55.あなたと私の約束Ⅲ
「……お嬢様?」
懐かしいなと思った。以前もこんなことがあった。夜を迎えた医務室で、あの時はあなただけがいなかった。今はあなただけがいる。けれど、私はどうしたってそちら側には立てないらしい。
「もう、許して、カイド」
ひくりと喉を震わせたのは、私だったのかカイドだったのか。
「ほら、やっぱり駄目だったでしょう? 私達きっと、どうしたって一緒にはいられないのだわ」
「お、嬢様」
「お願い、もう許して。私あなたといると苦しいことばかり……悲しいことばかりだわ。ねえ、それでもまだあなたといなければいけないの? お願い、もう私を自由にして。もうライウスにいたくはないの。あの地にいると、私はずっと囚われてしまうわ。私、自由になりたいの。お願い、もう許してカイド」
「お嬢様っ!」
カイドが真っ青になっている。当たり前だ。優しい彼の心に傷をつける言葉をわざと選んでいるのだから。だってそうでなければ、この方に信じてもらえない。
不思議そうな顔をしているアジェーレア様に、にこりと微笑む。そうして、もう一度カイドを見る。
「……あなたはライウスに帰り、ライウスを守りなさい。それがあなたの務めでしょう? でも、私は違うわ。あなたの婚約者でなくなれば、その義務は発生しない」
ライウス領主としてカイドを殺してきたあなたに、沢山の幸せがあるといいと願った。カイドとしての幸せを、あなたが望めるようになればいいと心から祈った。その中に私がいられるのなら、こんなに幸せなことはないと思った。
「お願いカイド、もう解放して。ライウスにいると、私はきっと死んでしまうわ。――私を殺さないで、死にたくないの。私を、助けて、カイド」
酷く傷ついた顔を見て、安堵した私は本当に酷い女だ。
お願いと重ねて口にした私に、カイドの唇も薄く開き、ぐっと噛みしめられた。無事に王城に着く人員しか割いていないこの状態で、マーシュ様の戦力まで吸収したアジェーレア様を止められるとは思わない。
カイドだって、分かっているのだ。
あなたは領主でしょう? 領民を守ることがあなたの務めでしょう? 誰よりそれを自覚して誰よりそれを枷にしてきた人に、誰よりそれを自覚していなかった馬鹿な女が念を押すことほど滑稽なことはない。
彼は何かを飲みこんだ。噛み締めた唇が開かれた時、そこにはライウス領主が立っていた。
「それが、あなたの選択ですか」
笑むことを返答に変えた私に、表情を消し去った人は静かに瞳を閉じた。
「では、俺は俺で選択を致します。御前を失礼致します」
とても静かで鋭利で、それは美しい礼をしたカイドは、もう二度と振り向かなかった。
彼らの出立を、アジェーレア様は微笑みを浮かべて見送っている。私に頬を寄せ、抱き寄せているとも抱き合っているとも言えるほど絡み合う。天井まで大きく開かれたここは、階段の上からでも馬車が用意されていく様子を見ることが出来る。
ライウスは王城から辞することが許された。けれど彼らの表情は一向に優れない。馬車にのりこんでいきながら、青ざめた顔でひっきりなしに私へ視線が寄越される。
カイドは一度もこちらを見ない。酷く強張った顔のカロンと、泣きはらした顔のジャスミンと青ざめたまま唇を噛みしめているサムアとはよく目が合うけれど。
「ねえ、シャーリー。わたくしの為に恋を諦めてくれてどうもありがとう。貴女がカイドと別れてくれたから、わたくし彼と少しの間会えなくても不安にならずにいられるわ。それに、貴女が残ってくれて本当に嬉しい……」
うっとりと浮かべられた微笑みに、緩やかな笑みを返す。兵の数が、多い。王城付きの使用人よりも、帯剣している兵士の数が断然多いのだ。現在政の要はどこにあるのだろう。王女擁立派、王子擁立派より何よりも、王の周囲を固めていたはずの派閥は今どうしているのだろうか。
城の出入り口である場所にこれだけの人間が集まっているのに、酷く静かだ。相変わらずぐずついた空は彼らの出立をちっとも祝ってくれないらしい。
「シャーリー!」
静寂を切り裂くはっきりとした声に、弾かれたように視線を向ける。カロン達の制止を振り切り、ジャスミンとサムアがこっちに駆けだしていた。周りの兵士達が一斉に剣を抜く。同時に剣を抜いたライウス兵とカイドが走り出す。ジャスミンとサムアも足を止めない。二人の目は、まっすぐに私を見ていた。
アジェーレア様の手を振り払って階段を駆け下りる。
「やめてっ!」
斬りかかろうとした兵士に叫ぶ。二人と兵士の間に、カイドが滑り込んだ。鋭い鉄同士が組み合わさる、甲高く耳障りな音が響き渡る。
「ライウスの宝に、その子達に触らないでっ!」
階段を落ちるように駆け下りた私の胸に、ジャスミンが飛び込んできた。後ろに倒れそうになった身体をサムアが抱き留めてくれる。二人に前後左右に抱きしめられ、かろうじて顔を出した先で、カイドは兵士の剣を振り払っていた。ほっと息を吐く。
「ごめんなさい、ごめんなさい旦那様っ、私達、ここに残ります!」
ぎょっとジャスミンに視線を向ける。ジャスミンは私の肩に顔を埋めたまま震えている。
「申し訳ありません、旦那様っ。首にしてください!」
ジャスミンに引き続きサムアまでそんなことを叫ぶ。慌てて問い返そうとして、ぐっと堪える。駄目だ。アジェーレア様が見ている。私が振り払った衝撃で座り込んだまま、表情を消した瞳でじぃっとこちらを見下ろす目にぞっとした。
「……駄目よ、やめてちょうだい。邪魔だわ。せっかく自由になれたのに、あなた達は私の邪魔をするの? 仲良しごっこはもうお終いよ。離れてちょうだい」
二人は抱き返さない私を抱える力を強くした。潰されてしまいそうな力に痛みさえ感じるのに、温かくて心地いい。二人の頭に挟まれて固定された私の視線は、ずっとカイドを向いている。カイドもじっと私を見ていた。
「――子どもの戯言で済ませてはやれんぞ」
静かな声に胸が急く。まさか、本気でこの二人を置いていくつもりなのか。
「馬鹿を、馬鹿を言わないで! 連れ帰りなさい! 邪魔よ!」
きつい言葉を吐き捨てたのに、私を抱く二人はほっと安堵の息で私を温めた。
「邪魔になれる? よかったぁ……あのね、私達邪魔になりに来たの。今度こそ邪魔してやろうって思ってたんだよ」
「俺達、お前の足枷になろうって決めてたんだよ……もう、一人であんなことさせねぇからな。馬鹿言ってんのはお前だ、馬鹿野郎!」
駄目だ。この二人は本気だと背筋が凍る。心臓もゆっくりと凍り付いていくのに、私を抱きしめる二人の温度で凍りきることが出来ない。思わず泣いてしまいそうな恐怖と安堵がせめぎ合う。
「では好きにしろ。今日限りでお前達は解雇する」
「はい!」
「ありがとうございます!」
愕然とした私に構わず、カイドは背を向けた。
「カイド!」
「ライウス自慢の若者二人です。よろしくお願いします、お嬢様」
悲鳴のように叫んだ私の声に、カイドは足を止めなかった。彼が進む先にいるカロンが真っ青な顔でこちらを見ている。けれどさっきまでの今にも倒れてしまいそうな顔ではない。ぐっと噛みしめられた唇には、どこか悔しさのようなものが滲んでいた。
深々と頭を下げたカロンの横をカイドが通り過ぎる。そうしてゆっくりと顔を上げたカロンは、世界を睨むように強い光を宿した瞳のまま、私達に背を向けた。
ライウスの馬車が去っていく。普通ならば客人を見送った後はそれなりに緊張が緩み、静けさが解れるものだが、ここは違った。馬車が立てた音が消え失せ、より一層の静寂が場を支配している。
「シャーリー?」
ふわりと春の香りのような声が私に向けられ、反射的に顔を上げようとした二人の頭を抱きしめる。振り返れば、アジェーレア様が階段をゆっくり下りてきていた。ふわりふわりと舞うように、美しい髪で光を弾きながら、麗しさの象徴のような笑顔でじっと二人を見ている。
「その二人はだぁれ?」
びくりと震えた二人を押さえつける力を強くし、絶対に顔を上げられないよう全力を篭めた。ここからは、一つも間違えてはならない。私一人ならばどうとでもなった。だが、この二人がいるなら話は別だ。絶対に間違えてはならない。そっと息を整え、ふわりと微笑みを浮かべる。
「私を愛してくれている二人です、アジェーレア様」
「まあ!」
アジェーレア様はぱっと笑い、嬉しそうに両手を合わせた。
「そうなのね! それはとても大事な事だものね! 嫌だわ。わたくしったらてっきり、わたくしより愛している子達なのかと思ってしまったわ。でも、そうね。違うわね。貴女が呼んだのではなく、貴女の元に来たがった子達だものね。違うに決まっているわね。ふふ、わたくし間違えてしまったわ。だってシャーリーは、わたくしが一番好きだものね?」
「――ええ」
私の何がこの方の琴線に触れたのだろう。いや、触れたのは逆鱗だろうか。どちらにしても、今まで以上に迂闊なことは出来ないし、言えない。
「アジェーレア様、お恥ずかしながら、一つお願いがあるのですが、お許し頂けますでしょうか」
「まあ、何かしら! 何でも言ってちょうだい! わたくし、お願いされることが大好きなの!」
「ありがとうございます」
そうして私は、ジャスミンとサムアを私と同室にしてもらえるよう頼んだ。願いはすんなり叶えられ、安堵で抜けかけた緊張を意識して戻す。
「残念だけれど、わたくしこれから仕事があるの。だから、三人でゆっくりお茶でもしていてね。もう少し落ち着いたら、色々しましょうね。ふふ、楽しみだわ。早く色々整えなくてはならないわね。まずはお父様の葬儀を終わらせてしまうわ」
ええ。そうですね。そう答えるべきなのに、すぐには声が出なかった。二人の頭を押さえたまま、口元を笑みの形で固定する。やる気に満ちた溌剌とした笑顔を浮かべたアジェーレア様に対し、私の笑顔は酷く無様だっただろう。けれどアジェーレア様は、とても幸せそうに笑った。
部屋に戻り、扉が閉められる。外からかけられる小さな鍵の音にも、二人は動揺することはなかった。
それを見て、この子達の覚悟が分かった。幼さ故の突発的な行動でこの場にいるのではない。ちゃんと事態を分かった上で、覚悟を終えているのだ。そんな覚悟を全くしていなかったのは、この場で私だけだった。
「あなた達、何をしているのっ……こんな危ない場所に残るだなんて、駄目よ……」
俯いた私に、再び温かな腕が二人分絡まる。
「うふふー、甘いのはシャーリーだよー」
「だよなー。二度も同じ手に引っかかるほど俺達は甘くないもんなー」
二人はいつもと変わらぬ様子で私を抱きしめた。外にいる見張りを警戒しているのか、声は控えめで、身体は少し震えている。けれど二人は確かに笑っていた。あれだけ静かだった部屋の中が、二人がいるだけで何て賑やかで温かなのだろう。
「約束しただろ、シャーリー。帰ったらずっと気になってた話、俺達に教えてくれるって」
「そうだよ。それなのに帰らないって言うんだもん。だったら私達が残るしかないでしょ?」
「無職になっちゃったから、ここに置いてくれないとほんと困る」
「そうそう。面倒見てー。えへへ、初めての無職家なし手持ちなしだ……はっ! 詰んでる!」
「はっ! 路頭に迷うってこういうことか!?」
慌てて私から身体を離し、びっくりした顔を見合わせている二人を見たら、そんな場合ではないと分かっているのに思わず笑ってしまう。そんな私を見て、二人もくしゃりと笑った。
「旦那様やカロリーナさんは、やらなきゃいけないこと一杯で身動き取れないから悔しそうだったね! 何にも偉くない私達万歳!」
「ははははははは次に旦那様に会う日が凄まじく怖いははははははははは。……そうだ、シャーリー! 一つ言っとくぞ!」
突然サムアの声が跳ね上がり、びっくりしてしまう。ぱちりと瞬きした私に、ふくれっ面の二人が勢いよく人差し指を向けた。
「俺は子どもじゃない! その子達って何だ!?」
「そうだよ! 同じ年でしょ!? でも、宝って言ってくれてありがとう!」
今日一番怒っている二人に何だか泣きそうになってしまう。本当ね。一番子どもなのは、状況を受け入れ難いと駄々をこねている私ね。
降参して告げた言葉に、二人は満足そうに胸を張った。




