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狼領主のお嬢様  作者: 守野伊音
三章
54/70

54.あなたと私の約束Ⅱ










 昼間でも静かな王女の楽園は、夜になれば一層顕著となる。ただでさえ薄い生き物の気配が更に遠ざかる時間だからだ。

 痛いほどの静寂が支配する部屋の中、寝室に行く気にもなれずずっと椅子に座っている。静かなのに、耳を澄ませば声が聞こえてきそうだ。私を呼ぶ、家族の声が。

 嬉しそうに飛び跳ねていたアジェーレア様は、部屋を去るまでずっと喋り続けていた。柔らかく優しげな声音で、理解の出来ないことを嬉しげに語っていた。彼女の声と家族の声が静寂の闇に混ざり込み、恐ろしいほど静かな騒音を作り出している。

 それが昨日のことだったのか、三日前のことだったのか、十日前のことだったのか。私には分からなくなっていた。




「ねえ、聞いてちょうだいシャーリー! カイドったら、どうしてもライウスに帰ると言って聞かないの。それも貴女と一緒ではないと嫌だと我儘を言うのよ。だからね、わたくしも王として条件を出したの。どちらかなら叶えてあげますよと。それなのに、聞いてちょうだい。カイドったら、貴女と絶対に別れたくないし、王城にも残らずライウスに帰ると言うのよ。ふふ、あんなに立派な男の方なのに、まるで子供のような我儘を言うのね。本当ね。貴女が言うように、カイドってとても可愛らしいわ。どちらかだけしか駄目とわたくし言ったのに、おかしいわね」


 踊るように抱きついてくるアジェーレア様の背後には見知らぬ男達が並んでいた。いや、そのうちに数人に見覚えがあるとすぐに気づく。マーシュ様についていた男達だ。


「それでね? わたくし困っていたのだけれど、そういえばカイドは貴女の言うことはよく聞いていたと思いだしたの! だから、お願いシャーリー。カイドを説得してくれないかしら? カイドは貴女と婚約しているからわたくしと結婚するのは無理だと言うし、領主であるからライウスに帰らなければならないと言うの。でもわたくしはカイドと結婚したいし、カイドにはライウスに帰ってほしくないの。だから、貴女にカイドを説得してほしいの。どうすればカイドが貴女を諦めるかしら。うーん、難しいわねぇ。ねえ、シャーリー。何かいい案はないかしら……ふふふ、シャーリーっていい匂いがするわ。わたくし姉妹が欲しかったから嬉しいわ。これからもずぅっと一緒にいてね」


 おかしくなりそうだと、もうおかしくなってしまったかもしれない頭でぼんやり思う。

 何が起こっているのか分からない。状況に対し心が追いついてこないことは初めてではない。だが、理解も追いついてこないのは初めてだ。何が起こっているのか分からない。

 ここは本当に現実なのか。ただの悪い夢ではないのか? 私はカイドのライウスにいて、皆が楽しげに笑っている声で目覚めるのではないかと往生際悪く思っている。


 死んだ? 何故? どうして? 誰が? イザドルが? 王のおじ様が? どうして? 


 ここは十五年前のライウスではない。他者から理不尽に下される死が遠い場所にある場所、時代のはずなのに、どうして。それなのに何故、瞬きの間に人が消えていくのだ。次は誰が?

 背筋を伸ばしていることも出来ず、顔を覆ったまま俯く。結っていない髪が落ちて視界を遮る。知らない石鹸の香りが疎ましい。ここはライウスではないと、明るく鮮やかに花開いたライウスとが違う場所だと思い知らされているようだった。

 視界を遮られても問題はない。どうせ明かりをつけていない夜の闇だ。それに、見たいものなどこの部屋には存在しない。

 聞きたい声も、会いたい人も、誰もいない。聞こえるものはやけに弾んだアジェーレア様の声と、もうとっくに失われたはずの家族の声だけだ。









 耳を塞いだままどれくらい経っただろう。ふと揺れた髪が頬をくすぐる感触に気がついた。窓は閉め切っている。部屋の空気が動く理由は、誰かが入ってきたときだけだ。

 鈍くしか働かない思考でそう判断し、顔を上げる。そこにはマーシュ様が立っていた。薄暗い部屋の中でも分かるほどはっきりやつれていた。それを見て、全ては只の悪夢では無かったのだと思い知る。



「明かりをつければアジェーレアに知られるので、手短に失礼します」


 乾いた声が薄暗い部屋に沈み込んでいく。


「王が崩御されました。階段から落ちての事故死です。アジェーレアが話をしたいと人払いをしていました。そこにいたのは私の部下のようですが、確認は取れていません。王位をどちらが継ぐかもまだ決定しておりませんが、陛下が次の王を指名していなかったため、現在正当な王位継承権を持っているのはアジェーレアです。イザドル・ギミーとその護衛が賊に襲われて消息を絶ちました。状況から見るに生存は絶望的かと思われます。私の部下の多くがアジェーレア擁立派に離反しました。私は近いうちに城から落ちます。暗殺者の数が増え続けていて、今の人数では対処が出来ませんので……もしアジェーレアが本気で玉座を望んだ際、最後まで傍にいてくれると思っていた腹心の部下達は皆いなくなりました。私は、その程度の男だったようです。貴女をカイド・ファルアの元に連れ出すことすら不可能だ」


 淡々と現状を語っていた声が初めて揺らいだ。それを気遣う余裕は、既にない。

 イザドルと王が、死んだ。その時点で、最早歯止めはなくなっている。その上マーシュ様が城から落ちるとなると、もうここは無法地帯と変わらなくなるだろう。心も理解も追いついていない。けれど、現状かき集められる情報を元に行動することは出来る。


「……カイドが王城を離れた場合、アジェーレア様はどういう行動を取ると思われますか」

「分かりません。アジェーレアは何故か貴女に執心していますから、貴女さえ手元に残るならば、彼らが城を出ても戯れと面白がるかもしれません」

「ならば、ライウス一行を城から逃がすことは可能でしょうか」


 これが悪夢ならよかった。そんなことは十五年前だって思った。

 けれど、どれだけ嘆き悲しんでも現実は何も変わらない。何の予兆もなく日常は裏返る。これから悲しいことが起こるのだと誰も予告なんてしてくれない。順序立て、用意が整ってから起こる災害などあり得ない。

 心構えをする時間など誰もくれないのだ。

 現実とはいつも唐突に、悲劇は一度起こってしまえば後は転がり落ちるように止めどなく。心構えなどなくとも、悲しいことは起こるのだと私はもう知っている。

 悲しみに蹲る時間など与えられない。出来事とはいざ起こってしまえばどうしようもなく、心がついていこうがいくまいが、対処するしかないのだ。対処せずともやり過ごせるのは、他の誰かが代わりにしてくれているだけのことである。現実に叩きのめされても、やらなければならないことがあるのだと、それも、今の私は知っていた。




「……私が城を落ちる際の騒動で隙を狙えば可能かと。その件も、ライウス領主に打診しています。けれど彼は、貴女を取り戻さない限りは城から辞すつもりはないようです……私としても、ここでライウス領主を失うのは国の為にならないと思っています。貴女とライウス領主が会えるよう手を回すくらいならば、今の私でも可能でしょう。ただし、今のアジェーレアの様子を見るに人の目がある場所でに限定されるでしょうが」

「それで結構です。今は彼らを王都から出せるのならば、他は些末事です」


 歯止めが効いていない王に該当する人物がいる城に、彼らを止めているわけにはいかない。一刻でも早く彼らの領分となるライウスへ返さなければならないのに、その足止めに自分がなっているなど堪えられるはずがなかった。


「……あのカイド・ファルアが、生半可な説得で貴女を置いていくとは思えませんが。今のアジェーレアの前で、どう説得するつもりですか」

「カイドは領主です。ライウスの、領主です。だからこそ……受け入れるでしょう」


 前領主一家を殺し、革命によりライウスの領主となった。そうせざるを得なかったとはいえ、それは事実だ。だからこそ、カイドは、ライウスに対する責任から逃れられない。ライウスから連れてきた人々を抱えたまま、王都で荒事を起こすことは出来ないのだ。

 そして、優しいが故に正しいことだったはずの私への罪悪感から逃れられない。私はそこにつけ込むことが出来る女だと、彼には思い知ってもらうしかない。






「……君は、強いね。私はまだこれが夢で、目が覚めれば父上とアジェーレアがお茶をして、部下と……友だと思っていた彼らと一緒に仕事をしているんじゃないかと考えてしまうのに。それが日常だった日から、そんなに時が経っていないはずなのに、随分と遠く思えるんです…………貴女は、突如裏返ったようなこの城に一人残り贄とされることが、恐ろしくはないのですか」


 恐ろしいものはこの身の破滅などではない。そんな恐怖はとうの昔に失った。


「ライウスの宝が失われる以上に恐ろしいことなど、この世にはありません」


 アジェーレア様がここを己だけの楽園にするのなら、かつて似た楽園で育まれた私には亀裂の入れ方が分かる。ただし、そこにあの人達がいてはならない。歪な楽園は外から真っ当な人々が壊すべきだ。中にいては、たとえ罪人ではない真っ当な人間でも傷を負ってしまうのだから。


「君は……いや、分かった。では、そのように取り計らいましょう」

「マーシュ様のご無事をお祈り申し上げます」

「シャーリー・ヒンス、君の献身に感謝する」


 互いに礼を相手に捧げ、マーシュ様はするりと部屋から出て行った。去っていく足音は二人分。本当に最小限の人数しか手元に残っていないようだ。

 その音が聞こえなくなってから、椅子に座り直す。今度は蹲らず、背を伸ばしたまままっすぐに朝を待った。






 それから日が二回昇ったある日のある時間、私は随分久しぶりに部屋から出ることが許された。

 現在着席を許される人のいない玉座を見上げる形で、アジェーレア様は私に腕を絡ませた。こんな事態なのに王のおじ様はいないのだと、空っぽの椅子を見て思い知る。本当に亡くなってしまったのだと、少しの現実を伴った感覚としてじわりと染みた。


 玉座を右手に据えた状態で、少し離れた場所に立つカイドと向かい合う。

 随分久しぶりに見えるカイドは、酷く気が立っていた。まるで怪我をした獣が威嚇しているようだ。けれど、私の姿を見た瞬間だけ瞳の苛烈な光が和らいだ。その目のほうが好きだといつも思っているのに、どうにも世界はこの人に厳しい。


 身形はきちんと整えられている。一つだけ普段と違う箇所は、旅装の靴を履いていることだ。このまま、強行突破するつもりなのだろう。




「こうして皆で集まれるだなんて久しぶりね。嬉しいわ! ここにお兄様もいてくださったらもっとよかったのだけど! そうだわ、皆でお茶をしない? いまわたくしについてくれているのはダニラスというのだけれど、先日までお兄様についていたのよ。だから、お兄様がお好みのお茶に詳しいの。彼が選んだお茶で茶会を開くなら、最近お忙しそうなお兄様もいらしてくださると思わない?」


 思考に纏わり付くのに決して不愉快ではないその声から放たれる違和感を纏った言葉と、愛らしい笑顔に、酷く混乱する。何度言葉を交わしても慣れそうにない。

 嬉しそうな声で私の手を握るアジェーレア様に、せっかく和らいでいたカイドの瞳が苛烈な色を取り戻す。



「俺の婚約者をお返し願いたい」


 最早口調が取り繕われていない。怒りも憤りも、全て声音に表れている。


「あら駄目よ。だってわたくし、シャーリーと一緒にいたいのだもの。いくら貴方といえど、シャーリーを独り占めにするなんていけないことよ? それに、二人でライウスに帰ってしまえば結婚してしまうのでしょう? わたくし貴方達とずっと一緒にいたいのだから、そんなの駄目よ」

「相手の気持ちが必要ないのであれば、人形を相手にすれば宜しかろう」


 きっぱりと言ったカイドの冷たい声に、アジェーレア様は酷く困った顔をした。聞き分けの悪い子供を諭すかのような顔だと思いながら、そっと視線を走らせる。

 兵士の数が、多い。

 王と謁見したときでさえこれほどの人数は存在しなかった。それも、全員が帯剣している。対するカイドは帯剣を許可されていない。カイドはとても腕が立つが、ここにマーシュ様から離反した戦力が加わると考えなければならない。



「お嬢様、こちらへ。帰りましょう。ライウスへ帰りましょう」


 一転した柔らかくなったカイドの声に、私にしがみついているアジェーレア様の力が緩まった。視線を向ければ、まるで幸せなものを見たかのように頬を染めている。幸せに頬を染める様は一見すれば平和の象徴だ。この状況でさえなければだが。


「……アジェーレア様、カイドと一緒にいたいのであれば、一度ライウスに帰すほうが得策です。だってカイドはライウス領主ですもの。一度帰り、長期滞在の都合をつけて参りませんと難しいですわ。その為にも、どうか一度帰してやってください」

「それもそうね……けれど、そうすれば貴女も帰ってしまうのでしょう? わたくし欲張ったりしないわ、一度に沢山の願いが叶わないことくらい知っているもの。だから今はどちらか一つでいいの。だって嫌よ。どちらも取り上げてしまったら、わたくし怒ってしまうんだから」

「いいえ、アジェーレア様。私は王城におりますわ。だって、戻る理由がないのですから」


 金色の瞳が、見開かれた。











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