56.あなたと私の約束Ⅳ
「ねぇ、シャーリー。わたくしのこと誰よりも愛している?」
「――ええ、アジェーレア様」
何度も交わされるこの嘘さえあれば、それ以外のことをアジェーレア様は頓着しない。
一緒の部屋がいいと私が請うた通り、ジャスミンもサムアまで同じ部屋で寝食を共にすることが出来た。サムアの方が部屋を分けてくれと泣き出しそうになってしまったくらいだ。けれど、共にいないと危険だ。幸いにも衝立はあるし、寝台は広い。三人が寝泊まりするのに問題はなかった。
そんな暮らしが何日続いただろう。私達は不意に現れるアジェーレア様に私が執務室へ連れ出されること以外の時間は、ずっと三人で過ごした。
そうして、話をした。二人にずっと内緒にしていた、今でも続いているずっと昔の話を。
万が一でも盗み聞きされないよう、布団をかぶり、額がつくほど身を寄せ合って、話をした。夜更かしを両親に知られないよう小さな秘密基地を作る子どものように、とても大事な内緒話をしたのだ。
「駄目よ。こんなに予算は割けないわ。計算し直してちょうだい」
きっぱりと言い切られたアジェーレア様の言葉に、私は密やかに告白した夜から意識を戻し、顔を上げた。
執務室の隅、それもアジェーレア様の机の隣に設けられた席で彼女に同席するのは今に始まった話ではない。王が崩御し、王子が行方を眩ませた今、最終決定権を持つのはアジェーレア様だけだ。そしてアジェーレア様は、驚くほど政に造詣が深かった。
「こっちも駄目よ、いけないわ。この方、以前横領してこの地位を追われた方でしょう? 隠遁するとのことだったから深く追求されなかっただけだって、わたくし知っているのよ? ですから、駄目。さっき言ったものはダニラスに回して。必要だったら殺してちょうだい。ダニラス、よろしくね」
「畏まりました」
恭しく礼をした男は、マーシュ様とさほど年が変わらないように見える。
ダニラス。ダニラス・クアッサかと記憶を探る。マーシュ様の乳兄弟だ。幼い頃より一緒にいたはずだ。友と思っていた。マーシュ様はそう言った。その主をあっさりと裏切った男が部屋から出て行く。他の面子にも目配せで退出が促され、彼らは指示通り静かに部屋を出て行く。
最後の一人が扉を閉めてようやくアジェーレア様は一息ついた。可愛らしい声を上げて腕を上げ、背を伸ばす。
「ふふ、はしたないかしら」
「誰も見てはおりませんし、たまには動かさないとお辛いかと」
そう告げれば、アジェーレア様は子どものように笑う。ついさっき殺人を指示した人とはとてもではないが思えない。
「わたくし、昔からお父様のお仕事を手伝っていたの。表に出るお仕事はお兄様にお任せしてしまったけれど……お兄様、本当にどこへ行ってしまわれたのかしら。お父様を慕っていらしたから、お父様が亡くなってお辛いのね、きっと。でも、ご公務を放り出すのは駄目ね。困った方。ごめんなさいね、シャーリー。お兄様が見つからないと貴女達の結婚を公表できないの。ああでも、その前にお父様の葬儀ね。あまりに急なことだったから、国外の方は別の機会を設けて今回はお招きを控えることにしたの。ご遺体は腐ってしまうし、先に埋葬してしまうわ。まあ、これはいつものことだけれど。そうだわ、シャーリー聞いて。酷いのよ。領主達が葬儀に出席しないと言っているの。困ったわ……貴女とカイドの婚約解除を酷く責め立ててくるの」
私の返事を求めていない話し方を、アジェーレア様は度々する。逆に確実な答えが存在する問いも存在した。それに答えられなければきっと恐ろしいことが起こると分かっているから、私は平気で嘘をつく。
王が許可したにもかかわらずライウス領主の婚約を取り消し、その座に自分が納まると公言して各領の代表者達が黙っているわけにはいかない。これを許してしまえば王による酷い独裁の前例を作ってしまうことになる。領の自治が揺らぐことを領主達が見過ごすわけがない。
カイドは無事にライウスについたと聞く。今はきっと他領と話し合い、対策を話し合っていることだろう。
「今のところ、欠席を表明している領と返事を保留にしている領がほとんどだわ。中でも、ライウスとギミー、それにダリヒからも猛烈な抗議文が来ているの。それ以外の領からも苦言の手紙が沢山。でも、ライウスからが一番つらいわ……きっとカイドも心を痛めていると思うの。抗議文を送りたいという部下を止められなかったのね、可哀想だわ……」
「ダリヒからも、ですか?」
予想にない名に思わず問うてしまった。ライウスの領地を虎視眈々と狙っているダリヒ領主ジョブリンならば、この混乱に乗じてライウスに攻撃を仕掛けるくらいはしてのけると思っていた。
「ええ、そうよ。だってダリヒはいつもそうなの。他の領への話でも、領への介入と判断出来る話があればすかさず抗議してくるわ。そういう前例を作ってしまえば、ダリヒへ介入される際に抵抗が少なくなってしまうからだそうよ。お父様も、いつも頭が痛いと仰っていたわ。そのくせ、すぐに保証だ賠償だと凄いのよ。十五年前も、そうやってライウスをもらう約束を交わしたと聞いているわ。ふふ、ライウスがダリヒになっていたら、シャーリー達は何をしていたのかしらね。カイドはそのままコルキアの主になっていたかしら。きっと雪の王だわ! 素敵ね! シャーリーは、そうねぇ。ダリヒでは孤児の女児は娼婦になることが多いから、きっと娼婦ね! シャーリーは絶対に皆から愛されるから、きっととても人気の娼婦だわ! 毎日シャーリーを求めた行列が出来るのよ。それで、皆シャーリーに会って、嬉しくて幸せになるの」
うっとりと夢想されているのは、地獄のようなもしもの世界だ。その夢想の通りならば、私はこの不思議な生を、まさしく罰だと思って過ごしただろう。悪い夢であればいいと願うこともなく、当然の罰だと信じ、地獄に埋もれたはずだ。
「シャーリーは沢山の男性に愛されるほうが好きかしら? だったら、沢山遊んでもいいのよ! お兄様はお優しい方だから、結婚した後も貴女の自由にさせてくれるわ! あ、そうしたら今はつまらないかしら。遊びたいのを我慢してはいない? 男性を何人か用意させましょうか?」
「……どうかお許しください、アジェーレア様。私は夢見がちで愚かな小娘ですので、恋はたった一人としたいのです」
「まあ、そうなの? 勿体ないわね。貴女はきっと沢山の素敵な恋を出来るのに……もし気が変わったらすぐに教えてね?」
「はい」
期待に満ちた顔をしているアジェーレア様には悪いが、そんな未来は永劫訪れはしない。そもそも他の誰かを選べるのなら、私の恋はもう少し穏やかなものだっただろう。
妄執に近いこの恋を手放せなかった時点で、多数どころか一人だって他の誰かなど私の中に存在するはずがない。
思考も胸の内もぐらぐらと揺らいでしまうほど恐怖と不快感が入り交じるのに、瞳と耳から受ける刺激はどこまでも穏やかで愛らしい。堪えきれず虚ろへと逃げてしまいそうな意思を、守らなければならない存在が繋ぎ止めている。
私一人だったなら、とうの昔にアジェーレア様に逆らって殺されるか、己の正気を疑って窓から身を投げていただろう。
ただ座っているだけなのにいつも酷く疲労する時間を終え、部屋へと戻る。そこでようやくずっとついている兵士から解放された。
薄く開けた扉の隙間に身体を滑り込ませ、戸を閉める。左右を固めている兵士に中を見せたくはなかった。
部屋の中ではいつも通り心配そうにサムアとジャスミンが待っていてくれた。その姿に、ほっとする。部屋を出る前にしていた話のせいで二人の目元は腫れ上がっていて痛々しい。けれどそれ以外はいつもと変わらぬ姿だ。二人は既にメイド服と執事服ではなくなっている。私と同じく、用意された服を着ているからだ。
「シャーリー、疲れたでしょ? 座って座って。私、お茶入れるから」
「今日は俺が毒味する日だからな! 忘れて先飲むなよ!」
「えぇー、どっちでもいいじゃん」
「いいわけあるか!」
「…………今日は私が毒味をする日だったように思うのだけど」
流石に看過出来ないと口を挟めば、二人は口笛を吹きながら視線を左右に散らせた。
毒味は三人順に均等に。それは最初に決めた約束だ。二人は猛反対したけれど、今の私は残念ながら領主の婚約者ではなくメイドでもなく、彼らと何も変わらないどころか、彼らのように帰りを待つ家族もいない孤児のシャーリー・ヒンスだ。
私が最初にお茶を飲み、少し時間が経ってから二人が口をつける。
「美味しいのが悔しーい」
「そりゃうまいだろ。王城の茶だぞ。菓子もうまい。でも、親父のも負けてない」
「サムアうるさーい」
目元を腫らせた二人は、食欲もあるようでひとまず安心だ。最初に泣いたのはどちらだったか、同時だったように思う。二人は私が話し終わるまでずっと泣いていた。おかげで寝室はちょっとした惨事になっている。
私がアジェーレア様に連れられて部屋を出ていた間に、王城付きの使用人の手が入っていれば片付いているだろうが、どうだろう。
二人はふぅっと息を吐き、顔を見合わせ、一つ頷いた。意を決したように少し強めにカップを置き、食器が大きな音を立てると慌てている。欠けがないか確認して、もう一度気合いを入れ直すように拳を握った。
そして、背筋を伸ばし、手を膝の上に置いた。
「俺、今度から、どんなに暑い日でも必ず上着持っていくことにする」
「私は、いつ抱きついてもほっかほかでいられるよう、子ども体温を保つことにする!」
首を傾げかけて、ふと気づく。これが、二人が私の話を聞いた上で出した結論のようだ。正確には、ティムと、ウィルフレッドともう一度会えたときにどうするかの結論だ。
そう気づいた瞬間、思わず声を上げて笑ってしまった。二人は目を丸くして、ついで怒り始めた。
「何で笑うのー!?」
「お、おかしなこと言ってないだろ!?」
そう、二人はおかしな事は何も言っていない。だからこそ、おかしいのだ。
自分の身に起こっている現在だって不意に信じられなくなるような出来事を聞いて、出した結論が、寒いと泣いていたウィルフレッドのための対策なのだから、笑う以外のどうすればいいというのだ。
私もカイドもカロンもウィルフレッドも、どうしたって当事者になってしまう。縁も因縁も途切れずそのままそこにある。そこに、ひょいっと無造作に差し伸べられた手に、救われた。
寒がっている人に上着をかけてあげよう。お腹を空かせている人に食事をあげよう。転んだ人を起こして泥を払ってあげよう。泣いている人にハンカチを差し出そう。そんな温かな行為を当たり前とする優しい子ども達が、人を己の都合で殺して生きた男の未練になったのだと、彼らは信じるだろうか。
「恐ろしくは、ない? 私はライウスの悪女で、ティムはライウスの悪魔よ」
「シャーリーと旦那様のなれそめがさっっっぱり分からなかったからすっきりした!」
「だよな!? そこ大事だよな!?」
二人は力強く頷き合っている。ふわりと伝えていたけれど、やはり気にかかっていたようだ。……それもこれもカイドの私への接し方の問題だと思うのだが、どうだろう。
「それに……ティムは、私達にはいつも優しかった」
「怖いわけない。だってあいつ自分で毒飲む馬鹿だし」
そうして声を揃えて「旦那様以外には!」と続けられれば苦笑するしかなかった。確かに、カイドに優しいウィルフレッドの姿は想像できない。
「でも、そっかぁ。シャーリー、ライウスの宝花様だったんだねぇ。凄いねぇ。じゃあさ、おかえり、だね。おかえりシャーリー」
「あ、そうだな。だからカロリーナさん達泣いてたんだな。おかえり、シャーリー。ティムに会えたらあっちにも言ってやろ」
死んでよかった。心からそう思う。
ぎょっとした二人がわたわたと手を振っているけれど、大丈夫だと答えてあげられない。だって、ちっとも大丈夫ではないのだ。
死んでよかった。私が死んだ先にあなた達がいてくれて、本当によかった。私の首があなた達の命に繋がったことが誇らしい。あなた達をあなた達に育ててくれたご両親も、そう育ってくれたあなた達も、それを支えたカイドも、その全てが尊くて愛おしくて、息も出来ない。
あなた達がライウスに生まれてくれたことに心から感謝する。
しかしこの後、こみ上げる涙の合間を縫って必死に死んでよかったと伝えた私は再び二人を泣かせてしまい、深く深く反省した。




