずはなかった。
王女の楽園が成り立っているのは、あちこちの思惑が絡まっているからだ。その一角を担うのは、間違いなくマーシュ様から離反した彼らだということも。
「夜会での襲撃者は、あなた方ではないのでしょうか。マーシュ様がお気づきにならなかったということは、襲撃犯の中に顔見知りはいなかったのでしょうが」
根拠はなかった。当てずっぽうを鼻で笑われたところでこちらに痛む腹はない。だからこそ言えた言葉に、ダニラスは初めて口角を吊り上げた。
「成程。お前がどういう存在か測りかねていたが、剣を向けられても王女をかばった話といいあのライウス領主の婚約者に収まったことといい、一筋縄ではいかん娘だな。城にいる間はぼんやり過ごしているようだから期待外れかと思いきや、お前ならば使えそうだ」
「私にはそんな価値などございません。孤児の、元婚約者ですので」
実際、そうなのだ。カイド達にとっては別の意味を持つけれど、他の面子にはそれだけの意味しかない。アジェーレア様にここまで執心されるなど予想外もいいところだ。
「イザドルを襲ったのはあなた方ですか」
「そうだ。ライウス領主にここで王女の癇癪に付き合って死んでもらっては困る。あの男はマーシュ様が王となった折りにも、巨大なライウスの安定を続けてもらわねばならん。ライウスでの態勢をある程度整えられるなら、お前を回収するまで戻らないつもりだったようだからな。ギミーには悪いことをした。だがあそこは親戚に年の近い優秀な男がいる。それを養子にとってもらう予定だ……しかし、イザドル・ギミーがカイド・ファルアの親友なのは周知の事実だが、お前のために命を張れる男ではないはずだがな。お前は結局、何なんだ。どこから現れ、何故突然食い込んできたんだ」
「あなたには関係がないことでしょう。……あなた方のご都合で、ギミーが愛し、ライウス領主の親友であるイザドルに手を出したことを、どうか後悔してください」
ここで泣きわめけるような性格ならよかったのだろうか。だが、まずいのは、ふつふつと沸く感情が嘆きではなく恨みだということだ。怒りを煮詰め淀ませれば恨みとなる。この感情を既に知ってしまっている私の胸は、イザドルを殺した相手に怒りより先に恨みを募らせた。
約束があった。他者からすればとても些細なもので、去り際にまた今度と言えるような、本当にささやかな約束だった。だけど、私達にとっては本当に大切で重い、約束だったのに。
お嬢様、と、私を呼ぶ幼いイザドルの笑顔を思い出せば出すほどに、約束が痛い。
見上げていると恨みが噴出しそうで、癖など気にせず指を握りしめて堪える。視線は長く続く絵画の列に置いた。この列のどこかに、かつてライウスに嫁いだ姫の絵もあるのだろう。
その姫の名を、私ももらった。毒を振りまく血をライウスに齎してしまった姫の絵が。
「マーシュ様は王になられる気がなかった」
それはその通りだと私も思っている。あの方は幼い頃からご自身の立場を弁える術を身につけていた。決してしゃしゃり出ることなく、許される範囲を見極めながら、王の手足となるよう控えめに行動していたのだ。だからこそ、仕事ぶりが優秀であろうと王子擁立派の動きも大人しいものだった。王子自身にその気がなく、王と王女を支えていたからだ。
ああ、そうか。そこでようやく腑に落ちた。大量に出た王子擁立派からの離反の理由が。
「……お望みはアジェーレア様の継承権剥奪ですか」
にぃっと吊り上がった口角がこの男の人の悪さを示していた。
この時点でもう、完全にこの男達の計画に組み込まれたことも悟る。だからといって、ここで何も気づかない阿呆の振りも出来はしない。それではいい様に利用されるだけだ。
ある程度会話の価値を認められないと、何も知らないまま使われて終わる。それでは困るのだ。今の私は、協力者がいない状態で、あの子達を守り切らなければならない。カイドはあの二人をライウスの若者と言った。けれど私にとってはやはり、あの二人はライウスの大切な子ども達だ。
「出来れば後腐れなく処刑がしたい。あの方は、感情以外にはこれといった不備もなく、糾弾して引きずり下ろせる隙もなかった。マーシュ様が王となる気がない以上、あのままではあの方が王となっただろう。だが、それでは困る。今のように執着する存在が王となってから現れては収まりがつかなかった。今しかないのだ。本来ならば王妃様が亡くなられた際に医者をつけるべきだったが、今更言っても意味がない。あの方は、表に出てはいけない方だ。古代では王の墓に使用人達が共に埋められた。餞にもならんが、あの方には我々と一緒に沈んで頂く」
だが、まだ弱い。そう続けられた言葉に眉を寄せる。ダニラスは私を見下ろし、私は見上げた。互いの瞳に映っているものは冷たい炎だ。彼はマーシュ様への忠誠が、私はイザドルを殺した男への恨みが灯っている。
「王の死を事故と言われてはそれまでだ。だからこそ、もっと明確に、国民に見える形で堕ちて頂かねばならぬ。お前には悪いが、ちょうどいい。贄になってもらう」
「私に、アジェーレア様の罪の代名詞になれと仰るのですか」
「あの使用人二人の行く末を懸けて、重ねて命じようか」
この場で一番触れられたくなかった存在が、よりにもよってこの男から告げられた。指を握る手にぴくりと力がこもると同時に、男の目が眇められる。本当に、憎らしい男だ。マーシュ様もよくこの男を御せていたものだ……いや、御せていたのならこの事態を防げていただろう。
「シャーリー・ヒンス。お前はアジェーレア様に処刑されろ」
見ず知らずに近い人間から告げられるそんな命令に、はい喜んでと答える人間はいるわけがない。目的のために他者の命を踏みにじっているこの男とて、その程度は承知の上だろう。だからこそ続けられたであろう言葉に、愕然とする。
「一人は残してやる。命令に従えねば、両方殺す」
思考がすとんと胸に落ちる前に、身を翻していた。




