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狼領主のお嬢様  作者: 守野伊音
三章
53/70

53.あなたと私の約束






『王女に、お気をつけください』


 私達にそう言った人の声が、頭の中に鳴り響く。






「アジェーレア様」


 薄く強張った私の声が、弾んだ声が跳ね回る部屋の中でやけに白々しく響いた。

 無礼だ。不敬だ。礼儀正しく、王族を敬い、貴族として、ライウス領主の婚約者として相応しい振る舞いを。そんな、当たり前の務めが頭の中から抜け落ちる。

 私はいま、どんな顔をしているのだろう。頭がまるで働かない。あり得ない言葉を聞いたとき、それを言葉とは認識せず、まるで異国の音のように聞こえるだなんて知らなかったのだ。




「ねえ、そうしましょう? とっても素敵だと思うの。ねえ、いい考えでしょう? シャーリー、貴女の恋ってとっても素敵だわ。わたくしもそんな恋がいいの。貴女は素敵な恋を作り出せる人間だから、どうか貴女が作った恋をわたくしに譲ってちょうだいな」


 私の前では、アジェーレア様がいつも通り大きな瞳に光り散らせ、きらきらと輝かせながらまるで踊るように言葉を紡いでいる。今日はいい天気ね、風が気持ちいいわ。そんな言葉が聞こえてきそうなほど上機嫌なのに、私は、息も出来ない。迂闊に息をしてしまったら、取り返しがつかなくなる。そんな、訳の分からない恐怖心があった。喉元にナイフを突きつけられているほうがまだましだと、思った。


「だって貴女はまた、素敵な恋を作り出せる人なのでしょう?」


 何を聞いたか分からなかった。この耳がおかしくなったのか。いいやおかしくなったのは私の正気だろうか。


「……アジェーレア、冗談が過ぎる」


 固い声で言ったのは、同席していたマーシュ様だ。一瞬、彼がいることすら忘れていた。


「まあ、何故?」

「持ち物を交換するのとは訳が違う。二人は恋人同士でその結婚を陛下がお許しになった。それをお前の一存で変更するなんて出来ない。貴族は勿論、国民の反発は免れないよ」

「あら、平気よ。だってお母様は仰ったもの」


 先日、柔らかく懐かしげに語られた話を思い出す。けれど何故か、ぞっとした。いまこの場で、現状を汲んだ上で判断する場合、随分昔に亡くなった母親の話を持ち出すのは何故だ。

 アジェーレア様は、あの時と同じように、少し照れくさそうに微笑み。そして。


「わたくしは皆から愛される姫だから大丈夫と、言ってくださったもの」


 懐かしく温かな思い出として語られた大切な物を、歪に壊した。







 開かない扉を見つめてどれだけの時間が経っただろう。

 日が三度昇ったのは分かっていた。豪奢であるが故に重い椅子に腰掛け、鍵の閉まった扉を睨み続ける。ここは王族居住区にある一室だ。部屋の中には左右に扉がついていて、扉から向かって右が寝室で、左が水回りだ。要人用の客間だけあって、家具も質がいい。だが、それだけだ。あれから一度もライウスの人間と会えていない。


 一度だけ、マーシュ様がやってきた。アジェーレア様は本当にカイドとの婚約を陛下に希望したこと、陛下がそれを肯定しなかったこと、ライウス一行は出立の準備を終えていることを教えてくれた。この馬鹿げた我儘はすぐに収まるはずだ。そうしたら、一目散にライウスへ帰ってほしい。アジェーレアの頭はその間に自分達が冷まさせる。マーシュ様はそう言っていた。


 しかし、それにしては時間が長い。拘束時間が長すぎるのだ。陛下が一蹴し、命じればすぐに私は解放されるはずなのだ。陛下はアジェーレア様の提案に賛同していない。ならば、少なくとも誰にも会えないなんて事態は避けられるはずなのに、ライウス領主であるカイドさえ、一度もこの場を訪れることが出来ていない。


 こんな話馬鹿げている。あり得ない。あり得てはならない。そのはずなのに、時がかかりすぎている。何が起こっているのか分からない。ただただ金のかかった豪奢で静かな部屋の中、一人で座り続けている間に、外では何が起こっているのだろうか。

 ここから出せと扉を叩きつけても意味がないことは分かっている。窓は高さがありすぎてとてもではないが出られそうに無い。たとえ出ることが出来たとしても、動いていいかのか判断がつけられないのだ。カイドが何か手を打っている場合、王族からの命を破って部屋から抜け出していては逆に彼に迷惑がかかる。





 一昨日の夜にマーシュ様が訪れて以降、話が出来る人は一人もこの部屋に訪れない。今はとにかく、誰でもいいから使用人以外の誰かと会いたかった。だって彼らは私と会話などしないのだから。そして、その願いは半分の精度で叶えられていた。

 決まった時間に使用人が訪れる以外開かれることのない扉から鍵が開く音がしたのは、もう夕焼けが迫る時間だった。


「シャーリー……」


 悲しげな声で私を呼んだのはアジェーレア様だった。彼女だけは頻繁にこの部屋を訪れる。眉根を下げ、少し拗ねたように唇を尖らせていた。使用人が私と向かい合わせるように用意した椅子にすとんっと座った。貴族の令嬢らしからぬ座り方だが、彼女が行えば無邪気な愛らしさがある。特に落ち込んだ様子をしていれば尚更だ。


「……お父様とお兄様、今日も貴女達の婚約許可を取り消してくださらなかったの」


 心底困ったと悲しげに、まるで救いを求めるように私を見るアジェーレア様に、怒りよりも恐怖が湧いた。ぞっとする。同じ言語を話しているとは思えない。


「私とカイドもそんなことは望んでおりません。ですからもう……おやめください。これ以上は気紛れでは済まなくなります」

「まあ! 気紛れではないわ。わたくしの一生がかかっている大事な事よ。貴女達にとってもそうでしょう?」

「……私はどうしてこの部屋から出して頂けないのでしょうか」

「あら、そんなの決まっているわ。カイドが貴女に会いたがっているからよ。このまま会わせてしまったら、貴女達はライウスへ帰ってしまうでしょう? それだとわたくしが悲しいから、貴女を隠してしまったの。あのね、シャーリー。そうしたらね、カイドは毎日わたくしに会いに来てくれるの!」


 部屋に閉じ込められた三日で、世界中の常識が裏返ってしまったのだろうか。静かな静かなこの箱庭は、あの日のライウスによく似ている。けれど、違う。ここは、彼女のための楽園だ。



「ねえ、シャーリー。どうか一緒に考えて? どうすればお父様を説得できるかしら。お父様ったら、お年を召して頑固におなりなの。どうしたものかしら。あのね、お兄様の部下の方々はとっても協力してくださるのよ? お兄様とお父様の説得に力を貸してくださっているの。ねえ、シャーリーったら。どうすればお父様はわたくしとカイドの恋を応援してくださるかしら……そうだわ! 貴女に他に好きな方が出来ればいいのよ! お兄様はどうして駄目なの? わたくし、お兄様が大好きなの。だからきっとシャーリーも大丈夫よ。きっとお兄様とシャーリーも素敵な恋を出来るわ!」


 『まともに』会話が出来る相手はアジェーレア様だけだ。


「……アジェーレア様、何度も申し上げますが、私はカイドだから恋をし、カイドだから結婚したいのです。カイドでなければ、誰とも恋など致しません」

「あら、そんなの駄目よ。だって貴女はわたくしと同じだもの」

「同じ……?」


 カイド。あなたに会いたい。ここは、酷く静かで、恐ろしい。何かが壊れてしまいそうな緊張感と、もうとっくに壊れていた退廃のおぞましい香りが充満している。


「ええ。わたくしと同じ、愛されなければいけない人、よ。だから、カイドがいなくなっても、沢山愛されなくっちゃ」


 この静かな部屋にいたら、自分の正気が分からなくなる。

 目の前で愛らしく笑う美しい人の言葉はおかしいと確かに思うのに、ずっと聞き続けていたら、まるで自分が間違っているように思えてしまう。声が、瞳が、笑顔が、私の中に浸食してくる。


「わたくし、今までも沢山『お願い』をしたわ。皆、とても喜んだわ。だって、わたくしを喜ばせることが出来る機会を得られるのだもの。だから、皆とっても喜ぶのよ。下々の者がわたくしに愛される機会を与えることも、王族の務めでしょう? わたくし、頑張っているのよ。だから、ねえシャーリー。わたくし、王族の務めとわたくしの欲しいものが合致した今がとても嬉しいの。嬉しく嬉しくて、天にも昇ってしまいそう。だから貴女も、わたくしの願いが叶うように、どうか一杯考えてちょうだい。どうすればお父様のお考えを覆せるかしら。お父様は国王陛下だもの。お父様の命令が皆一番なのが困りものねぇ」

「アジェーレア、様」


 言葉が通じない。気持ちが通じない。同じ場所にいて、同じ言語を話しているはずなのに、何一つとして噛み合わない。



「………………カイドが、駄目ならば、お願いします、アジェーレア様」

「なぁに、シャーリー。お願いがあるなら何でも言って? きっと叶えてみせるわ。だって貴女はわたくしの大切なお友達だもの!」


 ああ、おかしくなりそうだ。









 その次の日、アジェーレア様は確かに私の願いを叶えてくださった。


「お嬢様!」


 飛び込んできたのはイザドルだ。カイドが駄目ならばせめて他の誰かと会わせてほしい。そう願い出た私に、カイド以外を好きになるきっかけが必要よねと愛らしい笑顔で応えてくださったのだ。真っ青な顔で飛び込んできたイザドルに、私も歩み寄ろうと立ち上がり、すとんと椅子に落ちてしまった。イザドルの顔色が更に悪くなる。いつもは丁寧に、けれど固めすぎず崩した髪がはっきりと乱れていた。


「お嬢様、酷い顔色です」

「あなたも、イザドル。目の下の隈が、まるでカイドのようよ」

「それは非常にまずい傾向ですね……お怪我はございませんか?」

「ええ。それよりも、今はどうなっているの?」


 いま部屋の中にいるのは私達だけだ。使用人すらも決まった時間に入ってくるだけだ。部屋の前に見張りはいるだろうが、入ってこなければ気にする必要はない。とにかく今は、情報を得て、身の振り方を決めなければならない。


「王女の噂を得ようと城に着いてから色々回りました。大きく話題に出る物はなく、優しく穏やかな姫という話だったのですが……ほんの僅かに姫は無邪気に人を壊すと零す者がいました。小さな欲を無邪気に口にし、大したことのない内容だからとそれを断った相手は、全て社交界の場に出てこなくなっています。そのうちの一人の令嬢と会えましたが、何故だか段々寝台から出られなくなるのだと首を傾げていました」

「……今ははっきりとしているけれど、あの状態を控えめに出されては私も気づけなかったかもしれないわ。カイドは今どうしているの?」

「お嬢様を連れ出せたらすぐにライウスに戻る気でいますが、ライウスの関係者は全て城から出ることが出来ません。ですから、お嬢様。いま俺を呼ぶよう王女と掛け合ってくださって本当によかった。俺はこれからライウスに戻ります」


 椅子には座らず、私の前に膝をついたイザドルはまっすぐに私を見上げている。乱れた髪を直しもせず、少しくたびれた服を着ていると気づいた。普段はきちんとしている身形を王城内で整えられていないことに、部屋の外での状況が垣間見える。


「王女がライウスの足止めをしています。現在城内は、王女擁立派と王子擁立派が真っ二つになっています。お二人の仲がいいからと燻っていた物が一気に表面化し、王もそちらに手を取られているようです。王女擁立派は厄介ですが、奴らはライウスを足止めできてもギミーを足止めする理由を持たない。だから、カイドの書状をもって俺が戻ります。カイドはライウス領主代理にコルキア代表のアルテムを指名しています。いま後ろから刺されるわけにはいかないので足場はしっかり固めるつもりでしょう」


 アルテムはカイドを育て上げた人だ。古くからの腹心になる。ライウスの情勢が落ち着いた頃を見計らい、長らく空席となっていたコルキア代表の任を受けコルキアに戻った。彼ならば背後から刺される心配はないだろう。


「それは……あなたが危険ではないの」

「ギミーにまで喧嘩を売るのなら、王家は私情で二つの領を蔑ろにしたことになります。他領の反発は免れない事態となるでしょう。それは、王家の望むところではないはずです。ギミーは歴史だけは古いので」

「……イザドル、私がここにいる理由は、何と発表されているの? 周囲の反応は?」


 ぐっと詰まったイザドルを見れば、この現状が秘されているわけではないと予想がつく。重ねて頼めば、噛みしめていた唇を小さく開いた。


「…………対外的にはお嬢様は体調を崩して伏せておられることに。現在有力な噂としては、お嬢様が王子殿下と婚姻を結ぶ手筈になっている。ライウス領主と王女が恋仲になった。王が退位なさる、ライウスが王家に反旗を翻した、などでしょうか」


 随分錯綜している。王位が絡んだことによりややこしくなっているのだ。


「カイドは何と?」

「狼領主と呼ばれた所以を、姿を見ただけの周囲に納得させています。王子殿下は王女を必死に説得しておられますし、王も王女の願いを叶えるつもりはないようです……お嬢様、お辛いでしょうが今はこの部屋にいてください。もしどうしようもなくなれば、カイドは政治的手腕をかなぐり捨て、実力行使でお嬢様を奪還しに来ます。ですからそれまでは、どうかこのままで」


 王と王子がアジェーレア様の行動を容認していない以上、カイドの実力行使は見逃される可能性がある。ただしその場合、元々友好的とは言えなかった王家とライウスの関係が再び悪化することは免れないだろう。




「お嬢様、俺は王城を離れますが、どうか無茶だけはなさらないでください。貴女に何かあることが、俺達にとって一番の痛手です……お嬢様、ここに着いたときの約束覚えておいでですか?」


 ふと柔らかくなった声音と表情に、ぱちりと瞬きをする。疲れ切った顔で、けれどいつもと同じ笑顔を浮かべているイザドルに、私の頬にも三日ぶりの笑顔が染みていく。


「勿論よ。私、あなた達を甘やかすのだもの」

「ああ、よかった。今でも有効ですね。でしたら、この件が全部片付いてライウスに戻ったら、昔のように俺に本を読んでくださいませんか?」

「そんなことでいいの?」

「はい」


 ほんの数回、よく晴れた日の庭で、彼のために本を読んだ。勉強が苦手でと照れと落ち込みとない交ぜにした奇妙な顔で俯く彼のために、図書室から持ってきた分かりやすい本を読んだのだ。きっとつまらなかったことだろう。物語ではない、本当に勉強のための本だったのだ。

 それなのに、大きくなったイザドルは何かとても眩しいものでも見るように私を見上げている。


「俺、次はお嬢様に何の本を読んで頂こうかと楽しみにしていたんです。風の音と鳥の声に溶け合ったお嬢様の声は、本当に美しかった……夢だったんです。もう一度、あなたとあの時間を過ごすことが。もう二度と叶わないと思っていた俺の夢を、叶えてくださいますか」

「――ええ、勿論よ。私をあなたの夢にいさせてくれて、どうもありがとう」


 跪いたまままっすぐに私を見上げる美しい青年は、ふわりと、まるで幼い子どものように笑った。

 そうして私はまた一つ、約束をした。叶っていない約束ばかりが積み重なる。だけど約束が重なれば、心に重しが出来た。これは、どこかに吹き飛ばされてしまわないための大切な重さだ。




 その二日後、『不慮の事故』でギミー領次期領主が死亡したとの報が色を亡くしたマーシュ様から語られても、イザドルが私にくれた重さは私の中に残ったままだった。






「あのね、あのねシャーリー! 聞いてちょうだい! あのね!」


 現実感を伴わない報を聞いたその晩やってきたアジェーレア様は、私の両手をご自分の両手で握り、少女のように飛び跳ねた。


「お父様が亡くなったの! これでわたくし達のことを反対する人がいなくなったのよ! ああ、どうしましょう! カイドはどんな色のドレスがお好きかしら! シャーリーはどうする!? わたくし達お友達ですもの、結婚式は一緒にしましょうね! お相手はお兄様でいいでしょう? ほら、そうしたら皆ずっと一緒にいられるわ! ああ、なんて素晴らしいのかしら!」


 嬉しくて堪らないとにこにこ笑うアジェーレア様の手は、いつもと同じように柔らかく、とても温かかった。











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[一言] イカれていますね……悪意がない分よけに不気味だわ。
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